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東アジア歴史文化研究会コミュの西郷隆盛の人間像?

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謹慎、大島潜居前後

安政5年7月27日、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った。以後9月中旬頃まで諸藩の有志および有馬新七・有村俊斎・伊地知正治らと大老井伊直弼を排斥し、それによって幕政の改革をしようとはかった。しかし、9月9日に梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫ったので、近衛家から保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見からは有村俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。

9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。11月、平野国臣に伴われて月照が鹿児島に来たが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向)へ追放すること(これは道中での切り捨てを意味していた)に決定した。月照・平野らとともに乗船したが、前途を悲観して、16日夜半、竜ヶ水沖で月照とともに入水した。すぐに平野らが救助したが、月照は死亡し、西郷は運良く蘇生したが、回復に一ヶ月近くかかった。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕重助を連れて引き上げた。

12月、藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした、12月末日、菊池源吾(熊本の菊池氏を祖としていたので、吾が源は菊池なりという意で付けたと云われる。公式には西郷三助)と変名して、鹿児島から山川郷へ出航した。安政6年(1859年)1月4日、伊地知正治・大久保利通・堀仲左衛門等に後事を託して山川港を出航し、七島灘を乗り切り、名瀬を経て、1月12日に潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。

島では美玉新行の空家を借り、自炊した。間もなく重野安繹の慰問を受け、以後、大久保利通・税所篤(喜三左衛門)・吉井友実・有村俊斎・堀仲左衛門らからの書簡や慰問品が何度も送られ、西郷も返書を出して情報入手につとめた。この間、11月、龍家の一族、佐栄志の娘とま(のち愛加那と改める)を島妻とした。当初、扶持米は6石であったが、万延元年には12石に加増された。また留守家族にも家計補助のために藩主から下賜金が与えられた。来島当初は流人としての扱いを受け、孤独に苦しんだ。しかし、島の子供3人の教育を依頼され、間切横目藤長から親切を受け、島妻を娶るにつれ、徐々に島での生活になじみ、万延元年(1860年)11月2日には菊次郎が誕生した。文久元年(1861年)9月、三弟の竜庵が表茶坊主から還俗して信吾(後の西郷従道)と名乗った。11月、見聞役木場伝内と知り合った(のち木場は大坂留守居役・京都留守居役となり、西郷を助けた)。

寺田屋騒動前後

文久元年10月、久光は公武周旋に乗り出す決意をして要路重臣の更迭を行ったが、京都での手づるがなく、小納戸役の大久保・堀次郎らの進言で西郷に召還状を出した。西郷は11月21日に召還状を受け取ると、世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つようにしたのち、文久2年(1862年)1月14日に阿丹崎を出帆し、口永良部島・枕崎を経て2月12日に鹿児島へ着いた。2月15日、生きていることが幕府に発覚しないように西郷三助から大島三右衛門(大島に三年住んでいたという洒落)と改名した。同日、久光に召されたが、久光が無官で、斉彬ほどの人望が無いことを理由に上京すべきでないと主張したので、久光の不興を買った。一旦は同行を断ったが、大久保の説得で上京を承諾し、旧役に復した。3月13日、下関で待機する命を受けて、村田新八を伴って先発した。

下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷は、3月22日、村田新八・森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航し、29日に伏見に着き、激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みた。しかし、4月6日、姫路に着いた久光は、西郷が待機命令を破ったこと、堀次郎・海江田信義から西郷が志士を煽動していると報告を受けたことから激怒し、西郷・村田・森山に捕縛命令を出した。捕縛された西郷らは10日、鹿児島へ向けて船で護送された。

一方、浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、伏見の寺田屋に集結している真木保臣・有馬新七らの激派志士を鎮撫するため、4月23日に奈良原繁・大山格之助(大山綱良)らを寺田屋に派遣した。奈良原らは激派を説得したが聞かれず、やむなく有馬新七ら8名を上意討ちにした(寺田屋騒動)。この時に挙兵を企て、寺田屋、その他に分宿していた激派の中には三弟の信吾、従弟の大山巌(弥助)の外に篠原国幹・永山弥一郎なども含まれていた。

護送され山川港で待命中の6月6日、西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島、村田新八は喜界島へ遠島が命ぜられた。未処分の森山新蔵は船中で自刃した。

徳之島・沖永良部島遠流

文久2年6月11日、西郷は山川を出帆し、村田も遅れて出帆したが、向かい風で風待ちのために屋久島一湊で出会い、7、8日程風待ちをし、ともに一湊を出航、奄美へ向かった。七島灘で漂流し、奄美を経て(以上は「宇留満乃日記」に詳しい)、やっと7月2日に西郷は徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の7月2日に愛加那が菊草(菊子)を生んだ。

徳之島岡前の勝伝宅で落ち着いていた8月26日、徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて西郷のもとを訪れた。久しぶりの親子対面を喜んでから数日後、さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届いた。これより前の7月下旬、鹿児島では二弟吉二郎、三弟信吾、四弟小兵衛が遠慮・謹慎などの処分を受け、西郷家の知行・家財が没収され、最悪の状態に追い込まれていた。

藩命で舟牢に入れられて、閏8月初め、徳之島岡前を出発し、14日に沖永良部島伊延(旧:ゆぬび・現:いのべ)に着いた。当初、牢が貧弱で風雨にさらされたので、健康を害した。しかし、10月、間切横目土持政照が代官の許可を得て、自費で座敷牢を作ってくれたので、そこに移り住み、やっと健康を取り戻した。4月には同じ郷中の後輩が詰役として来島したので、西郷の待遇は一層改善された。この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えている。また、土持政照と一緒に酒を飲んでいる様子がこの島のサイサイ節という民謡に歌われている。

文久3年(1863年)7月、前年の生麦事件を契機に起きた薩英戦争の情報が入ると、処罰覚悟で鹿児島へ帰り、参戦しようとした。10月、土持がつくってくれた船に乗り、鹿児島へ出発しようとしていたとき、英艦を撃退したとの情報を得て、祝宴を催し喜んだ。来島まもなく始めた塾も元治元年(1864年)1月頃には20名程になった。やがて赦免召還の噂が流れてくると、「与人役大躰」「間切横目大躰」を書いて島役人のための心得とさせ、社倉設立の文書を作って土持に与え、飢饉に備えさせた。在島中も諸士との情報交換はかかさず、大島在番であった桂久武、琉球在番の米良助右衛門、真木和泉などと書簡を交わした。

この頃、本土では、薩摩の意見も取り入れ、文久2年(1862年)7月に松平慶永が政事総裁職、徳川慶喜が将軍後見職となり(文久の幕政改革)、閏8月に会津藩主松平容保が京都守護職、桑名藩主松平定敬が京都所司代となって、幕権に回復傾向が見られる一方、文久3年(1863年)5月に長州藩の米艦砲撃事件、8月に奈良五条の天誅組の乱と長州への七卿落ち(八月十八日の政変)、10月に生野の変など、開港に反対する攘夷急進派が種々の抵抗をして、幕権の失墜をはかっていた。この情勢を量ると、秤は幕府・薩摩方に傾き、長州藩を中心とする反幕攘夷派勢力は徐々に軽くなりつつあったといえよう。

もともと公武合体派とはいっても、天皇のもとに賢侯を集めての中央集権をめざす薩摩の思惑と将軍中心の中央集権をめざす幕府の思惑は違っていたが、薩英戦争で活躍した旧精忠組の発言力の増大と守旧派の失脚を背景に、薩摩流の公武周旋をやり直そうとした久光にとっては、京大坂での薩摩藩の世評の悪化と公武周旋に動く人材の不足が最大の問題であった。この苦境を打開するために大久保利通(一蔵)や小松帯刀らの勧めもあって、西郷を赦免召還することにした。元治元年(1864年)2月21日、吉井友実・西郷従道(信吾)らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に迎えにきた。途中で大島龍郷に寄って妻子と別れ、喜界島遠島中の村田新八を伴って(村田の兄宛書簡あり。無断で連れ帰ったとも、そうではなかったともいう)帰還の途についた。


西郷さんの5年にも及ぶ島流し。最初は奄美大島に謹慎程度であったが、その後の沖永良部島遠島は、もう二度と薩摩に帰ってこれない可能性もあった。この期間、西郷さんにとって絶望的状態であったはずである。しかし、この遠島がなかったら西郷はただの西郷で終わっていたかもしれない。と私は思えてならない。以下平面的な歴史の記述であるが、この間の人間像を深く洞察しているのが、神渡良平氏の「西郷隆盛人間学」ではないかと思う。

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