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我が愛しのアスリート図鑑コミュのミルコ・"クロコップ(格闘家)

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ミルコ・"クロコップ"・フィリポビッチ(Mirko "Cro Cop" Filipović、1974年9月10日 - )は、クロアチア(旧ユーゴスラビア)出身の元警察官で、総合格闘家・キックボクサー。クロアチア国会議員(2003年- )。血液型A-。リングネームのクロコップは、英語で「クロアチア人のコップ(警官)」の意。K-1・PRIDEを歴戦し、現在はUFCに参戦している。

総合格闘技に転向した直後は、プロレスラーを次々と撃破した事から「プロレスラーハンター」と呼ばれていた。総合格闘技の試合では立ち技主体で勝負するストライカーであり、多くのKO勝利を挙げた。

1999年に「K-1 GRAND PRIX '99」で準優勝を果たしたものの、最後まで自身が直接優勝をすることはなかった(2002年、前年のK-1 GP王者マーク・ハントと対戦し、判定勝ちしたことから、以降K-1は制したと語っている)。

1996年3月10日、「K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦」でK-1初代王者であるブランコ・シカティックの一番弟子として、ミルコ・タイガー[1]のリングネームで日本に初登場。前年GP準優勝、ジェロム・レ・バンナと対戦。ダウンを奪い3-0の判定勝ち。

1996年5月6日、「K-1 GRAND PRIX '96 決勝戦」に出場。準々決勝でアーネスト・ホーストと対戦。ホーストのテクニックとローキックに圧倒され、3Rに半ば戦意喪失でTKO負け。この試合以降、シカティックと決別したミルコは、しばらく日本のリングから姿を消すこととなった。

1999年4月25日、「K-1 REVENGE '99」に出場し、約3年ぶりのK-1復帰を果たす。ミルコ"クロコップ"フィリポビッチとリングネームも変え、ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤに左ストレートで4RKO勝ち。

1999年6月20日、「K-1 BRAVES '99」に出場。準々決勝でリッキー・ニケルソンにK-1のリングでは初となる右ハイキックで1RKO勝ち。しかし準決勝では試合巧者のジャビット・バイラミに延長1R判定負けを喫し、GP開幕戦の出場権を逃す。

1999年10月3日、怪我人の発生で推薦として「K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦」に出場。マイク・ベルナルドをハイキックでいきなりダウンを奪うと、一気にラッシュを叩き込んで2つ目のダウンを奪い1RKO勝ち。当時のK-1四天王の1人を倒す。

1999年12月5日、「K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦」に出場。準々決勝で武蔵に2RKO勝ち、準決勝でサム・グレコに2RKO勝ち。決勝まで駒を進めたミルコだが、武蔵戦ですでに肋骨を骨折していた。決勝では歴代王者3人が犇く激戦ブロックを制したアーネスト・ホーストと対戦し、ボディを徹底的に攻められ3RKO負け。K-1復帰1年目にしてグランプリ準優勝を飾る。そしてミルコは、リングネームを現在のミルコ・クロコップに変更(ターミネーターの愛称もこの頃から付けられる)。次世代を担う選手として注目されるようになる。

2000年3月19日、「K-1 BURNING 2000」で天田ヒロミと対戦。元暴走族と現役警察官の対決だっため、天田は暴走族を、ミルコは警官隊を引き連れて入場するというパフォーマンスを披露した。試合は4RでミルコのKO勝ち。

2000年6月3日、アンディ・フグのスイスでの引退試合の相手を務める。お互い決定打に欠けたが、手数で勝ったフグに判定負け。少年の頃からフグに憧れていたというミルコは、母国引退となるフグを笑顔で讃えた。

2000年10月9日、「K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA」に出場。準々決勝でグラウベ・フェイトーザに判定勝ち、準決勝で天田ヒロミに判定勝ちするも、この試合で右足首を負傷。このトーナメントのファイナリスト2人が12月の決勝戦へと出場できるため、すでに出場権を手に入れていたミルコは、決勝では無理をせず1R終了後に自らタオル投入によるTKO負けを選択し、決勝の相手マイク・ベルナルドにリベンジを許した。

2000年12月10日、「K-1 WORLD GP 2000 決勝戦」に出場。準々決勝でアーネスト・ホーストと3度目の対戦。延長まで持ち込むものの、ホーストに終始試合をリードされ、3-0で判定負け。これ以降両者の対戦は実現せず、ミルコは1勝も挙げることはできなかった。

2001年1月30日、「K-1 RISING 2001」で富平辰文に2RKO勝ち。3月17日の「K-1 GLADIATORS 2001」では、ピーター・アーツと対戦。序盤、ミルコはハイキックとパンチのラッシュでアーツを攻め込むも、後半アーツの膝蹴りを受けてスタミナ切れを起こし失速。クリンチ合戦となった末、ミルコが辛くも2-0で判定勝利を収めた。

2001年6月16日、「K-1 WORLD GP in MELBOURNE」に出場。準々決勝でマイケル・マクドナルドに1RKO負け。相手を格下と見て、腕を回すなど余裕な態度や挑発をした上での惨敗だった。

2001年8月19日、「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」にて、K-1と猪木軍との対抗戦に身を投じることとなり、猪木軍のエース藤田和之との対戦が決定。ルールは3分5Rの総合格闘技(MMA)ルール。試合前にはアメリカのマルコ・ファスの道場で特訓し、決戦を迎えた。藤田のタックルをかわし3度目のタックルに膝蹴りを合わせ藤田の額を割り、ドクターストップによるTKO勝ち。この試合によりミルコの存在は総合格闘技家やプロレスラーの間に衝撃を与えた。この一戦はその後のミルコだけでなく、格闘技界全体の流れを変えた一戦となった。

2001年10月8日、K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKAの敗者復活トーナメントに出場予定だったが、9月11日のアメリカ同時多発テロ事件発生の影響で、当時警察官だったミルコは国内待機となり、GP出場は断念することになった。

2001年11月3日、PRIDE初参戦となるPRIDE.17で高田延彦と対戦。PRIDEルールではなく、藤田戦と同じルールが適用された。試合序盤で右足踵骨を骨折してしまった高田は自らリングに腰を降ろし、ミルコを手招きでグラウンドに誘う作戦に出たが、ミルコはこれを拒否。試合はいわゆる猪木アリ状態の状態が続いたまま終わり、規定によりドローとなった。ミルコは試合後「高田はチキンだ」「藤田は本物のファイター、高田は偽者のファイター」と罵倒した。

2001年12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2001」にてプロレスラー永田裕志と総合格闘技ルールで対戦。1R21秒、左ハイキック一撃でKO勝ちし、『プロレスラーハンター』と呼ばれるようになった。

2002年1月27日、「K-1 RISING 2002」に出場。K-1ルールで柳澤龍志に1RTKO勝ち。3月3日の「K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYA」では前年GP王者マーク・ハントと対戦。序盤、ミルコは3Rには左ハイキックでダウンを奪う。ハントは後半は持ち味の体格を活かしたプレッシャーで逆襲に転じるが、その反撃をかわし切り判定で勝利。

2002年4月28日、PRIDE.20に参戦。MMA4戦目でPRIDEミドル級王者ヴァンダレイ・シウバと対戦。ルールは3分5R判定なし、グラウンドでの膠着はブレイクの後スタンドからのリスタートという、MMA経験の浅いミルコに配慮した形となった。また両者の体重差が問題視されたが、計量時はミルコよりもシウバの方が体重を上回っていた。試合はミルコの左ミドルキックがシウバの脇腹を抉り、紫色に腫れ上がらせたが、シウバもミルコから数度のテイクダウンを奪い、スタンドでも手数で上回った。結局試合は規定によりドロー。

2002年7月14日、「K-1 WORLD GP 2002 in FUKUOKA」でレミー・ボンヤスキーとK-1ルールで対戦。2RTKO勝ちし、GP本戦の切符を手に入れた。

2002年8月28日、「Dynamite!」で桜庭和志と対戦。ルールはミルコにとっては初めての5分3R制のPRIDE特別ルールとなったが、体重は20kg近くミルコが重かった。試合は予想通りミルコペースとなり、2Rには桜庭にテイクダウンを奪われたものの、脱出の際の顔面への蹴り上げで桜庭の右目が腫れ上がり、眼窩底骨折の疑いでドクターストップがかかりTKO勝利となった。

初制覇に期待が掛かっていた「K-1 WORLD GP 2002」にミルコは椎間板ヘルニアを理由に欠場。ミルコは藤田戦以来、ようやく長期休暇を得ることができ、この間に長年交際してきた女性クラウディア・シューケルと結婚式を挙げた。

2002年12月31日には「INOKI BOM-BA-YE 2002」にて藤田和之とMMAルールで再戦。危なげない試合運びで判定勝ちし、返り討ちを果たす。

2003年3月30日の「K-1 WORLD GP 2003 in SAITAMA」で当時人気絶頂にあったボブ・サップと対戦し、左ストレート一発でミルコのKO勝利。勝利直後、ミルコにしては珍しくリングサイドに駆け上がり、雄たけびを上げた。この試合が、ミルコのK-1における最後のキャリアとなる。


2003年6月8日、PRIDE.26からPRIDEシリーズに本格参戦。当時のPRIDEヘビー級3強の1人と言われたヒース・ヒーリングと純正PRIDEルールで対戦し、1RTKOで勝利。試合後、ミルコはエメリヤーエンコ・ヒョードルが保持するPRIDEのヘビー級タイトルへの挑戦を宣言。なおこの試合は母国クロアチアでも当日ディレイで放送され、視聴率が70%を超えた。

2003年8月10日、「PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦」でイゴール・ボブチャンチンに左ハイキックで1R1分29秒KO勝利。ヘビー級タイトルへの挑戦を決定的なものにする。10月5日には「PRIDE武士道」に参戦。自らこの試合をタイトルマッチのためのクールダウンと称し、ドス・カラス・ジュニアに左ハイキックで1R46秒でKO勝利。

2003年11月9日、「PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦」。本来ならこの大会でヒョードルとのタイトルマッチが行われるはずだったが、ヒョードルの怪我により、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと暫定王座を賭けて対戦。1Rはミルコが打撃で圧倒し、終了間際には左ハイキックがノゲイラの首の付根にヒットする決定的なチャンスもあったが、2R開始直後、初めてテイクダウンを奪われると、腕ひしぎ十字固めでタップアウト負け。これにより総合格闘技での無敗記録は7でストップ。試合後のセレモニーで、暫定王者のベルトを与えられるノゲイラの姿を見つめながら、ミルコはリングの片隅で涙を浮かべていた。

2003年12月31日、大晦日に行われた格闘技3興行のうち「INOKI BOM-BA-YE 2003」に出場予定だったが、直前になって出場をキャンセル。

2004年2月1日、PRIDE.27でロン・ウォーターマンと対戦。序盤からいきなりテイクダウンを奪われるも、スタンドに復帰後すぐさま左ハイキックでダウンを奪いKO勝利。2週間後、2月15日の「PRIDE武士道 -其の弐-」では山本宜久と対戦し、1R2分12秒でKO勝利。

2004年4月25日、「PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦」のPRIDEヘビー級GP1回戦でケビン・ランデルマンと対戦。1R1分57秒、左フックからのパウンドでまさかの失神KO負けを喫した。

2004年5月23日、「PRIDE武士道 -其の参-」で金原弘光と対戦。「とにかく勝利が欲しかった」というミルコは試合開始早々から攻め立てるが、金原が粘り、終盤にはアームロックや肩固めを見せるも失速。結局3-0の判定勝利を挙げたが、不安な戦いぶりであった。7月19日の「PRIDE武士道 -其の四-」では大山峻護と対戦し、1R1分00秒左アッパーでKO勝利。

2004年8月15日、「PRIDE GRANDPRIX 2004 決勝戦」のワンマッチでエメリヤーエンコ・アレキサンダーと対戦。試合は1R2分9秒左ハイキックKOでミルコの圧勝。観衆はミルコの鮮烈な復活劇を歓喜で迎えた。この勝利により、ミルコはようやくPRIDEトップ戦線への返り咲きを果たした。

2004年10月31日、PRIDE.28で第10代パンクラス無差別級王者で元UFCヘビー級王者ジョシュ・バーネットと対決。「最後の大物」とも呼ばれたバーネットとの対決は、ファンの期待を大いに高めたが、試合は1R46秒、バーネットの左肩の脱臼によるタップアウトにより、消化不良のまま終わった。12月31日の「PRIDE 男祭り 2004」ではケビン・ランデルマンと再戦。1R41秒フロントチョークで一本勝ちを収める。

2005年2月20日、PRIDE.29でマーク・コールマンと対戦。コールマンのタックルを完璧に封じ、1R3分42秒右アッパーでKO勝ち。PRIDEヘビー級王座への挑戦権を獲得。6月26日には「PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUND」でヒョードルと同門のイブラヒム・マゴメドフと対戦し、1R3分53秒左ミドルキックでKO勝ち。

2005年8月28日、「PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦」でついにエメリヤーエンコ・ヒョードルとヘビー級王座に挑戦。試合は正確さで勝るミルコが的確に打撃をヒットさせるが、ヒョードルもオランダのルシアン・カルビンの元で特訓を積んだ打撃で応戦、膝上げカットを使われて左足の甲を痛めた。1R中盤にテイクダウンを奪われるとそこから一気にヒョードルペースとなり、スタミナを奪われたミルコは2R以降失速。3Rにはスタンドでもヒョードルにリードされた。ミルコはヒョードルの攻撃にガードポジションで耐え、お互い死力を尽くした戦いとなったが、ヒョードルの優位は動かず判定3-0で敗れ、王座挑戦に失敗。

2005年10月23日、PRIDE.30でジョシュ・バーネットと再戦。「ミルコには間合いを空けずプレッシャーをかけ続ければ良い」という持論をバーネットが実践、打撃が思うように出せず劣勢に立たされる。ストライカーのミルコがグラウンドで優位に立ち、本来はグラップラーのバーネットがスタンドで優位に立つという奇妙な展開が続いたが、終盤にようやくスタンドでパンチを集めることに成功したミルコは、3-0で判定勝利を収めた。

2005年12月31日、「PRIDE 男祭り 2005」において、この年からPRIDE参戦したマーク・ハントとのストライカー頂上対決が組まれる。ミルコは入場曲を変え、シューズを履くといういつもとは違う雰囲気で登場。試合も序盤から調子が上がらず、ハントペースに。左ハイキックがヒットする場面もあったが、ハントはものともせず常にプレッシャーを掛け続けた。結局スコア2-1で判定負けを喫し、K-1時代のリベンジを許してしまった。判定ではジャッジの1人がミルコに票を入れるが、会場からはブーイングが沸き起こった。

2006年5月5日、「PRIDE無差別級グランプリ2006 開幕戦」に出場し、1回戦で美濃輪育久に1Rわずか1分10秒でKO勝利。2回戦となる7月1日の「PRIDE無差別級グランプリ2006 2nd ROUND」では、日本重量級のエース吉田秀彦と対戦し、ローキックによるTKO勝利。準決勝へと駒を進めた。

2006年9月10日、「PRIDE無差別級グランプリ2006 決勝戦」の準決勝で、2002年以来熱望されていたヴァンダレイ・シウバとの再戦が決定。序盤にシウバの右目にストレートをヒットさせ、右目を腫らして視界を失ったシウバに左ハイキックでKO勝利。続く決勝ではアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラを準決勝で破ったジョシュ・バーネットと3度目の対戦。序盤から一気に攻め立てダウンを奪うとインサイドガードから鉄槌・パウンドを連打。この時の攻防でミルコの手がバーネットの眼に当たり、一時的に視力を失ったバーネットはたまらずタップアウト。アクシデントも手伝ったが、内容はミルコの一方的なものであり、試合後バーネットは「今日はミルコのための夜だった」と讃えた。自身の32歳の誕生日に初のタイトルを獲得し、「無冠の帝王」という通り名をついに返上する時が来たミルコは、試合後のセレモニーで涙を流した。ターミネーターと言われたミルコの男泣きする姿を見て、会場からは暖かい拍手が送られた。

2006年12月30日、米国の総合格闘技団体UFCへの参戦を表明。PRIDEのアメリカ初興行となるPRIDE.32や大晦日の「PRIDE 男祭り 2006」への出場を予定されていたが、結局両方とも不参加となった。

2007年2月3日、UFC 67でエディ・サンチェスと対戦。ミルコの打撃に怯えるサンチェズを追い込み、1RマウントパンチによるTKOで勝利。アメリカ進出の順調なスタートを切った。

2007年4月21日、UFC 70にて、ガブリエル・ゴンザーガと対戦。左ミドルキックを掴まれテイクダウンを許し、グラウンドでは頭部へ何度も肘打ちを受けた。ブレイクでスタンドへ戻ったものの、ゴンザーガの右ハイキックで失神KO負けを喫した。試合後、UFCとは計6試合の出場契約をしていて、その後現役を引退する意向であることを語っている。

2007年9月8日、UFC 75でシーク・コンゴと対戦。終始コンゴの打撃を受け続け、3-0の判定負けを喫した。

日本でのキャッチコピーは“戦慄のターミネーター”。その後PRIDEでは「完全征服の帝王」「超人」など。
K-1時代は、「タイホスル(逮捕する)」が決め台詞だった。
現在は自分のチームであるチーム・クロコップを作り、所属している。他のメンバーはファブリシオ・ヴェウドゥム、マイク・カイルなどであったが、2007年8月1日にメンバーが一新され、打撃コーチにイワン・ヒポリット、寝技コーチにディーン・リスター、スパーリングパートナーにレミー・ボンヤスキー、ギルバート・アイブルと豪華な顔ぶれとなっている。
入場曲はDURAN DURANの「WILD BOYS」であるが、UFC初戦はPRIDEのテーマソングを入場曲とした。しかし第2戦の入場曲は「WILD BOYS」となった。
エメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと並んでPRIDEヘビー級三強と称された。
警察官時代はテロ対策特殊部隊に所属していてその傍らアマチュアボクシングで活躍していた(クロアチア警察の格闘技教官も担当)。
クロアチアでは国民的な人気を誇っていて、テレビゲームや映画の主役になっている。
愛国者としても知られ、2003年11月23日に投開票されたクロアチアの総選挙にクロアチア社会民主党から出馬し初当選。以後国会議員としても活動している。彼がクロアチア総選挙への出馬を表明した際の東京スポーツの一面見出し「ミルコ・クロコップ 社民党から出馬」は、今でも語り草である。また、2004年2月13日に、当時の日本の内閣総理大臣小泉純一郎と面会している。
2004年、クロアチアのサッカーチーム「チバリア・ヴィンコヴツィ」へ入団。FWとして公式デビュー。
クラウディア夫人は、サッカーのFIFAワールドカップフランス大会で得点王に輝いたクロアチア代表ダヴォール・シューケル選手の妹である。
食事に関しては独特の哲学を持っており、生野菜は食べない。これをテレビ番組(生放送)で発言したところ、国会議員という立場からか、猛抗議を受けた。しかし、野菜スープを食べている姿がDVDに収録されている。また、ステーキは脂身を全て落としたエクストラウェルダン、スパゲティはミートソースでなければ食べないというこだわりぶりである。好物はフルーツで、試合前にフルーツを食べるのが習慣となっている。
トランプが好き。よくやるのが「ベラ」というクロアチアのゲーム。
K-1時代は、「俺はアーツのハイキックにベルナルドのパンチを持っている」と豪語していた。
戦いぶりなどから、冷徹な印象を持つファンも少なくないが、実はかなりの冗談好きで、取材に訪れた記者たちに手の込んだドッキリをしかけることもある。

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