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ウデータ/基本情報コミュの●自伝/00〜19才●

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■1962(0才)/

2月11日AM2時22分22秒(というのはウソだが)、大阪府堺市・上野芝病院にて生を受ける。命名、宇田珠樹。珠樹という名前は中国の詩歌に出てくる“宝のなる木”の名前から。…宝…なるか?しかしながら、当時はまさに、玉のように可愛い男の子。父・宇田正は追手門学院大学助教授、母・照代は専業主婦であった。JR阪和線「津久野」の公営団地にて、以降5歳まで過ごす。
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■1963(1才)/

絵が好きな父は赤ん坊であった僕を何十枚もスケッチして家の壁に飾り、母は経済効果の為とは言え僕に手製のフリル付の服を着せてくれたりと、充分な愛情に包まれた幼年期を過ごしたように思う。
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■1964(2才)/

当時、片面刷りだった新聞の折り込み広告の裏にクレヨンで絵を描きまくる。モチーフは主に電車、虫、魚が中心。鉄道と経済の関係考察をライフワークとしている(らしい)父親の影響を受け、大の電車好きに。
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■1965(3才)/

○弟“穂高”誕生。

中耳炎で通っていた耳鼻科の頭のハゲた医者や、電車で偶然乗り合わせたハゲたオヤジに「オジサン、髪の毛どこに忘れて来たの?」とギャグをカマシまくり、母親をヒヤヒヤさせた。何故かハゲに並々ならぬ興味があったらしい。

初の自作ギャグは、両手を広げたポーズで「ブーン飛行機だい」(?)。
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■1966(4才)/

○私立「太陽幼稚園」入園。

この頃、ある日突然母親に「人は誰でもいつか必ず死ぬものだ」と教えられ、「そんなんウソやー!!」とワーワー泣きじゃくる。一晩中泣き明かし、以降、しばらくは「そうだ、人はいつか死ぬんだ、この僕も」と思い出す度に“ブワッ”と涙が溢れだして止まらなかった。

この時の不条理感は以降大きなトラウマとなったらしく、青年期までたびたび、ある時ふと(例えば扇風機の羽が回っているのを見ている時に突然)、「ああ、オレはいつか死ぬんだな、でもその後もこの世界は何の変わりもなく存続していくんだ」というとてつもない焦燥感に襲われることがあった。その際、僕の意識は成層圏辺りにまでパンし、僕の死など知るよしもない下界(地表)を恨めしげに見下ろしているのである。
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■1967(5才)/

当時一世を風靡した円谷プロ制作の特撮科学空想ドラマ「ウルトラマン」にハマる。同じ団地に住んでいたモトジ君に無理を言って借りた特大ウルトラマン人形のウデを取ってしまい、どう考えてもバレバレなのに素知らぬ顔をして返しに行き、何か言われるのではとしばらくの間ビクビクして過ごした。つまり、生まれて初めて罪悪感を経験。

この年の秋、宇田家は大阪門真市・門真団地へと引っ越す。延々と続くレンコン畑の中央を埋め立てて造成した新興公営住宅。周囲を畑に囲まれた陸の孤島のような場所であったが、その分自然に溢れ、子供には最適の環境だったと言えよう。僕は団地内の私立さくら幼稚園へ転入。
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■1968(6才/小1)/

○門真市立「南小学校」へ入学。

画才を発揮し、担任の先生が黒板で何かを絵入りで説明する時には「宇田くん、ちょっと黒板に○○○○を描いてくれる?」てな調子だった。粘土細工も上手くいつも先生が僕の作品をベタ誉めするのでクラスのワルガキからはシットされ、朝学校に行ってみると、教室の後ろに飾ってあった粘土の作品をペシャンコにされていたりした。しかし、体育はまるでダメ。運動会は大嫌いであった。

この頃、鼻の下に鼻くそ大のイボが出来、当時売り出し中の新薬イボコロリ等を試してみるが効かず、おばあちゃんの言う通り、ナスビにマッチで手足を付けた人身御供をベランダ下の土に埋めてしばらく後、まさにイボがコロリと取れる。これがイボコロリが時を経て効いたのか、おばあちゃんのマジナイのせいなのかはよく分からない。
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■1969(7才/小2)/

この年、次年の開催に向けて世間で万博熱が一気に盛り上がり、その象徴である岡本太郎作デザインの「太陽の塔」に非常に惹き付けられる。他のパビリオン群にも夢中になり、自分で勝手に「万博新聞」なるものを作って学校に持って行き、教室の後に貼って悦に入ったりしていた。

この頃、一日中、何だか自分の存在が実体から少しズレているような不思議な感覚を覚える日がたまにあった。言ってみれば“幽体離脱”しかけの状態、とでも言おうか。

また、同クラスの柳瀬智子と仲良くなり、お互いの家を行ったり来たりする。当時は男友達より女友達と遊ぶ方が楽しかったように記憶している。

この時点での僕の将来の夢は「昆虫博士」であり、現在の<※蛾恐怖>が信じられない程、それを含めた多種多様な昆虫採集に興じていた。先にも述べたが門真団地の回りはレンコン畑を中心とした田園地帯がそのまま残存しており、虫採り、ザリガニ釣り等の場所には事欠かなかった。

この頃、クラスの悪友から女性器のことを“おめこ”と呼ぶことを教えられ、それを公言してはならない、というプレッシャーから逆に公言したくてたまらなくなり、家で「おめこ…おめこ…」等とブツブツ呟き、母親に「あんた、何言ってんの?」と怒られたり、ノートに延々“おめこおめこおめこおめこ…”と書き連ねたりする。
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■1970(8才/小3)/

○妹“花絵”誕生。

日曜の朝早くに起きて、布団の中で“世界偉人伝(伝記シリーズ)”を読むのが密かな愉しみであったが、ある朝、本に熱中していると電話が鳴り、僕はその音を聴いた瞬間「あ、おばあちゃんが死んだ」と直感。電話に出た母が泣き崩れたので「ああ、やっぱりそうだ」と。事実それは母方の祖母の死を知らせる電話であった。不思議な体験である。

また、当時、国語の授業で、僕の書いた「たこ焼き」という詩が、先生に誉められて学校通信的な冊子に乗ったりするが、実はその詩は、子供新聞の投書欄からの盗作であった(これは僕だけが知っている事実である。両親はさぞや“この子には才能がある”とでも思ったことだろう。ゴメンナサイ)。

しかし、何か優れた物を選び出し、コピー、ペーストし、サンプリングすることで、自身の血肉と化す術には長けていたようだ。

この頃、生え替わった前歯の中央に、まさに犬の歯のように尖った犬歯が生えてくる。歯医者に、歯並びに影響すると言われて手術で引っこ抜くが、今思えばこれをそのままにしておけば、意外に歯のバランスは保たれたのかも知れない。

また、当時はオディプスコンプレックス(?)が一気に高まった時期でもあった。父親は「ご飯粒を残すな」「くだらないTV番組を見るな」「勉強しろ」等とすぐに怒るウルサイ存在であり、毎晩父親が帰って来て鳴らす独特のベルの押し方を聞くとウンザリしたことを覚えてくる。が、毎年コマメに家族旅行に連れて行ってくれたり、気が向けば僕と弟が寝る前に枕元で柳田国男や小泉八雲の本から拾った素材を分かりやすくアレンジして話してくれたりと、面倒見は悪くなかったと思われる。

この頃“舌を噛み切って自殺する”という死に方があることをTVドラマで知り、自分の口の中にあるパーツを使って自分で自分を殺すことが出来る、しかもその“舌”と“歯”というパーツが常に隣り合ってることに恐怖を感じ、自ら舌を噛んでみたくなる一種の神経症「舌噛み」が始まる。この症状は以降、暫く、断続的に顕われるようになる。
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■1971(9才/小4)/

同クラスの佐藤直子に淡い恋心を抱く。彼女は明るく天真爛漫であり、クラス委員をやる程の才女。明らかに異性として意識していた、つまりこれが僕の初恋と言っていいだろうが、ある体育の鉄棒の時間、みんなの前で逆上がりのお手本を見せていた佐藤さんは力み過ぎたのど同時に大きなクシャミをし、その拍子にとてつもなく長い青ッパナを垂らしてしまった。皆は一瞬笑うことも出来ずに凍り付き(佐藤さんは、一応可愛いコとして認知されていたので、その失態に声が出なかった)、佐藤さんは鼻水も拭かず泣きじゃくってしまったが、それを見て僕の初恋は急速に醒めることとなる。

その代償と言うのでもないだろうが、当時アイドルとしてデビューした南沙織に憧れ、彼女のデビュー第2作である「潮風のメロディー」のシングル盤を親に買ってもらう。これが初めて僕が自分の意志で手に入れたレコードとなる。南沙織のロングヘアーに対する想いは相当なもので、あるバラエティ番組の寸劇で彼女が短髪のカツラを冠って出演しているのを観て、本当に髪を切ってしまったのかと思い込み、涙ぐんだ程であった。

また、この年の夏、腸炎に掛かり、大阪府立医大病院に一週間程入院する。担当の看護婦さんが優しく、後年の看護婦コスチュームフェチの源泉はここにあったのだろう(というのはウソだが)。

同時期、一世を風靡した「仮面ライダー」「バロム1」などの特撮ヒーロー物にハマる。どちらかと言えば悲劇的なライダーより、明るめのバロムの、とくにユニークな怪人ならぬ“魔人”に凝る。
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■1972(10才/小5)/

○4年間通った「南小学校」が生徒数過多となり、僕を含めた約半数の生徒が分校として新築された「脇田小学校」へ編入。クラスでにわかに「怖いマンガブーム」が起こり、楳図かずお、古賀真一などの著作を級友に借りて読む。特に楳図の「おろち」の印象は強烈であった。

同クラスの上田晃久、岸俊之と3人で仲良しグループ「白鳥トリオ(上田氏命名)」を結成。活動内容は遊び、虫採り、基地造り等々。岸俊之に子供の作り方を聞いて「そんなん、絶対ウソや!!」と強い拒否反応を起こす。それまでの僕は、“キスをすれば子供が出来る”とマジで思っていた。この時期、親父の部屋でSM雑誌を見つけ、そのアブノーマルな世界にかつてない興奮を覚えると共に、街外れの国道端に打ち捨てられたエロ本の朽ち果てた感じに激しく発情する。

また、当時僕が好きだったアイドル、南沙織にどことなく似ていたクラスメートの井戸端雅世にかなり熱烈な恋心を抱くが、もちろん告白する勇気はなかった。

この頃の僕は非常に家族旅行にこだわり、どこかへ行くと聞けば何ヶ月も前から予定表を制作し、持って行くもの等を図解する等、旅へのテンションを異常に盛り上げようとするところがあった。この傾向が後の旅好きへと結びついて行くのだろう。
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■1973(11才/小6)/

級友であった岡田信一の「きのこのキノオ」に影響され、初めての自作マンガ「ユーレイサイボーグ1973」を執筆、クラスで回覧し始める。岡田氏と同じく大学ノートに鉛筆描きで、クラスの有志に回覧し、家に持って帰っては続きを描くといったスタイル。(これを仮にインナークラスコミックと名付けておこう)この時点での将来の夢は「漫画家」であった。「火の鳥」や「鳥人大系」等の手塚治虫作品に強く惹かれる。
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■1974年(12才/中1)/

○門真市立「第四中学校」へ入学。

背が低かったことを気にし(この頃のあだ名は“ツマヨウジ”その後、背が伸び“ワリバシ”に昇格)、いかにも背が伸びそうなバスケットボール部に所属するが、練習がキツく3ヶ月で退部。しかも、その方法も、サボリ気味になってズルズル行かなくり、しばらくの間は先輩の目を避けつつ学校に通わねばならないという、何とも煮え切らないものであった。

この頃、極度の視力低下により銀縁メガネを着用するようになる。が、一年間でメガネを5本も無くして買ってもらえなくなり(眼鏡がカッコ悪く、授業中以外は胸ポケットに入れていて、自転車通学の際、振動でどこかに落としたと思われる)、以降の約10年間、僕は0.1の視力のまま、ボヤケた風景の中でバクゼンと世の中を生きることとなる。
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■1975年(13才/中2)/

夕方再放送されていたTVアニメ「宇宙戦艦ヤマト」に懲り始め、同時期、劇場版が公開された際には、父親に頼み込んで付いて来てもらい、東京までそれを観に行く始末(当初、「ヤマト」はまったく人気が見込まれておらず、劇場版は関東圏のみでの公開予定であった)。

また、同じく再放送されていたTVアニメ「ルパン三世」の第一話で、マドンナの峰不二子が組織に拉致され、台に磔にされ、くすぐられてもだえるシーンにリピドーが強く執着。親父の部屋でのSM雑誌の発見と、この時の不二子チャンの媚態で、僕のSM趣味は決定されたのだろう(これはマジな話)。この時期、一気にアニメに目覚めた感があるが、当時は、アニメファンやオタク等といった言葉もなく、どちらかと言えばアニメは最先端のサブカルチャーであった(笑)。

「〜ヤマト」へのシンパシーから、その総設定・デザインを担当していたマンガ家、松本零二の熱烈なファンとなり、氏の源流を辿る。特に九州から上京して東京の四畳半のアパートでサエない暮らしを送るガニマタメガネが主人公の「男おいどん」には「〜ヤマト」以上にハマり、当時廃刊となっていた講談社コミックのバックナンバーを探し求め、同じく松本氏の信奉者であった友人の泉浩一と共にチャリで市内の古本屋を渡り歩いたりした。

また、同学年のスケ番、横田カオル(ロングスカート、ペシャンコ鞄の典型的なズベ公。でも色っぽかった)に何故か目を付けられ、構内や路上で会うたびに「玉ちゃ〜ん、カワイ〜」等とカラカワレルが、ある日、横田グループ数人に学校の休憩時間に非常階段へと呼び出される。「胸触ってみい」と脅され、拒否ったが無理に手を捕まれ、彼女自身の胸を撫でさせられる。柔らかかった。
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■1976年(14才/中3)/

爆発的な人気を博した「宇宙戦艦ヤマト」のパロディ版であるインナークラスコミック「大宇宙戦艦大和の物語」を執筆し始める。「あさってのジョー」「大釣人伝」等、松本零二の影響を受けつつ、その他のマンガ家からもエッセンスを拝借した(サンプリング的?)作品を執筆。藤子不二夫(A)の画風とその独特のダークな雰囲気にも影響を受ける。

この頃、幼年時代に虫採りしすぎた祟りか、強度の“蛾恐怖”となる。小さな蛾であっても側に来ると脂汗が出る程怖く、飛び退いてしまう程で、この症状は以降中年期まで続くことに。正式な原因は不明。
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■1977年(15才/高1)/

○大阪府立「門真西高校」へ入学。

夕方から再放送していた「太陽に吠えろ/パート1」のショーケン(マカロニ刑事)に心酔。紙を巻いて作った疑似タバコを噛みつつ無意味に顔をしかめたりする。

また、次第にマンガからフォークソングへと興味が移行していった時期。河島英五の絶叫歌「なにかいいことないかな」に強烈な印象を受け、親戚の叔父からクラシックギターを借り、そこにフォークギター用の金属弦を張って掻き鳴らすという暴挙に出る。
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■1978年(16才/高2)/

件のギターで初めてのオリジナル曲、「旅化粧」を制作。以降、数冊の大学ノートに旅への憧れと少女趣味がミックスした未熟な詩を綿々と書き溜め、ギターで適当な曲を付けて毎晩部屋で、河島英五よろしくがなりたてる日が続く。

同じクラスの浅田一良と音楽を通じて話すようになり、彼とフォークユニットを組み、文化祭の出し物公募への参加を画策。真夜中のバス停で練習にはげむ。この時の音楽的主導権は浅田にあり、当時彼が信奉していた原田真二の楽曲をコピー。結果は落選。

クラブ活動はバドミントン部へ加入。というのも顧問の先生が図書室の司書であり、浅田と共に憧れていた藤田郁子先生であったから、というだけの理由。しかし、練習は思っていた以上にハードであった。また、同じクラスの大西敦子のことが好きになり、卑怯にも夏休み直前(フレれても顔を合わすまでに回復期間が設けられるので)に「キミとラーメンを食べに行きたい」等と書いたラブレターを送り付ける。一週間後、返事が来て「私は爬虫類のような女、あなたには相応しくない」と完璧にフラれる。
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■1979年(17才/高3)/

ラジオでふと聴いた、ムッシュかまやつの「我が良き友よ」「どうにかなるさ」にシビれ、ムッシュのごとく髪を伸ばし、下駄を愛用し始める(“下駄を鳴らしてヤツが来る〜”より)。

この夏、親に3万という大枚をせびり四国へ初めての一人旅に。約1週間、四国中を放浪する。巡礼のジイサンにカマを掘られかけたり、終電の無くなった山奥の駅からタクシーで、同じく取り残された水商売のオバサンの一人暮らしのアパートへ泊めてもらったりと結構中味の濃い旅だった。この時の体験は後に“四国旅行”というトーキングブルースとなる。

また、ムッシュかまやつの「我が良き友よ」の作詞・作曲者である吉田拓郎へのシンパシーを感じて、友人に借りたレコードを聴き始める。程なく拓郎初期の名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」を聴くに至って、これほど良い曲がこの世にあるだろうか、と心酔する程に。

折しも吉田拓郎はフォーライフの社長を辞めてアーティスト活動を再開したところで、フェスティバルホールで観た拓郎のコンサートの弾き語りのパワーに徹底的に感動し、タイミングよくこの夏、篠島で行われたオールナイトライブに、夏の補習授業をシカトし、親を騙して単身参加。以降、しばらくの間、吉田拓郎を中心に世界が回り始める。

河島英五もそうだが、拓郎の唱法はひたすらな怒鳴り系、がなり系であり、それを真似て部屋で彼等の唄を歌っている内に、僕の内部である変化が起こる。これまでの僕の自己表現はマンガという、どちらかと言えば、表現と発表に時差がある静的なものであったが、拓郎の唄をがなっている内に、その場で、自己を噴出させたいという激しい欲望が芽生えて来たのである。つまり、ステージに立ち、見る者に自分の声を浴びせたいという、凌駕の感覚。だから、僕は拓郎によって決定的に、精神構造を変えられたと言って良い。

それを証明するかのように、この年の文化祭でクラスで制作した映画「夕鶴(を現代探偵物風にアレンジしたもの)」では主役の探偵、桑島洋介役を演じることに。一年前なら考えられなかったことだ。挿入曲として「バイ・バイ・ラブ」も制作。吉田拓郎の「外は白い雪の夜」のサビそのままのタイトルであるが、詩的には放浪詩人であり、拓郎のパートナーでもあった岡本おさみの影響を強く受けたものであった。

さらに、校内弁論大会参加者募集にギターの弾き語りを取り入れての参加を思いつき、単身、音楽室での公開オーディションに挑む。なぜかテンパッて社会や体制へのくだらない不満をしゃべりまくり、ギターをかき鳴らして吉田拓郎の「人間なんて」を絶叫し、審査員の教師共をア然とさせるが、客席で観ていた浅田は一人拍手喝采してくれた。

進学のことを考え始めた時期でもあり、美大受験の為、週数回放課後、淀屋橋の中之島美術学校へ。ペーパーの立体制作(タイトル:今、まさに飛ばんとしているニワトリ)に於いて、滅多に出ない(らしい)Bの評価を得る(次の年「京都精華美大」を受けるが桜散る)。

そんなある日、電車の中でたまたま出逢った中学時代の友人、内海和則と音楽の話で意気投合し、生まれて初めてのバンド(トリオ・フォークバンド/アコギ2本+ボーカル)“お伽草子”を結成。この内海という男、1年留年して高校に入ったのであるが、バンドのルックス面の弱さを補う為に、かつての級友である加用浩という二枚目をバンドのメインボーカルにスカウトしたり、自校の女子を組織して会費制のファンクラブに仕立て上げる等、マネージメントの才覚を持ち合わせていた。当時の阪急ファイブ・オレンジルームで行った初ライブには同じ羽織に鉢巻きをしたファンクラブの女の子が20人近く集まり、すっかり人気者気分。(再度確認しておくが、これは内海の才覚の賜である)

レパートリーはかぐや姫の「21才の別れ」、大友ゆう子の「傷心」、吉田拓郎の「落陽」等。また、ファンクラブの会長、安藤美和子と共に会誌の編集を担当。音楽とマンガの融合を目指し、「お伽草子」等、フォークソングの要素を取り入れたインナークラスコミックを発表。一部で熱狂的(?)な支持を得る。

また、担任の美術顧問から卒業アルバムのアートワークを依頼される。しかしその出来は満足いくものではなく、人から依頼された仕事に対する自身の情熱の足りなさを痛感するが、これは以降、変わることがなかった。

クラブ活動は、やや無理のあるバドミントン部から自分の本分であるマンガ研究会へ転入。本格的なペンと墨汁を使い、当時の流行マンガ家さべあのまの影響を受けた作品を会誌に発表。「旅とビー玉」「巡恋歌(これは大学に入ってから後輩に依頼を受けて執筆、部誌に掲載された)」等を発表。また、高校の授業で習った萩原朔太郎の詩世界に興味を持ち、「カエルの死」「なまめかしい墓場」等を意味の分からぬまま漫画化して悦に入る。
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■1980年(18才/大1)/

○京都私立花園大学入学。

“音楽同好会(通称:音同)”へ入部。その際キャンパスで僕を勧誘した、ひとつ年上で山形出身の東北美人・太田奈美さんに一目惚れ。彼女は同じ音同の3つ先輩である遠藤真吾氏の彼女であり、この最初で最後の身を焦がす程の片思いは半年以上も続くことに(結局、遠藤氏への憧れが奈美さんへの想いに勝り、この我が人生最大の片思いはジ・エンド。遠藤氏には長髪、グランジファッション、言動や口癖にまで多大な影響を受け、氏が敬愛していた作家・吉行淳之介も傾倒する)また、音楽同好会に入部する際、ちょっとしたイタズラ心から入部申込書の名前を“珠樹夢郎”とし、以降、ナリユキでそれを本名だと言い張ることに。そのおかげで名前がバレるのが怖く授業にも出席出来ない日が続く。

大学入学と同時に中京区・千本丸太町にある下宿屋「山田荘」で、念願のひとり暮らしを始める。家賃1万2千円、タバコ屋の2階、全8部屋ではあるが他の住人は無し、炊事場は共同、電話とトイレは1階の大家さんちのを使わせてもらう、といった風情の昔ながらの学生アパートであったが、憧れていた「男おいどん」と同じ四畳半生活を実現した僕は満足至極。僕の部屋の隣は大家の娘の部屋であり、屋根の上に設置した物干台も大家さんちと共同だったので、僕が洗濯物を干しに行くといつもその娘の色トリドリの下着が風に揺れていた。しかし、間もなく、わずかな家賃を溜めに溜め、大家の目を盗んで暮らす日々が続くことになる。

また、正式に付き合っている訳ではなかったが、件の“お伽草子”の会誌編集等でかなり親しくなった安藤実和子が、僕の始めての音楽同好会でのライブに来てくれ、そのまま泊まって行く。つまり初体験。しかし彼女は初めてではないどころか、かなり慣れている様子であった。その後、ヤッタんだから彼女はオレのもの的な若さが面倒臭く感じられたのだろう、彼女はあっさり離れて行ってしまう。

当時の僕の風貌は髪を胸元まで伸ばし、ツギハギのベルボトムに下駄という、完全に“遅れて来たヒッピー”風の出で立ち。この夏、初めての5人編成のバンド“びんぼうず(G/小野山某、B/玖村某、Dr/葛葉某、Key/早瀬光)”を結成。正統な吉田拓郎のコピーバンド。「落陽」「春だったね」等、拓郎の「ライブ73」を中心とした選曲であった。秋の学園祭の初舞台ではかなり盛り上がったが、ハードロック好きのドラマー、クロスオーバー好きのギターリスト等人選がバラツキがありすぎ、吉田拓郎の音楽だけでは皆満足出来ず、約1年程で解散。折しも時代はフュージョン真っ盛りであった。

この夏、音楽同好会の1年先輩で“びんぼうず”のベーシストでもある久村氏のナナハンのケツに乗っけてもらい、2人で日本海側を鳥取砂丘までニ泊三日のツーリングに出掛ける。何度も居眠りしながら氏の腰にしがみ付き、風になった気分を満喫。

さらに、この冬、友人の佐々木と長野県野沢温泉スキー場でアルバイト。働いていた民宿で同じくバイトしていた女子高生“くま”こと大熊光代と出会い、この“細い目に曲がった鼻の雪国美人”に淡い恋心を抱く。その体験を記した「野沢温泉恋物語」や、短編オムニバス形式の「たとえばこんなラブソング」をノートコミック(ノートにピンペン一発描きのマンガ)にて発表。

この年の12月8日、ジョン・レノン射殺。一気に高まったレノン熱に影響され、ベスト盤の「シェイブド・フイッシュ(かつおぶし)」を衝動買い。その時は軽く聴き流していたが、「女は世界の奴隷か」「マインドゲーム」「マザー」「コールドターキー」等、ビートル野郎、レノンのホンモノのロックンロール・シャウトは、その後長い時間を掛けてジワジワと効き始め、僕の中にロックンロールが居座る基盤を築いたと思われる。

その他、友人の浅原が傾倒していた、デビューして間もない村上龍に興味を持つ。「限りなく透明に近いブルー」「コインロッカーベイビーズ」等。
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■1981(19才)/

相変わらず“珠樹夢郎”を騙り授業に出席出来ず。昼過ぎに起きて部室のある学生会館へ行き、友達とダベッて過ごし、夕方からは部室でバンドの練習、夜は友達が先輩のアパートでまったりするのが日課。で、深夜に帰宅し(家賃を溜めていたので大家が寝静まってからしか帰れなかった)、また次の日は昼間で寝る、てな罰当たりな暮らしブリ。

ある晴れた日曜の朝、友人の浅原一成宅に遊びに行く度にBGMの如く聴かされ続けても何とも思わなかったローリング・ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」が、いつの間にか僕の身体や精神の隅々にまで浸透していることに気付く。「ジャンピン〜」が聴きたくてたまらなくなった僕は、近所のレンタル屋でストーンズのベスト盤を借り、何度も何度も、飽きることなく「ジャンピン〜」を聴いた。この日、ロックンロールが僕に舞い降りたのだ。しかし、僕が本当にロックンロールに自覚的になるまでには、まだ多少の年月を必要とする。

浅原とは音楽的な趣味が合い、2人で幾つかのライブに出かける。天王寺野外音楽堂の“泉谷シゲル&バナナ”のライブ、梅田バーボンハウスの“ストリート・スライダーズ”のライブ等々。この2つのライブは特別であり、以降双方のバンド活動に多大な影響を与えることとなる。僕はロック志向の強まりと共に、RCサクセション、泉谷シゲルのコピーバンド“エアーズロック(G/小野山某、南某、B/山本某、Dr/野近某、Key/早瀬光)”を結成。春の定期演奏会等に出演するが、イマイチ盛り上がらず。泉谷の影響の色濃いオリジナル曲、「流れ行く雲の」を制作。

この春、大学前の行き着けの焼肉屋のマスターの紹介で、祇園のスナックで数カ月バーテンのバイトをする。夜の8時から朝の4時までの勤務で、ちょうど大学の春休み期間であり、夕方起きて銭湯へ行き、晩飯を食ってからチャリで出勤。明け方帰って来て寝るという、昼夜完全逆転型の生活となった。このバイトで僕と同期でバイトに来ていた1つ年上の新入りホステスと懇意になり、彼女のアパートに入り浸り飯を食わせてもらったりとインスタント・半ヒモ生活を体験するが、深い関係になった後は、やはり僕の「お前はオレのもの」的な青さが禍いし、程なく捨てられる。が、この時の体験は甘く切ないイメージとして、その後も長く僕の中に残留し、様々な創造の源泉となる。

さらに夏には、自分では2,000円程しか持たず、友人の佐々木、米島にタカりながら北海道旅行へ。道南から道北までの広い範囲を列車で渡り歩く。しかし不均等な人間関係は間もなく破綻をきたし、札幌で2人と決別。その時ポケットには¥300しかなく、150円でアルバイトニュースを買い、10円で電話を掛け、120円で地下鉄に乗って旭川まで仕事の面接へ。次の日から日払いのおつまみ販売の仕事を得る。朝早く同じように金の無さそうな若いの数名と共にワゴン車に乗せられ、まったく地理の分からない山奥の集落で降ろされ、夕方ここに迎えに来るから、と“おつまみセット”が詰まった大袋を渡される。夜は旭川の駅のベンチで寝た。

“おつまみセット”はひと袋1,000円で、ひとつ売れば300円のリベートが貰える仕組み。「売れる訳ね〜だろ!!」と途方に暮れたが、どうしてどうして、北海道の大自然の中で生きている人達は何とも気持ちが大きく、一件一件訪ね歩いている、どう観てもヒッピーかルンペンそのものの怪しい僕を、飲み物を出して温かく迎えてくれ、「よ〜し、10コもらうべ」等とドシドシ買ってくれた。おかげで一週間程で3万円くらいの儲けとなり、どうにか京都までの運賃を稼ぐ(その間は最寄りの旭川駅のベンチに寝泊まりしていた。今考えるとタフだったよなあ)。

また、四畳半にてシコシコと雑誌の賞を狙った本格的なマンガ作品を執筆するが全て未完。「しがらみ坂恋物語(未完)」「アンジー(未完)」 「人間のクズ(未完)」等。

この年、京都芸大の学園祭にてルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」、トッド・ブラウニング「フリークス」を観て、トラウマと見分けの付きにくい類のスルドイ衝撃を受ける。同時期、“漫才ブーム”到来。ツービートが大のお気に入りとなり、一世を風靡したビートたけしのオールナイトニッポンを聴きまくる。自ら権威を創りそれを自ら破壊しながら笑わせる孤高のスタンスにシビレ、以降、長きに渡りタケちゃんのフォロワーとなる。

(ウッディー)

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