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我が愛しのアスリート図鑑コミュの金田正一(野球)

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金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - )は、愛知県名古屋市出身の韓国系日本人。プロ野球選手・監督、野球解説者・評論家。左投げ左打ち。愛称は「カネやん」、あるいは「カネさん」、「金田天皇」。

現役時代は国鉄スワローズ、読売ジャイアンツで活躍し、引退後はロッテオリオンズの監督をつとめた。日本球界唯一の400勝投手。現在は野球評論家。名球会(株式会社日本プロ野球名球会)会長(代表幹事)。経営する株式会社カネダ企画内に名球会事務局がある。

実弟は同じ国鉄に在籍した金田高義と金田星雄、東映・日拓、ロッテ、広島で活躍した金田留広。息子は俳優の金田賢一。甥に広島、日本ハム、巨人で活躍した金石昭人がいる。

享栄商業高等学校を中退して1950年途中に国鉄に入団。長身から投げおろす快速球と鋭いドロップを武器に翌1951年から14年連続20勝を記録。

1951年9月5日対阪神戦(大阪球場)でノーヒットノーランを達成(18歳1ヶ月での達成は史上最年少記録)。1957年8月21日の対中日戦(中日球場)で完全試合を達成。

1958年の開幕戦では大物ルーキー長嶋茂雄から4打席連続三振を奪う。同年通算200勝達成。1962年9月5日通算3,509奪三振の世界記録(当時)を達成。

1965年、B級14年選手制度を行使して東京読売巨人軍に移籍し、V9に貢献。

1969年10月10日、シーズン最終戦・対中日戦で球界初の通算400勝を達成したのを置き土産に現役を引退した。また、巨人での背番号「34」は永久欠番に指定された。

私生活では結婚を二度・離婚一度を経験。初妻榎本美佐江とは1955年3月から同棲生活に入り、榎本の芸能活動引退を経て1960年に正式に結婚。しかし榎本の存在がありながら宝塚歌劇団卒業生・雅章子との関係が生じたうえ金田と雅の間に1961年賢一が生まれる(金田-榎本の間に子はない)事態が発生。1963年8月、榎本と正式離婚を経て賢一を伴った雅と再婚。なお金田−雅の間には賢一の他に女児二人があることを公表している。うち一人は1980年代の一時期、洗顔料のCM(父娘共演もした)に出演していた。

引退後は日本テレビおよびニッポン放送の解説者(1979年ごろ、フジテレビジョンプロ野球ニュースの解説者としても出演していた)。1973年から1978年、1990年から1991年にロッテ監督。1974年にリーグ優勝・日本一を果たしている。なお、彼が就任してから千葉ロッテになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインした。ロッテ監督時代の1978年に名球会を設立。代表幹事を務めている。1988年野球殿堂入り。金田が入団した当時の国鉄はチーム力が弱く、金田は国鉄時代にリーグ最多敗戦が3度、20敗以上6度、入団以来15年連続で2桁敗戦、通算267敗を喫している。この敗戦数を超える勝利数を毎年のように稼ぎ出していた金田の実力は想像に難くない。(金田在籍中の国鉄(1950〜1964年)は3位が1回あるだけで他のシーズンは全て4位以下だったが、最下位は3回にとどまっている。)

投手として出場して36本塁打を記録したのも日本記録(他に代打として2本塁打)。二リーグ制以後の選手としては、野手転向した選手を除くと、投手として唯一1,000試合出場を達成している(一リーグ制時代を含むと野口二郎投手<517試合登板で237勝、野手や代打を含め1,098試合出場>がいるほか、藤村富美男選手も投手として一定の実績があるため)。

スポーツ医学が発達していなかった当時、自身の経験と知識を元に体作りに対する以下のような思想を纏め上げていたことは有名であり、金田本人にとっても、その後のスポーツ医学の先駆者になっていることは誇りでもあるという。恵まれた肉体とこれらのこだわりが、400勝投手を生み出したバックボーンとなっていると見て間違いないだろう。以下がその例である。
就寝時には利き腕の肘を守るためにサポーターをし、冷えたりしないよう万全のケアをしてから寝床に入る。
現役時代は乱闘時など、どんなに興奮していてもタオルで左手をグルグル巻きにして守っておいてから飛び出すなど、極端なほど左腕を大事にしていた。酒を飲んでいて興奮して机を叩いていても、いつも左手にはおしぼりが巻かれていたという逸話がある。
ヒゲを剃るにも、指先を切る恐れのある剃刀は使わず、電気シェーバーを使用。また外出時にも、つま先を剥き出しにするサンダルは絶対に履かないなど、普段の生活からケガの防止には人一倍気を遣っていた。
下半身強化を重視し(「下半身で野球をやっている人はピンチを招いても力まない。下半身の弱い人はピンチになるとだめになる」とコメントしている)、選手時代はまずランニングを最重要課題としていた。ロッテ監督時代もランニング重視のメニューを課しており、金田の練習と言えば「走れ走れ」と言うイメージが定着している(ちなみにランニングなどによる下半身強化の重要性はメジャーリーグの大投手、ノーラン・ライアンも自らの著書「ピッチャーズバイブル」で述べている)。ロッテ監督時代の教え子である村田兆治によると「実績のあるピッチャーは投球練習をしなくてもいいから、とにかく走れ」と指導していたという。その結果、「夏場になっても疲れが溜まらない。まるで高校時代に戻ったみたいに体が軽かった」と村田は語っている。
後年、ランニングを重視していなかった松坂大輔に対しても金田は「走らないと投球時のバランスを崩すから成績を悪くする」と出演したテレビ番組で指摘。この後、金田の言う通りに松坂の成績が悪くなったため、改めて松坂がランニングなど下半身強化中心のトレーニングに切り替えたというエピソードがある。
効率的なストレッチ運動を行うため、試行錯誤の末「カネヤンダンス」と称される柔軟体操を始め、更にお手製の健康器具を発明・発売していた。
体作りへのこだわりは食にも現れた。「いいものを食べなきゃダメ」が口癖で、キャンプには自ら食材を持ち込んでいた。金田本人の話では、当時のサラリーマンの月給分に相当する額を全て市場での買い物につぎ込み、それをたった3日で使ってしまったという。サムゲタンやすき焼きなどの肉・野菜をふんだんに盛り込んだ鍋を毎日作り、チームメイトにも振舞っていたそうである。ロッテ監督時代も特にキャンプでの食事には質量共にこだわり、1回の夕食を全て食べ終わるのに2時間はかかったと言われる。
独自の調整理論を持っており、必要とする能力から逆算してトレーニングや食生活までを組み立てていた。2003年11月6日放送のNANDA!?(テレビ朝日系列)において本人が語った所によると、「肺活量向上のために走るトレーニングを主に行う日は、朝からオートミール等の消化の良い食べ物を食べる。その日のトレーニング内容によって食事や生活を変えるのは当然だ。」とのことだった。共演していたヤクルトの古田敦也も「そんなことはここ10年位でようやく詳しくなってきたことだ。50年前にそこまで考えていたのは凄い」と感心していた。
マッサージを受ける時は、一部分のみのマッサージはせずに必ず全身をマッサージするように心がけ、また鍼、灸の類は一切しなかったという。
在日コリアン2世(1959年日本に帰化)で、朝鮮名は金慶弘。上記のサムゲタンも母親仕込みの本格派だそうで、国鉄に移籍してきた豊田泰光はその味に感動し、頼み込んでレシピを教わった。また巨人移籍後は、当時まだ若手の土井正三や高田繁らがその母親からキムチチゲを始めとする朝鮮料理の作り方を教わり、体力作りに役立てていたという。ロッテ監督時代にはオープン戦で顔面に打球を受け骨折負傷した木樽正明を自宅に連れて行き、顔面が腫れて満足に食事もできない木樽に無理やり特製スープを飲ませるなどの独自療法を施し、わずか1ヶ月足らずで復帰させた(しかもその月は実働半月で3勝を挙げている)。
「一人前の野球選手が自分で車なんか運転したらいかん」と、自らは運転せず運転手付きの車で球場まで通っていた。その真意は運転することで神経を消耗すると野球に差し障りがあるから、と言うことらしい。
その豪放磊落な人柄で人気がある。ただし激しい気性から様々なトラブルも起こしており、先頭を切って乱闘に参加することも珍しくなかった。こんな時でも手は絶対使わず主に足で相手を蹴飛ばしていた。監督時代の1991年5月19日には、秋田市営球場での近鉄戦で園川一美投手の内角攻めに激昂して暴れるジム・トレーバー選手の顔面にスパイクで蹴りを入れており、その時の映像は何度もプロ野球珍プレー・好プレー大賞でお茶の間に流された。自らの野球人生に汚点を残すこととなったパ・リーグの高木敏昭審判暴行事件(1990年6月23日)も足蹴りである(その後、高木審判は「こんな奴がいるところでジャッジができるか!!」と激怒しシーズン途中で辞表を叩きつけ審判生活に終止符を打った)。また乱闘では、足蹴り以外に右腕で殴る、バットを持って威嚇するというケースもあった。
巨人移籍後のある試合で、金田はホームランを打った長嶋茂雄の頭を叩くなどしてホームで手荒く出迎えた。だがその時チームメイトから一斉に冷ややかな視線を向けられ、国鉄時代は「天皇」の異名を取った自分も巨人においては外様に過ぎないのだと思い知らされたという。
低迷を極め続けたことから、多数のファンやマスコミに批判される巨人の堀内恒夫前監督の数少ない擁護派である。新人時代から鼻っ柱の強い堀内のことをほめていた金田は今でも彼のことを気に入っているようで、「来年も(巨人の)監督は堀内がやればいい。いや、今のはシャレだ」とか「原巨人はいいチームになる。いいチームというと堀内はいいチームじゃないみたいだけど。堀内は弱かったけど、いいチームだったよ」とフォローになってないフォローをするなど、事あるごとに堀内の名前を出している。ただ、堀内が「名球会のチャリティーゴルフに参加するから」と藤田元司の葬儀に欠席したことについては、「名球会は私が作った組織だから私の横暴はまあいいとしても、欠席の理由付けに使ったのは常識にもとる行為だ」と暗に堀内を批判した。
横山光輝の漫画「鉄人28号」の主人公・金田正太郎の名前の由来でもある。
その豪快な人柄と圧倒的な野球の実力のため、監督以上に力のある選手だった。別所毅彦は現役時代の金田について「監督を監督していたのはあいつぐらいのものだ」と語っていた。国鉄時代、チームメイトが4回まで投げて勝っている試合で「投げさせろ」といって途中交代し、勝利投手の権利を奪って勝ち星を稼いでいたという話がある。しかし実際、チームメイトの勝利投手の権利を奪った回数よりも、先発したチームメイトを勝利投手に導くリリーフの回数が圧倒的に多かった。そのような話が立ったのは、登板試合数が多かったために、そのような行動が目に付くことが必然的に多くなってしまったためだと思われる。この他守備でも味方がエラーをするとグラブを叩きつけて罵倒したという。当時捕手の根来広光は後に「金田は機嫌を乱すと本当に荒れた、しかし彼ががんばらなければチームはどうしようもないので機嫌を直すのにとても苦労した」とインタビューで述べている。
対巨人戦通算65勝という日本記録を持っている。ただし、国鉄時代の通算353勝という数字から見ると特に巨人戦の勝ち星が多いというわけではなく、どのチームからもほぼ満遍なく勝ち星を挙げている(国鉄時代、最も勝ち星が多かった相手は広島で83勝)。また、巨人戦の敗戦数は72を数え、勝利数を上回っている。
引退後は巨人OBであることを公言しており、解説者を務めていた頃は巨人寄りの発言が多かった。また、国鉄の後身であるヤクルトと関わりを持とうとしておらず、これらについては批判的な意見が多い。そうした意見に対して金田は「国鉄スワローズというチームはもうなくなったから」と釈明している。
金田が国鉄スワローズを見限ったのは、1963年に産経新聞とフジテレビが球団経営に参加した時にさかのぼる。この時のフジサンケイグループのやり方に反発し、1965年の移籍に繋がったと言われている。
国鉄分割民営化の際に新聞に寄せたコメントの中では、労使が一体となって応援していたことを懐かしんでいた。また2001年に開かれた長谷川良平の野球殿堂入りを記念する祝賀会では「俺のふるさと国鉄スワローズはもうない。今でもカープファンの中にいられる長谷川がうらやましい」と、国鉄スワローズに対する現在の思いを吐露していた。また、OBのオールスターゲームに参加した際は、着用していたのが巨人のユニフォームだったり、国鉄のユニフォームだったりしたが、長嶋茂雄が参加した場合は後者が多かった。
2007年6月11日、巨人のV9時代のメンバーとして始球式に参加した。
一方で、自ら監督を務めたロッテについても愛着があるようで、日本テレビの解説者時代の1989年に行われたオープン戦ではロッテ寄りの解説を行い、興奮して放送席からロッテ選手に対して指示を出していた(もちろんロッテの選手達には伝わっていない)。これが効いたかどうかは不明だが、後年千葉ロッテマリーンズがOBデーを開催したときは、有藤道世らと共にOBのひとりとしてマリーンズのユニフォームを着て出場している。
巨人入団には、川上哲治監督の、巨人ナインも金田に見習って欲しいと言う思惑があった。金田入団後、巨人選手は「あれだけの実績を上げた人が俺達よりも走っている」と感嘆したという。長嶋茂雄も金田から身体作りの手ほどきを受けスランプを脱した。巨人時代の金田の成績は僅か47勝しかないが、選手の意識改革を促しチームの9連覇に貢献した。その意味でも川上の目論見は当った。川上は金田のプライドを尊重し、勝ち星こそ少ないものの、あえて日本シリーズ第1戦先発に何度も送り出した(公式戦の開幕投手も在籍5シーズンの間に4回任されている)。大舞台に数々の修羅場をくぐってきた金田の経験を活かした川上の思いに、金田も見事こたえて好投した。
勝ち星と同様に金田がこだわったのが三振である。高めに浮き上がる快速球と低めに落ちるカーブとのコンビネーションで面白いほど三振を取った。しかしそれには、所属していたスワローズが弱くて「せっかく凡打に討ち取ってもエラーされては何にもならない」という思いが、金田をして三振奪取に向かわしめたと言われている。通算2000奪三振の第1号は金田である。
金田のデビューした年、長野での阪神との試合で、阪神の主軸打者であった金田正泰が「あいつのボールは速過ぎる。あと、投手と捕手との間隔が短過ぎる」と審判に苦情をもちこみゲームは中断、金田正泰と審判とがメジャーで計ったところ、間隔は正確だった。金田本人や当時の選手たちによると「若い頃は間違いなく150キロ台、しかも後半を出していただろう」という。
20年近くの現役生活で球種は快速球とカーブ、それに晩年、下手からなげる超スローボールだけであった。特に長身も生かした強烈に曲がるカーブは反面左肘に負担をかけ、毎年のように肘の痛みは金田を苦しめた(入団5年目あたりから引退までずっと肘が悪く、梅雨時や秋口は特に痛かったと本人が証言している。実際、快調だったシーズンでも梅雨時や秋口頃に1ヶ月くらい勝てない時期が結構あった)。もし、肘を痛めなければ勝ち星はもっと伸びていたかもしれない。そのカーブでも「ものになるのに10年かかった」という。
唯一苦手としていたのが、球界でも一二を争う小兵の吉田義男であった(現役通算で打率.267、66本塁打の吉田だが、対金田は53〜69年までで通算打率.310、8本塁打。1960〜1965年の6年間は1個も三振を奪えなかった)。とにかく吉田にはよく打たれており、巨人阪神OB戦でも吉田に左翼ラッキーゾーンに本塁打を打たれ、金田は苦笑した。
1958年の開幕戦直前、金田は人気ルーキー長嶋茂雄がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」の報道に激怒。開幕戦、長嶋を4打席4三振に討ち取ったのは有名な話である。試合後、金田は顔をこわばらせ、「あの小僧、ものになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と答えた。
1973年、ロッテの監督だった金田は、親友の稲尾和久(当時太平洋監督)と相談し、パ・リーグ人気回復策として、ロッテ - 太平洋戦を盛りたてようと、互いに悪口の応酬をして『遺恨試合』を演出した。目論見は当り、ライオンズの本拠地平和台球場では客が集まりマスコミも注目、金田とファンが衝突し暴動まで起った。だが、警察沙汰となりせっかくのアイデアも世間の非難を浴びてしまった。
気性の激しい性格のイメージと見られている一方で、実は非常に気の優しく人によく気を遣う人間であると言われている。有名なジム・トレーバーの乱闘事件では、本人自身が「顔面を蹴るつもりなど全くなく、あれは足を出したところに偶然顔が来てしまった」と言っている。また審判に対しても小声で「すまんがこれから怒鳴るから、悪いがしばらく黙って聞いててくれ」と前置きしてから大声で怒鳴る事も多かったと言う。
金田の残した通算400勝の記録については、近年「今とは時代が違う」という批判が寄せられることもある。確かに金田が活躍していた1950年代、1960年代頃は、現在のようにローテーションが確立されておらず、シーズン30勝を挙げていた投手も珍しくなかった。更にセーブという概念もなかったので、そのような批判もあながち的外れとは言えない。浅草キッドの水道橋博士と雑誌で対談した際そのことを指摘された金田は「この小童が!」と激高した。しかし、ローテーションが確立されていないということはその分故障しやすくなるわけで、長年投げ続けるだけでも称賛に値する。実際、この時代の投手ですら200勝を記録した人間は数えるほどしかおらず、また通算勝利数2位の米田哲也に50勝もの差をつけていることなどから、時代が違うということを差し引いても、金田が稀代の名投手であったことは間違いないと言える。また、その勝利の約90%の353勝を弱小球団であった国鉄時代に上げていることについての考慮が必要であることは言うまでもない。
晩年、400勝と並んで金田が記録更新を目指したのがヴィクトル・スタルヒンが持つ通算完封記録。金田の現役当時はスタルヒンの完封数が84と発表されていたが、金田の現役引退から数年後に集計ミスが発覚し83に訂正されている。結局金田は82完封で引退することになったが、もし前記の集計ミスが金田の現役中にわかっていればあと1まで迫っていただけにスタルヒンに並ぶかあるいは逆転もあったのでは…とする意見もある。なお、勝星を稼ぐために中継ぎ転向をしてはどうかというアドバイスもあったがこの記録の更新のために先発にこだわり続けたという。
ある日、全盛期の金田が真顔で青田昇のもとを訪ね「青さん。ワシと澤村栄治と球どっち速いんや?」と聞いた。青田は「アホ!澤村に決まっとるやないか!お前と比べれるかい!」と一喝した。金田は悄然と去っていった。

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