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◆心理主義と現代コミュの心理学主義は国家・文明崩壊の元凶である。

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以下はイジメ虐待問題のコミュへ投稿したものですが、現代の心理学主義の弊害が広がり、子どもたちや国民を苦しめ、矛盾に閉じ込めていること、しいては国民を混乱させ国家崩壊と文明崩壊の元凶となっているため、それと闘う目的のものです。
ここに集う皆様にもご検討いただきたいと思い、掲載させてもらいます。

(我々がいう心理「学」主義は心理主義より広い概念で、心理学の理論が科学一般に広まっている弊害について言うものです。おおよそ中世スコラ《キリスト教会》学問の心理学の系譜を汲んでいるだろう理論についていうもので、科学学問的真実としての理論ではなく、政治支配とキリスト教支配のための「国民や民衆を騙し鎮撫するための理論」のことです。)

以下が「児童虐待・こどものいじめ 」トピック http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=37049654&comm_id=1732005 からの転載文です。

「人間を虐待しているのは誰か」

私は度々皆さんのお話を遠巻きで聞いているのですが、

多くの方に虐待問題の解決方法(や原因)について勘違いや錯誤があるのではないかと思いますので、またもし勘違いした話し合いだったら何年続けていてもイジメ・虐待問題は解決はしませんから、私の意見を皆さんにも検討していただきたいと思い、以下掲載することにします。

さて、はなっから虐待「原因論」の話しから始めますが、虐待という現象を起しているのは、人でしょう。

自然が起す自然現象だとか神の御業だとかいう現象ではなく、子ども同士か、大人が子供に起し、大人同士が起し、社会が子供や人に対して起している、人と社会の現象でしょうということです。

つまり虐待は人が原因で起こっているのであり、そのことは科学的学問的にも現実実際として事実でしょうということです。

(もしこの第一問題から疑義をいい、これを否定する人がいれば、それは科学的学問的で現実実際とは別な次元の話でしょうから、以下私の意見を検討してもまったく無意味で徒労となりますので、ここで止めてください。)

そこから、では人が虐待を起こす原因は、人が正常な状態だからでしょうか、それとも異常な錯誤状態だからでしょうか、あるいは正不正常の問題でもなく錯誤でもなく「無意識」や「病気」の状態で起こしているからでしょうか、

またそのどちらかの原因なのかは置くとして、ともかくも、それらのどれかが原因であるか、その全部が原因なのか、それ以外ないことは明らかでしょう。

( “悪意”で虐待をする者は普通ではなく、上の「異常な錯誤状態だから」に入るでしょう。「わが子を衝動的に打った」などという場合も、その「衝動」は無意識と異常を混ぜたような状態のことでしょう。さらにこれ以外の原因があっても、人と社会にあるなんらかの主因や真因・深因ではないでしょう。)

ここで注目いただきたいのは、またさらにそこから明らかとなっているのは、虐待を起こす原因の一つに「人が正常な状態」も入れていることで、異常だから、錯誤しているから、「無意識」や「病気」だから、だけではないということです。

そうしてむしろ人が「無意識」で自分を「正常な状態」と「錯誤」しているからではないか、と、明示していることでもあり、またそう考えられるということですし、兎も角、その全部の項目が虐待を起こす原因問題ともなりうるのだとも、ご理解願いたいということです。

そうして、ここで確認したいことは、そのような項目は虐待をする者に特有の問題点や性質ではなく、人一般にある人の性質だということです。

また、虐待をする者に特有の問題点や性質があるかのように決め付けるのは、それこそが錯誤した考えであり意見であり、そして差別を生むものであって、それこそが人を攻撃したり虐待をする者と同じであって、まさに自分が「無意識」で、自分を「正常な(正しい)状態」と「錯誤」している問題点や性質だろうということです。

さらに、人は誰もが、つまり人類の全ての人が、自分の意見や考えは、正常で、正しく、正解であり真実であり嘘ではないと、「無意識」に「自覚なく」「錯誤」するものだということです。

置き換えれば、つまり人は全知全能の神のような存在ではないということであり、人々が全知全能ではないということは知識と能力が不十分であるか、世界の全部を知らず力ない無知無能ともいえる状態ということであり、

大人たちが無知無能とであれば、教育なかばの子供たちはよけい愚かをするのは当然だ、ということでもあるのです。

従ってこれまでの話をたどって言えることは、私たち大人の錯誤が虐待問題を起こす根本原因であり、問題を解決させない根本原因なのだ、といえるということです。


さらにそれらのうち、ここで確認しておきたい中心は、虐待を起こす人は「無意識」で自分を「正常な状態」で「正しい」と「錯誤」しているのだということです。その「無意識」や「勘違い」や「錯誤」「愚か」が極端に進行すると、普通ではない状態となり、もっと進行すると異常という状態になり、病的になり、病気となるのだということなのでしょう。

ここまで私の意見に錯誤や嘘はあるか、これまでの話を確認してください。勿論こんな短い話しでは一々の全部を話せず不十分であるのは当然ですので、それは別にしてですが。

ところで話は飛ぶようですが、虐待「原因論」から虐待問題「解決論」の「具体的方策」の話をしますと、

虐待問題の解決策は、虐待を起こしかねない私たち自身の勘違い錯誤を改めること、電脳世界や現実世界で自覚なく嘘を広めている自分の錯誤を改めること、つまり自分の意見が嘘であると自覚なく無意識で「真実と確信している」意見を広め、人々を混乱に導かないことが第一解決策でしょう。

人々を混乱させ考えを狂わせ、行いを狂わせないように、そうして錯誤して愚かな虐待や他人への攻撃となることがないよう注意することでしょう。

さらに第二は、私たちのような大人とならないよう、幼稚保育園から大学までの教育・福祉体制を正常なものにすること、特に教育は戦後60数年誤った教育政策を進めてきたことを止め(私たちを見ての通り)、教育基本法が示すように「真理を尊重する」教育体制に改め、真理と愛を尊重する国民(子供)人格となるよう教育をすること、

第三は、福祉策では厚生労働省に子供・人の命と国民を大切にする本来の仕事をさせること、労働制度・賃金制度を家庭家族生活に余裕が生まれ生活不安や将来不安が解消できるように改めること、

第四は政治・行政を改め、国民のための政治・行政(教育行政・厚生労働行政)となるよう正しい政党・議員を選出すること。

そうして1から4を加えるなら、自民党単独(多少の交代・連立のときがあっても)長期政権が続いているのは事実であって、国民のための政治・行政とはなっていないことも事実だということ。そのような政治・行政・社会を国民が長期間選択していること。

ここのコミュと各トピでの話し合いが、虐待問題の解決策について「具体的に」などといいながら、ここで指摘したような虐待問題が起こる「原因論」は必ずと言っていいほど見ず、議論せず、その人と社会・政治・行政の原因事実(事実ならの話ですが)をかえりみられず、

そのような事実を見る視点がなく、あるいは否定して、まったく別な虐待問題論や解決策論(や原因論)を持ちかけていること自体が錯誤なのですから(錯誤だとは言い過ぎだと思う方は、これまでの話に間違いがあるかを確認してください)、

そのような錯誤の意見は、人々を錯誤に引き入れ拡大して、人々の錯誤を入り組ませることで無自覚無意識のうちに錯誤行為を起こさせ、虐待を生む原因になっているのではないでしょうか。

このコミュ全体の各トピの意見や議論を検討してみれば、あるいは他のコミュを見て多くの方の様子を検討してみれば、それらの事実がすでに白日にされていて、私たち自身で実証しているのではないでしょうか。

私たちは錯誤しているからこそ、それらの事実さえ見えないのでしょうし、やることなすこと人と社会をダメに(イジメ・攻撃・差別・排除《多くのコミュで排除問題が起きています》・虐待などなど)して、国民全体で人を崩壊させ、家庭崩壊・教育崩壊・国家崩壊させているのでしょう。

多くの識者が、家庭崩壊・教育崩壊・国家崩壊・日本人と民族の崩壊を言っていることは事実ではないでしょうか。

まさにそうして錯誤が入り組み言葉が通じないような国民と社会になっていますので、真剣に虐待・イジメ・不登校・引き篭もりなど、人が起こす様々な不条理・悲惨な問題の解決を目指す人は、

もう一度念を押しますが、人を痛めつける問題や社会病理的問題の解決を真剣に求める人は、ここで示した意見も真剣に検討してみてもらいたいと思うのです。

まずは私たち自身の愚かと錯誤行為をやめなければならないのだ、と思うのですがどうでしょう。

自分は正しいと言い張り、自分の愚かを自覚せず、愚かな大人たちが愚かな社会を作り、愚かしいイジメや虐待問題を生み出し、愚かな大人たちが虐待問題を話し合い、愚かだからこそ虐待問題の解決策が見つからず、いくら話し合いっても虐待問題を解決させず、

だから虐待問題を国会や行政や学問として話し合い、マスコミと国民が話し合っているという、愚かな社会を大人たちが作り、その大人たちの狂乱の被害を子供たちが受け死んでいるのでしょう。

人間が人間社会を作っているのであり、人間と社会が人間と社会問題を生み出しているのであり、自然現象や神が発現していることではないのです。

この人が問題多い社会をつくっているのだという事実を、多くの国民に気づかれないよう覆い隠し、その事実の意見を意図的に無視し、国民を錯誤へと向かわせる錯誤理論を広める者こそ、真の問題原因であり、子供を傷付け死に向かわせ、殺している主犯者たちなのではないでしょうか。

その人と社会をみる理論や学問には心理学的なものと社会科学的な学問があり、戦後60数年の学術と教育体制の結果、現代では人と社会を哲学的論理学的歴史学的に見ないで、心理社会学主義《心理学主義の社会科学と自然科学》の学問一辺倒となってしまったため、

さらにまた学者たちは社会作りの舵を取る政治・行政についての自分の対場や態度を隠そうとしてその政治・行政の責任を言わないため、虐待問題や他の社会的病理現象や社会問題一般現象の政治・行政・社会・人間・の問題原因論や責任論を言わないために、

結局、学者たちも「真実を尊重する人格」とはなっていないために事実を言わないで、だからこそ問題原因論の真実は言わないで、「問題の解決策」だけをいう理論・学問となってしまうのでしょう。

さらにだからこそ、その先端の学問理論を写したマスコミとなり、さらにそれらの情報教育と操作での国民世論となり、その国民が選んだ政治・行政となって、社会全体となっているのではないでしょうか。

特に、精神科学者・精神科医・心理学者・臨床心理士・脳科学者などについては、人間と社会と自然と宇宙、それらの歴史について、それらの関係について、自分では分かったつもりで、

人と社会の問題の全てが、その問題を起す個人の問題かのようにいい、さらにそのような個人の心や精神の問題や原因かの様にいい、さらに脳の生理的原因に問題があるかのようにいい、

政治や行政やマスコミと学問学者などの社会の問題原因は絶対に見ないという騙しをやり、あるいは錯誤理論をいい広めることは、まさに虐待を生み、イジメや不登校・引き篭もりなど教育問題と教育崩壊を生む元凶であって、到底許されるものではないでしょう。

虐待でなくなった子供たち、虐待で苦しんでいる子供たち、イジメで自殺した子供たち、イジメで苦しんでいる子供たち、自身を押し止めている錯誤矛盾が何か分からず不登校・引き篭もりで苦しんでいる子供たち、

それらの被害者に成り代わり、子どもたちの苦悩を救うために、あなた方心理学主義の関係者の自家撞着した錯誤とその行いは、もはや犯罪的なものであり、早急に態度を改めるよう摘発し、皆さんに批判を強めるようにそれらの検討を訴えます。



イジメ問題・虐待問題・そのほかの社会病理的問題など真剣に検討を進めている方には、以下に案内する記事も参考にしていただけると、上で触れられない数々の問題点もご理解いただけると思います。

精神科学・医療の犯罪的問題については
サイク バスター http://mixi.jp/show_friend.pl?id=4591200 
 
NO MORE DRUGS 精神医学に反対! http://mixi.jp/view_community.pl?id=1347706

心理学・臨床心理士の犯罪的問題については
心理主義と現代 http://mixi.jp/view_community.pl?id=12899

「イジメ問題を科学的に解明するとは」http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27147492&comm_id=1732005

不登校コミュ「不登校」にされた子供や若者たちへhttp://mixi.jp/view_bbs.pl?id=34032513&comm_id=49520

「青年海外協力隊のための協力隊」コミュ「正義感あふれる青年たちへ」http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=30630880&comment_count=12&comm_id=842152 

を参照・検討してください。

また私どもの日記では、私たちや人々が物事を正しく見られず、正しく考えられず、正しく行動できない問題について探求していますので、参考材料にしてください。

コメント(9)

「ここまで私の意見に錯誤や嘘はあるか、これまでの話を確認してください」とのことですが、

その少し前でご自身、
「人は誰もが、つまり人類の全ての人が、自分の意見や考えは、正常で、正しく、正解であり真実であり嘘ではないと、『無意識』に『自覚なく』『錯誤』するものだということです」
と、おっしゃっているところを見ると

自分だけは例外だ、人類の中で私の意見だけは「錯誤も嘘もなく、正常で正しく正解であり真実だ」

ということですか?
ピュアリー さん

ご意見ありがとう御座います。

イジメとイジメ問題、虐待と虐待問題それらはそれぞれ区別できる違うものでしょう。

しかし、それらは人が起す現象ですし、また人が他人に仕掛ける攻撃だということでも、それぞれ被害者を死に至らしめるものだという点でも共通しています。

つまり、当該現象と問題には共通点と相違点があるということでしょう。対象問題構造がそのようにあることをまずは押さえることが大切なのではないでしょうか。

というのも人を死に至らしめる行為・活動であることの共通点を無視し、細部の相違点(だけ)をとりあげるような姿勢そのものが、問題の本質や重大性を覆い隠し問題解決には至らない、錯誤の道を歩むことになるだろうし、またその理論(複雑な)を他に示すことは、錯誤へ導くこと(騙し)になるのではないでしょうか。

イジメは、イジメが起こる場(小学校・会社・市民団体など人が作る一切の集団組織)の管理責任者が止めさせれば、イジメはやめさせられ、イジメ問題はありません。
虐待はどうでしょうか。(上の本文に解決策を示しましたが)

個人は個人であると同時に社会的存在なのでしょう。個人家庭も個人家庭であると同時に、社会的単位集団でもあるのでしょう。

ピュアリー さんという個人であり、固有の特性を持つのだが、同時に人といわれる普遍体であり、全ての人に共通する普遍的「諸」性質(特性より多い性質)を全ての個人が持っているのでしょう。

人の普遍的諸性質を理解し確定しなければ、それを定規にしなければ、個別特性・個性は計れず明らかに出来ないのではないでしょうか。

ピュアリー さんが当該問題などを真剣に探求・研究なさっている方なら、是非私どもの日記の「知の合一とはなにか」をご一読下さい。


ボクは心理主義が危険であるのは、この概念が、
「人」という概念の中心にあるからだと思っています。
思うというより、ボクはフーコーをそのように読んでいます。

心理主義に関するこのコミュはどうも心理主義の定義が
漠然としているので、ミケランジェロさんたちの言う
「心理主義」を上で述べたように概念史的に展開してもらえると
面白い話ができるのではないでしょうか?
Enzoさん

ご意見ありがとう御座います。

私もこのコミュの「心理主義」はその意味内容と概念が曖昧で、皆さんの共通理解にはなっていないと考えています。

まあ、ですから上の記事を投稿したのですが、しかし翻ってみれば、現代社会(世界)を風靡している心理学そのものが、学問として成立しうるものなのかさえ疑問を持たざるをえない曖昧な状態なのでしょう。

例えば上でも少し話しましたが、心理学は精神(科学)と心の関係を明示して、心の現象の「理」を解明する学問として独立した規定(他の学問が取って代われない対象物・限定)を持たなければ、学問とはいえないのでしょう。

哲学も精神や心(意識・認識・その発現形態など)を対象に入れています。宗教宗教学も精神や心などを対象に入れています。芸術学・美学なども同様です。法学などでも「思想信条の自由」や人の尊厳と人権や権利・正義などなど(精神現象)として根本的概念としているのでしょう。

現代の「心理学」はそのような茫漠とした状態ですから、Enzoさんが仰せの通り、真剣に心理学の功罪に付いて悩み苦しんでいる方は、またその自分の仕事や活動に責任を持とうとしている方なら、

必ず、上に話した学問対象の規定化や心理学発祥の起源から現代までの道筋(心理学史)も探求し、自身を問い詰め錯誤を改め正解等(正当・正義・正しい行い・価値・などを得)ようとするはずなのです。


そうして心理学のその責任問題を研究するなら、古代から中世までの哲学的心理学と、ルネッサンス期から19世紀の教会的心理学と、19世紀以降現代までの「近代的」心理学の時期に分けることが出来るだろうこと。

つまりそれは科学学問史の区切り目と共通するものであり、特に19世紀末の反ヘーゲル主義の新カント主義(フーコも新カント主義者ですが、これは自分ではカント主義者だといいながら実はカントも否定する反カント主義であり反ヘーゲル主義なのでしょう)のウィーン学団と、

その流れとしてあるブィンデルバント、リッケルト、ウェーバー、サルトル、フーコ、(他にも様々いるので挙げ切れない)と流れ来て、現代の各学者の自分勝手な理論があり、学者の分だけの心理学(学問)があるという狂乱状態となっているのでしょう。

フーコを始め現代までの学者たちに共通する問題は、また現代学問・科学論にもいえる問題点は、哲学から論理学や心理学が分化するときの、論理学や心理学として自身の自立しうる存在証明とその規定や理解が不十分な点にあるでしょう。

論理学についは、古来から思弁の学としてあったはずで、その理性的な真理判断の方法としてカントの論理学があり、新カント主義から記号・数学的論理学となり、

さらに論理学と言語学の学際を不問したままの「言語学」が生まれ、言語学自身が自立しうる存在証明のないうちに(辞書などを作る国語学者も困っている)、

言語の形式や構造的把握の構造主義となり、意味論や比喩・隠喩や換喩やになり、その理論で認識や意識や精神や心を論じて、人間関係論となり、

人間関係で成り立っている会社・政治など一切の集団組織論となり、現代の各自勝手な主観的理論の科学や学問や精神科学・心理学に至っているのでしょう。


実際に、各学者たちのなかでそれらがごっちゃにされ、自分が勉強し自分が理解できた分だけの、その量が多ければ多いだけ説得力を持つことができて、その「創造的」理論を展開するということになっているのではないでしょうか。

人類史的な理性と科学・学問は19世紀まで発達していて、19世紀から現代までの自然科学と社会科学は跛行的・畸形的に発達するようになり(自然科学は産業企業利益に貢献するため発達し、

社会科学《リッケルトは意図的に社会科学とは言わず文化科学とした、日本の大学の学科体系では「文科系」といい、

あまりにも陳腐化したためさらに「文化社会学」「人間行動学」「環境学」などと命名するように移り変わっている》するようになり、混乱を深めていること)、現代の社会科学は教育問題を解決できない教育学、世界的貧困問題を解決できない経済学、国民のための政治を実現しない政治学などなどとなっているのでしょう。

それは19世紀に、意図的仕掛けがあったからなのではないでしょうか。

下へ続く
上からの続き

すみません、なにせ真剣な問題なので話が長くなってしまいました。話をおわらせる方に向かいますが、

ようは、いかなる国にでも、いかなる時代(未来はわかりませんので、これまでの)でも、国民を支配するには政治支配と宗教支配の二つの権力でおこなわれますが、
国民を理性的・学問的に目覚めさせると政治に口出しするようになるし、宗教が示す人の姿とその社会について意見を言うようになり、うるさいことになり支配が容易でなくなるから、

支配層は暗黙のうちに国民の愚民化を望むようになり、その意図の下に行政をするし、そのような意図を下に学問・科学を支配をすることになるから、理性と学問と科学が歪められるのです。

ところが近代資本主義国になったため、各国は富国強兵を図るためには大規模工業生産力が必要となり、そのためには労働する国民の自然科学の基礎的素養が必要なために、自然科学関係の方の学問はしっかりと教育し、人間と社会の学問である社会科学の方は教育せず混乱させる必要がある、そのような皆国民教育体制(学術体系と学校やマスコミの教育体系)を作ったわけです。

そのような一定程度の必然性をもった時代の流れと、政治的宗教的支配の意図があったために、ウィーン学団の旗揚げとなり、それへの政治・宗教・経済界・社会上層者のバックアップによって、またそれが現代でも続けれているため、人類史的理性と科学学問の順調な発達が阻害されることになったのでしょう。

その社会科学の方の根源的対象が人であるため、哲学や論理学の代替としての心理学(人の悩み事に答える宗教が果たしてき役割と同じ)が社会上層者の支配の意思を遂行する役割を担うことになった、ということなのでしょう。

従って現代は中世ヨーロッパと同じように、宗教者(現代ではいま説明したように学問も学者も権威が失墜し、宗教も第一次二次世界戦争に反対せず反対に戦争に仕向ける役割を果たした事実や、科学的意識の発達もあり、宗教的権威も失墜しています)が退廃し、

民衆は宗教者(現代では学者・学問)を信じず、理性を失い、血液占い大好きなど神秘主義が蔓延していますし、テレビでスピリッチァ主義を宣伝すると同時に子どもたちの理科離れや学力低下を嘆いてみせ、

日本語の乱れを言いつつ幼児からの英語教育の導入をいい国語教育はいわない。大人たちは、社会にはルールがあり物事には限度というものがあることを忘れ、自らの欲望と衝動(性と金銭欲)のまま生き、会社や仲間や家族を守るため金儲けして何が悪いのだと開き直る。

そのように理性が眠り込まされ文明退廃と人と社会と国家・自然の崩壊現象が起こる状態となったのでしょう。

下へ続く
上からの続き

申し訳ありません。話を急ぎますが、

精神科学・心理学関係者で自身の専門性を自覚する方には、心理学の自己存在証明と出自を知り、自身の活動や仕事の責任を果たさなければなりませんが、

しかし、その責任を果たし正しい行いや正義を行うためには、心理とは何かを求めることで解明できるのではなく(細部から微細へと向かうのではなく反対に)、社会関係を解明することで明らかになるのではないでしょうか、とお伝えしたいのです。

食べ物は世界の方にあり自分の中にあるのではないし、言葉は社会にあるもので自分の中にあるのではないし、各個人はそれら社会にあるものを各自なりに取り入れているから自分の肉体があり心(精神―学問・科学・芸術・宗教・言語などなど人工物の一切の反映物・映像体が精神)があるのでしょう。

哲学では(また正しい社会学では)、「自分らしさ」という命題をそのように考え、ギリシャ時代から「汝自身を知れ」と出題してから研究を積み重ねその財産を持ち、今現代でもさらなる価値を積み重ねようとして探求を続けているのでしょう。

心理学を学ぼうとするとき、まず心というものを解明し理解するために、付随的関係である社会的なものを捨象して、各個人の心というものについて検討を進めましょうと、最初の一歩から個人主義・主観主義へ向かうように仕組み(論理学的形式=理論や思考を進める形式や手続き)があるのでしょう。

また上のような学者たちの理論に共通するのも、そのような客観的な人と社会の実像と事実を無視した、自分勝手な主観主義と個人主義の「人と言葉・社会」の理論を展開している、ということではないでしょうか。

私たちは、そのようにしてある心理学とその社会学と、その科学学問論に立つ自然科学について、心理学主義の学問、学者の態度・理論だと検討を訴えているのです。

ですから、上のトピ本文で述べている狂気などなどはフーコの理論と重なり同じ主張のようにもなるのですが、私たちが示しているのは実像でありフーコやラカンやピアジェなどなどが示しているのは彼ら各自と、人一般の個人の意識に投影される(実像が言語に投影される意味・内容であり)逆像であり虚像(正しく見える像)なのだと考えるのです。

その他に話さなければならないこともあるのですが、Enzoさんには、そうしてこれを読む真摯に問題を追及している方たちにも、

上のピュアリー さん にもご案内したのですが、現代の科学学問に問われている課題について、私どもの日記の「知の合一とは」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=872436040&owner_id=7769186
で明らかにしていますので、是非そちらもご一読下さい。
 ミケランジェロさんの言われるように、現代の心理学というものは、中心が見えないという難を抱えていると思います。

 私は、心というものの基本的な性質として
(1)全体が一つのまとまりをもって活動している
(2)内的な観点からの実感・体験という現象がある
という二つを挙げています。

 ところが、現代の心理学は、この二つとも満足に説明できていないと思います。他所でかなりの時間と文章量を使って議論をしたことがありましたが、相手の方はついに正当な発言ができなくなって沈黙してしまいました。
 その方が、現代の心理学の代表とは言いませんが、実際にかなりの勉強をされていると思います。それでも、心そのものについて現代の心理学が説明しているとは言えなかったようです。

 私自身は、説明できたとは申しませんが、一応心そのものを説明のできる一つの「モデル仮説」を構築しています。

 心理学主義ということばの定義の正当性は分かりませんが、中心の無い概念で混乱を来たしている事、そのために様々な利用のされ方をしていることは確かだと思います。

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