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我が愛しのアスリート図鑑コミュの西本 幸雄(野球)

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西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 - )は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手・プロ野球監督、元関西テレビ野球解説者。阪神タイガースが18年ぶりにセ・リーグ優勝を決めた2003年9月15日の阪神対広島戦を最後に、高年齢ということもあり同局の解説業から勇退した。

父親は日本勧業銀行に勤務する銀行員であり、裕福な家庭に育つ。旧制県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)−旧制立教大学を経て応召。中国で終戦を迎え、復員後は八幡製鉄−全京都−別府星野組と社会人チームを渡り歩く。星野組時代の1949年には監督・一塁手・3番打者として都市対抗野球に出場、優勝に輝いた。1950年、毎日オリオンズに入団。プロ入り時には既に30歳であり、選手としてのピークは過ぎていたが、1番(または2番)・一塁手の定位置を確保し、毎日のパ・リーグ優勝と日本一(日本シリーズ優勝)に貢献した。1952年には主将を、1954年には兼任コーチを務めている。

1955年限りで現役を引退した後、1956年から1958年まで毎日の2軍監督を努める。1959年には1軍コーチに昇格し、1960年に前年限りで退任した別当薫に変わって監督に就任。1年目にしてチームをリーグ優勝に導いたが、日本シリーズ第2戦での戦術(1死満塁のチャンスにスクイズを仕掛けたがダブルプレー)を巡り永田雅一オーナーと対立し、責任を取る形で辞任した(辞任の経緯については後述)。

1962年、阪急ブレーブスにコーチとして招かれ、翌年監督に就任。1967年初優勝。1973年までの11年間で5度のリーグ優勝に導き、常勝球団へと育て上げた。同年限りで勇退。1974年より近鉄バファローズ監督。ここでも1979年に球団初のリーグ優勝を果たした(2シーズン制時代の1975年に後期優勝)。1981年勇退。その後関西テレビ(1982年〜2004年)とスポーツニッポン(1982年〜)で野球解説をしている。1988年野球殿堂入り。

20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず「悲運の名将」と言われた。ただし西本当人は自分が「悲運の名将」と言われることには否定的で、「選手が頑張ってくれたおかげで8度も日本シリーズに出場できたのだから、私は幸せ者だ」と語っている。3つのチームを優勝に導いた監督は2007年現在、西本と三原脩のみ。三原が指揮したのが1リーグ時代の読売ジャイアンツとセ・パ両リーグから1チームずつ(西鉄ライオンズ・大洋ホエールズ)だったのに対し、西本が指揮したチームはすべてパ・リーグであり、現役時代も含めてパ・リーグ一筋の野球人生であった。

阪急・近鉄時代には時間をかけて選手を育て、チームを作り変え、弱小球団を常勝軍団へと導いた。西本のように、2チームで自らチームの土台を作り上げて優勝させた監督は極めて稀であり、3チームを優勝させた名監督にして選手を見抜く眼力に秀でた育成の名手でもある。

1960年の大毎監督辞任、1966年の信任投票事件、1975年の羽田殴打事件(3つのエピソードについては後述)などに見られるように、チームの強化と見込んだ選手の育成のためにはあえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さず、その事も選手やファンの信望の厚さにつながった。1978年オフには監督辞任を表明したが、「俺たちを見捨てないでくれ!」と選手に引き止められて辞任を撤回し、1979年・1980年とリーグ二連覇を達成。そして勇退表明後、最後の試合となった1981年の近鉄−阪急最終戦(日生球場)で両チームの選手から胴上げされた事実は、西本が常に本気で選手とぶつかり合ってチームを高めていった何よりのあかしであろう。

阪急の監督を勇退した次のシーズンから同一リーグである近鉄の指揮を執ったが、後に野村克也や星野仙一が阪神の監督に就任したときのような非難めいた議論は当時起きなかった(また、野村や星野の阪神監督就任時にこの西本の前例にはほとんど言及されなかった)。

監督勇退後は長らくプロ野球ニュースの解説者としてお馴染みだったが、東京のスタジオに出向くことは比較的少なく、大阪・関西テレビからの中継が多かった(特に高齢となった1990年代後半)。この他、1984年限りで辞任した安藤統男監督の後釜として阪神から監督就任要請を受けるも、(表向きは)高齢であることを理由に辞退している。

近鉄時代には土井正博、永淵洋三、佐々木宏一郎、伊勢孝夫、神部年男といった主力の生え抜き選手を自らの提案でトレードに出し、エースの鈴木啓示との確執が何度となく噂されたが、ファンからは「西本さんならチームを強くしてくれる」と厚い信頼を得ていたため、非難の声は少なく進退問題に発展することはなかった。

関西のオールド野球ファンはセ・リーグファン、パ・リーグファン問わず西本に好意的であり、「西本さん」は現在も馴染み深い存在となっている。

鶴岡一人、千葉茂亡き今、日本プロ野球界において川上哲治に次ぐ重鎮中の重鎮で多大な影響力を持っている人物であり、教え子には長池徳士、山田久志、加藤英司、福本豊、今井雄太郎、鈴木啓示、梨田昌孝など名選手が多く存在する。西本自身、巨人の影響力が強いプロ野球界においてパ・リーグ出身の自分の教え子が監督やコーチとして実績を残していることを喜ばしく思っている。

佐々木信也(スポーツ評論家)がNHK教育テレビジョン「知るを楽しむ」で語ったところによると、1960年の日本シリーズ開幕を翌日に控え、西本と大洋ホエールズの三原脩監督の直前対談(佐々木司会)が日本教育テレビ(NETテレビ 現・テレビ朝日)の生放送で行われることになっていた。

ところが生放送のスタジオに三原がなかなか現れず、18時の放送開始当初から佐々木と西本による2人での座談会に終始する羽目となる。これに西本は激昂し退席しようとしたが、佐々木が引き止めて何とか30分の対談は行われた。しかし三原はとうとう出演しなかった。本番終了後も西本の怒りは収まらず、NETからの出演ギャラも受け取らずに早々に自宅に引き上げてしまった。

1960年の日本シリーズ終了後、在任わずか1年で西本は大毎監督を辞任する。その原因は、日本シリーズの采配にあった。知将三原脩率いる大洋の先勝で迎えた第2戦(10月12日、川崎球場)の8回表、大毎は、まず先頭打者の坂本文次郎がセーフティ・バントで出塁、続く田宮謙次郎の時に土井淳のパスボールで坂本が進塁、田宮も四球を選ぶ。さらに榎本喜八がバントでランナーを送り、1死二・三塁のチャンスを作った。ここで大洋は先発・権藤正利をあきらめ、アンダーハンドのエース秋山登を投入し、山内一弘を敬遠させ次の谷本稔と勝負する作戦に出た。谷本の第1打のファールの後、西本はスクイズのサインを送った。第2打で、谷本はサイン通りスクイズを仕掛けたが、打球はグラウンドでバウンドして捕手・土井の方向に転がった。土井は即座にボールをつかむと、本塁に駆け込んできた坂本にタッチした後、一塁に送球してを刺しダブルプレーとした。結局大毎はこの試合を落とし、2連敗を喫してしまった。

試合後、大毎のオーナー・永田雅一は西本に電話を入れ、「ミサイル打線を誇る大毎が、好機にバントなどというアホらしい作戦を採るとは何事か!!」とスクイズの件を非難した。しかし西本も「打線の状態は私が一番熟知しているので、ご安心下さい」と主張して退かなかった(このシーズン、大毎は18連勝するなど快調に飛ばしていたが、終盤失速し、優勝を決めたのは最終戦の2試合前だった)。激怒した永田は「バカヤロー」と西本を罵り、西本は「バカヤローとはなんですか、撤回していただきたい」と取り消しを求めたが、永田は応じず、そのまま電話を切ってしまい、会話は終わった。結局、日本シリーズは大毎のストレート負けで終わり、西本は現役時代から所属した大毎を実質的な解任で去った。永田の孫の守は成人してTBSに入社したが、伊集院光によると、守は「もし横浜(TBSは大洋の後身である横浜を2003年に買収)が優勝を狙えるチームになったら、西本さんを監督に招いて、『これで亡き祖父を許してくれないか』と伝えたい」と語ったという。

1963年、西本は戸倉勝城の後任として阪急監督に就任した。しかし、就任1年目でチームは最下位に転落する。この当時の阪急は「灰色の時代」と揶揄されるほどの弱小球団で、西本はチームの体質改善に大いに苦しんだ。1966年シーズン終了の時点で、1964年の2位が最高で、後はBクラス(1965年は4位、1966年は5位)という有様だった。幾ら自分が汗水たらしても選手が付いていかずに悶々していた西本は、その年の秋季キャンプ初日、一軍マネージャーを介して選手に信任投票を義務付けるという思い切った策に出た。「監督についていけるものは=○、ついていけないものは=×を書くこと」というものだが、西本は選手全員が自分を信頼しているか否かを見極める、という意図があった。

投票の集計結果は○32、×11、白紙4。

「×が一票でもあれば辞任する」と決めていた西本は「こんな結果ではチームは動かない。どうせなら俺がやめるしかない」と判断し、小林米三オーナー(阪急創始者・小林一三の三男。1969年死去)に辞任を申し入れると自宅にこもってしまった。

「×11、白紙4」という結果には、「主力・若手とも分け隔てなく鍛える」という西本の育成法に、当時の主力選手が辟易していたという事情があった(当時のエース米田哲也は「西本さんはとても困った監督で、練習態度が悪かったり試合前に飲んで二日酔いでゲームに出れば、たとえ主力でも使ってもらえなかった。試合での活躍が月給にはね返る我々としては、たとえふらついていようが試合に使ってもらいたい…と考えていた。でないと、勝てない。これを考えると西本さんの厳格さは困ったものだ」と引退後述懐している)が、選手には西本を排斥する意図はなかった。また、まさか辞めようとするとは露ほどにも思わず、何かの冗談だと感じ投票した選手もいたようである。

それでも西本が辞任にこだわった背景には、岡野祐社長(のちパシフィック・リーグ会長)ら当時の球団フロントへの不信感があった。西本は、主力選手が彼への不満を、フロントとの酒席で漏らしている事実を掴んでいた。また一部のフロントは、その年ヘッドコーチに就任した青田昇を可愛がっていて、青田を次期監督にしたいと考えていたといわれる。西本は「フロントが自分を辞めさせたがっているのではないか」と疑心暗鬼に駆られながらも、「偉い人との酒の席だから口先を合わせているだけで、本当は理解してくれている」と選手を信じていた。それだけに「×11」という結果は西本にとって衝撃であり、裏切られた気持ちだっただろう。

西本の辞任申し入れで、一部フロントが企図した「青田体制」は実現に向かって前進したかに見えた。だが小林は、西本に対しては「報告は球団社長(=岡野)から聞く」と縦の線を守り通しつつ、岡野に対し「たとえ何年かかろうと西本を翻意させろ!阪急の再建は西本以外にない!」と説得を厳命。岡野から「小林オーナーがお前を信頼している」と告げられた西本は、ついに辞意を撤回する。同時に西本は、「組織としては非常に危険な考えかもしれないが、俺が監督である間は、選手個々の意志に遠慮する事無く、俺が思う方向へ選手を持っていくしかない」と腹を括ったという。

翌1967年、阪急は球団創設32年目にして悲願のリーグ優勝を果たす。これ以降西本は、1973年限りで勇退するまでリーグ優勝5回の第一期黄金時代を作りあげた。その前夜の有名なエピソードである。

西本は、実は大毎監督だった1960年にも似たような事件を起こしている。

当時の大毎には前監督の別当薫を慕う「別当派」と呼ばれる選手がおり、九州でのオープン戦では球場に来ないなどして西本に反抗していた。西本はチーム分裂を憂い、ある日のミーティングで「監督として俺を信任するかしないか、投票を行ってくれ」と言い残して部屋を去った。

それから選手だけによる話し合いが行われたが、山内一弘の「俺は野球さえやれればそれでいい。だから監督が別当さんだろうが西本さんだろうがかまわない」という言葉に榎本喜八が同調したことから事態は収拾、結局信任投票は行われなかった。

西本はリーグ優勝によって選手の信頼を勝ち得ることができ、監督を辞任する時には選手たちから時計を贈られたという。

1979年にヤクルトから移籍したチャーリー・マニエルを擁して球団創設以来の初優勝を果たした直後の大阪球場で行われた広島東洋カープとの日本シリーズ第7戦。1点ビハインドの9回裏1アウト満塁で打者石渡茂にスクイズのサインを送るが、江夏豊投手に見破られ、三塁走者が挟殺。その後石渡も三振に終わり、ゲームセットとなる。この場面は山際淳司がSports Graphic Number創刊号にて「江夏の21球」として活写したことでも知られる。

余談ながら、西本が采配をとった翌年のオールスター第3戦において、1点ビハインドの9回表一死満塁で全セのマウンドに江夏が登板、16球でゲームセットとなり「またも満塁で江夏に抑えられた」と言われた。2死になったとき打順はピッチャーであったが、すでに野手をすべて使ってしまっていたため、南海の投手である山内新一を代打として送り込んだもののあえなく三振に終わる。山内を起用したのは「彼が打撃がうまいという話だったから」と西本はコメントしている。山内は他の南海選手のヘルメットが合わなかったため、近鉄のヘルメットをかぶっていた。

1975年後期、西宮球場での対阪急戦、試合中に西本が羽田耕一を殴打した事件。この年、近鉄は阪急のルーキー山口高志に苦しめられており、この試合も阪急は山口がリリーフで投げていた。西本監督は試合中、自軍の攻撃が始まる前に円陣を組み、「絶対に1球目は打つな。1球目がボールなら、2球目も打つな」という指示を出していた。しかしこの回の先頭打者だった羽田は、初球に来た高めのストレートに手を出して空振り。結局その打席ではサードゴロに打ち取られてしまった。自ら育てた羽田のミスに怒った西本は、試合中にもかかわらず羽田に鉄拳を浴びせた。山口や佐々木恭介によれば、西本の行動を見て阪急ナインは「一瞬、野球を止めた」という。

実は、羽田は先頭打者の慣習(試合の円滑な進行のため)としてバッターボックスに入っており、西本の指示は聞きようがなかったのである。当の羽田自身は、引退後に「最初は悔しかったけど、時間が経つにつれてしょうがないと思った。僕は怒られることは多かったが監督に対して絶対的な信頼があったので反抗したことはなかった」と語っている。西本監督への信頼でまとまった近鉄はこの年後期優勝を果たす。プレーオフでは阪急に敗れたが、球団創設25年目にして初めて「優勝」という経験を味わうことになった。

なお羽田が円陣に加われなかったことを、後日梨田昌崇から「羽田はあの時監督の指示を聞いてません」と指摘されたが、西本はそれに「しまった!」と感じたものの、羽田に対しての謝罪は行っていない(これは近鉄が球団合併によって消滅する際に出された刊行物の中での西本のインタビュー、羽田と栗橋茂の対談で明かされている)。(プロ野球ニュースのオフ企画でも「殴った後、「しまった」と思ったが、ここで謝ったら監督の立場がないと思ったので撤回しなかった(笑)」と言ったことがある)

また、この事件に関して一般に西本が「ボールを打つな」「高めを打つな」「高めのストレートに手を出すな」といった指示を出したことになっているが、自著の中で「新聞記者はボールを打つな、高めを打つなという指示だったって記事に書いてたがそうじゃない」と否定している。

「絶対に1球目は打つな」という極めて単純な指示だったからこそ、それが守れなかった(と思った西本は)羽田に対して思わず手が出てしまうほど怒ったのである。

西本はこの時出した指示に関して「山口には何試合も抑えられていたのでデータを分析すると、1球目、2球目のボール球に手を出してカウントを悪くしてることがわかった。山口が気持ちよく放るストレートはなかなかストライクにならないが、速いから振ってしまう。山口が力を込めて投げるとだいだいボールになるからそういう指示を出した」と語っている。

普通、左投げの選手は、一塁手を除く内野手に不向きと言われている。捕球して一塁に投げる時、「蟹の横這い」のような形になってしまうからだ。左投げでありながらプロ野球で二塁手を経験したのは、西本と大東京の鬼頭数雄の2人だけである。

1951年8月16日、対西鉄戦での事。試合は毎日が選手を総動員する展開になってしまい、9回の守りに入った時には、使える内野手が、一塁しか守れない三宅宅三だけになってしまった。そこで西本は湯浅禎夫総監督に「三宅を入れましょう。自分は二塁に回ります。二塁は中学時代に経験があります」と進言。湯浅は背に腹は代えられないとして西本を二塁に回した。幸か不幸か、守備機会はなかった。

西本が一塁以外を守ったのは、プロではこの時が唯一である。

初の日本シリーズで対決して(試合前も含めて)苦杯をなめた三原脩とはその後も縁が続いた。三原が近鉄を率いてチーム初優勝に挑んだ1969年に、阪急の監督としてそれを阻んだのが西本であった。そしてそれから10年後に、三原のなしとげられなかった近鉄の初優勝を西本が実現することになるのである。また、上記の通り3チームで胴上げ監督になっているのは西本と三原だけである。



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