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備後の歴史を歩くコミュの知波夜比古神社 式内社

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知波夜比古神社(ちはやひこ) 三次市高杉町に鎮座する。

式内社である。この式内社の比定地は二ヶ所在り、江戸時代から論争が続いている。延喜式には「三谿郡一座 小 知波夜比古神社」と記される。芸藩通志は、当社は「千早彦神社」とし、双三郡三良坂町、現在は三次市三良坂町に所在する神社を「知波夜比古神社」と記している。西備名区は三良坂村の項で産社「知波夜比古神社」とし「或云。高杉村に此號あり。何れか本所なるをしらす。二所に記す」とある。また高杉村の項でも同じ事を記している。芸備風土記は「三良坂村にあり、又高杉村にありともいう」と記す。しかし、大正12年の広島県史社寺志には、高杉村の項で三良坂は「乳和屋彦神社」として「明治以前は互いに式内社と争ったが、明治4年神祇省の指揮を請い、当社(高杉村)を以て式内社と定めたり。この顛末の大要左の如し」とその理由が記されている。その理由とは、弘治(1555−1558)承応(1652−1655)再建の棟札が現存し、それに「知早彦神社」とあり、祭神はヒコホホデミ、ニニギ、コノハナサクヤヒメ、ウガヤフキアエズの四柱を、また、「天文23年、杉山城主武田治部少輔落城の時旧記灰燼詳なること知れず」と記す。これに対し、三良坂村のは厳島大明神末社「乳和屋彦神社」で、これは正徳(1711−1716)宝暦1751−1764)のころ百姓源五と申者始めて一宇造立したもの・・・旧記も無しと記す。広島県神社誌には備後一宮に対して当社を二宮と称する。天文22年(1553)毛利元就が杉山城を攻めたときに兵火に罹って社殿は焼失。元就は神威を恐れて弘治2年(1556)になって隆元とともに再建した。現存する本殿は修理を重ねているがこの時のもので、三次市指定文化財である。

本殿は三間社入母屋造で前方一間は吹き放ちの外陣となる。「広島県の近世社寺建築」によると「本殿は自然石乱積基壇に建ち、ほぼ当初の(弘治2年)形式を保たれている」と紹介されている。


写真(かげとらさん)
ここは広島県指定史跡高杉城跡でもあります

左:木製鳥居
中:石鳥居
右:全景社叢

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E132.54.6.550N34.46.26.365&ZM=11

コメント(9)

知波夜比古神社

写真(かげとらさん)

左:境内の説明看板
中:狛犬(左)
右:狛犬(右)
知波夜比古神社

写真(かげとらさん)

左:拝殿
右:本殿
近いうちに三良坂の知波夜比古神社へ行ってきます!!

広島県神社誌には「天文22年(1553)毛利元就が杉山城を攻めた」とあるが、現地案内板は高杉城趾とし、江田氏の支城であった高杉城には城主祝(はふり)甲斐守、治部大輔を中心に千人が籠城していた。知波夜比古神社の神職を兼ねる祝氏は神社を中心にこの丘を三重の空堀と土塁で囲み城とした」とある。尼子に味方した江田氏を毛利の軍勢が攻めている。備後太平記「三谷郡高杉村祝の城没落之事」によると、攻手毛利軍の先陣は吉川元春。備後から元春に加勢した武士は有地石見守清元、美作守隆信、杉原播磨守盛重、渡辺越中守兼、古志清左衛門豊長、楢崎三河守安元、和知豊後守豊郷・・・。城中には祝甲斐守、治部大輔を先として兵二百余騎、西城ノ城主久代修理亮が百騎、その外雑兵七百余騎が立て籠もり・・・。三備史略も同じ内容を記すが、祝方で斬首された数は七百余級とあり、この地で壮絶な戦いが繰り広げられたようだ。合戦日は備後太平記、三備史略ともに天文21年7月23日であるが、陰徳太平記、安西軍策等は天文22年7月23日である。
知波夜比古神社

拝殿前の狛犬

後ろ玉乗り型

本日お昼からふらりと行ってきました。
「広島県の近世社寺建築」「広島県の神社建築」の両方ともに「本殿は自然石乱積基壇に建ち」とあるが、自然石乱積基壇に建てられているのは高杉のではなく三良坂の知波夜比古神社だった。写真が差し替えられたのか、誤記、誤植だと思う。三良坂については別トピで紹介するが、その基壇部分だけはここの載せておく。

写真

左:拝殿の扁額
中:自然石乱積基壇
右:三間社妻入入母屋造の本殿
後ろ玉乗り……新しいタイプかな……

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