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記紀研究会コミュの『古事記』『日本書紀』の本当の問題点

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現在の古代史学は、いたずらに『古事記』『日本書紀』を否定することから始めています。
考古学者の森浩一氏も「記紀を読む学者は学者とは言えない風潮が永く続いたと言っています。
教育の反日化は早くから指摘されてきましたが、マスコミのそれは朝日、毎日、フジでようやく表面化してきました。

ひとり古代史研究だけが旧態前のままです。
それがために未だにわずか二千年前の建国史が解けぬままです。
『古事記』『日本書紀』の解説本が続々と出版されているのは、古代史ファンが本物を求め、従来の史観に見切りを付け始めた表れです。
そこであらゆる先入観を廃し、虚心坦懐に『記紀』を読んだときに、浮かび上がってくる純粋な問題点を、指摘し論じ合いたいと思います。

コメント(38)

「いうまでもなく、天皇による日本支配の正当性を説明するために書かれたものが『記・紀』だからである。」
(直木孝次郎氏 古代史学者 大阪市立大学名誉教授)
この直木氏の史観が現在の古代史の通説です。

しかし、「日本支配の正当性を説明するため」と言われるのは、次の一文です。

「豊葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾(いまし)皇孫、就(ゆ)きて治らせ。行矣(さきくませ)。
宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当に天壌と窮(きわまり)り無かるべし。」(日本書紀)

有名な「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅」です。
なぜ有名かと言えば、天皇による統治を正当化するために、『皇国史観』がこれを取り上げたからです。
しかし、この「天壌無窮の神勅」は本文ではなく、一書のひとつにある文です。
『日本書紀』の神話部分は「一書にいわく」として別伝を載せています。
その中の一文で、本文にはありません。

したがって、あの『皇国史観』でさえ、天皇の正当性を示すものを、本文の中には見い出すことができなかったということです。
これはつまり「『記紀』は天皇家のために書かれたものではない」ことを証している、と見ることができます。
「天壌無窮の神勅」は、皇孫ニニギ尊が九州へ降臨するときに、天照大神が与えた言葉です。(日本書紀 一書)

『日本書紀』本文は、この時の様子を次のように書いています。
「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと=高木神)、真床追衾(まどこおふすま)を以て皇孫ニニギ尊を覆ひて、降りまさしむ。」

天照大神は何も言葉をかけていません。

同様に『古事記』は
「(天照大御神、高木命は)ニニギ尊におほせて、この豊葦原水穂国(とよあしはら・みずほのくに)は、汝、知さむ国なり。」です
現在の戦後史観は、皇国史観を否定することから始まり、返す刀で「天壌無窮の
神勅」があるが故に、『古事記』『日本書紀』は天皇家が己の正統性を主張するために書かせたものである、という結論に至っています。

肯定するにしても、否定するにしても、『日本書紀』の本文でないものを金科信条にしている限り、その確かさに何ほどの差異もありません。
40代天武天皇(631-686)の時に、天皇の権力が頂点に達したという説があり、
そのため、そのとき企画された『日本書紀』は、天皇家の正当性を主張するために書かれたと言われています。

天武10年(681年)に、『日本書紀』編さんの詔があったと言われています。
完成したのは720年です。
ときの天皇は天武ではなく44代天皇(女性)でした。

天武天皇が崩御した(686年)後、皇后が41代天皇に即位しましたが、次の42代天皇は天武の孫です。
その孫の後は母、娘と皇位が継がれました。
42代だけが男性天皇であり、41、43、44代はみな女性天皇です。
前の天皇から見れば、41妻(女)ー42孫(男)ー43母(女)ー44娘(女)と皇位が継がれていきました。
この間に『日本書紀』は書かれています。

そして、この期間はちょうど藤原不比等(659-720)の台頭ー全盛期に当たります。
次の藤原四子政権と呼ばれた四兄弟(南家・北家・式家・京家)は、不比等の息子たちです。
42代天皇は男性天皇でしたが即位したときは弱冠15才で、しかも25才で亡くなっています。
したがって、女性天皇と幼帝の御代に編さんされた『日本書紀』を、天皇家の権力が頂点に達した時に書かれた、というのは事実とは大いに反します。
40代天武天皇(631-686)は、2人の皇子、4人の皇族と上毛野君(かみつけぬのきみ)、忌部連(いんべのむらじ)、阿曇連(あづみのむらじ)、難波連、中臣連、平群連(へぐりのむらじ)に編さんを命じています。

上毛野君は群馬・栃木地方を中心に東国を支配した氏族で、東国の巨大古墳はこの氏によるものと言われています。
忌部連は中臣氏と共に神祭りに携わり、
阿曇連は海防を任とした氏族で、
難波連は高麗から来た渡来氏族です。
そして実際に筆を執って書いたのが、中臣連と平群連です。
『古事記』は25代武烈天皇(489-507)について、ほとんど何も書いていません。
「子がいなかったので、御子代として、小長谷部を定めた。」というだけです。

ところが、これが『日本書紀』には、天皇の対する罵詈雑言が並んでいます。
・しきりにいろいろな悪事を行われた。ひとつも良いことはせずに、様々な極刑を親しくご覧になった。
・妊婦の腹を割いて胎児をみられた。
・生爪を抜いて、山芋を掘らせた。
・人を樹に登らせ、樹を切り倒して、落とし殺して面白がった。
・人を池から流させ、矛で刺し殺して喜んだ。
・樹に登らせて、弓で射落とし笑った。
・女性たちを裸にし、その面前で馬に交尾をさせ、女性の陰部を調べてうるおっている者は殺した。
・美食を口にし、天下の民の飢えるのを忘れた。
・女たちと酒におぼれた。

なぜこのようなおよそ国史書に相応しくないことまでが書かれたのか。
その理由は平群氏の祖の平群鮪臣(へぐり・しびのおみ)が武烈天皇の命により殺害されたからです。(日本書紀)

これを『日本書紀』の筆を執った平群氏が書くことができたのは、この時(7、8世紀)天皇家の力が地に落ちていたからです。
したがって、この一件だけで、「『記紀』は天皇家が書かせた」という説がデタラメであることが判ります。
25代武烈天皇に滅ぼされたのは、平群真鳥(まとり)、鮪(しび)父子でした。訂正します。
その子孫の平群氏が『日本書紀』の執筆に関わり、200年前に先祖を誅した天皇をこの様にボロカスに書くことができました。
これは『日本書紀』は天皇家による統治の正当性を証明するためのものではなく、天皇家が書かせたものではないということの証です。

25代武烈だけではなく、19代允恭(いんぎょう)、21代雄略も、「愚か」「すぐ人を殺す悪い天皇」と書かれています。
この19代と21代は父子です。
間の20代も19代の子であり、21代の兄ですが、即位からわずか3年で暗殺されています。
実は20代の上にも兄が居り、皇太子の位にあったのですが、死に追いやられています。
「愚か」「人殺し」と書かれた19代、21代に共通しているのは、5世紀の有力豪族である葛城氏の者を滅ぼしていることです。
天皇に即位はしていませんが、26代継体天皇の孫の穴穂部皇子も「喪に服していた31代天皇の皇后を犯そうとした。」「天下を狙った」と悪く書かれています。
この穴穂部皇子はやはり三輪氏の有力者を殺害しています。

前に書いた21代雄略天皇も、葛城氏だけではなく三輪氏の者も殺害し、そのうえ葛城氏の神を土佐国に配流しています。
後の47代天皇の時(764年)に賀茂氏の要請によって、配流された神が再び葛城の地に戻されていますが、この賀茂氏は三輪氏の同族です。
三輪氏はスサノオ命ー大国主命の末裔であり、葛城氏の神も出雲神です。
葛城氏とは賀茂氏(三輪氏)であったと考えられます。

このように、『日本書紀』に悪く書かれた天皇・皇族に共通することは、出雲氏族三輪氏と争ったということです。三輪氏は中臣氏が台頭する直前の時期の最大の権力者です。それはまさに『古事記』『日本書紀』が編さんされている時でした。
ただし、25代天皇が誅した平群氏と三輪氏との関係は不明です。
出雲氏族三輪氏のことを念頭に置き、改めて『古事記』『日本書紀』を読んでみると、神話の3分の1までもが出雲神話です。

そして、『古事記』の序文に「二霊群品の祖となれり」とあります。
二霊とはイザナギ尊、イザナミ尊の二神のことであり、群品の祖とはあらゆるものの元であるということです。
イザナギ尊、イザナミ尊は皇祖天照大神と出雲氏族の祖スサノオ命の親神です。

もし『古事記』が一般に言われているように、天皇家が書かせたものであるのなら、ここは「皇祖天照大神は群品の祖となれり」と書くはずです。
10代天皇の事跡のメインは、三輪山(奈良県桜井市)に三輪氏の祖が出雲神を祀った話です。(大和国一宮)
天皇の名は崇神(神を崇める=すじん)です。

『古事記』『日本書紀』は2代から9代天皇の事跡を省略しています。
そして、10代天皇にハツクニシラス(初めて国を治めた)という称号を付けています。
まるで初代から9代までの天皇は、架空の存在であり、日本の歴史は三輪氏から始まった印象を受けます。

また伊勢神宮内宮(ないくう)の祭神は皇室の祖の天照大神ですが、外宮(げくう)は出雲神です。この外宮は内宮への道をふさぐように位置しています。
10代天皇紀には『日本書紀』編さんに携わった毛野氏の登場談が書かれています。
毛野氏の祖の豊城(とよき)命は11代天皇の兄です。

ある日天皇がこの兄弟に向かって「どちらに皇位を継がせて良いか判らないので、二人が見た夢で判断する。」と告げました。
兄の豊城命は『三輪山』に登り東に向かって槍と刀を掲げた、と言いました。
弟はこれもやはり『三輪山』に登って四方に縄を張りました、と言いました。

この兄弟の夢を聞いた天皇は、兄に東国を治めさせ、弟に皇位を継がせました。
『日本書紀』の編さん者のひとりである阿曇(あづみ)氏が歴史に登場するのは、神功皇后による「三韓征伐」(4世紀)以降です。
他の豪族と比べるとかなりの後発ですが、それでも天皇家よりも古いと書かれています。
祖神は海神(わたつみ)です。(天照大神の前にイザナギ・イザナミ神から生まれた。)

海神を祀る摂津国一の宮住吉大社(大阪市住吉区)は、古文書によれば三輪氏から多大の寄進を受けています。
また但馬国一の宮粟鹿(あわか)神社(兵庫県朝来市)の古文書には、社家は三輪氏であり「三韓征伐」に従軍したとあります。
『日本書紀』にも大三輪社を立てて兵を集めたと書かれています。
この大三輪社は現在の大己貴(おおなむち)神社(福岡県朝倉郡筑前町)です。

阿曇は「安曇」「安積」「渥美」「熱海」などとも表記されますが、
「安積(あつみ)」は「あさか」とも読むことができ、「あさか」が「粟鹿(あわか)」「朝来(あさこ)」「朝倉(あさく・ら)」に転訛したと考えられます。
このように深い関わりがあった三輪氏と阿曇氏は、本家と分家の関係であったのではないかと思われます。
藤原不比等の母親は毛野氏の同族(車持氏)の出身です。
毛野氏は上野(かみつ・けの)国、下野(しもつ・けの)国に栄えた氏族です。
上野国は現在の群馬県、下野国は栃木県にあたります。

上野国の群馬郡(くるまのこおり)にある伊香保神社(名神大社)には出雲の大国主命を祀っており、美和神社(群馬県桐生市宮本町)という神社もあります。
下野国にも大神(おおみわ)神社、三和神社があります。
上野国も下野国も出雲神信仰の強いところです。

毛野氏の始祖の豊城(とよき)命は、上野国・下野国以外にも、近江国(滋賀県)の二社(下新川神社、大荒比古神社)に祀られています。

長野と群馬を結ぶ街道沿いに、志賀高原、草津温泉、伊香保町の地名が並んでいますが、志賀高原=滋賀、草津温泉=草津市、伊香保町=伊香郡と遠く離れた滋賀県の地名と類似しています。

近江国伊香郡にある伊香具神社(名神大社)は藤原氏の祖を祀り、藤原不比等も淡海(近江)公と呼ばれるほど、近江国と深い関係がありました。
そして、不比等の母親の車持氏は群馬郡(くるまのこおり 群馬県渋川市)との関係が考えられます。
前回に豊城(とよき)命を祀る神社が、近江国(滋賀県)に二社あると言いましたが、正しくは四社(式内社)です。
訂正します。

豊城(とよき)命を祀る神社は、伊勢国(三重県)にも二社あります。
麻績(おみ)神社(多気郡明和町)と仲神社(松阪市井口中町)です。
その東が伊勢市小俣町明野(あ・けの)です。(豊城命は毛野氏の祖)

10代天皇に三輪氏の祖を推薦したのは、伊勢麻績君(いせの・おうみ・のきみ)という氏族です。(日本書紀)
伊勢国の麻績(おみ)神社の祭神が、豊城命なのですから、伊勢麻績(おうみ)君とは毛野氏のことです。
そして、近江国に豊城命を祀る神社が四社もあるのですから、近江とは麻績のことです。

麻績神社は「おみ」と読みますが、近江国伊香郡の乎彌(おみ)神社は、藤原氏の祖を祀っています。
藤原不比等の母親は毛野氏の一族でした。
よく社家とその神社の祭神との間には、何等の関係がないと言われます。
稲荷、八幡、神明、天神、春日などは後世の新興宗教であるのでその通りなのですが、それ以外は社家とはその祭神の子孫であると考えます。

なぜ関係がないという説が唱えられるかと言えば、それは祭神が神話上の架空の人物であると思っているからです。しかし、神話は史実を核にして戯曲化されたものです。すべてが本当であるとは言えませんが、その中心となるあらすじを疑う根拠がありません。なぜなら神話も含めて『記紀』は、天皇家がその正統性を主張するために書かせたものではないからです。

まして神ではなく10代天皇の皇子だという豊城命を祀るのは、その子孫に限られることは言うまでもありません。
この豊城命を祭神とする神社は、子孫の毛野氏が居た関東地方以外では、近江と伊勢の他にはあまり見当たりません。ですので、近江と伊勢には毛野氏(または同族)が居たと断定できます。
近江国伊香郡の乎彌(おみ)神社は、藤原氏の祖と共に阿曇氏の祖神の海神(わたつみ)も祀っています。

阿曇(あづみ)氏の本拠地は、筑前国糟屋(かすや)郡だと言われています。
現在の福岡市です。
そこには海神(わたつみ)を祀る志賀海(しかうみ)神社(名神大社)が鎮座しています。

九州以外では、近江国の安曇(あど)川、美濃国の厚見(あつみ)郡、三河国の渥美(あつみ)半島、信濃国の安曇(あずみ)郡などの地名が残っています。
志賀海神社は昔は「しかの・わたつみ神社」と読まれていましたが、その志賀に焦点を合わせれば、播磨国餝磨(しか・ま)郡(姫路市)、近江国滋賀郡(大津市)があります。
伊勢国との関係はあまり言われませんが、阿曇は「安積(あつみ)」とも書き、「あさか」とも読むことができます。
松阪市に大阿坂(おおあざか)町があります。
ここの阿坂神社は伊勢国に二社しかない式内大社のひとつであり、猿田彦神が亡くなった所と『古事記』に書かれていますので、古代から栄えた所です。
そして、ここは毛野氏の麻績(おみ)神社(多気郡明和町)から、わずか十数?しか離れていません。
毛野氏と海神を祀る阿曇氏との関係を述べてきましたが、麻績(おみ)神社(三重県多気郡明和町)の小字名も「中海」と海が付きます。
伊勢神宮が鎮座する東の旧度会(わたらい)郡の「度」も、「海(わた)」に由来すると考えられます。

さらその東の牡蠣の産地である鳥羽市浦村の浦神社には、安曇別命を祀られています。
その浦村から「麻生の浦大橋」を渡ったところは石鏡(い・じか=志賀)です。
「麻生」は「あそう」と読みますが、麻績の「麻(あさ)」「安積=阿坂(あさ・か)」が転訛したものと思われます。
ここから島伝いに伊勢湾を横断すれば、渥美(あつみ)半島に到ることができます。

阿曇氏の本拠地は筑前国糟屋(かすや)郡の志賀海(しか・うみ)神社と言われていますが、旧度会郡の伊勢市にも鹿海町の地名があります。
伊勢神宮内宮を流れる五十鈴川の下流です。
伊勢市柏(かしわ)町には加須夜(かすや)神社があります。祭神は出雲笠夜(いずも・かさや)命で、島津(志摩)国造家の祖です。
浦神社のある鳥羽市も志摩国に含まれます。
こうしてみると、大阿坂町のある松阪市から、鳥羽市までの間に阿曇氏の形跡が見られますが、この地域のほとんどは伊勢神宮の神郡と重なります。

毛野氏が居た下野国(しもつ・けの国=栃木県)の隣の福島県郡山市(旧安積郡)にある安積(あさか)国造神社は、伊勢神宮外宮の父神を祀っています。
また伊勢神宮内宮の神官は藤原氏の同族の中臣氏です。
このように「毛野氏 ー 阿曇氏 ー 中臣氏」は、福岡、滋賀、三重、群馬にわたって幾重にもその足跡が重なっています。
外宮に伝わる古文書に「神官の度会(わた・らい)氏が越国の賊を討った。」とあります。
度会氏は、毛野氏、阿曇氏の足跡が見られる神郡(三重県松阪市〜伊勢市)の郡長も務めています。

遠征した越国とは越中・越後地方のことです。
その能登半島(石川県)に羽咋郡志賀町がありますが、「志賀」は阿曇氏の本拠地である志賀海神社の志賀と同じです。
しかも、志賀町には安津見(あつみ)の地名もあります。

新潟県上越市の居多神社の社家も毛野氏です。
さらに佐渡国一の宮は度津(わた・つ)神社と言います。
前に藤原氏ー毛野氏ー安曇氏ー三輪氏の関係を述べましたが、ここでもそれを見ることが出来ます。

石川県羽咋郡志賀町安津見の10Km南に能登国一の宮の気多大社がありますが、ここには出雲氏族三輪氏の祖の大国主命が遠征したと伝わっています。
新潟県上越市の居多神社(社家は毛野氏)の元社地は身輪(三輪)山にありました。
毛野氏は上野国、下野国に大国主命を祀っています。
佐渡国一の宮度津(わた・つ)神社の祖は、出雲神のイソタケルです。
安曇氏の祖の阿曇磯良はイソタケルのことだと言われています。
毛野氏の拠点があった群馬県前橋市、栃木県宇都宮市から利根川、鬼怒(きぬ=毛野)川を下れば中臣氏が社家を努めた鹿島神宮に到ります。
藤原不比等の妻は三輪氏の同族の賀茂氏です。

「藤原氏ー毛野氏ー安曇氏ー三輪氏」の関係は幾重にも繋がっています。
これらが同じ氏族であれば、古代史を一気に解明することができます。

『大鏡』は850年から1025年までの藤原氏の栄華を綴った史書です。
そこに始祖の中臣鎌足(669没)は、常陸国(茨城県)に生まれたとあります。
そして常陸国一の宮鹿島神宮の社家は中臣氏です。

鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)は利根川の河口に位置しています。
この利根川をさかのぼれば、毛野氏の本拠地があった群馬県前橋氏、途中から支流鬼怒川を上れば同じく栃木県宇都宮市に到ります。

古代は関東一帯に毛野氏の勢力が伸びていたと言われています。
鎌足の子の藤原不比等の母親も毛野氏一族です。
毛野氏は新潟県上越市の居多神社から、長野市、軽井沢を通って群馬(くるま)郡(群馬県前橋市)の線上に拠点を設けました。そして、前橋市から利根川を下れば、中臣氏の鹿島神宮(茨城県)に到ります。

この上越市ー茨城県鹿嶋市のラインは、地図を見れば一目瞭然ですが、日本海側から太平洋側に抜ける街道を構成しています。毛野氏が群馬に居た理由も解ると思います。
これは近江国(滋賀県)も同じ条件です。
中臣(藤原)氏は天児屋根命の子孫を称していますが、『古事記』『日本書紀』にはこの神はいっこうに出てきません。「天岩戸」と「天孫降臨」の箇所で申し訳程度に名を連ねているだけです。
『日本書紀』は藤原不比等の全盛期に書かれ、中臣氏もその編纂に直接かかわったのですから、ここはもっと盛大に脚色されて然るべき処です。

次に中臣(藤原)氏の祖の名が出るのは、「神武東征」の際に天皇一行が宇佐(大分県宇佐市)に寄り、そこで祖の天種子が宇佐の姫を娶ったという記事です。
天種子という名はおよそ人名とは思われないものです。
なぜなら三輪氏の祖の大田田根子は大田命とも呼ばれますので、「天」と「田根子=種子」は尊称である考えられるからです。
ちなみに宇佐神宮の社家は三輪氏一族の大神氏です。

また藤原氏の春日大社に天児屋根命が祀られたのは、創建から58年も後のことでした。それに平安京の上賀茂・下鴨神社には祀られていません。
どうも藤原氏の祖が天児屋根命であるというのは詐称のように思われます。
『山城国風土記』には、賀茂大神は大和の葛城から遷されたとありますが、葛城氏は三輪氏の同族の賀茂氏のことです。
中臣(藤原)氏が春日大社(奈良市)に祀ったのは、建御雷(たけみかづち)神です。
この神は三輪氏の大田田根子が自分の先祖だと言っています。(古事記)
そして、三輪山頂上の神坐日向(みわにます・ひむか)神社にも祀られています。

都が藤原京から平安京に遷都されたとき(710)、中臣氏が社家を努める鹿島神宮(茨城県)から、春日大社に建御雷(たけみかづち)神が勧請されたと言いますが、一地方の神を持ってくるはずもなく、これは三輪山頂上から遷されたものと思われます。おそらく三輪氏が祀っていた神を中臣(藤原)氏が引き継いだことを表向きにすることができなかったからだと考えられます。
伊勢神宮外宮に伝わる古文書によれば、内宮も外宮も神主は度会氏であるとしています。しかし、内宮の古文書は禰宜(神主)は荒木田氏であると書いています。荒木田氏は祖を天児屋根命する中臣氏の同族です。

度会氏が奉じる外宮の祭神は出雲神です。
外宮の前も古くは蓑曲郷(みの=みのわ=三ノ輪=三輪)です。

『三韓征伐』で葛城襲津彦(そつひこ)という者が活躍しています。前に書きましたが葛城氏は三輪氏の同族の賀茂氏です。
淡路島(兵庫県洲本市)の賀茂神社にも襲津彦が祀られていますが、その姓は葛城ではなく荒木田襲津彦です。
古代の博多湾は太宰府辺りまでありました。その後方(南)に備えている高良大社(久留米市)にも荒木田襲津彦の名が出てきます。縁起に高良をもって「藤大臣と号す」とありますが、中臣(藤原)氏の祖に雷大臣(対馬 雷命神社祭神)が居ます。

高良大社の北は上座(かみつ・あさくら)郡・下座(しもつ・あさくら)郡があり、美奈宜神社(名神大社 朝倉市)には出雲神が祀られています。
筑紫神社(名神大社 筑紫野市)の祭神も出雲神です。
太宰府天満宮の菅原道真も出雲臣出身であり、博多住吉神社(名神大社 福岡市)の社家も三輪氏一族です。
東の宗像大社社家の宗像氏も三輪氏一族です。
博多平野一帯は出雲勢力の支配下にあったと考えられます。
高良大社(名神大社)のある久留米は、毛野氏一族の車(群馬郡)であるのかも知れません。17代天皇紀に車持氏が筑紫国(福岡県)に居たとあります。

毛野氏が居たと思われる麻績(おみ)神社(三重県多気郡明和町)の櫛田川対岸の櫛田神社が、博多に勧請されて鎮座したのが櫛田神社(福岡市博多区)です。祭神は外宮神官度会(わた・らい)氏の祖です。この祖は太宰府天満宮にも祀られています。

壱岐島の壱岐氏は三輪氏の宗像大社の側に、織機神社(名神大社)を立て、海神を祀っています。
『魏志倭人伝』はその壱岐島を一支国と表記していますが、伊勢神宮外宮の前も一志町(伊勢市)です。
また宗像大社の社家宗像氏は三輪氏一族ですが、三重県旧一志郡(阿坂神社のある松阪市)を治めていたの和邇(わに)氏の同族です。
北九州と伊勢国の類似

壱岐国(一支国) ーVSー 伊勢神宮外宮(一志町)
博多神社・太宰府天満宮祭神 ーVSー 外宮神官度会氏の祖(大幡主命)
志賀海神社社家(安曇氏) ーVSー 阿坂神社(松阪市)、鹿海町(伊勢市)、浦神社(鳥羽市)
糟屋郡(志賀海神社) ーVSー 加須夜神社(伊勢市)
太宰府天満宮祭神(出雲臣) ーVSー 加須夜神社祭神(出雲笠夜命)
安曇氏祭神(海神) ーVSー 外宮神官(度会氏)
久留米(群馬=車) ーVSー 伊勢麻績君(毛野氏=車持氏)
筑紫神社祭神(イソタケル) ーVSー 外宮神官度会氏(旧磯部氏)
秦王国(福岡県香春市) ーVSー (大幡主命)外宮神官度会氏の祖
宗像氏(三輪氏の支族) ーVSー 旧一志郡(松阪市)の和邇氏(三輪氏の支族)

イソタケルの子孫を称する三輪氏が伊勢国を支配した後、度会氏、毛野氏、安曇氏、和邇氏などに分かれ、神功皇后の「三韓征伐」(4世紀末)に乗じて北九州に勢力を伸ばしました。
このことが1世紀に行われた神武天皇の東征と混同して考えられています。



伊勢国度会郡地方を治めた度会(わた・らい 旧姓=磯部)氏は、地方の一豪族に過ぎなかったというのが通説ですが、自らが伝えるところによれば、皇祖神を祀る伊勢神宮内宮の禰宜をも務め、天皇の命を受けて越国(越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)に遠征しています。

加賀・能登・越中・越後国には、度会氏の旧姓である「磯部(石部)」の名を冠した神社と地名が複数残っています。また度会氏の祖を祀る神社も存在しています。
さらに筑前国の櫛田神社と太宰府天満宮にも、度会氏の祖が祀られています。

このように石川・富山・新潟県と福岡県の広範囲に、その足跡を残し得たのは、皇祖神を祀る神宮の禰宜を務めたことと考え合わせて、地方の一豪族が持つ権力を遙かに超えていたことを窺わせます。

度会氏が奉祭する伊勢神宮外宮の祭神は、出雲神スサノオの子神ですが、
佐渡国一の宮度津(わた・つ)神社と、筑紫国名神大社の筑紫神社の祭神も、出雲神スサノオの子神イソタケルです。
その共通点から、度会氏の旧姓の磯部氏は、イソタケルの「イソ」ではないかと類推することができます。
皇祖神を祀る伊勢神宮内宮が鎮座する伊勢市の二見町に松下社という神社があります。場所は五十鈴川の河口(右岸)です。
ここに『蘇民(そみん)将来伝説』が伝わっています。
蘇民将来とは人名で、出雲神スサノオに宿を貸した者です。この時宿を貸さなかった村人はスサノオによって皆殺しにされたという言い伝えです。

松阪市以南の旧神郡(多気郡、度会郡、伊勢市)地方は、今でも玄関先に『蘇民将来子孫家』の札が付いた注連飾りを一年中掲げています。
(『笑門』という札はこれから派生したものです。)
これの意味するところは、わが家は出雲神を祀ります(=天照大神を祀りません)ということです。

松下社のある二見町は磯部氏の領地でした。ここはちょうど五十鈴川をさかのぼって内宮へ到る水路の入り口です。
陸路は磯部(度会)氏が出雲神を奉祭する外宮の前を通っています。
もうひとつだけ内宮へ近づく南からの道がありますが、そこは志摩市磯部町です。

つまり皇祖神を祀る内宮は、磯部氏によって道を塞がれていたことになります。
明治時代まで歴代天皇は誰一人として伊勢神宮内宮を訪れていません。
「伊勢神宮内宮が磯部氏によって隔離されていた。」という説は、誰も今まで聞いたことがないと思います。
後にも先にも私しか言っていないからです。
しかし、間違いがないと確信しています。

内宮の手前に猿田彦神社がありますが、そこの社家宇治土公氏も元は磯部氏です。
現在外宮から内宮へ行く道は3本在りますが、江戸時代までは古市町(伊勢市)を通る道の1本だけでした。
その道は尾上町で勢田川を渡りますが、以前(安土桃山時代)は北の岩渕町で渡河していました。その渡河した地点にあったのが、度会(磯部)氏の墓地です。現在は妙見堂というお堂になっています。
死を忌み嫌う神道から見れば、こんな不遜なことはありません。
天武天皇の御代以降に内宮禰宜を務めた荒木田氏は、その祖を中臣氏と同じく天児屋根命であるとしています。
それ以前は、度会氏がみずから伝えるように、度会氏が内宮と外宮の禰宜職を占めていました。

伊勢神宮は内宮・外宮の大宮を含め125社の神社の総称です。
そのうちの一社である大間国生神社(伊勢市常磐町)には、度会氏の祖である大若子命が祀られています。
ところが荒木田氏の祖である天児屋根命はどこにも祀られていないのです。あれほど権勢を誇った藤原氏の同族であるのに、祖を祀らなかったのは不自然なことです。
前回大間国生神社(JR山田上口駅南)に、度会氏の祖の大若子(おおわくご)命が祀られていると書きましたが、この人物は櫛田神社(福岡市博多区)、太宰府天満宮摂社(福岡県太宰府市)、御馬神社(金沢市久安1)にも祀られています。
神話にも歴史にも登場しない者を神社の祭神として祀るのは、その子孫(度会氏)しかあり得ません。つまりこれらの地方にも、度会氏が勢力を伸ばしていたことになります。

度会氏の祖には天村雲命という者もいますが、英彦山神宮(福岡県田川郡添田町)と二上射水神社(越中国一の宮 富山県高岡市)にも祀られていますので、筑前国と加賀国地方に度会氏の勢力があったことは間違いないと思われます。
この天村雲命はイソタケルのことではないかという説もあります。

話を大若子命にもどしますが、『蘇民将来伝説』が伝わる伊勢市二見町の、高城神社(二見町今一色)と栄野神社(二見町栄野)にも、大若子命が祀られています。
地図ソフトでこの二社の位置を確認してもらいたいのですが、二社は五十鈴川の本流と支流の河口付近に位置しています。つまり、川をさかのぼって内宮へ行く者を監視することのできる場所です。

五十鈴川本流の河口右岸を二見町今一色、左岸を一色町と言います。一色町は「いっしき町」と読みますが、今一色は「今いしき」と読みます。この「一色」は一支国(壱岐島 『魏志倭人伝』)に由来するものと思われます。(外宮の旧正門前は伊勢市一志町)
度会氏は壱岐氏とも関係があったと考えられます。
壱岐島には式内社が24社ありますが、そのうち6社が格式の高い名神大社です。
その6社の内の月読神社と天手長男神社の祭神は、それぞれ月読神と天手力男神です。

伊勢神宮内宮の三座の祭神の一座は、天手力男神です。
元外宮と言われている佐那神社(三重県多気郡多気町)の祭神も天手力男神です。
『古事記』には「天手力男神は佐那県に居る」と書かれています。

さらに伊勢神宮別宮には月読神社と月夜見神社があります。
このように伊勢国と遠く離れた壱岐島の神社に、このような共通項が見られます。

しかし、月読神は天照大神の弟神ですから、伊勢神宮別宮に祀られても不思議はありませんが、天照大神の親神でもない子神でもない天手力男神が内宮に祀られているのは不自然です。

鷲神社(東京都台東区)に、天手力男神は天日鷲命の父神であると伝わっています。
この天日鷲命は、外宮神官度会氏が祖としている神です。
外宮の山は日鷲山、内宮の山は鷲日山と呼ばれています。
こうしてみると、皇祖神のための内宮に天手力男神を祀ったのは、度会氏であると考えられます。
壱岐氏は筑前国宗像郡(福岡県宗像市鐘崎)に祖を祀る織幡神社(名神大社)を立てています。
福岡市博多区の櫛田神社と太宰府の天満宮摂社の祭神は大若子命(度会氏の祖)でしたが、別名を大幡主命と言います。
織幡(おり・はた)と大幡主(おお・はた・ぬし)は語呂が似ています。

『隋書』は「筑紫国の東に秦(はた)王国がある」と書いていますが、福岡市の東の福岡県田川郡香春町(豊前国田川郡)辺りと考えられています。秦王国とは渡来氏族と言われている秦氏の国です。
ここの香春神社の社伝によれば、筑紫神社(名神大社 福岡県筑紫野市)から遷されたとありますが、筑紫野神社の祭神はイソタケル(スサノオの子神)です。

イソタケルを一の宮に祀っているのは、佐渡国の度津(わたつ)神社です。
その佐渡国の賀茂郡にも大幡主を祀る大幡神社があります。
度津神社の北には大目神社がありますが、香春神社の祭神の名は大目命です。

秦氏は京都市西京区に松尾大社(名神大社)を立てています。
その摂社に壱岐氏が奉祭した月読神社(名神大社)があります。
さらに秦氏の伏見稲荷大社(名神大社)の祭神は、度会氏の外宮祭神でもあるウカノミタマ(=豊受大神=スサノオの子神)です。

これらから壱岐氏、度会氏、秦氏は同族であると考えられます。
伊勢神宮外宮は21代天皇(5世紀)に丹波国から遷されたと伝わっています。
この時の丹波国は但馬国(7世紀に分離)と丹後国(8世紀に分離)を含んでいます。

丹波国から遷されたことを証するかのように、外宮神官度会氏の旧姓磯部の名を冠した石部(いそべ)神社(式内社)が次のようにあります。
出石鹿石部神社(京都府船井郡丹波町)
石部神社(兵庫県氷上郡氷上町石生)
阿知江石部神社(京都府与謝郡加悦町温江)
刀我石部神社(兵庫県朝来市山東町滝田)
朝来石部神社(兵庫県朝来市和田山町宮)
石部神社(兵庫県豊岡市出石町下)
このように石部神社が密集してあるのは、丹波、近江と度会氏が遠征した越国だけです。

祭神はどれも大国主命の子の天日方・奇日方です。
天日方・奇日方は三輪氏の祖(イソタケル)ですが、度会氏の祖の天日鷲のことです。
そして丹波国造家と但馬国造家は三輪氏です。
丹後国造家の海部氏の三代目は、度会氏の祖の天村雲命です。
尾張国造家の尾張氏は先祖は海部氏と共通していますが、尾張国一の宮大神神社の祭神は大国主命です。

日本全国に約10万社の神社がありますが、その分布は一様ではありません。
これは神道という宗教によるものではなく、祭神の子孫がその地域に進出したことの現れであると考えます。
その中でも『延喜式(927)』という書に載る式内社は国家の庇護を受けたものです。
つまり天皇家ではなく、実際に大和朝廷実権を握った氏族によって選定されたものです。
したがって、式内社の分布は古代史を解く大きな鍵であると考えます。
石部(いそべ)神社の祭神天日方・奇日方(あめのひかた・くしひかた)はイソタケルであり、度会氏の祖の天日鷲(あめのひわし)のことであると書きました。
天日鷲は天手力男神の子であると伝える鷲神社(東京都)は、「わし神社」ではなく「おお・とり神社」と読ませます。
「おお(大)」は尊称ですので、「鷲」は「とり」と読めるわけです。

そうすると、天日鷲は「あめの・ひ・とり」でもあります。
ところが天真井を「あめの・ま(な)い」と言うように、二字の名の間に「な」を入れることがあります。
実は天日鷲(あめのひとり)は「あめの・ひ・な・とり」なのです。

天日鳥(あめのひなとり)は『古事記』では建比良鳥(たけひらとり)、『出雲国造神賀詞』では天夷鳥(あめのひなとり)と呼ばれています。
『出雲国造神賀詞(いずもくにのみやつこの・かむほぎのことば)』によれば、
天夷鳥はフツヌシと共に、出雲の大国主命に国譲りを迫ったことになっています。
これが『日本書紀』は、タケミカヅチとフツヌシの二神だと記しています。

ちょっとややこしいですが、ここを理解していただければ、『記紀』のカラクリが一瞬のうちに解けてしまいます。

つまりイソタケル=天日鷲=タケミカヅチです。
前に書きましたが、タケミカヅチは三輪山の頂上に鎮座する神坐日向神社(桜井市)の祭神であり、三輪氏の祖です。
そして藤原氏が春日大社(奈良市)第一殿に祀った神です。

ではなぜ大国主命の子孫である三輪氏の祖タケミカヅチが、大国主命に国譲りを迫ったことにしたのか。
それは大和朝廷の実権を握った三輪氏は、皇祖神天照大神の祭祀を大和から追放して伊勢国に封じ込め、
『記紀』編さんの際に、出雲国譲りを否定することができなかった代わりに、それを迫った者は他者ではなく先祖であったと改ざんして、溜飲を下げたのでした。
天照大神は大国主命から出雲国を譲り受け、子のホヒ命にその統治を命じています。

出雲国造家の出雲臣は、このホヒ命の子孫ですが、ホヒ命の子が天夷鳥(あめの・ひなとり)ということになっています。
しかし、イソタケルはスサノオ神、あるいは大国主命の子ですので、前に書いた「天夷鳥=イソタケル」とは矛盾します。

これにはカラクリがあります。
熊野大社(名神大社 島根県松江市八雲町)に『亀太夫神事』という神事があります。
出雲大社宮司(出雲国造家)が、熊野大社の下級神官にボロクソにこき下ろされるという変わった神事です。

なぜ出雲国造家がこのような不名誉なことを許しているかと言えば、本当の国造家は滅ぼされ、途中でイソタケルの子孫が国造家になっているからです。
『亀太夫神事』は、イソタケルの子孫による、国を奪った天照大神に対する復讐劇です。

外宮神官度会氏が三輪氏の同族ということになれば、次の『日本書紀(720)』の記事が解ります。

「持統6年(692)2月 三輪朝臣高市磨(たけちまろ)、
表を奉りてただ直言して、天皇の伊勢に伊勢にい出まさむと思ほして、農事を妨げたまふことを諌めまつる。」

三輪氏が、天皇の伊勢行幸に反対しています。
理由は「農事の妨げ」と言っていますが、本当は天皇に皇祖神天照大神の祭祀をさせないためです。
『日本書紀』は、3月にも三輪高市磨が重ねて諌めたと書いています。

天皇はこの三輪氏の執拗な反対を振り切って、3月6日に伊勢へ発っています。
それでも天皇が伊勢神宮を訪れたという記録はどこにもありません。
実は神宮はこの時(692)まだ存在していなかったのです。

度会氏の外宮は内宮に対する関所です。
その関所ができたのは698年12月29日です。
これを『続日本紀(797)』は「多気大神宮を度会郡に遷した。」と記しています。
多気大神宮とは『古事記(712)』が「手力男神は佐那県に坐せり。」と書いているところの佐那神社(三重県多気郡多気町)です。
なぜ佐那県なのかと言えば、それまで三種の神器のヤタノ鏡は度会郡大紀町滝原に隠されており、
滝原から熊野街道(42号線)を東へ行ったところにある佐奈がちょうど関所の場所にふさわしかったからです。

したがって皇祖神天照大神を祀る内宮が立てられたのは、持統天皇が皇位を生前譲位した697年8月1日から、
関所(外宮)が現在地に移された698年12月29日の間です。

天皇家が皇祖神を祀ることが出来たのは、
大和の三輪に出雲神が祀られてから、実に五百年も後のことです。

持統天皇からの弱冠15歳の文武天皇への生前譲位は、天皇家の悲願であった伊勢神宮建設のための交換条件でした。
この後、藤原氏(=三輪氏)の専横が始まりました。

古代は天皇親政であったと思っていては、古代史は解けません。

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