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南京大虐殺・議論の広場コミュの雑談 etc (2)

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コメント(128)

【書 評】

森山優さんの新著『日本はなぜ開戦に踏み切ったか 「両論併記」と「非決定」』(新潮選書)を読了しました。開戦までの政軍関係等を全般的に考察した好著です。

天皇の開戦責任についての考察等々、本書は、幾つかの部分で私と見解を異にする部分があります。然しながら、著者は日米開戦に関する個々の論点に対して過度に拘ることなく、極めて実証的にその全体像の解明に努めております。

戦前の日本型(官僚機構特有の)意思決定過程の問題点を炙り出し、開戦決定過程迷走の背景にあった日本特有の「セクショナリズム的」意思決定システムが、実は現代にも連綿と受け継がれているのではないかとの著者の問題意識は、現在の政治の混迷を見るまでもなく説得力があります。本署はそうした意味で、優れた日本型組織論を論じたものと云えるでしょう。

嘗てカール・シュミットは著名な『政治神学』の中で、「主権者とは『例外状態』において決断する者である」という決断主義を標榜し、大統領の非常大権(憲法48条)の積極的行使を肯定しました。結果として彼はワイマール民主政の「破壊者」となったと考えますが、最近の橋下市政等に鑑み、「例外状態」に於ける決断主義の危険性は、案外我々の身近に迫ってきているようにも感じます。

本書で試みられた日本型組織の特徴でもある「両論併記」「非決定」は、単に現在の政治に混迷を齎しているのみならず、嘗て橋下が放言した「選挙による付託≒白紙委任」といった、委任独裁的政治状況への「民衆の盲目的・熱狂的支持」に繋がる危険性をも内包しているようにも感じます。

本書を一人でも多くの方が読み、現在の危機的状況を考察するための参考として頂ければ幸いです。
さて、再開します。

以前の投稿を読み直さずに書いていますので、以前と認識が変わってしまっている部分も多々あるかもしれません。この点はご容赦を。


論点は、おおまかに4つになると思います。以下、順番に見ていきます。


その1.「乙案第4項」の性格について。

>4項に具体的な援蒋停止条項を盛り込むならともかく、漠然とした条項を適用期間を明示せず提案した訳であること等に鑑み

かず色さんは、「第4項」は必ずしも「援蒋停止条項」であるとは言えない、と主張しているようです。

これが私には、どうも理解できない。もう一度、今度は「日米交渉資料」を中心に、一連の経緯を振り返ってみることにしましょう。



乙案第4項は「米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるが如き行動に出でざるべし」との表現でした。

これの「原型」は、9月6日御前会議にて決議された、この条項でしょう。



一、(支那事変に関する事項)

 米英は帝国の支那事変処理に容喙し又はこれを妨害せさること

(イ) 帝国の日支基本条約及日満支三国共同宣言に準拠し事変を解決せんとする企図を妨害せさること

(ロ) 「ビルマ」公路を閉鎖し且蒋政権に対し軍事的竝に経済的援助をなささること



11月1日連絡会議でも、第4項が「援蒋停止行為」を含む、というのは、当事者双方の当然の了解であったと思われます。現にその後の交渉は、「第4項=援蒋停止行為」という大前提で進んでいきます。


東郷外相は、「乙案」提示にあたり、明確にこのような指示を出しています。

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十一月二十日東郷大臣発野村大使宛電報第八〇〇号

四、は米国の援蒋行為停止をも意味するものと御含み置あり度し

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そしてハルは、これを「援蒋停止行為」と受け止めた上で、「非常なる難色」を示しました。

-------------------
十一月二十一日野村大使発東郷大臣宛電報第一一四七号

米国は日支全面和平の努力を妨ぐるが如き措置及行為を為さざる旨を約すとのー項に対しては非常なる難色を示し三国同盟条約に対する従来の主張を縷述し米国々民の頭に同条約との関係より来る抜くべからざる疑念の存する限り米国として蒋介石援助を打切ることは極めて困難なり

-------------------

その後の電報でも、しばしば「援蒋停止」の表現を見ることができます。


十一月二十三日野村大使発東郷大臣宛電報第一一五九号
援蒋行為打切りの点に関しては・・・承服し難しと答へたり


十一月二十三日野村大使発東郷大臣宛電報第一一六一号
長官に於ては今直に日支橋渡しを為す意向なく又援蒋打切りは困難と為しつつあり 


十一月二十四日東郷大臣発野村大使宛電報第八二一号
援蒋行為停止は(蘭印物資確保及米国の対日石油供給と共に)絶対不可缺の要件にして



「ハル回顧録」、『太平洋戦争秘史 米戦時指導者の回想』(毎日新聞社)を見て気がついたのですが、「中公文庫」版はかなりのダイジェスト版であったようですね。

全文はのちほど紹介しますが、「太平洋戦争秘史」掲載の「ハル回顧録」には、しっかりと「援蒋停止」の文言が出てきます。「乙案」に対するハルのコメントです。

>日本の提案を受諾することによって米国の負う義務はまったくもって降伏にひとしいものであった。

>米国は日本が必要とするだけの石油を供給し、凍結令を解除し、日本と完全な通商関係を復活しなければならない。また、米国は中国援助を停止し、公式に承認された蒋介石政府に対する精神的ならびに物質的支持を引っ込めねばならない。さらにその上、米国は日本が蘭印から資材を入手することに援助を与え、西太平洋地域の米国の軍事力増強を停止しなければならない、というのである。



繰り返しますが、来栖特使も、この条項が交渉の大きなネックとなった、と認識しています。(『泡沫の三十五年 日米交渉秘史』)

-------------------
米国が乙案に合意を拒んだ理由の主な点を列記してみると、つぎの通りである。

(一) 蒋介石援助打切り
 蒋介石援助打切りは、対英援助打切りと等しく、ドイツのあくなき武力侵略政策に対抗しつつある米国として、とうてい承服することは出来ない。

(二) 仏印兵力北部移駐
(以下略)
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野村大使も、「ハル・ノート」に直面して、こんなことを言っていますね。

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十一月二十六日野村大使発東郷大臣宛電報第一一八九号

米側にて斯る強硬案を提示するに至れるは英蘭支の策動に依る外援蒋行為停止の我方要求と数日来我国要人の英米打倒演説 我対泰国国防全面委任要求説等に影響され米側の妥協派が強硬派に圧倒せられたる為かと推察す
-------------------

「援蒋停止行為」なんて要求するから、米国側はこんなとんでもない案を出してくるんだよ、と嘆いています。

以上、交渉は明確に「第4項=援蒋停止条項」との認識を前提に進捗したと思います。

そしてこの条項が、交渉の大きなネックとなった、というのもまた、日米双方の共通認識であったようです。


かず色さんが

>4項に具体的な援蒋停止条項を盛り込むならともかく、漠然とした条項を適用期間を明示せず提案した訳であること等に鑑み

との主張を行うのであれば、具体的な資料を提示していただけないでしょうか。

そうしないと、議論がさっぱり前に進みません。
その2。「乙案」を米国が飲む可能性があったか、ということを論じてみましょう。

かず色さんの発言はこうでした。

>乙案然り。同案を「米国が絶対に飲めない」と評価する向きもあるようですが、実際にこの案(最終案)は当時の米国務省・米陸海軍にも然程違和感無く受け止められたようです。実際、米国務省極東局が主に作成した所謂『暫定協定案』は、その内容に於いても乙案と違和感なく読めます。


実際の交渉経緯を振り返ります。

「甲案」の成立がどうやら不可能になってきた12月18日。

野村大使・来栖特使は、米国側の姿勢を見て、このまま乙案を提案しても「反って成立困難の見込」と判断します。

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十一月十八日野村大使発東郷大臣宛電報第一一三四号

此の際直に乙案を提示することは連日当方に於て熟議の結果に依るも反って甲案よりも成立困離の見込なるに付実際的見地よりして乙案提出に先だち差当り同案中の凍結令解除及物資獲得を主眼とする実質的妥結を試み之を手順として他の問題の解決に進む方得策にして又然らずんば急速妥結頗る困難と思考す

-------------------


そこで野村大使は、独断でこんな提案を行いました。

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十一月十八日野村大使発東郷大臣宛電報第一一三一号
凍結令実施前の事態に復帰することとし即ち日本は仏印南部より撤兵するに対し米国は凍結令を撤去す
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「援蒋停止条項」抜きの「乙案」と言ってもいいでしょう。ハルはこれに対して、

>根本の問題に付話が付かざること明瞭なる間に一時的手段として御説の如きことを行ふも無駄なり

とは言いながらも、

>日本政府の首脳が日本は何処迄も平和政策を遂行するものなることを明かにするならば夫れを機縁として自分(「ハル」)は英国、和蘭等を説き凍結令実施前の状態に復帰することを考慮し差支なし 但し夫れに依り日本の政情が益々平和の傾向に向ふ様になること肝要なりと

と概ね好意的な反応を見せます。


来栖大使によれば、この野村提案は米国側にかなりの好感をもって受け止められたようです。

>十八日の野村大使提案は、米国でも好意的に考慮する意向であるという情報が、しきりにわれわれの耳にはいってきた。
(来栖三郎『泡沫の三十五年 日米交渉秘史』)


しかしこの「野村提案」では国内がまとまるはずもない。「独断提案」を知った東郷外相は、野村大使を強く叱責します。

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十一月二〇日東郷大臣発野村大使宛電報第七九八号

我国内情勢は南部仏印撤兵を条件として単に凍結前の状態に復帰すと云ふが如き保障のみにては到底現下の切迫せる局面を収拾し難く尠くとも乙案程度の解決案を必要とする次第なり

 情勢右の如く差迫り居るを以て貴電私案の如き程度の案を以て情勢緩和の手を打ちたる上更に話合を進むるが如き余裕は絶無なり 旁々貴大使が当方と事前の打合せなく貴電私案を提示せられたるは国内の機微なる事情に顧み遺憾とする処にして却って交渉の遷延乃至不成立に導くものと云ふの外なし

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かくして野村大使は、「援蒋停止条項」という爆弾を抱えた「乙案」を、改めて米側に提案せざるをえない羽目に追い込まれました。
さて、この「乙案」をめぐる交渉を米側から見るとどういうことになるのか。さきほど紹介した、『太平洋戦争秘史』掲載の「ハル回顧録」の関係部分を、全文、紹介しましょう。

中公文庫版と比べると、どの部分が省略されたかよくわかり、興味深いものがあります。

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 日本の提案を受諾することによって米国の負う義務はまったくもって降伏にひとしいものであった。

 米国は日本が必要とするだけの石油を供給し、凍結令を解除し、日本と完全な通商関係を復活しなければならない。また、米国は中国援助を停止し、公式に承認された蒋介石政府に対する精神的ならびに物質的支持を引っ込めねばならない。さらにその上、米国は日本が蘭印から資材を入手することに援助を与え、西太平洋地域の米国の軍事力増強を停止しなければならない、というのである。

 一方、日本の方は中国との和平成立までは、依然として対中国作戦を続行し、ソ連を攻撃し、北部仏印に駐兵する権利を保有することになっていた。

 日本が仏印に派遣することのできる軍隊には制限がなかった。日本が進んでこの軍隊を南部仏印から北部仏印に撤退するということは、この軍隊は一両日のうちに復帰することができるのであるから、まったく無意味なことであった。

 こうして日本は南方地域および重要な南方通商路を脅やかすことのできる仏印の有利な拠点を押さえていることになるわけである。  

 大統領と私は、かような提案に同意することは、米国が日本の過去の侵略政策を黙認し、日本の将来の征服政策に同意を与え、米国外交政策の基本的原則を放棄し、中国とソ連を裏切り、日本が西太平洋と東アジア地域で覇権を握ろうとする努力に対し、無言の協力者の役割を果たすことを承諾するものである、というとんでもない結論に達せざるを得なかった。

 私は日本の両大使に対し第一部としてつぎのように述べた。

 "米国国民はヒトラーと日本とのあいだにはヒトラーが世界の半分を支配し、日本が他の半分を支配することができるようにすることを目的とした協力関係があると信じている。

 三国同盟があることや、日本の指導者たちが「東亜の新秩序」とか「共栄圏」というようなナチ式のスローガンを連続くり返していることほ、国民の信念を強めることに役立っている。

 それゆえに必要なことは、日本が平和方針をとるはっきりした意図を表明することである"

 第二部においてわれわれは一〇項目の提案をした。そのうちの九項目は相互に関係のあるものであった。これらにはつぎのことを含んだ。(P116)

 両国政府はいずれも第三国と締結した協定は、提案した基本協定の根本目的と衝突するような解釈をしないという協定。(これは三国条約に関係があった。)

(つづく)
(ハル回顧録 つづき)

 一一月二一日に来栖が一人で私(ハル)に会いにきた。

 私は来栖か野村から平和的解決の問題についてなにか提案することはないかとたずねた。来栖はなにもないと答えた。

 この来栖の来訪と、平和的解決の問題についてこれ以上なにも提案することはない、という言明を聞いてから、私はワシントンの有力者(その中にはスターク提督も入っていた)と話し合った時、日本はいつ攻撃してくるかもしれないという警告を従来よりずっと強調した。

 外交的には情勢ははとんど絶望であった。しかしわれわれとしては手段をつくして平和的な解決を見出し、戦争を避け、あるいは先にのばしたいと考えた。

 私はスチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長などと絶えず接触していたが、これらの人々は、反撃の準備をするためにもっと時間が必要であると主張した。

 これに反し日本側は、早く最終的決断に踏み切れと矢の催促をしつつあった。しかし、わが方は断固として米国側の原則を固執し、一方、日本側も要求に対しては譲歩の色を見せずおどかしを続けていた。

 それを受諾するか、さもなければその結果を甘受せよという一一月二〇日の日本提案(乙案)について、私は大統領や同僚と検討の上、とるべき手段としてはつぎの三つのうちどれか一つを選ぶことができると考えた。

(一) 即時回答を出さずにそのままにしておく。そうすれば日本軍部は米国がなにも代案を提出しないことを国民に納得させることができる

(二) 日本側の提案を拒絶する。そうすれば日本軍部はそれを開戦の口実とすることができる

(三) あるいは、わが方は適当な反対提案を提出してみることができる

 われわれは第三の方法をえらぶことにした。二一日と二二日の両日にわたってこの反対提案を作成したとき、われわれは実行可能な仮協定すなわち暫定協定を起案し、これに恒久的協定の大綱を添付することにした。

 三ヵ月−大統領は最初六ヵ月を希望した−続くことになっていたこの仮協定は、一般協定に関する会談が続行されるあいだ、われわれに危機を切り抜けさせるだろうと思われた。

 われわれが最終的に立案した暫定協定草案の骨子はつぎのようなものであった。(P117) (以下略)
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『ハル回顧録』は戦後になって書かれた回想であり、米国民向けに「日本側がいかに悪辣だったか」を強調している可能性はあります。

しかしそれを割り引いても、どう見ても「乙案」を受け入れる雰囲気があるようには見えません。

また上の記述は、交渉の現場で野村・来栖に見せたスタンスと整合しており、大きな違和感があるものでもありません。


「乙案」を受諾する、ということは、すなわち「援蒋停止条項」を受諾する、ということです。「暫定協定案」とは、この点で決定的な差異があります。

野村大使も26日時点(「ハル・ノート」提出直前)には、このように判断せざるをえませんでした。

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十一月二十六日野村大使発東郷大臣宛電報第一一八〇号

累次往電の通り乙案全部を容認せしむる見込殆ど無くー方時日は切迫 此の儘にては遺憾乍ら交渉打切りの外なく微力慙愧に堪へず

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以上のデータを見る限り、私にはどうも米国側に「乙案」を受諾する可能性があったようには思われないのですが・・・。

この点についても、かず色さんの資料提示を待ちたいと思います。
その3。日本側が「乙案成立」の可能性がどの程度あったと見ていたのか、という点に移ります。この点については私はかず色さんの認識にある程度納得できますので、「解説」ということになります。

かず色さんのお考えは、こうでした。

>乙案(最終案)が米国にとって絶対に受諾不可であるとの明確な認識を統帥部および政府が持ち得ていたかは甚だ疑問です。


確かに、「明確な認識」はなかったでしょうね。この点、調べてみると、実に面白い。

まず政府側です。

東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』によれば、東郷外相は、「一割以上の見込み立ち難し」。東條首相は「四割位の成立の可能性があるものと思う」ですね。

来栖特使は、東條首相は楽観的に過ぎる、と判断していたようです。

来栖三郎『泡沫の三十五年 日米交渉秘史』によれば、東條首相が「交渉成立の見込みは、成功三分失敗七分くらいの公算とみられる」と発言したのに対し、来栖特使は「交渉成立の見込みに対する首相の意見は楽観に失すると考える」と言い返しています。


以上を見ると、外務省側はかなり困難な交渉となることを覚悟していたようです。東郷らは、「一縷の望み」(須藤眞志「ハル・ノートを書いた男」P90)を頼りに、交渉に挑まざるを得ない、と認識していました。



一方逆に、軍部側では、乙案が成立してしまうのではないか、という「懸念」を強く持っていたようです。戦史叢書『大東亜戦争開戦経緯<5>』からです。

>其の際乙案を米国が受入れるかどうかの判断が話題に上り、(武藤)局長から私に感想を聞かれたので、私は即座に「受諾されるだろう」と言い放った。之に対し局長は「そうかねえ」と言い一同暫く沈黙した。ややあって局長は「援蒔停止の要求があるのでどうかねえ」と言ったが誰も発言しなかった。(「石井大佐回想録」)

>第二案は妥結の可能性大なり(田中新一日記 十一月二日)


しかし「乙案成立」は、軍部側にとって大きな懸念材料であったようです。「石井大佐回想録」を続けます。

>そして此の乙案が妥結に達したならば一応芽出度いようではあるが、大きな心配が残るということを誰も考えた。

>即ち資産凍結は解除されたが、油は米国国防上の必要との理由で細々としか供給されず、支那事変も解決されずに進めばABCD包囲網は強化され、米国の建艦は著々進捗し、大阪冬の陣と同様遂に戦わずして屈従しなくてはならないということがはっきり予見されるのである。


つまり、交渉成立を望んでいる側が「困難な交渉」を覚悟しているのに対し、望まない側は「あっさりまとまってしまうかもしれない」と懸念しているわけですね。

須藤眞志は、「ハル・ノートを書いた男」の中で、次のようにコメントしています。

>この時期、統帥部では、交渉は妥結の公算の方が大きいと考えていたようである。その認識のずれが、連絡会議における統帥部の強硬な意見となっていたともいえる。



そう、まさにこの不安があったからこそ、統帥部側は「援蒋停止条項」という、まさに交渉をぶち壊し兼ねない条項を「押しつけ」たのでしょう。

一応は

>支那を条件に加へたる以上は乙案による外交は成立せずと判断せらる(杉山メモ)

と「判断」して東郷外相の「乙案」を受け入れてしまったのですが、内心では不安がいっぱいであったものと思われます。



余談ですが、「乙案成立」に備えて、二十班では「乙案成立の場合の保障条件」の研究を始めましたよね。

その中には、もちろん例の「援蒋停止条項」の明文化も出てきます。

>三、第四項の了解として米国をして左記を承認せしむ。

>第四項の趣旨は米国政府が諸般の形式に於ける援蒋行為を避止するのに意にして、両国政府は乙案調印に際し、此の旨を中外に闡明することを約す。"


そしてそれは、戦史叢書『大東亜戦争開戦経緯<5>』によれば、

>右はどの項目の一つをとってみても、到底米側の同意を得られそうもない内容であり、交渉のぶちこわしをねらっているとしか思えないものでもあった

という代物でした。
その4。最後は、「統帥部の雰囲気」です。そろそろ出かける時間が迫っておりますので(今日は紅葉狩りの予定です)、これは簡単に。

>ここから見えてくることは、外交や安全保障政策を失敗から袋小路に入った統帥部の迷走振りです。明確な戦略を有し開戦案一本槍であった訳ではありません

「雰囲気」については、私はあまり資料を知りません。これについては、かず色さんから明確な資料の提示があれば、私は納得します。

しかし少なくとも事実として、「連絡会議」において統帥部側が「乙案」に反対し、「援蒋停止条項」を加えることでやっと妥協した、という経緯があります。



参考までに、戦史叢書『大東亜戦争開戦経緯<5>』にはこうあります。

>ひるがえって陸海軍統帥部特に参謀本部は、十一月六日以降本格的作戦準備に着手してからは、「乙案」による対米交渉の妥結を恐れていた。

(略)

>すなわち参謀本部の大勢は今や戦争によって局面を打開するのほかはないと確信していたのである。



防衛庁戦史室の言うことですから、そうなんだろうな、と私は素直に受け止めてしまったのですが・・・。

参考までに、「陸軍省軍務局と日米開戦」(保阪正康)などを読むと、参謀本部はやはり強硬一本槍であったようですね。


あと、以下についても興味深いので、根拠資料の提示をお願いできないでしょうか。

1.「作戦室」に「撤兵論」があった、という資料。

2.塚田攻が「撤兵」に原則合意していた、という鈴木貞一回想。(手元の鈴木回想にはこの話は出てきませんでしたので)
最後は全くの余談です。

「暫定協定案」が提案された場合、日本はそれを受け入れるかどうか。本題とは関係ありませんが、これは面白いテーマですね。

秦郁彦は「微妙なところ」と書いています(「日米開戦は回避できたか」=別冊歴史読本86冬季特別号)。

また須藤眞志も「これが日本側に渡されていたら歴史は大きく変わっていたかもしれない」との見解です。(「ハル・ノートを書いた男」P108)

東條首相も、戦後、「あれがくればなあ」と嘆いていた、と伝えられます。


ただ、どうなんでしょうね。あれだけ強硬に「援蒋停止条項」にこだわった統帥部の二人は、間違いなく「反対」に回るものと思われます。

となると、統帥部を説得するか、あるいは統帥部を無視して受諾するか、しか方法はなくなります。

既に連合艦隊はハワイへ向けて発進しています。日本側は、わずか10日ぐらいの間に、「国論」をまとめあげなければならない。普通に考えたら、これはかなり困難です。


考えられるとしたら、「天皇カード」の利用でしょうか。例えばルーズベルト大統領が天皇に「親書」を出し、天皇が「受諾」を指示する。こうなれば、日本側に受諾の余地が生まれます。


まあいずれにしても、「イフ」の話です。どの「要素」を重視するかでいろいろな見解がありえますので、私はこの点で争うつもりはありません。

なおハル自身は、「このわが方の提案を日本側が受け入れる可能性は三分の一もないであろう」と発言していることを付け加えておきます。
>90以下

先ず、恒常的な長文連続投稿は(一部の例外を除いて)自重して頂きたい。理由は、多数の参加者が議論するというコミュニティの性格上、こうした自説の開陳等によって、それまでの参加者の議論の文脈が判らなくなるからです。多数の参加者があって、コミュニティが成り立っていることを理解してください。
上記疑問等を勘案し、先の<56>の私の書き込みを一部修正しましょう。少し言葉足らずの箇所を補記いたします。

【修正事項】
?「問題と成りえない。」⇒「本質的な意味での問題と成りえない。」
?「同条項が日米交渉の桎梏となった訳ではありません。」
 ⇒同条項が、本質的な意味での日米交渉の桎梏となった訳ではありません。
?「少なくとも統帥部がそうした「波及効果」を事前に意図したものでもありません。」
⇒?「少なくとも統帥部がそうした「波及効果」を明確に予見し、事前に意図したものでもありません。」

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

<56>一部抜粋
「そもそも、日本側最終案(乙案)の変遷過程を見ても判るように、「蒋介石政府への支援をやめること、という、米側が絶対に飲めそうにない一項」なる直截的表現を用いた条項は存在しません。ご指摘の点は、昭和16年11月4日東郷大臣発在米野村大使宛公電第727号中の第4項※の事なのか。それを指すのであれば、この類の外交交渉における主張として一般的に用いられる抽象的表現であり、本質的な意味での問題と成りえない。また、米国側証言(例えばハル回顧録等)を読んでも、同条項が、本質的な意味での日米交渉の桎梏となった訳ではありません。後の米側暫定協定案への中国側の批判⇒ハルノートの過程で、本条項が中国側にどの程度の影響を与えたのかは研究の余地がありますが、少なくとも統帥部がそうした「波及効果」を明確に予見し、事前に意図したものでもありません。
※同項の表現はその後の乙案の変遷過程を見ても変更なし。
>78 ケンさん
>皆様に確認して頂き易いように前掲書の文庫本からの引用になりますが、同書下巻のP207〜208にかけて 乙案は交渉の基礎になり得なかったか と題して、筆者の考察が述べられていま。私はここに出てくる資料を知りませんし、バランタインシュミット案の内容も分かりませんが、乙案が全く受け入れる事が出来ないもので有ったのかは考慮の余地が有るように思います。


ご紹介の著書(大杉一雄著『日米開戦への道』(講談社学術文庫)ですが、中々図書館に行けず、結局Amazonで入手いたしました。先ずは、ご紹介の箇所前後を熟読しました。これから下巻を先に熟読しようと思います。本署のご紹介ありがとうございます。

乙案に関する大杉所見の中で、確かに彼は『バランタイン―シュミット案』に言及しておりますね。本案は、複数の米国側暫定協定案の中でも比較的有力な提言であり、対日政策、特に対中政策に関しては妥協的な内容です。こうした米国務省等の見解を踏まえて、大杉さんは、乙案になお米国側妥協の余地ありとの心証をお持ちなのでしょうか。

所謂『バランタイン―シュミット案』(以下「草案」という。)の原典を私は読んだことはありませんが、対中国政策に関する草案の概要は以下の通りです。両氏が草案をハル国務長官に提出したのは11月11日。

【現状認識・提出目的の概要】
●現時点で日本との包括的協定の可能性は低く、日米交渉決裂の公算大。
●より有利な状況が来るまでの対日会談継続し、日本が包括提案を受入する道を開き、また中国が日本から満足すべき条件を得る可能性を考慮し、草案を提出する。
●恐らく日本側は石油供給を求めるであろうが、平時輸出量までは与えても可。

【要 旨】
●米国は日中に即時交渉開始を提案(米国は日本が出す条件を聞かない。交渉中も対中国経済援助継続。交渉決裂の場合は全面的中国援助。日中協定が成立すれば対中再建全面的援助)
●日本は日中交渉中の休戦を中国に提案
●交渉中、米国は対中国軍需品供給を停止
●日本は交渉中に中国・仏印の兵力・軍事物資を増強しない。
●日中協定が成立すれば、米国は日本と、戦略物資を除く通商関係回復交渉に入る(平和生活必需品供給は即時再開。その他の対日通商の回復は日本の中国・仏印撤兵の度合いに比例)
●日本は太平洋では軍事攻撃を行わない。

【約 束】
●相互約束
 ・四原則支持
 ・太平洋における無差別原則に基づく貿易と資源獲得に協力
 ・力による政治的経済的拡大を行わない
●日本の約束
 ・日中戦争終結後に仏印撤兵
 ・中国・満州における米国人の正常活動を直ちに回復
●米国の約束
 日本が約束を果たせば経済的政治的制裁を変更・廃止


なお、本件に関してABC協定等の観点から若干解説をしたいと思いますが、これから所用がありますので、また改めて投稿いたします。結論から申し上げれば、草案の背景にある米国外交戦略(ABC協定)はこの時期においてなお有効であり、大杉さん同様、乙案による交渉の余地を排除することはできないものと考えます。

<続く>
>87 かず色さん
>私はそれよりは「昭和陸(海)軍の組織的・構造的問題」という観点から、この問題を考える方がより妥当だと思います。

同意見です。
というか、前の書き込みでの「経費の使い込み云々」というのは思いっきり乱暴な比喩として用いたもので、それのみのでこの時期の陸海軍の行動を説明しきれるものではないとは思っています。

>会社における『不祥事』『失敗』等の本質的要因には、概してコーポレート・ガバナンス上の諸問題が大きく関わっている

この点についてコンパクトに解説した文章として、昨年放送された「NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか」という番組を書籍にまとめたものがあります。
上巻におさめられた「巨大組織“陸軍” 暴走のメカニズム」の部分ですね。

番組中で言及しきれずに言葉足らずとなっていた部分を文章で補い、また番組中では短時間でピンポイントでコメントを述べるだけだった森靖夫による詳細な「陸軍という組織内部の統治のあり方」についての考えが記載されています。


私が「経費の使い込み」という乱暴な比喩を用いたのは、本書の中で紹介されている以下のような記述が念頭に有ったからです。

「中国から撤兵しないとにっちもさっちも行かないことは多くの人間に共有された認識だったにもかかわらず、陸軍は「満州事変以来の陸軍の成果が無に帰すような事は絶対に容認できない」として断固として撤兵に非を唱えた。
その理由の大きな部分として、「既に多数の人命を費消してしまっているのに成果もなく引き揚げてくることは出来ない、そんなことをしたら自分たちや陸軍の諸先輩がたの責任が問われる、そんな責任を引き受けたくない」という心情が陸軍の中にあった」

上記のような自己保身的な心情が陸軍の中にあったことが指摘されており、その構図はまさに「乱暴な言い方」をすれば、<83>で述べた「会社の金を使い込んで帳簿に大穴を開けた経理担当者」という図式とそう大きな違いはないのではないかという気がするのです。
>78 ケンさん <100>の続きです。


バランタイン―シュミット案(以下「草案」という。)の特徴の一つは、米国が日本に対して「日中交渉開始」の提案を行い、仮に交渉が開始された場合、米国は日本に対して「対中軍需品供給の停止」を約している点であります。当該提案部分は、表面的には米国の融和的・妥協的態度に見えるかもしれませんが、基本的には当時の米国外交の原則を踏まえたものと言えます。ここで、若干ながら当時の米国外交の基本原則を振り返ってみたいと思います。

当時の米国の対日戦略の基本は、日本に対してワシントン体制(及び付随する九カ国条約等)の維持・回帰を促す一方で、日本がワシントン体制に挑戦する限り、原則論に基づいて対峙するものでありました。日米通商航海条約破棄(1938年)等の措置は、こうした米国外交の具現化と云えるでしょう。

但し、ここで注意すべき点は、当時の米国の安全保障上の最大の関心事が欧州問題にあったことです。私はこれを「欧州第一主義」と言っておりますが、ドイツのポーランド侵攻(1939年)以降、特に西欧諸国へのドイツの本格的な軍事行動(1940年5月〜)以降は、FDR政権に於ける安全保障上の最大の関心事は欧州(特に英国)となります。従って、FDR政権は国内の孤立主義的傾向に苦慮しつつ、苦心惨澹の末に武器貸与法(レンドリース法)を成立させ(1941年3月)、これまで以上に莫大な対英支援等(独ソ開戦後は対ソ支援)を行いました。

対枢軸米英共同軍事戦略(以下「ABC協定」という。)は、こうした一連の過程の中で英国との間に締結されました。ABC協定の基本戦略は「対独(欧州)戦略優先」であり、対日戦略は「従属的」なものと位置づけられます。FDR政権はドイツ打倒を第一目標とし、仮にドイツが打倒された場合、対日問題は「消滅」するものとの認識が、ABC協定にはありました。故に、FDR政権は対日圧力がアジアに於ける軍事的紛争に発展することを警戒し、国内世論を睨みながら(当時米国は孤立主義が主流)、戦備拡充への時間稼ぎと、欧州への本格的参戦の機会を窺います。何故なら、当時の米国海軍力では二正面作戦は不可能であり、フィリピン防備等も不充分、かつ、大西洋では通商破壊作戦を行う独海軍潜水艦隊との海上護衛戦(実質的な米独交戦関係)を既に展開していたからです。

そして、米国は、上記ABC協定を日米交渉終盤の1941年11月に於いても基本戦略として堅持します。11月1〜2日の国務省・陸軍・海軍・諜報機関の責任者による会議(バランタインも出席)に於いて、ハル国務長官は「軍事的準備のない『対日警告』への反対」を表明し、軍部に至っては「中国が敗北しても米国は対日参戦に反対」と主張。結局、対日強硬派のホーンベック等の反対もあって最終的な意見の一致に至らず、最終的には軍部(統合会議)からFDRに対して、「対日最後通牒への反対」を答申します。なお、当該答申はABC協定が未だ有効性である事についても具体的に言及しております。

FDRは上記答申を踏まえ、11月5日にスチムソンに対して「6か月停戦案(暫定協定)」を打診します(FDR提案は、米国の日本外務省暗号解読に基づく乙案情報の影響もあったと推察されます)。

前置きが長くなりましたが、これが『バランタイン―シュミット案(草案)』に繋がります。
大杉一雄さんが著書に於いて乙案の可能性を必ずしも否定していないのは、こうした草案の背景にある米国の基本戦略(原則)を理解しているからでしょう。

結論を申し上げれば、当時の米国は乙案(最終案)を必ずしも「絶対に受け入れられないもの」とは考えておらず、FDRやハルの対応如何によっては、乙案の修正協議等も政策的には可能であった事に留意すべきでしょう。また、乙案拒否と同時に草案を提出すれば、東条政権は継続協議に応じた可能性は高かったという点にも留意すべきであると考えます。

<終>
>101 えぐちさん


先の書き込みの趣旨が良く解りました。確かに、「自己保身的の論理」という点では共通する部分がありますね。

それにしても、「英霊に申し訳ない」という心情は、日米交渉に於ける撤兵問題のみならず、満州権益擁護の論理としても極めて有効でしたね。軍部のみならず、当時の政治家の意思決定の選択肢をも狭めてしまった大きな要因です。

この問題を考察する際、我々は単に軍部や政治の視点のみならず、大きく「世論」という視点が重要であるように感じます。

例え泣く子も黙る昭和陸軍であっても、その存立基盤は地方の農村共同体等に依っております。戦時下の困窮を耐え忍び、家族を陛下の赤子として捧げる多くの民衆の支持がなければ、陸軍は成立し得ません。陸軍は、彼らの忍耐と献身が、怨念となって自らに向かってくることの潜在的恐怖におののいていたのでしょうか。そして、この構図は政治家にも当てはまるように感じます。

以上、雑感です。
>103
>単に軍部や政治の視点のみならず、大きく「世論」という視点が重要であるように感じます。

日露戦争終結時のポーツマス条約の締結に際して、国民は多大な犠牲を強いられて「戦争に勝った」と思っていたのに、賠償金を取れないという現実を前にして日比谷焼打事件などの大がかりな暴動が起こりました。
また、締結に際しては全権大使の小村をはじめ、首相であった桂なども自身の暗殺すら覚悟せざるをえないような状況だったようです。

もしも昭和16年の時点で、「支那本土からの撤兵」という形での支那事変終結という選択がなされたときに、いったいどれだけ激烈な反応が生じるのか、政府としては恐れおののいたことでしょう。
既に支那事変は勃発から4年を経過し、投入した軍費でも戦死者数でも、日露戦争を遙かに上回る規模で行われていた戦争です。
しかも国内的には「南京陥落」「徐州攻略作戦」「武漢作戦」などなど、「勝ち戦の連続」という印象の強い報道が繰り返されていたこともあり、なおさら「撤兵」は言い出せなかったでしょうね。

けれども、それもこれも「支那事変は三ヶ月でカタが付く」と気軽に考えて戦争を始めてしまった陸軍の軽率さと、中国の抵抗にかける決意を甘く見た判断ミスに大きな原因があります。
兵を引くべき時に引かなかった大局観の無さと、自らの取ってきた言動の誤りを見つめて「勇気ある決断」を下す気概を当時の陸軍が持っていなかったことが、やはり最大の要因だったように思います。


この点について、私は陸軍内での派閥対立の激化や、陸軍省(軍政)優位の陸軍統治システムが機能しなくなっていった点にその遠因があるように思います。

日露戦争当時は山縣−桂−寺内という強固な長州閥が陸軍のトップに立って全体をコントロールしており、開戦の決断も講和の決断も彼らが責任を持って決着を付ける事が出来ていました。
対して支那事変突入時も日米戦突入時も、「国家のためにはここで決断しなければならん!」と言い切って責任を取るような立場の人間が居なくなってしまったという状態です。

満州事変以来のゴタゴタの中で、陸軍のトップである陸軍大臣を下から突き上げてその権威が揺らいでいったり、陸軍省・参謀本部・出先軍司令官といったポストがきちんと序列化されずにキャリアパスが混乱していくことで、「誰が陸軍内の制作決定上のトップなのか、誰が最終的に責任を取るのか」というのが曖昧になっており、最終的には西浦進の述懐にも見られるように「(責任を引き受けるような事は)自分ではなくて誰か次の人の代になったときにやってほしいというか…」というような気分が、多くの陸軍中枢の軍人の頭の中にはあったように思います。
そしてその際にも、「引くか、それとも進むか」を決するのに、より重い責任を負うことになる「撤兵」ではなく、責任を「次の人の代」に回すことの出来る「開戦」という更なるバクチへと踏み込んでいったように思います。

先の例えをもうちょっと実情にあったものにするとしたら、「前任者が不法な会計処理を行って粉飾決算的なことを行ってきており、それを引き継いだ代々の経理担当者もこのままでは大変なことになると理解しつつも今さら全てを公にする勇気も出てこず、会社が破綻するまでどんどん粉飾の規模を大きくすることで問題を先送りし続けていった」みたいな感じになりましょうか。
今さらですが、私の関心は、「事実は何か」ということにあります。

資料を集め、それを組み合わせて、ゆっくりと「イメージ」をつくっていく。矛盾・対立する資料があれば、他の資料とも組み合わせて、どちらの資料が正しいのか、あるいは「止揚」の道はないのか、をのんびりと考える。

私が恐れるのは、「情報不足」により間違った「認識」を持ってしまうことです。そのために、自分と異なる「認識」を持つ方については、どのような「情報」からそのように判断しているのか、とことん知っておきたい。

それが、以前から一貫して変わらない、私のスタンスです。


というわけで、今回も、私がかず色さんに期待するのはかず色さんの持つ「情報」を開示していただくことです。

副管理人が参加者から「長文投稿」を批判される、というのもちょっと珍妙な光景ですが(笑)、私の意図は、私がどんな情報からこのような「認識」を持ったのか、をしっかり説明することです。

そのために、私は「手持ちのカード」をなるべく多く開示しています。


私の側の「情報」「認識」に関心がないのであれば、別に読んでいただく必要はありません。

ただ、かず色さんの側の「認識の根拠」を明らかにしていただければ、それで結構です。


その意味で、>>100のような具体的な情報は大歓迎です。一見したところ「米国が乙案を受け入れる可能性の根拠」としてはやや弱いような気もしますが、とりあえずはお示しの本を読んでから判断させていただきます。

「陰謀論」云々の「情報量ゼロ」の投稿は、どうぞもうご容赦ください(笑)。



以前にも言いましたが、私はかず色さんと「勝ち負け」を争うようなつまらない議論をする気はありません。またかず色さんを「説得」する気もありません。

かず色さんに「手持ちのカード」を開示していただき、「情報ギャップ」を埋めることができれば、私にとってはそれで十分です。

当然のことながら、新しい「情報」に接して私の認識が変化する、ということは十分にありえます。



で、私が求めているかず色さんの「手持ちのカード」を、改めて確認します。


1.「乙案第4項」が必ずしも「援蒋停止」を意味しない、と考える根拠は何か。

>「そもそも、日本側最終案(乙案)の変遷過程を見ても判るように、「蒋介石政府への支援をやめること、という、米側が絶対に飲めそうにない一項」なる直截的表現を用いた条項は存在しません。・・・それを指すのであれば、この類の外交交渉における主張として一般的に用いられる抽象的表現であり、本質的な意味での問題と成りえない。

という発言を見る限り、かず色さんの考えは変わっていないように見えます。

私は「手持ちのカード」をほぼフル開示して、当事者がこれを「援蒋停止条項」と理解して交渉を行っている事実を明らかにしたつもりです。

かず色さんの方も、これ以上の「手持ちのカード」があるのであれば、開示をお願いします。


2.米国が「乙案」を受け入れる可能性がある、と考える根拠は何か

大杉本については、大変参考になりました。他に資料があれば、こちらもご開示をお願いします。

ただ失礼ながら、>>102のような抽象的な一般論ではあくまで「背景説明」にとどまり、具体的根拠としては不十分なのではないか、という感想を持ちました。


3.統帥部の雰囲気が必ずしも「開戦一本槍」でなかった、と考える根拠は何か。

ここ、気になって仕方がないのですね。

前回提示の通り、戦史叢書『大東亜戦争開戦経緯<5>』の記述は、

>ひるがえって陸海軍統帥部特に参謀本部は、十一月六日以降本格的作戦準備に着手してからは、「乙案」による対米交渉の妥結を恐れていた。

(略)

>すなわち参謀本部の大勢は今や戦争によって局面を打開するのほかはないと確信していたのである。

と、かず色さんと真っ向から対立します。

何か具体的な資料をお持ちのように見受けますので、ぜひとも開示をお願いします。


あとは本論からは離れますが、以下も私が持っていない「情報」ですので、できれば根拠の開示をお願いします。

1.「作戦室」に「撤兵論」があった、という資料。

2.塚田攻が「撤兵」に原則合意していた、という鈴木貞一回想。


週末は資料のないところにおりますので、「太平洋戦争への道7」はまだ読み返しておりません。ここにありましたら、ご勘弁ください。


今週は、「ここまで」です。
>104 えぐちさん

昭和陸軍の「機能不全」の原因を、陸軍内での派閥対立の激化・軍政優位の統治システムの機能不全等に求めているお考えには共感します。

どこの世界でも統治機構は経年劣化する傾向にありますが、我が国の場合は、ややもすれば統制がとれなくなり、意思決定が先送りされる傾向があるように思います。現在の政治状況が好例で、戦後から高度成長期を経てバブル経済までは議会制民主主義と官僚機構は概ね機能しておりましたが、バブル崩壊後は一転して既存秩序が崩れ、「機能不全」に陥っております。ここに、日本型組織特有の脆弱性があるのかもしれません。

ところで、ここで視点を変えて、ミクロの観点から「日本型組織の問題点」を考えてみたいと思います。

日米交渉当時の統帥部(陸軍側)を実質的に主導したのは少数精鋭の作戦部参謀ですが、当時の部員の少なからずが「対米慎重派」なんですね。例えば、井本熊男(37期:南方作戦統括)、高瀬啓治(38期:北方担当)、竹田宮(42期:対北方)瀬島龍三(44期:対北方⇒戦力運用等全般)。また、高山信武(39期:対支那)、佐藤徳太郎(41期:対南方)、首藤忠男(44期:戦力班)も、必ずしも積極派ではないように思います。

特に、井本熊男対南方統括参謀は、1941年8月時点で、日米戦争の推移如何では「米軍による戦略爆撃による本土焦土化」の懸念を作戦会議で表明し、主戦派の辻政信戦力班長(36期)と大激論しております(最後は辻から鉛筆を投げられる)。また、瀬島龍三参謀は南部仏印進駐前に意見書を上申し、米英との軍事的紛争への発展の懸念を表明しております。

田中作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信戦力班長の3傑は確かに徹底した主戦派でしたが、これだけの慎重論者を抱えた作戦課内を最終的に「開戦」に導いた点に関して、かねてから私は「組織論」の観点から興味を抱いております。

軍事組織という観点から、そこに普遍性を見出すべきなのか、或いは極めて日本的な意思形成過程が内包されているのか。私は感覚的に後者のような気がします。えぐちさんはこの点、如何にお感じになられますか?
>78 ケンさん <100><102>の補足です。

上記で私は「バランタイン―シュミット案」の概要およびその背後にあった米国戦略について言及し、結論として

「当時の米国は乙案(最終案)を必ずしも『絶対に受け入れられないもの』とは考えておらず、FDRやハルの対応如何によっては、乙案の修正協議等も政策的には可能であった」

ことを述べましたが、当該米国戦略の基本骨子を、比較的正確に把握していた陸軍軍人がおりました。主戦派の実質的責任者であった、田中新一大本営陸軍部作戦部長です。

彼は、米国が乙案(最終案)を『絶対に受け入れられないもの』との認識はなく、米国の乙案受諾(謀略的受諾)を現実の選択肢と考えましたが、そう考える理由として、田中には次の対米戦略認識がありました。

●米国の戦争準備のための時間稼ぎ
●日本側暫定協定案(乙案)受諾により、暫定協定後の包括協議を米国側に優位ならしむる。

上記田中考察は、上記<100><102>の内容等に鑑み、田中が基本的に当時の米国外交戦略を正確に見ていた証左であり、東郷等の楽観論よりは、かなり現実的であったと思います。そして、乙案修正過程で、田中のこうした現実主義的視点に影響を受けた統帥部の乙案への包括的部分的の挿入(決して謀略的ではない)は、当時の統帥部としては相応の妥当性を有していたものと考えます。

「バランタイン―シュミット案」については以上です。
>106 かず色さん
>軍事組織という観点から、そこに普遍性を見出すべきなのか、或いは極めて日本的な意思形成過程が内包されているのか。

これに関して、ちょうど今読んでいる北岡伸一氏の著作の中に示唆的な記述があります。

『官僚制としての日本陸軍』筑摩書房

日本型の官僚制という組織が持つ病理や通弊が日本陸軍にも存在しており、スペシャリストとして国防を担う
役割を負っていた彼等がいかにして「国家を蝕む存在」となっていったのかを描いたモノ。

個人的に、ここしばらく読んだ陸軍関係の本の中でも特筆に値するほどに面白い本でした。

思い切って、かなり長くなってしまうのですが、個人的に強く同意できる文章でこの話題に密接に関連した部分を引用してみようと思います。


「第一章 政治と軍事の病理学」

おわりに

近代日本における軍――といっても、主に取り上げたのは陸軍であるが――は、日本の他の官僚制ときわめて類似した特質を備えていた。がんらい、一定の目的の実現のために作られた組織であったはずが、組織の自立性を守り、組織を拡張し、その活動範囲を拡大することがほとんど自己目的化してしまったところは、他の官僚組織と同じであった。また、世界の最新の技術やモデルや理論を、日本の技術的条件を超えてまでひたすら追い求めるところも、他の官僚機構と同じであった。
(略)
このような、自制も後退も知らない自己肥大化傾向は、とくに軍事において弊害が大きい。なぜなら第一に、他のあらゆる分野以上に、軍事においては目的に応じて臨機応変に対処しなければならず、不可能とあれば、目的を切り下げることを敢えてしなければならないからである。第二に、安全の維持には大局的な総合判断が必要であって、セクショナリズムはとくに有害だからである。
〈略〉
近代日本には、安全の維持という職務に賭ける真のプロが、結局成立しなかったと言ってもいいだろう。中国と泥沼の戦争を続けながら、遠くドイツと結んだだけで米英と戦争を始めるというのは、いなかる軍事的合理性からも出てこない判断であった。軍国主義という言葉を、軍事的価値・判断・態度が優越的な位置を占める体制と定義すれば、戦前の日本は軍国主義ですらなかったのである。
(p89−91)
もう一つ。

あとがき

近代の軍は、巨大な官僚制である。前近代の軍がパーソナルな主従関係を中心として組織されるのに対し、規則、資格、分業、専門知識、文書行政などによって特徴づけられ、明確な権限の体系として組織される。その点において、軍は他の官僚制と同様である。

近代官僚制はがんらい合理性を追求したものであるが、それぞれの部局が専門性と権限に立てこもれば、これを有効に統合することは難しい。非能率や責任回避といった逆機能が生じることはよく知られている。省と省、局と局、課と課の主張を一つにまとめ上げるのは容易なことではない。

軍の統合は、他の官僚機構よりも重要である。実力組織である軍とくに陸軍は、独自の行動をとることが物理的に可能であり、その結果作りだされた既成事実は、容易に元に戻せないからである。軍とくに陸軍に対してシヴィリアン・コントロールが必要とされるのは、それゆえである。

組織に対する忠誠心の強い日本においては、その危険はより大きい。近代日本の陸軍を有効に動かすには、軍のトップに、きわめて強い政治力が必要だった。そしてそれが失われたとき、軍はそれぞれの組織でばらばらに動き始めた。統合力は官僚制の中からは出てこない。昭和の陸軍は、統一的な意思を持って国政を引きずりまわしたというよりは、統一的な意思形成能力を失って国政を崩壊に導いていった。これが本書のタイトルのいみするところであり、本書の基本視角である。
(p349−350)
日米戦に日本が突入していった原因である陸軍の強硬な態度というのは、こうした「官僚制の病理」とでも呼ばれるモノが深く影響していたと個人的に思っています。

落ち着いて冷静に考えてみれば「いくら何でも無茶だ」というのは誰にでも分かることなのですが、その無茶を押し通してしまう力が「陸軍という官僚組織が持つ自己肥大性」に存在していたという事なのでしょう。

また、そうした力があそこまで強く働いた原因として、大正期に吹き荒れた軍縮の嵐によって、自己の生活さえも脅かされるような状況に置かれていた軍人たちの憤懣と、「またあのような状況に陥りたくない」という恐怖とが存在していたように思います。

黒沢文貴の『大戦間期の日本陸軍』でも取り上げられていますが、この大正中期から昭和初期の陸軍軍人たちが「偕行社記事」に寄せた文章の中には、生活を脅かされる不安とそうした待遇への怒りや、その現実をやむを得ず受け入れて軍縮という政策を受け入れざるを得ない現実を見据えた諦念の言葉が多数残されています。

そうした憤懣の爆発として満州事変に対する陸軍全体の支持というものが有ったように思います。

「満州権益を守れ・日露戦争において流された将兵の血を無駄にするな」というスローガンが全軍を鼓舞したのは、上記のような状態から抜け出せるという大きな期待を彼等が抱いたが故のことでもあったでしょう。

中国からの撤兵というアメリカの要求を頑として認めようとしなかったのは、そうした過去の記憶が強く刺激された結果として、陸軍が手に入れた既得権益としての大陸への足がかりをなんとしても維持したいという「官僚組織としての陸軍の硬直性」に如実に反映しているのではないでしょうか。

今で言ったら、原発事故でその安全神話が崩れ去った後でも、頑なに「原発は安全」とする主張を続けようとする「原子力行政に携わる官僚達」に、時を超えて色濃く残っている「日本的な官僚組織」の硬直性を見いだせるような気がします。


>>[102]

返事が遅くなり申し訳ありません。半年振りにmixiに復活出来たのに、今度は年末の繁忙期に入ってしまいました。今日もこれから仕事です。
魚屋はこれからが一番の稼ぎ時なので御容赦ください。

詳しい説明ありがとうございます。御紹介頂いた本のうち、みすず書房のは、幸い市の図書館に全巻揃っています。折々読んではいます。当該巻、改めて熟読してみます。
もう話題も変わってしまったようですので、私は簡単に。

今回の議論の焦点は、次の「森山優見解」でした。

>乙案最大のネックは、援蒋停止条項だった。これはそもそも陸軍が交渉を失敗に追い込むために盛り込んだものだった。これは譲歩の中に強硬な要求を混ぜ込むようなものである。


かず色さんは、これをいきなり「左翼陰謀論」と称し、真っ向から否定してきました。私に対する人格攻撃やら暴言やらはかず色さんが一時的に「どうかしていた」と理解するとしても、私にはこれはいささか不可解でした。

その後いろいろな資料を調べてみたのですが、上の森山見解を補完するものは次から次へと出てきますが、否定する資料は、いくら捜しても出てこない。

私は「補完資料」を何点か出してみました。しかしかず色さんの見解は変わらない。

そして不思議なことに、今回はかず色さんの側からはほとんど「資料の提示」がないのです。これでは、私としてはかず色さんの見解のベースがわからない。

そこで私は>>105で「資料の提示」を求めました。そして・・・あっさりと、スルーされてしまいました(^^ゞ


かず色さんがこれまで提示してきたのは、「太平洋戦争への道7」と大杉一雄「真珠湾への道」のみ。(「真珠湾への道」、大変面白く、「東条首相と日米交渉」の章は、全文書き写して熟読しました)

しかし「太平洋戦争への道」は、

>特に第四項として米国は「日支両国の和平に関する努力に支障を与うるが如き行動に出でざるべ」きことを付加して、乙案そのものを否定せぬ代りに政変を惹起せぬ限度までこれによる外交交渉を困難ならしめる、という参謀本部の妥協案(P319)

という表現で、「参謀本部による条件吊り上げ」を明確に認めていますし、大杉本の方は、

>これに対し軍部の援蒋中止の要求があまりに強いので、やむなく4項として追加したのである。軍部が4項を無理に挿入させたのは、米国をして乙案を拒否させることを狙っていたようでもあり、事実ハルは乙案を提示されたとき、この点に難色を示し交渉上大きなネックとなる。(P405)

と、森山見解とほぼイコールです。


結局私には、かず色さんの「否定」の根拠はわからないままでした。

これ以上お待ちしても、どうもかず色さんのポケットの中から何かが出てくるように思われません。

であれば、これ以上続けるのは、お互い時間の無駄というものでしょう。

では、ここまで、です。
>えぐちさん

北岡伸一先生の著書の詳細なご紹介ありがとうございます。是非、読んでみたいと思います。上記ご紹介の内容を読む限り、北岡さんおよびえぐちさんの主張には大変共感いたします。

さて、私は先に「ミクロの視点から」と云いましたが、ここで、この問題に関する私なりの問題意識を書きたいと思います。

私が銀行に入行したのはバブル崩壊後の平成4年(1992年)でしたが、不良債権処理等を通じて感じたことは、プラザ合意以降の銀行の融資姿勢の「異常性」でした。どうもバブル当時は、役職員の「良識」や「常識」といったものが隅に追いやられ、時代の大きな流れの中で埋没してしまった感があります。

では、バブル当時、彼らはどう感じていたかというと、私が聞く限り、どうも殆どの先輩行員はその「異常性」に気付いていたようです。彼らの多くは優秀だったと思います。ただただ、安きに流されてしまったのでしょうか。

上記の問題意識を日本的「空気」の問題として捉えたのが故山本七平氏ですが、私にはこれが極めて日本的なものなのか、或いは普遍的であるのかは判りません。ただ、こうした心理は、昭和陸軍の参謀将校をも支配していたように感じます。

余談ですが、満州国研究兜で著名な安富歩さんが、上記と良く似た問題意識をお持ちのようで、以前、新聞でご自身の銀行員時代(まさにバブル全盛の時代)の体験を語っておられました。ネットで調べましたら、以下のサイトで当時の経験と研究者に転向した経緯を語っておられますのでご紹介させて頂きます。

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●安冨 歩 (YASUTOMI Ayumu, Professor/東文研・東アジア第一研究部門教授)

―― 現在の研究テーマに至るまでの経緯、きっかけは何だったのでしょうか

私は京都大学の経済学部を卒業してから、86年から88年まで住友銀行で働きました。それはちょうどバブルが始まった時期です。日本の銀行は伝統的に不動産を担保にとってお金を貸すのですが、元来はかなり慎重に資産価格を査定していました。ところが、バブルで値上がりが始まると、資産査定がどんどん甘くなっていったのです。また、お金を貸す相手の信用調査も、同様にいい加減になっていきました。それに対して疑問を差し挟もうとすると、上から横から下から蹴りが入る。それも、公にじゃなくて、テーブルの下で、にこやかに。大企業などの組織は、まさに人間を型にはめるシステムで、ものすごい力で、人々を同じ方向に走らせます。疑問の余地なんかなくなるし、思考できなくなる。そうやって「魂の植民地化」が起きていく現場を目の当たりにして、嫌になって、会社をやめました。

やめて、最初に研究したのは、「満洲国」の金融でした。満洲事変の直前、1930年にロンドンで軍縮会議があって、アメリカ・イギリス・日本のトップが、ラジオで全世界に向かって平和を訴えました。ある意味日本のデモクラシーの頂点のような出来事ですが、翌年には満洲事変が起き、32年に「満洲国」が建国されます。同年に内田外相による「国を焦土としても」満洲国を承認するといういわゆる「焦土演説」があり、33年にはリットン調査団の報告を拒絶して松岡外相が国際連盟の会場から退席し、35年には脱退してしまいます。全く逆の方向にわずか2,3年で進み、戦争に向かっていきました。そのあとは戦争反対を口にすることさえ難しくなりました。このプロセスは、バブルのときの銀行と同じだ、と考えたことが満洲を研究した理由ですね。

その研究の中で、景気の過熱とかパニックとは何なのだろうと考えました。こういったものはすべて「暴走」が引き起こすものだと思っていますが、人間はどういったときに、どのように暴走するのかとか、どうしたら暴走から抜け出せるのかを考えるのに、経済学は役に立たなかったんです。そもそも経済学が扱っているのは均衡なんです。人間の本質ってそんなものじゃないと思うんですが。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/interview/16.html
>ケンさん

先日は大杉さんの著書ご紹介、ありがとうございました。
私も若干仕事が輻輳しておりまして、未だ半分も読めておりませんが、中々面白い本だと思います。また、参考文献等のご紹介お願い申し上げます。

それから、嘗て読んだ日米交渉関連本で、保阪正康著『陸軍省軍務局と日米開戦』(中公文庫)は大変面白かったです。これもお薦めいたします。

御承知のように、当時、和戦の決定は統帥事項ではありませんでしたので、陸軍側の対米交渉を実質的に仕切っていたのは軍務局の少数エリートでした。

本書は、第三次近衛内閣退陣、東條内閣成立から日米開戦までの約2ヶ月間を、陸軍省軍務局の視点から描いております。若干小説風なところもありますが、恐らく保阪さんは、石井秋穂(陸士34:軍務局軍務課高級課員)を綿密に取材し、同書を書かれたのでしょう。石井秋穂は日米交渉の陸軍側キーマンでしたので、彼の視点が色濃く滲む同書からは、破局に向かう日米両国の緊迫感が伝わってきます。

以上、僭越ながら。年末年始はお互い、読書三昧といきたいところですね!
吉田裕氏の新刊、『現代歴史学と軍事史研究』が出ました。って、実は発売は昨年11月で、私のアンテナにかかってきたのが最近、というだけの話なのですが(^^ゞ

しかし「学術本」って、どうしてこんなに高いのか。366ページで8400円という値段には多少恐れ入りましたが、面白そうなのでとりあえず購入してみました。

(「南京」に関しては、『南京事件論争と国際法』が収められていますが、『現代歴史学と南京事件』収録のものの再掲です)


いや、なぜ突然この本を紹介したかといえば、「あとがき」が滅法面白いのですね。大学教授のリアルな日常、というやつです。

吉田先生、急に「雑用」が増えて「研究時間」が減ったことを嘆きます。

>ここ一〇年ほどの間に、大学をとりまく状況は大きく変わり、大学内の教育・研究条件も激変した。忙しい、とにかく、やたらと忙しい。

>この間、研究時間は半分ぐらいに減ったというのが実感である。


さて先生、これにどう対応するか。

>私の場合、少しでも自分の時間を確保するため、外界との接触を極力断つことにし、研究室の電話は自働的にファックスに切り替わる設定にした。

>そのかわりに持ちたくもない携帯電話を持ち、ごく少数の人にだけ電話番号を教えている。


つまり先生に連絡するのに「電話」は使えません。それじゃあ、外部から先生に連絡をとろうと思ったらどうしたらよいか。

そう、「電子メール」です。ところがこれが、大変な疫病神。

>大まかにいえば、五〇歳代以上の人間にとって、メールは災いしかもたらさない。(ゆう注 一概にそうとも・・・)

>毎朝、八時過ぎに研究室に入る。自宅にはパソコンがないので(ゆう注 !)、メールは研究室で見ることになる。

>入室しても、すぐにメールをあける気力が湧いてこない。お昼を食べた頃、ようやくメールをあける。

>目に飛び込んでくるのは、締切りをすぎた原稿や未提出書類の督促、いくつもの会議の通知、講演や原稿、取材や面談の依頼などで、心が華やぐメールや心がときめくようなメールは、ほとんどこない(「まったく」ではないが)。

先生、業務メールに、一体何を期待しているんですか。私も一度ぐらい、業務メールに心をときめかしてみたいものです(笑)。

しかし、締切破りや書類の未提出を繰り返して、それをメールで督促されるのがいやでメールを開く気がしない、なんて、大学教授だから許される世界なんでしょうね。普通の社会人がこれをやったら、とんでもないことになりそう。


次の一節に爆笑。

>私の場合で言えばアルコールをたしなみながら、「戦記もの」を読んでいる時が至福の時間なので(なんだか、みじめ)

いや先生、全然みじめに思う必要なんかありません。世の中には、アルコールをたしなみながらネットやっている時が「至福の時間」だ、なんて方は山ほどいますので(これを読んでいるあなたも、多分・・・(笑))。

しかし「戦記もの」を読んでいる時が「至福の時間」とは・・・。私も自称「歴史オタ」ですが、私をはるかに上回る「オタ」ぶりです。

ある意味、好きなことを職業に出来たわけで、世間一般から見ればうらやましい話かもしれません。


というわけで、これからこの本を読み始めます。
昨年末頃、私は思いつくまま本書の感想を投稿いたしましたが、読売新聞書評欄に細谷雄一慶応大学教授の簡潔明瞭、的を射た書評が載っておりましたので、改めてご紹介させて頂きます。本書は、日本型組織論としての普遍的かつ構造的問題点を、現代日本人に突き付けた良著であると思います。


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読売新聞書評:『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』 森山優著

評・細谷雄一(国際政治学者・慶応大教授)
責任回避の論理

 日本が対米開戦を決意してから、この夏で71年が経過した。なぜこの戦争で膨大な人命が失われねばならなかったのか。

 著者は閲覧可能となった膨大な史料を駆使して、困難な決断を先送りにする、当時の指導者たちの「非(避)決定」や「両論併記」の論理を緻密に描き出す。独裁でもない。暴走でもない。それは、組織的利害対立と、弱さからの責任回避であった。

 確かに陸軍や海軍には選りすぐりの秀才が集まっていた。高い能力を持つ者も多い。しかし彼らが固執したのは、組織的(セクショナル・)利害(インタレスト)であった。

 著者の立論を読むと愕然(がくぜん)とする。参謀本部は自らの大陸での組織的利益を失いたくなく、アメリカが要求する中国からの撤兵要求を硬直的に拒絶した。日中戦争を戦う陸軍に優先的に物資が振り分けられるなかで、「海軍は重要物資の優先配分を獲得する条件闘争」へと移っていく。対米戦争が不可能となれば、海軍の予算も物資も減らされる。より多くの予算と物資を得るためにも、陸軍も海軍も戦争準備を語った。日本の将来を憂え、戦争回避を求める理性的な声はかき消されていった。

 開戦が最も望ましいシナリオだと主張する陸軍参謀本部や海軍軍令部のその論拠は、信頼できる数字や精緻な分析に基づくものではなかった。それは、「希望的観測に根拠を置く、粉飾に満ちた数字合わせの所産」であった。「強力な指導者を欠いた寄り合い所帯の政策決定システムが、相互の決定的対立を避けた」ことによって、最悪の結果に至る。

 著者の言葉には、そのような「非(避)決定」への怒りのようなものを感じる。つまり「日本の指導者たちは、不都合な未来像を直視することを避けた」のであり、「内的なリスク回避を追求した積み重ねが、開戦という最もリスクが大きい選択であった」のだ。これは「昔話」だろうか。政治の未来が見えないこの晩夏に読んで欲しい一冊である。

 ◇もりやま・あつし=1962年生まれ。静岡県立大国際関係学部准教授。専門は日本近現代史、日本外交史など。

■朝日新聞連載『プロメテウスの罠』が素晴らしい!

皆様にはご紹介するまでもないのですが、ご承知の通り、今年に入ってからの『プロメテウスの罠』に於ける自衛隊ルポは、大変読み応えがあります。

福島第一原発事故対応に係る自衛隊の活動を、ここまで克明に関係者に取材した朝日新聞取材班に敬意を表したい。これ等の貴重な記録は、震災に立ち向かった全自衛官の誉れとして記録され、語り継がれるべきだと思います。

戦後、自衛隊は旧軍の良き伝統を継承しつつ、過去を顧みて旧軍の悪弊を排し、粛々と、精強な「国民の」軍隊を築き上げてきたように思います。上記連載記事を読みながら、嘗ての「天皇の」軍隊は確実に変容を遂げたことを実感いたします。
http://digital.asahi.com/article_search/s_list3.html?keyword=%A1%D2%A5%D7%A5%ED%A5%E1%A5%C6%A5%A6%A5%B9%A4%CE%E6%AB%A1%D3%20OR%20%A1%CA%A5%D7%A5%ED%A5%E1%A5%C6%A5%A6%A5%B9%A4%CE%E6%AB%A1%CB&s_title=%A5%D7%A5%ED%A5%E1%A5%C6%A5%A6%A5%B9%A4%CE%E6%AB%B0%EC%CD%F7&rel=1
■北朝鮮民衆の悲劇に目を向けよう

北朝鮮が核実験を行った日(2月12日)、私は所用で大阪銀行協会(谷町4丁目)に在り、事実を知ったのは帰宅途中(夕方)に買い物で立ち寄った鶴橋コリアンタウンでのことでした。

幼少の頃から知る商店街は普段と変わりなく活気に溢れておりましたが、此処で生活する在日韓国朝鮮人の方々の中には、核実験の報に接し、心中複雑な方々も多くおられたものと推察します。1950年代後半からの帰還運動で、多くの在日同胞が「地上の楽園」と当時盛んに喧伝された北朝鮮に帰国しました。

当時大ヒットした吉永小百合主演映画『キューポラのある町』(1963年?)からは、当時の帰還運動の熱気が伝わってきますが、早船ちよ(日本共産党員)の原作では、より詳細に、北朝鮮に帰還した、主人公の親友からの手紙等を通じて、彼らの夢と希望、祖国復興の熱気を伝えております。戦前戦後の激しい差別の中、彼らは懸命に生きてきた訳ですから、その気持ちは深く共感できます。

後に、こうした「地上の楽園」観は、金日成政権および寺尾五郎等の左翼進歩的文化人等によるプロパガンダであったことが在日同胞に伝わり、帰還運動の熱気は急速に萎んでしまいます。

帰還運動の熱気の中で、在日韓国朝鮮人の多くは、その親戚縁者・友人等を北朝鮮行の船上に見送りました。50年以上の月日が流れましたが、北朝鮮を巡る国内事情は、彼らに不安や懸念を与えていることでしょう。

我々は、過去のみに捉われ、現実の出来事に目を閉ざすのではなく、この時代にまさに進行している「国家権力による人権蹂躙」に対して、遠くない国での悲劇に対して、真摯に目を向ける必要があります。

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好戦あおり庶民生活抑圧 正恩政権下、餓死数万人説
※産経新聞2013.2.13 朝刊記事より引用
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130213/kor13021307040008-n1.htm

<一部抜粋>

一方で韓国政府関係者が「7対3の割合で内的要因が強い」と指摘するように強行路線を突き進めざるを得ない国内事情もある。

 「子供2人を殺して食べようとした父親が銃殺された。『肉がある』と勧められた妻が、子供がいないのをいぶかり通報。軒下から遺体の一部が見つかった」

 平壌の南にある黄海南道(ファンヘナムド)の農村幹部が、北朝鮮情報を伝えるアジアプレス関係者に語った内容だ。隣の黄海北道と合わせ、北朝鮮の穀倉地域が昨年4〜6月に人肉食が横行するほどの飢餓に見舞われたという。

 穀倉地域でのこれほどの飢餓は、昨年4月の金日成主席生誕100年や正恩氏の第1書記就任に合わせ、平壌住民や軍隊への配給を優先して「コメを根こそぎ奪う」苛烈な取り立てをしたことが原因とされる。「村の1割が死んだ」などの証言からアジアプレスは少なくとも万単位の人が餓死したと分析、国連機関に報告書を提出した。
<以下略>
>>[118] 産経新聞のねつ造プロパガンダをまともに信じているようでは話になりませんね。
まず朝鮮の実態を正確に認識することから始めましょう。

鎌倉孝夫(埼玉大学・東日本国際大学名誉教授)
『朝鮮半島 戦争の危機を読む―朝鮮を知り平和を創る』白峰社(2010)
餓死者の報道は1990年代中頃から散見されるようになりましたが、今回のような穀倉地帯での餓死報道は深刻です。誤報かなとも思いましたが、読売新聞が餓死者一万人を書き、欧米の新聞でも報道されている事から考えても、大規模な民衆の飢餓は発生していることは間違いないでしょう。

こうした北朝鮮民衆の危機的状況を前にすると、最早イデオロギーや政治的なものの概念に、一体何の意味があるのかと感じます。我が国の影響力ある左翼言論人はなぜ、ヒューマニズムの観点から、もっと抗議の声を発しないのか。

北朝鮮民衆に食料が行き渡り、約20万人と言われる強制収容所に囚われた名も無き人々が家族の元に帰れるよう、祈るばかりです。
>>[120]
>読売新聞が餓死者一万人を書き、欧米の新聞でも報道されている事から考えても、大規模な民衆の飢餓は発生していることは間違いないでしょう

正気ですか。「欧米の新聞」といったって、日本の読売や産経にあたる極右デマ新聞はいくらでもありますよ。「中国共産党によりチベットで100万人以上が虐殺された」なんて何の証拠も挙げずに書く新聞があるくらいですからね。
今どき朝鮮で餓死なんかあるわけがありません。もうそんなのは遠い昔です。朝鮮は危機を克服し、現在では高度経済成長が始まり全国が建設ラッシュなのですよ。
ある事情から(マイミクさんには「つぶやき」でご案内の通り)、「南京」に関心を戻さざるをえなくなっています(^^ゞ

今日は、資料に詳しい方に「お尋ね」です。

志賀功氏「鎮魂譜 両角部隊の光と影」という本を見ていましたら、「以下、両角部隊の生存者の証言や陣中日記などから、主なるものを拾ってみる」ということで、「幕府山事件」に関して、以下の証言が掲載されていました。

この本では出典がなく、誰の証言であるか、またソースは何か、不明です。

どこかで見たような気もするのですが、どうしても再発見できません。もしおわかりの方がいらっしゃいましたら、教えていただけないでしょうか。


「私の軍隊生活を通じて一番印象に残ることは、南京での大虐殺だろう。……私は田山部隊(註・第一大隊)本部に勤務していた関係上、少しは内情を知っている。

……十二月十七日に入場式があり、田山部隊からも一部が参加した。残りの部隊で捕虜を江岸までつれていかなければならない。そこで二人三脚のように足をしばった。そして両側に護衛兵をつけた。

……随分長い道のりのように思われた。何しろ大部隊なので早くは歩けない。何しろ二人三脚をやっているのだから、ついたのは夕方になっていたと思う。江岸の窪地に集結させた。機関銃はすえられ、何時でも発射できるよう準備されていた。

 何かがあると直観したのだろう。捕虜の集団からざわめきが起った。事態は急転した。二個大隊の機関銃は一斉に火をふいた。けたたましい重機の音とざわめき、その惨状は見るに忍びない。

事はすでに終ったが、まだまだ生き残った者が死体の下にいた。それを銃剣で剌した。中には棒切れで手向ってくる者もあり、その凄惨な形相は今でも脳裏に浮んでくる。

 軍の命令には逆らうことはできなかったのだ。両角部隊も仕方なく大隊(註・第一大隊)に命令されたのだ、と田山大隊長がしみじみと語られた(個人的に)。

郷土部隊とて好んでこの仕事を引き受けたのではない。上部の命令にはそむくわけにはいかなかったのだ」

「解放目的」説に真っ向から対立するものですので、大変興味があるのですが・・・。
>122

荒海清衛氏の戦後(1980年)回想です。
>122

荒海清衛氏の戦後(1980年)回想※です。
※白虎六光奉友会編『戦友の絆』

私は原典にあたった訳ではありませんが、上記の荒海回想は、南京事件研究者の間では昔から有名です。小野賢二はこの件で、荒海氏に直接インタビューしております※。また、偕行社の板倉さん辺りも間違いなく、この件で荒海氏から事情聴取していることでしょう。
※『週刊金曜日(第12号2.4)』(1994年)

なお、志賀功氏は南京事件研究者ではありませんので、白虎六光奉友会編『戦友の絆』といった極めてマイナーな資料の記述を、ご自身で直接確認された訳ではないと推察します。また、志賀氏は荒海氏と直接お会いされたこともないと思います。志賀氏は、小野賢二が週刊金曜日に書いた内容を一部省略して、自著『鎮魂譜 両角部隊の光と影』の中で紹介しております。

以上
ありがとうございました。改めてネットで検索したら、辛うじてこの証言に言及している方を発見できました。

白虎六光奉友会編『戦友の絆』はなかなかのレア資料で、国会図書館にも置いていない。小野賢二氏がこれを紹介しているようですが、その論稿も、国会図書館のデータベースにもない。

他にこの証言に言及した資料も知りませんので、知らなければ辿りつくのは困難だったようです。

とりあえず、小野論稿を入手できないか、試しているところです。『戦友の絆』の方も何とかしたいのですが、こちらは大変そう。

「資料」をどう判断するかは、小野論稿を読んでから、ということにしたいと思います。
■バーラティ・アシャ・チョードリ女史の回想


今朝の日本経済新聞最終面(「私の履歴書」横)文化欄に、バーラティ・アシャ・チョードリ女史というインド人の興味深い戦中回想が載っておりました。長文に付、その一部分のみをご紹介します。

彼女の父親はチャンドラ・ボースの腹心であり、1923年から日本に滞在。彼女は1928年に神戸市で生まれ、東京の昭和高等女学校2年生の時にインド国民軍に身を投じました。因みに、この間(43〜46年)のことは『アシャの日記』として1974年にヒンディー語で出版され、同書は2010年には母校昭和女子大学でも出版されたようです。

ところで、明日は丁度、大東亜会議開催70周年です。私はチョードリ女史の文章を読みながら、大東亜会議でのボースの激烈な反植民地主義・アジア主義的な演説を思い出しました。

戦後、大東亜会議は歴史から意図的に忘れ去られました。戦後間もなく、先の戦争における日本は「侵略者」と左派歴史学者から定義され、それが1970年代くらいまでは「公定の歴史観」となってしまいましたが、歴史とはそのように単純なものでしょうか。私は常々疑問に感じております。

加瀬俊一は1955年のAAバンドン会議に出席した際、各国代表団から歓迎を受け、ある出席者からは「『大東亜共同宣言』は歴史に輝く」という言葉までもらったようです※。そうした見方もまた、歴史の真実の一つではあるのでしょう。
※1994年7月22日京都外国語大学でも講演

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<前略>

ボースの来日は、私たちに新しい生命を与えた。初めて彼に会った日、私はインド式に礼を尽くしその足先に手を触れた。これがいけなかった。

「我々は150年前から奴隷のように頭を下げているのに、まだ下げ続けるのか!独立するまで誰にも頭を下げてはならない」

と雷を落とされた。この日から、妹との挨拶も国民軍の合言葉「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」になった。

私に出征を決意させたのは、44年3月に始まった日本軍とインド国民軍による「インパール作戦」だ。インド北東部で両軍が共闘し英軍攻略を目指した。居ても立ってもいられず、私たち姉妹は入隊をボースに志願。すると

「花のような娘たちが戦えるのか」

とからかう。ムッとした私は「私たちが国のために死ねるのを閣下は知らない」と言い返してしまった。

結局、私だけ入隊を認められた。45年3月21日早朝、軍服姿の私は日の丸と万歳三唱で見送られた。母の顔を見れば涙があふれそうで目をそらし続けた。「勝ってくるぞと勇ま〜しく〜」。今も軍歌はそらんじている。

バンコクで念願のインド国民軍女性部隊へ入隊。しかし、インパールから飢餓や感染症で壊滅状態となった日本とインドの兵士が次々に戻ってくる。訓練を終え少尉になった矢先、マラリアにかかってしまい、病み上がりで終戦を迎えた。

<以下略>
従軍慰安婦問題を巡る韓国の対日批判は近年激化傾向にあります。

軍(国家)による管理売春がその論点の一つですが、そもそもこうした問題への国家関与という点では、歴史的に韓国も同様です。

戦後の韓国は最貧国の一つであって、外貨獲得が喫緊の課題でありました。こうした中、多くの韓国人女性が苦界に身を落とし、海外売春や在韓米軍基地周辺での売春に従事しました。そして、当時の韓国社会はこれを容認し、政府は支援し、有力な政治家が彼女達を政治的立場から支援しました。

以下のハンギョレ記事は、こうした韓国政府の政策を証明するものですが、私は彼らを一面的な正義の視点で断罪する気にはどうしてもなれません。

確か1970年代当時、月刊誌『世界』だったでしょうか、日本で日夜性接待に従事する同胞女性の奮闘振りを称揚する韓国の某大臣の発言が載っていたのを思い出します。そうした発言は、現代の価値観からは到底受け入れることはできません。然しながら、現代の価値観から一方的に過去を断罪することもまた、慎まなければならないと思います。

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‘基地村女性管理’朴正熙 親筆署名文書 公開
※ハンギョレ新聞2013年11月6日記事より引用

ユ・スンヒ議員 "国家が性売買を容認・管理した証拠"

日、国会で開かれた女性家族委員会国政監査で、朴正熙前大統領の直筆サインがされた‘基地村女性浄化対策’文書が公開された。(写真参照)当時、淪落行為防止法によって厳格に禁止されていた性売買を国家が容認し管理したという証拠だが、女性部は実体把握もできていないことが明らかになった。 基地村被害女性は国家政策のために被害を被ったとし、国家を相手に損害賠償訴訟を準備していることが明らかになった。

 ユ・スンヒ民主党議員が国家記録院から提出させ公開した‘基地村女性浄化対策’は1977年4月に作成されたもので‘政務2’で作成したことになっている。 ユ・スンヒ議員室は「当時、大統領府政務室で作成されたと推定される」と明らかにした。

 政務室長の決裁を経て同年5月2日、朴正熙大統領が署名した文書は当時全国62ヶ所の基地村に9,935人の女性が生活していると把握していた。 文書は△性病退治△周辺整頓△生活用水△その他事項の4項目で対策案を用意した。 当時、基地村女性たちにとって問題であった性病対策と基地村区域再整理、きれいな水の供給などの内容を含んでいる。

 その他事項で基地村女性たちに専用アパート供給計画を明らかにしていることが目につく。 ユ議員は「この計画は後に公娼論難として問題化され白紙化された」と説明した。 ‘韓国性売買政策に関する研究’で博士学位を受けたパク・ジョンミ漢陽大研究教授は「基地村女性を政府次元で管理したという文書の中で、大統領のサインがある文書は多くない。史料的意味がある」と話した。

 だが、女性部はこのような基地村被害女性に対する実態調査要請を受けても調査さえしていないことが明らかになった。 ユ議員が「当時性病にかかった基地村女性は強制的に収容生活をさせられた。 事実上、国家が組織的に性売買を管理したわけだ」と指摘すると、チョ・ユンソン長官は「該当文書を初めて見る。 被害者支援の次元で文書が作成されたと見られる。 資料を見て全般的な考証作業を行う」と答えた。 これに対しユ議員は 「昨年キム・クムネ前長官に同じ質問をし、調査するという答弁を得た。 1年間何の調査もしなかったということか」と問い質した。

 論難が交わされるとキム・サンヒ委員長が直接立って、「昨年の国政監査でも状況を把握して政策を樹立しろと要求した。 進展がないようだ。 長官がこの部分と関連して報告もまともに受けておらず、把握も出来ていないことに問題がある」と指摘した。

 政府が傍観する中で基地村被害女性たちが国家を相手に損害賠償を請求する訴訟を起こすことにした。 この日、基地村被害女性の支援団体であるセウムト シン・ヨンスク代表は<ハンギョレ>との通話で「政府が米軍を相手に事実上慰安婦を運営したという証拠が続々とあらわれている。 はやい時期に被害事例と証拠を集めて民主社会のための弁護士会と共に被害を賠償せよとの集団訴訟を起こす計画だ」と明らかにした。


イ・ジョングク記者 jglee@hani.co.kr
本日、長勇の生家周辺を聞き取り調査。
「人間として下品な奴だった。この辺であの人(長勇)のことを良く言う者はおらんよ。」と答えたのは近所の長さん。あなた親戚じゃないの?

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