ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

仏教を楽しむ会(^^)コミュの般若心経の解釈

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

般若心経の解説をいくつか読みましたが、

私の友人、中島牧人さんの空海との問答形式のものが、

よく分かりました。


ご意見をお聞かせください。


空海(くうかい)に訊(き)く

「密教(みっきょう)は、他の仏教(ぶっきょう)が釈迦(しゃか)の教(おし)えであるとするのにたいして、大毘廬(だいびる)
遮那(しゃな)如来(にょらい) 、すなわち大日如来(だいにちにょらい)の教えだとしているようですが、大日如来(だいにちにょらい)とは何(なん)ですか。」

「大日如来(だいにちにょらい)は法(ほつ)身仏(しんぶつ)です。法(ほつ)身仏(しんぶつ)は釈迦(しゃか)如来(にょらい)のように歴史的(れきしてき)に実在(じつざい)した仏(ほとけ)ではなく、原初(げんしょ)から存在(そんざい)している永遠(えいえん)不滅(ふめつ)の仏性(ぶっしょう)です。」




「お釈迦(しゃか)様(さま)と法(ほつ)身仏(しんぶつ)はどう違(ちが)うのですか。」

「釈迦(しゃか)は、今から二千五百年ほど前に、釈迦族(しゃかぞく)の王家の子としてインドで生まれ、出家(しゅっけ)成道(じょうどう)して、悟(さと)りを啓(ひら)き、広く説法(せっぽう)して、八十歳の生涯(しょうがい)をとじた聖者(せいじゃ)です。聖者とは永遠(えいえん)不滅(ふめつ)の仏性(ぶっしょう)の一つの現(あらわ)れであって、それは応化(おうけ)身(しん)と呼(よ)ばれるべきものです。それに対(たい)して、永遠(えいえん)不滅(ふめつ)の仏性(ぶっしょう)は法(ほっ)身(しん)と呼(よ)ばれるもので、この法(ほっ)身(しん)を応(おう)化身(けしん)より根(こん)源的(げんてき)として、実在性(じつざいせい)を持(も)ったものとしたものが法(ほつ)身仏(しんぶつ)といえるでしょう。」
「お釈迦(しゃか)様(さま)は仏(ほとけ)の応(おう)化身(けしん)であって二義的(にぎてき)であり、法(ほつ)身仏(しんぶつ)こそ一義的(いちぎてき)とするのですね。」
「そうです。ですから、仏(ほとけ)の応(おう)化身(けしん)である釈迦(しゃか)の教(おし)えは衆生(しゅじょう)を教(きょう)化(げ)するための方便(ほうべん)の教(おし)えであるので、それは真実(しんじつ)そのものとは言(い)いがたく、法(ほつ)身仏(しんぶつ)である大毘廬(だいびる)遮那(しゃな)如来(にょらい)の教(おし)えである密教(みっきょう)こそが真実(しんじつ)と言(い)えるものです。これは他(た)(他人(たにん)、神(かみ)、仏(ほとけ))を頓着(とんちゃく)せず、本当(ほんとう)の自(みずか)らのさとりの境地(きょうち)をありのままに説(と)き、自(みずか)ら楽(たの)しみ、愉楽(ゆらく)世界に遊(あそ)ぶ教(おし)えです。」




「本当(ほんとう)の自(みずか)らのさとりの境地(きょうち)とは何(なん)ですか。」
「この宇宙(うちゅう)世界(せかい)は素晴(すば)らしい。それは無限(むげん)の宝(たから)を空(くう)に秘(ひ)蔵(ぞう)している。人(ひと)はまだその無限(むげん)の宝(たから)を秘(ひ)蔵(ぞう)したまま、そのことに気付(きづ)いてさえいなかった。無限(むげん)の宝(たから)の宝庫(ほうこ)の鍵(かぎ)は自(みずか)らの手中(しゅちゅう)にあるのにその事(こと)も知(し)らず、その使(つか)い方(かた)にも気付(きづ)いていなかった。その無限(むげん)の宝(たから)の宝庫(ほうこ)の鍵(かぎ)とは創造力(そうぞうりょく)のことである。その創造力(そうぞうりょく)はマントラ真言(しんごん)によって行使(こうし)できる。このマントラ真言(しんごん)によって無限(むげん)の宝(たから)が空(くう)より創造(そうぞう)される。マントラ真言(しんごん)とは永遠(えいえん)不滅(ふめつ)の仏性(ぶっしょう)であって、原初(げんしょ)からの実在(じつざい)である。われわれ人間(にんげん)はこのマントラ真言(しんごん)を自由自在(じゆうじざい)に使(つか)いこなすことが出来(でき)るゆえに、法(ほつ)身仏(しんぶつ)である大毘廬(だいびる)遮那(しゃな)如来(にょらい)、つまり、大日如来(だいにちにょらい)と同(おな)じ創造力(そうぞうりょく)を持(も)った存在(そんざい)なのだという自覚(じかく)こそがそのさとりの境地(きょうち)です。」
「その自覚(じかく)を持(も)つに至(いた)るにはどうすればいいのでしょうか。」
「至心(ししん)懺悔(ざんげ)して大誓願(だいせいがん)を発することが必要(ひつよう)です。」

「至心(ししん)懺悔(ざんげ)して大誓願(だいせいがん)を発(はっ)するとはどうすることですか。」




「自(みずか)らの心(ごころ)を、清浄(しょうじょう)、無垢(むく)にして、必(かなら)ず成(な)し遂(と)げようと願(ねが)い定(さだ)めた誓願(せいがん)をマントラ真言(しんごん)として唱(とな)えることです。」
「具体的(ぐたいてき)に体験(たいけん)したことを教(おし)えてください。」
「私(わたし)が大学(だいがく)での勉強(べんきょう)と自(みずか)らの先(さき)行(ゆ)きに挫折感(ざせつかん)を持(も)ちかけていたある日、大学寮(だいがくりょう)を抜(ぬ)け出(で)て、氏寺(うじでら)佐伯院(さえきいん)の金堂(こんどう)に参詣(さんけい)した時(とき)の事(こと)です。なぜか、薬師(やくし)如来(にょらい)の脇(わき)侍(じ)の日光(にっこう)・月光(がっこう)菩薩(ぼさつ)のお顔(かお)に見入(みい)っていたら、ふいに、一人の沙門(さもん)が現(あらわ)れて『お前(まえ)は仏(ほとけ)に縁(えん)がある相(そう)をしている。お前(まえ)は今やっている学問(がくもん)では満足(まんぞく)できまい。仏法(ぶっぽう)を極(きわ)めてはどうか。そのために万巻(まんかん)の経典(きょうてん)をたちまちに理解(りかい)し暗記(あんき)できる秘法(ひほう)を教(おし)えよう。』と言(い)って『虚空蔵求聞持法(こくうぞうくもんじほう)』を教(おし)えてくれました。『虚空蔵求聞持法(こくうぞうくもんじほう)』というのは虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)の真言(しんごん)である『ナウボウ、アキヤシア、キャラバヤ、オン、アリキヤマリボリ、ソワカ』(マントラの意味(いみ)は、華(はな)鬘(かつら)蓮華(れんげ)冠(かん)をかぶる虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)に帰依(きえ)する)という咒(しゅ)を唱(とな)える外に、いくつかの作法(さほう)があって、それをふくめ、一日一座(ざ)一万遍(まんべん)、百日(ひゃくにち)百座(ひゃくざ)百万遍(ひゃくまんべん)を修(しゅう)するというものです。私はこれを一心不乱に一日ニ座二万遍の行法として修し、五十日で成満(じょうまん)




させました。
そのことによって、一切(いっさい)の教法(きょうほう)の文(ぶん)義(ぎ)をたちまちに理解(りかい)し暗記(あんき)できるようになったのです。」
「それは『三教指帰(さんごうしいき)』にある話ですね。それと自(みずか)らが大日如来(だいにちにょらい)と同じ創造力(そうぞうりょく)を持(も)った存在(そんざい)なのだという自覚(じかく)を持(も)つに至(いた)ることとどんな関係(かんけい)にあるのですか。」
「私(わたし)が大学(だいがく)での勉強(べんきょう)と自(みずか)らの先(さき)行(ゆ)きに挫折感(ざせつかん)を持(も)ちかけていたというのは、其(そ)の時(とき)の現状(げんじょう)を変(か)えようと思(おも)ったということです。そして、氏寺(うじでら)佐伯院(さえきいん)の金堂(こんどう)に参詣(さんけい)し、なぜか、薬師(やくし)如来(にょらい)の脇(わき)侍(じ)の日光(にっこう)・月光(がっこう)菩薩(ぼさつ)のお顔(かお)に見入(みい)っていたのは、無意識(むいしき)の中で、仏法(ぶっぽう)を学(まな)ぼうと決意(けつい)していたのです。そこへ、ふいに、一人の沙門(さもん)が現(あらわ)れて『虚空蔵求聞持法(こくうぞうくもんじほう)』を教(おし)えてくれたのです。私はこれを一心不乱(いっしんふらん)に一日(いちにち)ニ座(にざ)二万遍(にまんべん)の行法(ぎょうほう)として修(しゅう)し、五十日で成満(じょうまん)させました。そのことによって、一切(いっさい)の教法(きょうほう)の文(ぶん)義(ぎ)をたちまちに理解(りかい)し暗記(あんき)できるようになったのです。ここで注意(ちゅうい)してほしいのは私(わたし)が教(おし)えてもらったとおりの一日一座一万遍(いちにちいちざいちまんべん)百日(ひゃくにち)ではなくて、一日(いちにち)ニ座(にざ)二万遍(にまんべん)五十日(ごじゅうにち)




で成(じょう)満(まん)させたことです。」
「一日に二倍の修行(しゅぎょう)をしたということですか。」
「そうです。しかし、それは単(たん)に数(かず)合(あ)わせをして速(はや)く成(じょう)満(まん)させることが出来(でき)たということだけではありません。『虚空蔵求聞持法(こくうぞうくもんじほう)』に新(あたら)しい工夫(くふう)を自(みずか)ら施(ほどこ)して、つまり、わたし独自(どくじ)の『虚空蔵求聞持法(こくうぞうくもんじほう)』によって、自己(じこ)の目的(もくてき)を達成(たっせい)することが出来(でき)たのです。ここに、自(みずか)らが大日如来(だいにちにょらい)と同(おな)じ創造力(そうぞうりょく)を持(も)った存在(そんざい)なのだという自覚(じかく)を持(も)つに至(いた)ることへの光明(こうみょう)を見出(みいだ)したのです。」
「自(みずか)ら思(おも)いついた方法(ほうほう)で自(みずか)らの能力(のうりょく)開発(かいはつ)が出来(でき)たということが、自分(じぶん)が大日如来(だいにちにょらい)と同(おな)じ創造力(そうぞうりょく)を持(も)った存在(そんざい)なのだという自覚(じかく)を持(も)つに至(いた)ることへの足(あし)がかりになったというのですね。」
「そうです。人間(にんげん)は思(おも)ったとおりのことを思(おも)ったとおりに出来(でき)る根本的(こんぽんてき)能力(のうりょく)があるということの確信(かくしん)を持(も)ったのはこの『虚空蔵求聞(こくうぞうくもん)持法(じほう)』を自(みずか)らの方法(ほうほう)で修(しゅう)した時(とき)からでした。
 それ以来(いらい)、幾多(いくた)の仏典(ぶってん)書物(しょもつ)を読(よ)み漁(あさ)り、唐(とう)にまで渡(わた)って求(もと)めたところ、真言(しんごん)密教(みっきょう)に人間(にんげん)の根本的(こんぽんてき)あり方(かた)を見出(みいだ)したのです。」




「真言(しんごん)密教(みっきょう)とその他(た)の仏教(ぶっきょう)とはどのような違(ちが)いがありますか。」

「仏教(ぶっきょう)は本来的(ほんらいてき)に、四諦(したい)十二(じゅうに)因縁(いんねん)を理論(りろん)の中心(ちゅうしん)としているために人間(にんげん)生活(せいかつ)を苦(く)とし、その苦(く)の原因(げんいん)である欲望(よくぼう)からの解脱(げだつ)を説(と)く教(おし)えです。つまり、現世(げんせ)に対(たい)する否定(ひてい)をその理論(りろん)の根底(こんてい)に持(も)っています。たとえば、浄土(じょうど)教(きょう)においてはこの世(よ)を穢土(えど)として、それから離(ばな)れ、純粋(じゅんすい)な世界(せかい)である浄土(じょうど)を求(もと)め、その浄土(じょうど)は死後(しご)初(はじ)めて往生(おうじょう)することが出来(でき)るとされています。親鸞(しんらん)は死後(しご)の世界(せかい)への憧(あこが)れより、念仏(ねんぶつ)を唱(とな)えることによる安心(あんしん)の境地(きょうち)の素晴(すば)らしさを教(おし)えたのですが、それでも、真(しん)の浄土(じょうど)は死後(しご)にあるという観念(かんねん)は拭(ぬぐ)い去(さ)れません。
また、禅(ぜん)は無(む)を説(と)き、一切(いっさい)のこの世的とらわれは否定(ひてい)されます。
ですから、浄土(じょうど)教(きょう)も禅(ぜん)も、現世(げんせ)を全体(ぜんたい)として否定(ひてい)しています。
 一方(いっぽう)、密教(みっきょう)においては、この世界(せかい)にはきらびやかな宝(たから)が無尽蔵(むじんぞう)に、あらゆる所(ところ)に埋蔵(まいぞう)されていて、人間が掘(ほ)っても掘(ほ)っても尽(つ)きることがなく、しかも、その無限(むげん)の宝(たから)は何(なに)よりも人間(にんげん)自身(じしん)の中にあり、その智慧(ちえ)も能力(のうりょく)も、それらの開発法(かいはつほう)も、人間(にんげん)自身(じしん)が自由(じゆう)に生(う)み出(だ)す




創造力(そうぞうりょく)を持(も)ち合(あ)わせているということになっていて、これはまさに現世(げんせ)の大肯定(だいこうてい)、この世(よ)における愉楽(ゆらく)思想(しそう)だといえるでしょう。」

「真言(しんごん)密教(みっきょう)に人間の根本的(こんぽんてき)あり方を見出(みいだ)したといわれましたがそれは何(なん)ですか。」

「それは『即身成仏(そくしんじょうぶつ)義(ぎ)』の中などに書きましたが 『父母(ふぼ)所生(しょせい)の身(み)に、速(すみ)やかに大覚(だいかく)の位(くらい)を証(しょう)す』ということです。父母(ふぼ)からもらった心身(しんしん)のままで、つまり、この世(よ)においてそのまま仏(ほとけ)となり、さとりを啓(ひら)くことが出来(でき)る存在(そんざい)こそ私(わたくし)たち人間(にんげん)だということの発見(はっけん)です。」
「父母(ふぼ)所生(しょせい)の身(み)とはなんですか。」
「身(み)とは六(ろく)大(だい)であり、地水火風(ちすいかふう)空(くう)の五大(ごだい)に識(しき)を加(くわ)えたものです。地(ち)水(すい)火風(かふう)空(くう)の五大(ごだい)とは物質(ぶっしつ)であり、識(しき)とは心(こころ)とか覚(かく)とか智(ち)といわれる精(せい)神(しん)部分(ぶぶん)です。」
「六(ろく)大(だい)といえば次のような即身成仏(そくしんじょうぶつ)の偈(げ)をあなたは書(か)いていますね。
 



 六大(ろくだい)無碍(むげ)にして常(つね)に瑜伽(ゆが)なり
  四種(よんしゅ)曼荼(まんだ)各々(おのおの)離(はな)れず
  三(さん)蜜(みつ)加持(かじ)すれば速疾(そくしつ)に顕(あらわ)る
  重重(じゅうじゅう)帝網(たいもう)なるを即(そく)身(しん)と名(な)づく
 法(ほう)然(ねん)に薩(さ)般若(はんにゃ)を具足(ぐそく)して
心數(しんじゅ)心王刹(しんおうせつ)塵(じん)に過(す)ぎたり
各々(おのおの)五(ご)智(ち)無際(むさい)智(ち)を具(ぐ)す
  圓(えん)鏡力(きょうりき)の故(ゆえ)に實覺(じつかく)智(ち)なり
 これを今風(いまふう)に解説(かいせつ)していただけませんか。」

「人間は六大(ろくだい)から出来(でき)ていて、それらが互(たが)いに交(まじ)じり合(あ)い、あらゆるものを構成(こうせい)している。それは四種(よんしゅ)の曼荼羅(まんだら)が表(あら)わす宇宙(うちゅう)の中心仏(ちゅうしんぶつ)たる大日(だいにち)如来(にょらい)と離(はな)れず同(おな)じである。身(しん)口(く)意(い)の三(さん)蜜(みつ)が見事(みごと)に作用(さよう)し合(あ)うと、あらゆる物事(ものごと)が速(すみ)やかに顕現(けんげん)し成就(じょうじゅ)する。衆生(しゅじょう)と仏(ほとけ)が等(ひと)しく重(かさ)なりあって、お互(たが)いに反映(はんえい)しあっている様子(ようす)を即(そく)身(しん)という。この即(そく)身(しん)は法(ほう)爾(に)自然(しねん)にあらゆる智慧(ちえ)を具足(ぐそく)していて、様々(さまざま)な現(あらわ)れとな




って現世(げんせ)に満(み)ちている。その各々(おのおの)は大日如来(だいにちにょらい)の五(ご)智(ち)と無際限(むさいげん)の智(ち)を具(ぐ)しているが故(ゆえ)に、その自己(じこ)本来(ほんらい)の面目(めんぼく)を實覺(じつかく)智(ち)することで圓(えん)鏡(きょう)の如(ごと)く心(こころ)は澄(す)み渡(わた)り、自由自在(じゆうじざい)に創造力(そうぞうりょく)を発揮(はっき)する。」

「さすがに自(みずか)らお書きになった偈(げ)の解釈(かいしゃく)だけに、わかりやすいですね。ここに出てきた自己(じこ)本来(ほんらい)の面目(めんぼく)を實覺(じつかく)智(ち)するとはどういうことですか。」
「自己(じこ)本来(ほんらい)の面目(めんぼく)を實覺(じつかく)智(ち)するとは、『この世界にはきらびやかな宝(たから)が無尽蔵(むじんぞう)にあらゆる所(ところ)に埋(まい)蔵(ぞう)されていて、人間(にんげん)が掘(ほ)っても掘(ほ)っても尽(つ)きることがなく、しかも、その無限(むげん)の宝(たから)は何(なに)よりも人間(にんげん)自身(じしん)の中にあり、その智慧(ちえ)も能力(のうりょく)もそれらの開発法(かいはつほう)も、人間(にんげん)自身(じしん)が自由(じゆう)に生(う)み出す創造力(しうぞうりょく)を持ち合わせているということを真実(しんじつ)に覚(かく)智(ち)すること』です。」
「私たち人間は地水火風(ちすいかふう)空(くう)識(しき)の六大(ろくだい)から出来(でき)ていて、宇宙(うちゅう)の中心仏(ちゅうしんぶつ)である大日如来(だいにちにょらい)の現(あらわ)れである。だから、自己(じこ)本来(ほんらい)の本質(ほんしつ)に目覚(めざ)めるとき、私たちは大日如来(だいにちにょらい)と一体(いったい)に重(かさ)なった即身成仏(そくしんじょうぶつ)人間(にんげん)としてあらゆる智慧(ちえ)と創造力(そうぞうりょく)を駆使(くし)した覚醒(かくせい)愉楽(ゆらく)生活(せいかつ)がおくれるというわけ




ですね。」
「その通(とお)りです。私はそれだけの事(こと)を世(よ)の人々(ひとびと)に知(し)らせんが為(ため)にあらゆる智慧(ちえ)を絞(しぼ)りました。しかし、時代(じだい)が時代(じだい)だったためにか、多(おお)くの人を自己(じこ)本来(ほんらい)の面目(めんぼく)を實覺(じつかく)智(ち)することで圓(えん)鏡(きょう)の如(ごと)く心(こころ)は澄(す)み渡(わた)り、自由自在(じゆうじざい)に創造力(そうぞうりょく)を発揮(はっき)する境地(きょうち)に導(みちび)くまでにはいたっていません。」

「最(もっと)も智慧(ちえ)を絞(しぼ)って工夫(くふう)を凝(こ)らしたのは何(なん)でしたか。」
「書物(しょもつ)の書(か)き方(かた)です。密教(みっきょう)思想(しそう)を伝(つた)えるにあたって従来(じゅうらい)通(どお)りであれば多(おお)くの経典(きょうてん)を引(ひ)き、それを解釈(かいしゃく)するという方法(ほうほう)なのですが、わたしは自(みずか)ら作(つく)った偈(げ)を経典(きょうてん)の言葉(ことば)と同(おな)じ権威(けんい)を持(も)ったものとして解説(かいせつ)し、密教(みっきょう)思想(しそう)を明(あき)らかにしようとしたのです。」

「経典(きょうてん)の句(く)を引(ひ)き、それを独自(どくじ)の解釈(かいしゃく)で説明(せつめい)したりするのならまだしも、自分(じぶん)が作(つく)った偈(げ)を経典(きょうてん)の句(く)と同(おな)じ重(おも)みを持(も)たせて解釈(かいしゃく)説(せつ)明(めい)するとは思(おも)い上(あ)がりもはなはだしいと非難(ひなん)されるとは思いませんでしたか。」



「思いました。しかし、私はあえてそうしたのです。経典(きょうてん)の句(く)の説明(せつめい)に自作(じさく)の偈(げ)を引(ひ)いてきて、その偈(げ)に経典(きょうてん)の句(く)と同(おな)じ重(おも)みを持(も)たせる解説(かいせつ)をくわえたのは私の思(おも)い切(き)った挑戦(ちょうせん)でした。」

「あえてそうしたというのにはいかなる訳があるのですか。」

「自己(じこ)本来(ほんらい)の面目(めんぼく)の實覺(じつかく)智(ち)を示(しめ)さんがためです。
 私たちは自己(じこ)の本質(ほんしつ)に目覚(めざ)めたとき、自己(じこ)の内部(ないぶ)に大日如来(だいにちにょらい)を自(じ)覚(かく)し、自己(じこ)すなわち大日如来(だいにちにょらい)、大日如来(だいにちにょらい)すなわち自己(じこ)であるという自信(じしん)を持(も)つものです。このことを身(み)をもって示(しめ)さんがための言(こと)挙(あ)げでした。」
「人間のあり方の高(たか)みを具体的(ぐたいてき)に見(み)せてくれたのですね。目覚(めざ)めた人間(にんげん)の言葉(ことば)は、大日如来(だいにちにょらい)の言葉(ことば)である経典(きょうてん)の句(く)と同等(どうとう)の重(おも)みを持(も)つ、と言(い)いたかったのですね。」

「そうです。目覚(めざ)めた人間(にんげん)の言葉(ことば)は大日如来(だいにちにょらい)の言葉(ことば)であり、したがって、絶大(ぜつだい)なる創造力(そうぞうりょく)を持(も)っているという言(こと)挙(あ)げだったのです。」





「言(こと)挙(あ)げといえば、あなたは入定(にゅうじよう)の直前(ちょくぜん)、『般若心経秘(はんにゃしんきょうひ)鍵(けん)』という本(ほん)を書(か)いておられますが、これはあなたの言(こと)挙(あ)げの究極(きゅうきょく)といってもいいものですか。」
「そうです。般若心経(はんにゃしんきょう)の一句(いっく)一句(いっく)にはすべての仏教(ぶっきょう)の教義(きょうぎ)、事相(じそう)が含(ふく)まれています。そして、最(さい)高(こう)最上(さいじょう)の真言(しんごん)密教(みっきょう)の秘法(ひほう)が余(あま)すところ無(な)く開(かい)示(じ)されているのです。」

「般若心経(はんにゃしんきょう)の一句(いっく)一句(いっく)にはすべての仏教(ぶっきょう)の教義(きょうぎ)、事相(じそう)が含(ふく)まれているというのは具体的(ぐたいてき)にどういうことですか。また、般若心経(はんにゃしんきょう)に開(かい)示(じ)されている最高(さいこう)最上(さいじょう)の真言(しんごん)密教(みっきょう)の秘法(ひほう)とは何(なん)ですか。」

「般若心経秘(はんにゃしんきょうひ)鍵(けん)に書(か)いた般若心経(はんにゃしんきょう)の全体的(ぜんたいてき)概要(がいよう)を述(の)べることでそれに答(こた)えてみましょう。
般若心経(はんにゃしんきょう)は大般若(だいはんにゃ)菩薩(ぼさつ)の偉大(いだい)な心髄(しんずい)の真言(しんごん)によるさとりの境地(きょうち)を説(と)いたものです。文(ぶん)全体(ぜんたい)は一枚(いちまい)の紙(かみ)を満(み)たすほどもなく、簡略(かんりゃく)であって要領(ようりょう)を得(え)ており、簡約(かんやく)でありながら深遠(しんえん)です。五蔵(ごぞう)の経典(きょうてん)に





説(と)く般若(はんにゃ)のさとりの教(おし)えは『行(ぎょう)深(じん)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)』という一句(いっく)のうちにことごとく含(ふく)まれて尽(つ)きることなく、また、七(しち)宗派(しゅうは)のそれぞれの修行(しゅぎょう)の成果(せいか)は『三世諸仏依(さんぜしょぶつえ)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)』から『三(さん)菩提(ぼだい)』に至(いた)るまでの一行(いちぎょう)に、余(あま)すところなく包(つつ)みこまれています。観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)は諸(しょ)宗派(しゅうは)の修(しゅ)行者(ぎょうしゃ)を意味(いみ)し、『度(ど)一切(いっさい)苦(く)厄(やく)』『究竟(くきょう)涅槃(ねはん)』は、諸教(しょきょう)の修行(しゅぎょう)によって得(え)られる喜(よろこ)びを表(あら)わしたものです。『五蘊(ごうん)』は空間的(くうかんてき)な観(かん)点(てん)から迷(まよ)いの境界(きょうかい)を指(さ)し、『三世(さんぜ)諸仏(しょぶつ)』は、時間的(じかんてき)な観点(かんてん)からさとりの心(こころ)を示(しめ)しています。『色(しき)不異(ふい)空(くう)』などの行(くだり)は普賢菩薩(ふけんぼさつ)が、華(け)厳(ごん)に説(と)くすべてのものが完全(かんぜん)に溶(と)け合(あ)うという教(おし)えであり、『不生(ふしょう)不(ふ)滅(めつ)・・』などの行(くだり)は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の八(はっ)不正(ぷせい)観(かん)で煩悩(ぼんのう)を絶(た)つ教(おし)えといえます。『是(ぜ)故空中無色受想(こくうちゅうむしょくじゅうそう)行(ぎょう)識(しき)』などの行(くだり)は、すべてのものは心(こころ)の現(あらわ)れとする弥勒菩薩(みろくぼさつ)の教(おし)えであり、『無智(むち)亦無得以(やくむとくい)無所得(むしょとく)故(こ)』などの行(くだり)は教(おし)えを聞(き)くことによってさとる声聞(しょうもん)などの教(おし)えが仏(ほとけ)の唯(ゆ)一(いつ)の教(おし)えに帰入(きにゅう)するとする観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)の教(おし)えといえます。また、十二の因縁(いんねん)を説(と)く『無無明(むむみょう)亦(やく)無無明尽(むむみょうじん)乃至(ないし)無老死(むろうし)亦無老死尽(やくむろうしじん)』は、ものの生滅(しょうめつ)を独立(どくりつ)でさとる縁(えん)覚(かく)に教(おし)えを示(しめ)し、苦集滅(くしゅうめつ)道(どう)の四諦(したい)は苦(く)や




空(くう)などの特徴(とくちょう)による教(おし)えによってさとる声聞(しょうもん)などに知(し)らしめます。
このように、般若心経(はんにゃしんきょう)はあらゆる教(おし)えを内包(ないほう)したすばらしい経典(きょうてん)ですから、これを読(よ)み唱(とな)え、講説(こうせつ)し、供養(くよう)するならば、あらゆるものの苦(くる)しみを取(と)り除(のぞ)いて、楽(たの)しみを与(あた)え、もし、この経典(きょうてん)の教(おし)えを守(まも)り行(おこ)ない、思惟(しい)するならば、さとりを得(え)るとともに、不思議(ふしぎ)な力(ちから)さえ身(み)につけることができるのです。」

「般若心経(はんにゃしんきょう)の一句(いっく)一句(いっく)にはすべての仏教(ぶっきょう)の教義(きょうぎ)、事相(じそう)が含(ふく)まれていて、各宗派(かくしゅうは)の教(おし)えにことごとくこたえ得(う)るもののようですが、この経典(きょうてん)の教(おし)えを守(まも)り行(おこ)ない、思惟(しゆい)して、さとりを得(え)るとともに、不(ふ)思議(しぎ)な力(ちから)さえ身(み)につけるには、具体的(ぐたいてき)にどうしたらいいのでしょうか。」
「私は般若心経(はんにゃしんきょう)を五つの部分(ぶぶん)に分(わ)けています。第一(だいいち)は人(ひと)と法(ほう)とを全(ぜん)体的(たいてき)に説(と)き示(しめ)す部分(ぶぶん)として『観自在(かんじざい)』より、『度(ど)一切(いっさい)苦(く)厄(やく)』まで。第二(だいに)はもろもろの教(おし)えを分類(ぶんるい)して説(と)く部分(ぶぶん)として『色(しき)不異(ふい)空(くう)』より、『無所得(むしょとく)故(こ)』まで。第三(だいさん)は修行(しゅぎょう)した人(ひと)が得(え)る利益(りえき)を説(と)く部分(ぶぶん)として




『菩提薩埵(ぼだいさつた)』より、『三藐三(さんみゃくさん)菩提(ぼだい)』まで。第四(だいよん)はすべてが真言(しんごん)に帰(き)すことを説(と)く部分(ぶぶん)として『故知(こち)般若(はんにゃ)』より、『真実(しんじつ)不虚(ふこ)』まで。第五(だいご)は秘密(ひみつ)の真言(しんごん)を説(と)く部分(ぶぶん)として『羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)』より、『薩婆訶(そわか)』まで。この中(なか)で第一(だいいち)の部分(ぶぶん)が最(もっと)も重要(じゅうよう)な部分(ぶぶん)です。この部分(ぶぶん)も全体(ぜんたい)の立場(たちば)から因(いん)、行(ぎょう)、証(しょう)、入(にゅう)、時(じ)という五(いつ)つの要素(ようそ)を挙(あ)げることができます。まず因(いん)として、観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)は本来(ほんらい)の面目(めんぼく)としてその身(み)にそなわった仏(ほとけ)となるべき本覚(ほんかく)の菩提(ぼだい)があること。行(ぎょう)として『行(ぎょう)深(しん)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)』、つまり、奥深(おくぶか)い最高(さいこう)の完成(かんせい)された智慧(ちえ)をきちんと行(おこ)なうことができること。それによって、証(しょう)として『照(しょう)見(けん)五蘊(ごうん)皆(かい)空(くう)』
というさとりを得(え)たのです。入(にゅう)としてはその智慧(ちえ)の実行(じっこう)によって『度(ど)一切(いっさい)苦(く)厄(やく)』という結果(けっか)を得(え)ることになり、それは涅槃(ねはん)に入(はい)ることです。時(じ)とは修行(しゅぎょう)に要(よう)する時間(じかん)のことですが般若心経(はんにゃしんきょう)の教(おし)えを誦持(じゅじ)すれば他(た)の教(おし)えでは長(なが)くかかることでも、計(はか)り知(し)れない智慧(ちえ)が得(え)られて、たちどころにさとりが啓(ひら)けるのです。
 
最後(さいご)に第一を要約(ようやく)すると、





観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)は深(ふか)い完成(かんせい)された智慧(ちえ)の行(ぎょう)を修(しゅう)して
五つの集まりが実体(じったい)のないことをさとられた。
無限(むげん)に長(なが)い修行(しゅぎょう)をしている者たちも、
この修行(しゅぎょう)で迷(まよ)いを離(はな)れ、諸物(しょぶつ)の根源(こんげん)である一心(いっしん)に通達(つうたつ)することができる、
となるでしょう。」
「第一の人(ひと)と法(ほう)とを全体的(ぜんたいてき)に説(と)き示(しめ)す部分(ぶぶん)である『観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)行(ぎょう)深(しん)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)時(じ)照(しょう)見(けん)五蘊(ごうん)皆(かい)空(くう)度(ど)一切(いっさい)苦(く)厄(やく)』を 因(いん)、行(ぎょう)、証(しょう)、入(にゅう)、時(じ)、という五(いつ)つの要素(ようそ)にわけて説明(せつめい)していますが、それが最高(さいこう)最上(さいじょう)の真言(しんごん)密教(みっきょう)の秘法(ひほう)の開示(かいじ)なのですか。」

「そうです。私は『即身成仏(そくしんじょうぶつ)義(ぎ)』において二(に)経(きょう)一論(いちろん)から八箇(はっこ)の証(しょう)文(もん)を引用(いんよう)して『即身成仏(そくしんじょうぶつ)』の教証(きょうしょう)を行(おこ)なっています。
例(たと)えば、『金剛頂瑜伽修習毘廬遮那三摩地法(こんごうちょうゆかしゅうしゅうびるしゃなみまちほう)』(」)には
『まさに次(つぎ)のように理解(りかい)しなさい。密教(みっきょう)の修(しゅ)行者(ぎょうしゃ)は、自(みずか)らが金(こん)剛界(ごうかい)の大日如来(だいにちにょらい)にほかならない。自身(じしん)が金剛(こんごう)になれば、堅固(けんご)、かつ





確実(かくじつ)であり、傾(かたむ)いたり、壊(こわ)れたりすることはない。私は、そのような金剛(こんごう)の身体(からだ)となろう。』というのがあります。
また、『大日経悉地(だいにちきょうしっち)出(しゅつ)現品(げんぽん)』には
『この身(み)このままで、思(おも)うまま行動(こうどう)できる不思議(ふしぎ)な力(ちから)を得(え)て、大(おお)いなる空(くう)の境地(きょうち)において自由(じゆう)に振舞(ふるま)い、しかも聖(せい)なる身体(しんたい)を完成(かんせい)することができる。』とあって、この『大日経(だいにちきょう)』に説(と)かれている結果(けっか)功徳(くどく)は、明咒(みょうしゅ)真言(しんごん)を唱(とな)えることによって得(え)られる結果(けっか)功徳(くどく)と、法(ほっ)身(しん)仏(ふつ)の境地(きょうち)を成就(じょうじゅ)する結果(けっか)功徳(くどく)とを明(あき)らかにしています。ここにおいて大(おお)いなる空(くう)の境地(きょうち)とは、さとりの当体(とうたい)である仏(ぶっ)身(しん)は、大(おお)いなる虚(こ)空(くう)と同様(どうよう)に妨(さまた)げるものがなく、あらゆる現象(げんしょう)存在(そんざい)を包含(ほうがん)して永遠(えいえん)であることを知(し)り得(え)ている境地(きょうち)のことです。
また、『菩提(ぼだい)心論(しんろん)』には
『もし、誰(だれ)であっても、仏(ほとけ)の智慧(ちえ)を求(もと)めてさとりの心(こころ)を覚(かく)知(ち)したならば、父母(ふぼ)より授(さず)かったこの身(み)このままで、ただちに大日如来(だいにちにょらい)の境地(きょうち)を体得(たいとく)することができる。』とあります。
 これらは、人(ひと)は誰(だれ)でもその気(き)になれば『即身成仏(そくしんじょうぶつ)』できるという




教証(きょうしょう)です。そして『即身成仏(そくしんじょうぶつ)」する具体的(ぐたいてき)方法(ほうほう)が『観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)行(ぎょう)深(しん)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)時(じ)照(しょう)見(けん)五蘊(ごうん)皆(かい)空(くう)度(ど)一切(いっさい)苦(く)厄(やく)』のなかに余(あま)すところなく開示(かいじ)してあることを私(わたし)は読(よ)み取(と)ったのです。」
「即身成仏(そくしんじょうぶつ)、つまり、この身(み)このままで仏(ほとけ)であるという自覚(じかく)を持(も)つための秘法(ひほう)が読(よ)み取(と)れるというのですね。従来(じゅうらい)の仏教(ぶっきょう)経典(きょうてん)の中(なか)では、いずれも計(はか)り知(し)れない長(なが)い年月(ねんげつ)をかけて修行(しゅぎょう)し、やっと仏(ほとけ)になることが出来(でき)ると説(と)いてあります。それを、この秘法(ひほう)の解読(かいどく)によって身近(みぢか)なものに出来(でき)るのですね。」
「そもそも仏(ほとけ)の教(おし)えは、はるか遠(とお)くにあるものではありません。それは、われわれの心(こころ)の中(なか)にあって、まことに近(ちか)いものです。さとりの当体(とうたい)である真如(しんにょ)は外(そと)にあるものではないから、身体(しんたい)を捨(す)てて、どこへ求(もと)めることが出来(でき)ましょうか。迷(まよ)いとさとりは、自己(じこ)の内部(ないぶ)にあるものだから、さとりを求(もと)める心(こころ)を起(お)こせば、さとりに到(いた)ります。さとりの明(あか)るい世界(せかい)と、迷(まよ)いの暗(くら)い世界(せかい)は、自己(じこ)の外(そと)にあるのではないから、仏(ほとけ)の教(おし)えを信(しん)じて修行(しゅぎょう)すれば、さとりの世界(せかい)は、私(わたし)たちの眼前(がんぜん)にたちどころに開(ひら)けてくるのです。」




「『観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)行(ぎょう)深(しん)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多時(たじ)照(しょう)見(けん)五蘊(ごうん)皆(かい)空度(くうど)一切(いっさい)苦(く)厄(やく)』から読(よ)み取(と)れる秘法(ひほう)をわかりやすく教(おし)えてください。」

「観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)がさとりを求(もと)める原(げん)因(いん)は、もともと、観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)という尊(そん)格(かく)が般若心経(はんにゃしんきょう)の教(おし)えをよく実践(じっせん)する人(ひと)で、本来(ほんらい)その身(み)に備(そな)わっている本覚(ほんかく)の仏性(ぶっしょう)を表出(ひょうしゅつ)せんとする内的(ないてき)願望(がんぼう)から来(き)ています。次(つぎ)に、行(ぎょう)深(しん)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)とはさとりを得(え)る修行(しゅぎょう)のことですが、観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)が行(おこ)なった深遠(しんえん)な般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)の修行(しゅぎょう)とは、どんな修行(しゅぎょう)だったのかというと、『羯諦(ぎゃてい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提(ぼじ)薩婆(そわ)訶(か)』のマントラを誦(とな)えることでした。マントラ真言(しんごん)を繰(く)り返(かえ)して誦(とな)える修行(しゅぎょう)を念誦法(ねんじゅほう)といっています。その念誦(ねんじゅ)の結果(けっか)が『照(しょう)見(けん)五蘊(ごうん)皆(かい)空(くう)』ということであり、これがさとりを証(しょう)する智慧(ちえ)です。さらに、このさとりによって得(え)られる結果(けっか)が『度(ど)一切(いっさい)苦(く)厄(やく)』であり、一切(いっさい)の苦(く)厄(やく)から解(と)き放(はな)たれた涅槃(ねはん)に入(はい)ることになります。」
「観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)が、本来(ほんらい)その身(み)に備(そな)わっている本覚(ほんかく)の仏性(ぶっしょう)を表出(ひょうしゅつ)せんとする内的(ないてき)願望(がんぼう)から、『羯諦(ぎゃてい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩(ぼ)提(じ)




薩婆訶(そわか)』のマントラを誦(とな)える念誦法(ねんじゅほう)を行(おこ)なうことによって、『五蘊(ごうん)皆(かい)空(くう)』を確認(かくにん)自覚(じかく)して、その結果(けっか)、あらゆる苦労(くろう)と災厄(さいやく)から開放(かいほう)され、涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)の世界(せかい)に悟入(ごにゅう)したということですね。
 本来(ほんらい)その身(み)に備(そな)わっている本覚(ほんかく)の仏性(ぶっしょう)というのはなんですか。」

「観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)というのは旧訳(きゅうやく)においては観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)のことで、いわゆる観音(かんのん)様(さま)のことです。この観音(かんのん)様(さま)については観音経(かんのんきょう)に詳(くわ)しく記(しる)されています。観音経(かんのんきょう)は法華経(ほけきょう)のなかの観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)普門品(ふもんぼん)第二十五を独立(どくりつ)させて観音経(かんのんきょう)といっているものです。
 無尽(むじん)意(い)菩薩(ぼさつ)がお釈迦(しゃか)様(さま)に、観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)はどうして観世音(かんぜおん)と名付(なづ)けられたのか、と質問(しつもん)したのに対(たい)する答(こた)えとして次(つぎ)のように書(か)かれています。それによると――百千万億(ひゃくせんまんおく)の人々がもろもろの苦悩(くのう)を持(も)っていても、観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)の名(な)を聞(き)き、一心(いっしん)にその名(な)を唱(とな)えたならば、観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)はただちにその声(こえ)を聞(き)いて人々を苦悩(くのう)から解(と)き放(はな)ってくれる。この観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)の名(な)を心(こころ)の中(なか)にたもって、その名(な)を唱(とな)えれば、大火(たいか)や大水(おおみず)にあっても、暴風(ぼうふう)で船(ふね)が難破(なんぱ)しても、処刑(しょけい)されようとし


ても、夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)に襲(おそ)われても、罪(つみ)があって枷(かせ)や鎖(くさり)にその身(み)をつながれても、たちまち危機(きき)を脱(だっ)する事(こと)が出来(でき)る。
 また、愛欲(あいよく)に囚(とら)われても、憎悪(ぞうお)に迷(まよ)っても無知(むち)に迷(まよ)っても、つねに観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)を念(ねん)じて敬(うやま)えば、欲(よく)や怒(いか)りや愚(おろ)かさを離(はな)れることが出(で)来(き)る。――とあります。
 つぎに、無尽(むじん)意(い)菩薩(ぼさつ)は、観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)はどのようにしてこの娑婆(しゃば)世(せ)界(かい)に遊行(ゆぎょう)して、どのようにして人々(ひとびと)に教(おし)えを説(と)くのか、と質問(しつもん)します。そうすると、お釈迦(しゃか)様(さま)は――仏(ほとけ)の姿(すがた)によって救(すく)うべきものには、観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)は仏(ほとけ)の姿(すがた)を現(あらわ)して教(おし)えを説(と)く。菩薩(ぼさつ)の姿(すがた)、声聞(しょうもん)の姿(すがた)、梵天(ぼんてん)の姿(すがた)、帝釈天(たいしゃくてん)の姿(すがた)、自在天(じざいてん)の姿(すがた)、転(てん)輪(りん)聖(せい)王(おう)の姿(すがた)、毘沙門天(びしゃもんてん)の姿(すがた)、などによって救(すく)うべきものには、それぞれの姿(すがた)によって教(おし)えを説(と)く。小王(こおう)や長者(ちょうじゃ)や居士(こじ)や宰(ざい)官(かん)や婆(ば)羅門(らもん)や僧(そう)や尼僧(にそう)や信(しん)男(なん)信女(しんにょ)の姿(すがた)によって救(すく)われるものには、それらの姿(すがた)によって教(おし)えを説(と)く。医者(いしゃ)、居士(こじ)、宰官(ざいかん)、婆(ば)羅門(らもん)の妻(つま)の姿(すがた)によって救(すく)われるものには、それらの姿(すがた)によって教(おし)えを説(と)く。童男(どうなん)、童女(どうじょ)、神(かみ)や竜神(りゅうじん)や夜叉(やしゃ)や乾闥(かんだ)婆(ば)や阿修羅(あしゅら)や迦(か)楼(ろう)羅(ら)や緊那(かんな)羅(ら)や摩(ま)ご羅伽(らか)や人(ひと)や人(ひと)でないものの姿(すがた)


によって救(すく)われるものには、それらの姿(すがた)によって説(と)く。執(しつ)金剛(こんごう)神(しん)の姿(すがた)によって救(すく)われるものには、その姿(すがた)によって教(おし)えを説(と)く。この観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)はこのような功徳(くどく)を備(そな)え、さまざまな姿(すがた)となって、あちらこちらの国土(こくど)に遊(あそ)び、人々(ひとびと)を救(すく)う――とあります。
 これは、観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)の、本来(ほんらい)その身(み)に備(そな)わっている本覚(ほんかく)の仏性(ぶっしょう)の一端(いったん)を、お釈迦(しゃか)様(さま)の言葉(ことば)として書(か)かれたものだといえます。」

「観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)の、本来(ほんらい)その身(み)に備(そな)わっている本覚(ほんかく)の仏性(ぶっしょう)というのは観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)の名(な)を呼(よ)び、一心(いっしん)にその名(な)を唱(とな)えたならば、苦悩(くのう)を解(と)き放(はな)ち、たちまち危機(きき)から脱(だっ)する事(こと)が出来(でき)る。観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)を念(ねん)じて敬(うやま)えば、欲(よく)や怒(いか)りや愚(おろ)かさを離(はな)れることが出(で)来(き)る。観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)はこのような功徳(くどく)を備(そな)え、自由自在にさまざまな姿(すがた)となって、あちらこちらの国土(こくど)に遊(あそ)び、人々(ひとびと)を救(すく)うことが出来る本来(ほんらい)その身(み)に備(そな)わった本覚(ほんかく)の仏性(ぶっしょう)があるというのですね。    
 次(つぎ)に、観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)が行(おこ)なった深遠(しんえん)な般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)の行(ぎょう)とは、『羯(ぎゃ)諦(てい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)』のマントラを誦(とな)え




ることでした、とありますが、ここのところの説明(せつめい)をお願(ねが)いします。」

「本覚(ほんかく)の仏性(ぶっしょう)が本来(ほんらい)その身(み)に備(そな)わっていて、観(み)ること自在(じざい)である観(かん)自在(じざい)菩薩(ぼさつ)の行(おこ)なった深遠(しんえん)な般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)の行(ぎょう)とは、完全(かんぜん)な智慧(ちえ)による深(しん)般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)という行法(ぎょうほう)でした。そして、それは具体的(ぐたいてき)には『羯(ぎゃ)諦(てい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)』のマントラを誦(とな)えることでした。」

「『羯(ぎゃ)諦(てい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)』の解説(かいせつ)をお願(ねが)いします。」

「私(わたし)は般(はん)若(にゃ)心(しん)経(きょう)秘(ひ)鍵(けん)を書(か)いた当時(とうじ)、その中(なか)で、最初(さいしょ)の『羯諦(ぎゃてい)』は、教(おし)えを聞(き)いてさとる者(もの)、つまり、声聞(しょうもん)の修行(しゅぎょう)の成果(せいか)をあらわし、第二(だいに)の『羯諦(ぎゃてい)』は、独自(どくじ)にさとる者(もの)、つまり、縁(えん)覚(かく)の修行(しゅぎょう)の成果(せいか)をあらわし、第三(だいさん)の『波羅羯諦(はらぎゃてい)』は、法相(ほっそう)・三論(さんろん)などのもろもろの大(だい)乗(じょう)菩薩(ぼさつ)たちの修行(しゅぎょう)の成果(せいか)をあらわし、第四(だいよん)の『波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)』は、曼荼羅(まんだら)・真言(しんごん)を完全(かんぜん)に備(そな)えた密教(みっきょう)の修行(しゅぎょう)の成果(せいか)をあらわし、第五





の『菩提薩婆訶(ぼじそわか)』は、究極的(きゅうきょくてき)なさとりに入(はい)る意義(いぎ)を説明(せつめい)している、
としています。
そして、次(つぎ)のような頌(じゅ)を書(か)いています。
 真言(しんごん)は不思議(ふしぎ)なり
 観誦(かんじゅ)すれば無明(むみょう)を除(のぞ)く
一字(いちじ)に千(せん)理(り)を含(ふく)み
 即(そく)身(しん)に法如(ほうにょ)を証(しょう)す
行(ぎょう)行(ぎょう)として円(えん)寂(じゃく)に至(いた)り
 去去(ここ)として原初(げんしょ)に入(はい)る
 三界(さんがい)は客舎(かくしゃ)の如(ごと)し
 一心(いっしん)は是(こ)れ本居(ほんこ)なり              

真言(しんごん)とは不思議(ふしぎ)なものである
本願(ほんがん)を観想(かんそう)しながら真言(しんごん)を念誦(ねんじゅ)すれば根源的(こんげんてき)な無知(むち)の闇(やみ)が除(のぞ)かれる
真言の一字一字の中に、それぞれ千の理法が含まれていて
この身(み)このままで真理(しんり)をさとることができる


 『羯諦(ぎゃてい) 羯諦(ぎゃてい)」と行(ゆ)き行(ゆ)きて、静(しず)かなる涅槃(ねはん)の境地(きょうち)に至(いた)り
『波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)』と渡(わた)り渡(わた)って、彼岸(ひがん)のさとりに入(はい)る
 この現象(げんしょう)世界(せかい)はあたかも仮(かり)の宿(やど)の如(ごと)く
 自己(じこ)本来(ほんらい)の面目(めんぼく)たる一心(いっしん)こそが本来(ほんらい)の拠(よ)り所(どころ)である 」

「般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)の真言(しんごん)を五種(ごしゅ)に分(わ)けて、順(じゅん)に第一(だいいち)声聞(しょうもん)・第二(だいに)縁(えん)覚(かく)・第三(だいさん)諸大乗(しょだいじょう)・第四(だいよん)真言(しんごん)密教(みっきょう)の成果(せいか)を明(あき)らかにし、第五(だいご)真言(しんごん)
『菩提薩婆訶(ぼじそわか)』で、あらゆる教(おし)えが究極的(きゅうきょくてき)には、さとりに入(はい)ることを説(と)いているのですね。
『羯(ぎゃ)諦(てい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)』を日本語(にほんご)に訳(やく)すとどうなるでしょうか。」

「渡(わた)った、渡(わた)った、彼岸(ひがん)に渡(わた)った、彼岸(ひがん)に完全(かんぜん)に渡(わた)った、さとりだ、おめでとう。」
「完全(かんぜん)な智慧(ちえ)による深遠(しんえん)な般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)多(た)の真言(しんごん)の訳(やく)にしては物足(ものた)りない感(かん)じですね。」





「完全(かんぜん)な智慧(ちえ)の真理(しんり)とは単純(たんじゅん)なものです。彼岸(ひがん)へ渡(わた)る事(こと)を最終(さいしゅう)目的(もくてき)とする人々(ひとびと)にとっては、この真言(しんごん)こそが最良(さいりょう)のものです。仏教(ぶっきょう)においては『五蘊(ごうん)を空(くう)と照(しょう)見(けん)して一切(いっさい)の苦(く)厄(やく)を度(ど)し、涅槃(ねはん)の境地(きょうち)へ至(いた)ること』、つまり、『悟(さと)ること』を『彼岸(ひがん)へ渡(わた)る』とたとえていますから、悟(さと)るため、『彼岸(ひがん)へ渡(わた)る』ための真言(しんごん)は『渡(わた)った渡(わた)った、彼岸(ひがん)へ完全(かんぜん)に渡(わた)った、おめでとう。』でいいのです。」

「彼岸(ひがん)へ渡(わた)る事(こと)を最終(さいしゅう)目的(もくてき)とする人々(ひとびと)にとっては『渡(わた)った、渡(わた)った、彼岸(ひがん)へ完全(かんぜん)に渡(わた)った、おめでとう。』でいいということは、自己(じこ)を探究(たんきゅう)し、涅槃(ねはん)の境地(きょうち)へ至(いた)るさとりを得(え)るためにはこの真言(しんごん)でいいということですね。それは、日常(にちじょう)の願望(がんぼう)を達成(たっせい)するためには、これとは別(べつ)の真言(しんごん)があるという意味(いみ)に理解(りかい)してもいいのでしょうか。」

「これは、自己(じこ)を探究(たんきゅう)し、智慧(ちえ)と慈悲(じひ)を実践(じっせん)する高度(こうど)な修行(しゅぎょう)の技(ぎ)法(ほう)として、尊重(そんちょう)されてきたものですが、観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)のさとりである『照(しょう)見(けん)五蘊(ごうん)皆(かい)空(くう)』がなされたならば、この技法(ぎほう)を日常(にちじょう)生活(せいかつ)におけ


る願望(がんぼう)の達成(たっせい)にも大(おお)いに使(つか)っていいのではないでしょうか。」

「この技法(ぎほう)を日常(にちじょう)生活(せいかつ)における願望(がんぼう)の達成(たっせい)に使(つか)う場合(ばあい)、どのようにすればよいのでしょうか。」

「彼岸(ひがん)へ渡(わた)る事(こと)を最終(さいしゅう)目的(もくてき)とする人(ひと)の真言(しんごん)は『渡(わた)った、渡(わた)った、彼岸(ひがん)に渡(わた)った、彼岸(ひがん)に完全(かんぜん)に渡(わた)った、さとりだ、おめでとう。』でした。これを参考(さんこう)にすれば、たとえば、病気(びょうき)が治(なお)りたい人(ひと)の真言(しんごん)は『治(なお)った、治(なお)った、元気(げんき)になった、元気(げんき)が完全(かんぜん)に回復(かいふく)した、おめでとう』というような意味(いみ)合(あ)いを持(も)つものにすればいいのではないでしょうか。」
「真言(しんごん)マントラを自分勝手(じぶんかって)に作(つく)っていいものでしょうか。」
「本来(ほんらい)、マントラとは、師(し)が弟子(でし)の修行(しゅぎょう)の達成度(たっせいど)に応(おう)じて伝授(でんじゅ)するものでした。奥義(おうぎ)に到(とう)達(たつ)し、自己(じこ)本来(ほんらい)の面目(めんぼく)を自覚(じかく)した師(し)がいて、まだ、自覚(じかく)し得(え)ない弟子(でし)に、その奥義(おうぎ)に達(たっ)するためのマントラを授(さず)け、そのマントラを誦(とな)えることにより、マントラを誦(とな)える人(ひと)の魂(たましい)が揺(ゆ)


さぶられるという体験(たいけん)の中(なか)において、マントラは意義(いぎ)を持(も)つものでした。
しかし、私(わたし)という一(いち)人間(にんげん)が『虚空蔵求聞持法(こくうぞうくもんじほう)』に新(あたら)しい工夫(くふう)を自(みずか)ら施(ほどこ)して、つまり、わたし独自(どくじ)の『虚空蔵求聞持法(こくうぞうくもんじほう)』によって、自己(じこ)の目的(もくてき)を達成(たっせい)することが出来(でき)、ここに、自(みずか)らが大日如来(だいにちにょらい)と同(おな)じ創造(そうぞう)力(りょく)を持(も)った存在(そんざい)なのだという自覚(じかく)を持(も)つに至(いた)ることへの光明(こうみょう)を見(みい)出(だ)した時(とき)以来(いらい)、『幾多(いくた)の仏典(ぶってん)書物(しょもつ)を読(よ)み漁(あさ)り、唐(とう)にまで渡(わた)って求(もと)めたところ、真言(しんごん)密教(みっきょう)に人間(にんげん)の根本的(こんぽんてき)あり方(かた)を見出(みいだ)したのです』と以前(いぜん)に述(の)べたように、根本的(こんぽんてき)あり方(かた)としての人間(にんげん)は、自(みずか)ら、自(みずか)らのマントラ真言(しんごん)によって、自己(じこ)を創造(そうぞう)していくことが出来(でき)る存在(そんざい)なのだという確信(かくしん)を持(も)って以来(いらい)、マントラは、師(し)や仏典(ぶってん)から伝授(でんじゅ)されるだけのものではなく、その人(ひと)の願(ねが)いに合(あ)わせて、その人(ひと)が思(おも)うとおりの言葉(ことば)を、自分(じぶん)で自分(じぶん)のマントラ真言(しんごん)にしていいのだ、と思(おも)うようになりました。その言(こと)挙(あ)げが私(わたし)の書物(しょもつ)の書(か)き方(かた)だったのです。そして、その集大成(しゅうたいせい)ともいえるものが『般若心経秘(はんにゃしんきょうひ)鍵(けん)』であったわけです。」









       
制作  吹田市天道町二の三 中島牧人
                

コメント(6)

なかなか書き込みないですね。
それだけ、奥が深いってことですかね?
楽しみにしているので、よろしくお願いいたします(^0^)
http://www.jin.ne.jp/yuraku/

↑の掲示板からのコピペです。奥が深いんじゃなくってスルーしてるだけですよ。本人がカキコんでるならまだしも、コピペじゃ議論も何もありません。

『般若心経』でしたら、こちらをお読みになると楽しいですよ。
「般若心経を語ってみよう」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6707940&comm_id=226474
書き込みがないのでというので書き込ませてもらいます。

内容うんぬん以前に正直読みにくいです。
最初の方を読んだだけで読む気を無くしてしまいました。

解釈等への意見ではなくてすみませんが、
カッコ付けされている読み方を無くして
書きなおさない限りは「読んでもらう」ことも
難しいかもしれません。
般若波羅密多は無上大智慧という意味です。
智慧には宗派無し、国境無し、融合一切宇宙自然、、、、
と私は思っています。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

仏教を楽しむ会(^^) 更新情報

仏教を楽しむ会(^^)のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング