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気づくための会コミュの自力と他力

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「気づき」というものを「自ら得た」と考えるか「与えられた」と考えるかによって,その価値もまた幾らか異なるように思います。
神仏の存在を信じるかどうかで語られることも多いので、「与えられた」と感じることに違和感を持つ無神論者(無宗教者)の方もあろうかと思います。
それは個々人の信仰に関わることなので、あえて問いませんが,
経験上,「与えられた」と考えた方が気づきやすいように思います。
理由としては,まず,「気づき」に対して自分の傲慢さが発生することを抑制できます。「こんな素晴らしい真実に気付いた自分は偉い」となると「気づき」よりも自分に価値を与えてしまい,せっかくの「気づき」の価値を下げてしまうからです。
さらに,「自ら得た」とすると,その「気づき」に執着してしまいます。人間は得たものを手放すのは苦手であり,たとえ、以前に得た真理が現在の自分に合わないものであっても手放すには力が要ります。
最初から「与えられた」と考えれば,新しい「気づき」を素直に受け入れることができるのです。

神仏を無しとする人も「気づき」の契機となった事象への感謝を通じて「与えられた」とした方が良いように思います。
これが他力です。

コメント(2)

きよ@耳呈さんへ
 書き込みが遅れてすいません。
きよ@耳呈さんのことだから、中道については知っているでしょう。
基本となる大切なことなので、
これについてよく考えていただきたい。

 自分だけで得た断言する自力は、極端な表現であって、
与えられたと断言する他力も、
もう一方の極端な表現ということは、わかるだろうか。

 なぜなら、気づくためには、何かについて考えることが必要です。
何かについて考えるということは、
まず、その対象となる何かが無いとできません。
そして、その対象について考えるキッカケがないと、
わたしたちは考えることがありません。
だから、自力によってという表現は正確ではないのです。

 また、与えられたという場合にも、
この場合は神が与えるというよりは、
先に挙げた考える対象とキッカケによって、
わたしたちが考え、気づくのです。
そして、それは対象について考えている、わたしがいるから、
気づきがあるのです。
だから、他力によってという表現は正確ではないのです。

 さらに細かく観れば、考える対象を、
五官を通して認識している必要もあるし、
そのためには五官や悩がないといけないし、
大きいところでは、そもそもこの世界がないと、
その対象すら存在していないかもしれない。

自力や他力のいずれか一方に片寄るのではなく、
どちらでもない道をみる、それが中道です。

 これがあるから、これがある。
これがないから、これがない。
これがなくなれば、これもなくなる。
これが縁起というものです。
気づきもまた、単独で起るものではなく、
縁起によって起るものだといえるでしょう。
補足コメントありがとうございます。
「天は自ら助くるものを助く」という言葉があります。
自力なしに他力は働かず,他力なしの自力は無力です。
中道であることが,もっともであるという点で異論ありません。

ただ,言葉で「中道」を理解できる人が,どれほどにいるのか?
一方のベクトルに偏る人に別のベクトルを与えた方が、その人自身が「中道」を認識できるのではないか?
それとも、理解はできないだろうと思う自分自身の到達点が低いのか?

考えてみるべき課題であるということに気づかされております(感謝)

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