ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

文芸の里コミュの雨傘

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

              フジ子・ヘミング〜雨だれのプレリュード



  ☆雨傘


 多くの乗客が降りて、ひっそりした車内に、一本の女性用の傘が置き忘れられている。ドア近くに坐っていた彼のすぐ横の鉄パイプに引っ掛けてあるので、今までそこに立っていた女性客が置き忘れたのにちがいない。取っ手と傘の裏地が淡いピンクというだけで、傘の表は黒だし、際立って女性を主張しているわけではない。男がそれを持ち歩いたところで、さして不自然には見えないだろう。今雨は止んでいるようだが、電車を降りて自宅まで十五分の道程を降られずにすむか予測などできはしないのである。
 そもそも今朝自宅を出る時だって、すがすがしいブルーの空で、雨傘が必要になるとは考えもしなかった。それが帰宅時間になって、会社を一歩外に出たとたんに、大降りの雨に見舞われた。駅が近いので、商店の軒伝いに走って濡れは少なくてすんだ。電車に乗って三駅ほど過ぎると雨は止んでいた。
 彼は女性用の傘に手を置いて、奥のほうへ引きこんだ。取っ手のすべすべしてひやっとした感触が、傘の持ち主である女性の肌を思わせる。彼は奥へ引き入れることで、この傘の所有者は自分であると、内外に示したことになる。内外などと大げさだが、まあそんな気分だ。
 彼はそれとなく視線を廻らせたが、彼のいわくありげな行動を見ていた者はいなかったようだ。彼は自分が置き忘れられた存在だと考えているので、同じく置き忘れられた女性の傘に対して、同病相哀れむような思いがあった。そうやって置き引きに等しい自分の行いを美化しようとしていた。
 駅に着くたびに乗客は減っていき、夜は一段と冷えていく。 電車はついにN駅について、彼はホームに降りた。外灯の光の中に雨粒が浮かび出た。明かりに群がる虫のように雨が降っている。よかった。彼は僥倖を得たとばかりに女の傘を開いた。ぱっとピンクの明るさが広がって、彼の気持ちを明るませる。男物の裏表黒い傘とはちがう。
 ここまで来ると、ホームに降りた者も七、八人と少なく、まばらだ。降りた乗客の中に若い女性がいて、大きな傘を難儀をして開いたところだ。男用の長傘。どうもそうとしか見えない。
 さては、自分と同じケースだな。彼は女性と並んだところで、歩みを遅くした。
「あら」
 と女性は彼の女傘を見上げて声を上げる。
「おお」
 と彼も負けずに女性の長い男傘を見て、声を上げた。小柄で華奢な彼女にはお化けの傘のように見えた。
「私、十本も置き忘れてるから、一本くらい、いいと思って」
 とその女性は馴れ馴れしく話しかけてきた。
「いいですとも、一本くらい」
 彼は調子を合わせて、快活に言った。「それにしても、十本とは置き忘れましたね」
「あなたのその女性用傘も、その口なのね」
 女は合点したとばかりに、賑やかに早口で言った。はじめ見たときは、借りてきたくらいに思ったが、それがどうもそうではないと感じたらしい。
「何なら、取り替えてあげましょうか」
 と彼は言った。
「あらあー、おかしな出会いね」
 彼女はそう言ったが、まったくの初対面である。
 彼は女に自分の傘を渡し、女の男性用長傘を受け取った。急に暗がりが立ち塞がり、彼は日頃の憂鬱に包まれた。 
 二人は改札を出て歩き出したが、帰る方角が同じだった。
「僕の住まいは、大留まりだから」
 とマンションのある住所を言った。ついて来ると怪しまれるのは癪だった。
「私も」
 と女は言った。若く見えるが旦那持ちか。彼は少々がっかりした。すると女は意外な方向へ話を運んでいった。「普段はママに電話して、傘持ってきて貰うんだけど」
 彼はマンションに一人住まいとは、かっこうがつかなかったが、この際女が身元を明かしたことだし、言ってしまったほうがいいかと、
「僕も…」
 と言いかけて、口ごもった。言葉が事実とはちがう方角へ流れていくのを抑えようとしていた。「いや、その持ってきて貰えるような家族でもいればいいんだけど。あいにく、その独身でして」
「あら、奥様いらっしゃらないの」
 女はずけずけと、そんなことまで言って、急に品定めもするように彼の顔をしげしげと見る。その様子が、傘のピンクの明るさのなかでよく分かるのだ。
「いてもいい年齢ではありますが、残念ながら。そのつもりで景気のよいときを見計らって、マンションを購入したんですがね。仕事が証券マンなもので」
「証券会社なんて、お堅い職業でいいじゃん」
「お堅いもんですか、証券ほど変動の激しいものはない」
「私なんか、ハンバーガーショップのパートよ」
 彼はその類の店はよく利用するが、そこで立ち働く店員の中でも、この女はいかすほうだ、と観察した。立ち居振る舞いが敏捷で明るく、何よりおきゃんなところが、客受けするにちがいない。商品がさばける以上に、物腰や仕草の軽快な流れに乗って、売子そのものがさばけていくだろう。
 これは彼が抱いた当初の目標とは、ちょっとちがうなと考えはじめる。彼が置き忘れられたものなら、同じ置忘れられたものを大切に扱おうとして、先程は女物の傘を確保したのではなかったか。ところがどうだ、この女は。置き忘れられるどころか、ハンバーガーショップの看板娘にもなりそうだ。その紛れもない証明のように、さっきは十本の傘を置き忘れたと語ったではないか。置き忘れられる側ではなく、置き忘れる側だ。
 そろそろマンションも近くなってきた。女がどの棟なのかは知らないが、この辺りで買物をしていくからと、別れたほうがよくはないか。そんなことを目論みはじめたとき、女が言った。
「もしよ、この傘のように人事が運ばれたとしたら、どういうことになるのかしらね。女性用の傘を持っていたあなたが、私に来て、男物を持っていた私が、あなたに行く。そうだわ、私今度の休みの日に、アップルパイとポテトチップをこしらえて、傘と持っていくから、お部屋教えておいて」
 いまさら傘を持ち出すのは邪道だが、建前からそう言わされたのだろう。
 彼はまたまた先手を取られて、次のように思った。置き忘れ組みと置き忘れられ組みについてだ。案外これは、忘れた方と、忘れられた方という組み合わせのほうが、ぴったりいくのではないか。
 彼がマンションを教える前に、女は名刺を取り出し、彼に渡していた。そこには携帯の番号も載っている。
「都合のいい日、電話で教えてね。今日はお疲れさま。それじゃ、バイバイ」
 そう言って女は小走りになって、淡い外灯の下を遠ざかって行く。彼はそこに立ち、女がどの辺りで曲がるかを見ている。
 女は間もなく立ち止まった。彼の姿を認めると、すぼめた傘を合図のように頭上で振った。彼も女にならって、傘をつぼめにかかったが、手間取っているうち、女は建物の陰に隠れてしまった。と、一旦消えた女は、また顔を覗かせ、今度は傘ではなく手を振った。薄明りの下で、女の笑顔がよく見えた。 
                          了

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

文芸の里 更新情報

文芸の里のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング