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戦国時代ゆかりのお城や古戦場コミュの新府城(しんぷ)

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平成20年6月ころ、新府城を訪れたことがある。
当時撮影したデータが行方不明であったため、新府城をアップしないでいたのだが、最近発見に至り、アップすることとした。

個人的には甲府城と新府城の区別がつかないでいたのだが、少し整理してみる。
甲府城は武田氏滅亡後に豊臣系が対徳川のために築城した城であり、甲府駅のすぐ近くにある。
新府城は武田勝頼が織田信長の侵攻を阻止するために築城した城であり、韮崎市にある。
長野県(諏訪)からの織田軍侵攻、静岡県からの徳川軍侵攻に備え、甲府を守り、佐久等を経由し、信濃の真田氏と連携できる位置としてこの場所が選択されたのだろう。
この地に新府城の築城を進言したのが穴山信君と言われている。
城を築城させることは、他に意図があったのかもしれないが、この地に築城するのは納得できるような気がする。

新府城が立地する場所は、西の釜無川と東の塩川の侵食によって形成された台地で、西側の断崖絶壁は七里岩と呼ばれ、天然の防御となっている。
韮崎市のHPを参照してほしい。( http://www.city.nirasaki.lg.jp/ )
韮崎市のHP内の「たのしみ」→「文化・生涯学習」→「文化」→「文化財関係」→「韮崎市の指定文化財(国指定文化財)」と順にクリックしていくと新府城の紹介ページ( http://www.city.nirasaki.lg.jp/art492 )となり、航空写真と鳥瞰図を見ることができる。

航空写真ではっきりと確認できると思うが、結構な高さの台地の上に築城された城であることがわかる。
高さのある台地の上に築城されたにもかかわらず、北側には水堀を張り、東側の一部にも池を防御として使用している。
高さのある台地上に築城し、更に急崖ではない側を水堀等を利用し防御する城として思いつくのが「上田城」である。
現在見ることができる上田城は、真田昌幸の時代の縄張りなのかはわからないが、名城の縄張りを大胆に変更する必要はなく、そのまま利用したほうが利口であり、よって、昌幸の時代とほぼ同じ縄張りなのだと思う。
上田城は1583年に築城されており、新府城の築城の方が早い。
新府城は真田昌幸が普請を命じられたと言われている。
真田昌幸が上田城を築城する際に「新府城普請といった経験」が上田城築城に大きな影響を与えているのではないだろうか。

県道17号線(七里岩ライン)を北上し、首洗い池を過ぎると、砂利の駐車場があり、そこに車をとめて攻城する。
地図を確認するとJR中央本線の「新府駅」から徒歩圏内であることがわかる。
駐車場から県道を戻ると「出構え」の説明板と木々の生い茂る「東出構え」が見える。
「出構え」は新府城の特徴の一つであり、「城の外郭の一部を長方形に濠の中へ突出させた鉄砲陣地で、
防御上最も弱いと見られる北正面に向けて、東西に約百メートルへだてて平行に二本が築かれている。」とある。
城の弱い部分に「出構え」をつくるのは、大阪冬の陣で真田幸村が「真田丸」をつくったことを思い出す。
また、武田軍と言えば騎馬隊というイメージであるが、「長篠の戦い」の影響からか、鉄砲という新兵器にも重点を置いた築城を行っていることがおもしろい。
真田昌幸は真田家の3男で他家の家督をついでいたが、長篠の戦いで兄2人を失い、真田家を継ぐこととなる。
優秀・有能だった兄を討ち取ったのは、「鉄砲」という最新兵器を使用した集団戦法であり、「鉄砲」という兵器の存在を築城の際に考えざるを得なかったであろう。

コメント(10)

写真は「東出構えの説明板内容」と「木々が生い茂る東出構え」
更に県道17号線を戻ると、赤い鳥居が見えてくる。
鳥居をくぐると、本丸まで伸びる急な石階段が現れる。
新府城築城の際はなかった石階段であろう、一直線の石階段を上り切ると、神社が現れる。
神社には「武田勝頼公霊社 武田14将霊碑」の文字が見える。
矢印に従い進むと、城全体の鳥瞰図と説明板と小さな祠が見える。

築城時の武田家の状況であるが、1575年に長篠の戦いに敗れてから劣勢となるが、辛うじてその版図を守っていた。
1578年に上杉謙信が没し、御館の乱が勃発すると、武田勝頼は上杉景勝と同盟を結び、妹を嫁がせ姻戚関係となる。
甲越同盟が成立し、その結果、甲相同盟が破棄され西に織田・徳川、東に北条を敵にまわすかたちとなった。
1582年、木曽義昌が謀反、木曽氏討伐に向かうが織田軍の助勢もあり鳥居峠の戦いで木曽軍に破れてしまう。
その後は転がるように武田家滅亡への道を歩む。

武田勝頼が新府城で織田軍を迎え撃つことはなかった。
小山田信茂を頼り甲斐へ逃げるか、真田昌幸を頼り上野へ逃げるか
武田勝頼は小山田信茂を頼り、小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ちて行く。
もし、新府城で防戦していたらどうなっていただろう。
真田昌幸が采配し、上田合戦のような結果を招いていただろうか?
更に武田勝頼が真田昌幸を頼って落ちて行ったらどうなったであろうか?
織田軍は徹底的に信州の武田軍を潰し、上州まで攻めたであろう。
追い詰められた武田勝頼が頼るのは、妹の嫁ぎ先である上杉家であったはずだ。

新発田氏の裏切りにより、越後全土の兵を動員できず、信州、上州側だけではなく北陸側からも攻め込まれ滅亡まで一歩手前であった上杉軍に武田勝頼が逃げてくるということは、武田勝頼とともに織田軍に滅ぼされることを意味していたのではないだろうか。
「武田勝頼が甲州を捨てきれず、小山田信茂を頼ったこと」と「本能寺の変」は真田氏、上杉氏が滅びなくて済む結果を招いた大きな要因だったのではなかろうか?
武田勝頼だけではなく、長篠の戦いで戦死した武田系家臣も祀られている。
武田勝頼だけではなく、長篠の戦いで戦死した武田系家臣も祀られている。
本丸跡碑
入城・落城日時や普請奉行名などが記載されていた。
近年の整備事業で乾門・ニノ門の調査発掘が行われ、その内容の説明板の設置があったので追記します。

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