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東アジア歴史文化研究会コミュの『日本人が知ってはならない歴史』?

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『日本人が知ってはならない歴史』?

14.日本の国家分裂と敗亡の道

 日露戦争が日本勝利の形で終わりました。日本将兵の勇戦はもとよりですが、勝利は米英の日本支援の賜物でした。帝国主義の当時にあって、戦争に国際的な干渉はつきものです。十年前の日清戦争の時に、日本の指導者たちは予期以上の三国干渉に慌てふためき、そして臥薪嘗胆を合言葉に、干渉に膝を屈しました。
 日露戦争に干渉する列強はいないと、日本の指導者たちは考えたようです。なぜなら、日本の背後には米英がついていたからです。本当に伊藤博文たちがそのように考えたとしたなら、伊藤老いたりと言うしかないのが残念です。
 重ねて言いますがこうした時、干渉は米英から来るものです。ポーツマス講和条約が成立しそうになったと同時にハリマンが来日しました。そして、桂・ハリマン協定が明治天皇の内意を得て成立したのです。しかし、小村寿太郎外相はこの協定という仮条約を一方的に破棄しました。日本の仕打ちにアメリカ国内には怒りの声が充満しました。日本の仕打ちはそれだけではありませんで した。
 アメリカは満洲問題について、日本に特別の立場を認めるという「対日不干渉誓約」を取り付けられたのです。(1908・明治四十一年)。
 そして、怒りを秘めたアメリカが計画した鉄道建設計画(錦州〜愛琿間)を、なんとロシアと協調して中止させたのでした(1909・明治四十二年)。
 すでに見てきたように、このような日本の行動は、米英と世界のユダヤ社会の深い不信感を買うものでした。
 これは権威をかるつもりはありませんが、知遇を得ていた杉原千畝氏の慨嘆に拠っています。
 杉原千畝氏は1941(昭和十六)年5月、ドイツにあって独ソ開戦近しとの情報を日本外務省に入れるものの、当時の外務省主流の忌避に触れ、リストラの形で外務省を追われたお方です。終戦の後にユダヤ人へのビザ発給を咎められたというのは誤解です。
 桂・ハリマン協定の日本の裏切りが日本の運命の狂いの岐路だったと、述懐されたことがありました。同席者は亀山一二氏でした。氏は日米開戦時の外務省大臣官房電信課長でした。不意討ちだったのか、と聞く若輩の私に「国策に騙し討ちはない・・・陛下の前だよ・・・」と笑っておられたものです。・・・・
 ロシア帝国にすれば一敗地にはまみれたが、ここは米英を満州に入れないことが肝要であり、国力を養い米英抜きで日本とのリベンジラウンドを期すことだ、と考えたのは当然です。
 このようなロシアの意図で出発した日露協商路線は、1905(明治三十八)年より1917(大正六)年のロシア革命まで続きます。そして、共産主義革命に干渉したシベリア出兵の後日本は、ニコライエフ港における日本人数百人の虐殺の損害賠償を放棄して日ソ基本条約を締結しました。1925(大正十四)年のことです。しかしながら日本は、治安維持法を同年に制定しています。
 共産主義ロシアと諸国に先駆けて国交を結びながらなのですから、やはり日本は分裂症(シゾフレニー)でした。保障占領していた北樺太から撤兵して基本条約 を締結した余波により、アメリカのシンクレア社が有していた北樺太の石油開発利権が放棄させられました。日本はそれを認めたのです。ワシントン会議の後のことです。1921(大正十一)年に終結したこの会議は、明らかに米国の日本「敵視」の第一ラウンドでした。
 しかし、アメリカは中国大陸への資本参入の意図はあっても、それはあくまで日本と協調の下での、それであったのは明らかです。イギリスも同じでした。東アジアで日本を排除する意図はアメリカにはなく、日本の一人占めは警戒され始めていました。
ポーツマス講和条約で日本は南樺太を割譲させますが、これは本来からすれば日本の錯誤にすぎません。なぜなら樺太は、江戸時代には日本人しか住んでいなかった日本の領土にほかならなかったのです。・・・
 幕府の役人はロシア流に欺かれて樺太を「雑居の地」と認めてしまい、揚げ句はこの地も日本人の住む千島(ロシアは自領と称していた)と「交換」するのでした(1875・明治八年)。
 ロシア流はいつもこの伝です。まず半分分けして、あとで全部盗るのです。満州も沿海州もこの伝で清国は盗られました。日本は全部盗られました。南樺太とか南満洲とか、日露共同出資とかいったらこの伝を思い出すべきです。1941年の日ソ不可侵条約などは、この伝を忘れたか、あるいは売国の意図を秘めた日本人の祖国裏切りなのです。日本はソ連と組んで米英を排除する路線に迷いこんでいましたから、日ソ中立条約は三国同盟と併せて四国同盟として米英に対抗するつもりだったのです。
 日本の一人合点は、結局はソ連に全部盗られて、日清戦争以前よりひどい状態に日本を追い込んだのでした。・・・・
 アメリカに石油を止められて日本は開戦します。米英と協調し、北に備える路線が日本の進む道であることにあまりに盲目でした。「当然の結果」の結果論なのです。これは平成19年の今日も変わりません。ロシアのプーチン政権の周囲に群がろうとする「経済界」とは何なのでしょうか。日本人は大日本帝国の血まみれの教訓を大切にすべきです。

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