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信長公夫人濃姫〜帰蝶〜コミュの濃姫の子供

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濃姫は、信長との間に子供ができなかった
ということがよく言われます。

しかし、、
絢女さんに教えて頂きました「近江國輿地志」では
濃姫の出産記録に関わる文献もあるとわかり、
コミュでも何度かそのことに触れました。

このトピでは改めて《濃姫の子供の謎》
について皆様とお話したいと思います!

管理人
宮本 拝

コメント(13)

信長との子ですよ〜(>_<)

姫君ほさぞお美しいんだろうなぁ
濃姫が姫を出産したと
池波正太郎『蝶の戦記』
の中で触れているのを読みました。
あくまでも小説ですが、池波先生も「近江國輿地志」を
参考になさっていたのかもしれません、、。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4167142775/ref=olp_product_details/249-7787596-1097908?ie=UTF8&seller=
初めまして。山岡荘八の「織田信長」を小6の時に拾い読みをして以来、濃姫のファンです。作家の方によって、一人の女性がこうも書かれ方が違うのかと一喜一憂しながら、これまで様々な小説を読んできました。今回、こちらのコミュで、皆様からいろんな濃姫の話を教えて頂きたいと思いましたので、参加させて頂きました。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

 濃姫に子供がいなかったというのは通説ですが、御台平産の
記事については、何かで読んだことがあります。女の子とか言われているようですが、私は男の子で勝長が御台平産の記述の頃と年回り的に近いと思うのですが。。。その可能性はないのでしょうか?織田家の子息の中でも破格の扱いをされていたようですし、濃姫が養子にしたという嫡男・信忠に勝長が就いています。本能寺の変の際、信忠と共に二条城で若くして討死したので、多くの資料はないと思いますが。皆様はどうお思いでしょうか?
たっちん さん
初めまして、私も山岡荘八さんの濃姫がとても好きです!
濃姫に惹かれたのもその小説を読んでからでした。

勝長は確か、信長に滅ぼされた信長の叔母のお艶の方に
預けられていたとき武田に人質にされ信長が怒ったという
大事にされていた息子ですよね、、。姓も織田をもらった信忠以外の唯一の息子ですし。
勝長が生まれたのは、確か生駒の娘、おるいの方がなくなった後で信忠が嫡男として元服した後っだったはずです
信長も弟と跡取りで苦い思いをしたでしょうし衝突を避けるためにもお艶の方に預けたのかもしれませんね。

お艶の方が実は濃姫だったという珍説もその地域には残っているくらいなので、その可能性もあるかもしれませんね。
たっちん様> ナル様>

私の拙い知識では、

1,勝長は幼い頃に信長の叔母であるおつやの方(遠山影任室)のたっての願いで養子になり、岩村城主になった。
この養子となる話が出た当初は養子に出すつもりが無い、と信長は拒否していたと言われている。

2,元亀3年に武田方の侵攻で岩村城が陥落した際に信玄の養子(人質)となり、天正9年に武田勝頼によって送還。同年元服して、織田家においては「信房」と名乗っていた。
天正3年に信忠が岩村城を奪還した際に信長はおつやの方を逆さ磔で処刑したとも、自身の手で切り殺したとも言われている。

ぐらいしか知らなかったので、信長にとって勝長はとても大切な子どもだったのだろうとは思っていましたが、そのような考え方も出来るのですね。
「近江國輿地志略」の御台平産記事の子供が誰かというのは、難しい問題ですね。
個人的には、蒲生氏郷の家臣であった神戸政房の子供の良政が政房の覚え書きや伊勢での聞き取りをまとめた「勢州軍記」に、濃姫には「若君」がいなかったという部分を考えると、男子かどうかは疑わしいという気もしますが、信房の生育歴を考えると知られていなかったのでは?と考えられなくもありません。
また、「近江國輿地志略」で書かれているときの子供であるなら、城で生まれていないので、知られていないというのも分かります。
寺で生まれているから、坊丸なのかとか、考えると面白いですしね。
それに、信忠は濃姫の養子で嫡男、そして直前には嫡男として信玄の姫と婚約までしていますし、家督争いの種を作りたくなければ、あまりおおっぴらには出来なかったと思います。
岩村城にやったのも、信雄や信孝のように、乗っ取り目的の養子ではなく、親戚へのお預けの色合いも感じるので、信雄や信孝とは少々立場が違ったのかもしれません。

また信長公記における、安土城での信長と信房の対面シーンは、あまり信長の子供のことを書いていない太田牛一にしては、筆を割いているシーンなので、印象に残った出来事だったのだろうと思います。
そして、その時与えられたものも、当時であれば随分と優遇されている感じです。

濃姫の養子として嫡男になり、家督を継いでいた信忠の与力になっていることを考えても、信房は濃姫サイドの人間である感じもあります。
信忠の側近は、斉藤家美濃衆でかためられていますし、その一員になるということは、そういう勢力圏の子供ということになるでしょう。
濃姫の実子でなかったとしても、斉藤家美濃衆などに近しい人物の生んだ子供の可能性はあると思います。

信長の子供は、意外とたくさんいますが、生母がはっきり判明している子供は少なく、判明している中でも、どの子供同士が同母から生まれたのかも生駒御前と小倉(お鍋)の子供くらいしか分かっていません。
判明している生母が他に子供を産んでいるということがあっても、よく分からないのですよね。
生駒御前は、本能寺以降、後々その子供である信雄の家系が主流になることから残っていますし、小倉は秀吉に仕えたので残っています。
三の丸殿も秀吉の側室になったので、信忠の乳母が生母と分かっていますが、他に子供を産んだかどうかは分かりません。
秀勝と冬姫が同母という説もありますが、これも確証はありません。
秀勝の生母とだけ伝わる女性の記録があるだけです。
それに、当時の系図の女子には生母を書くことがまずないので、濃姫に姫がいても史料が残らなくても仕方がないのかもしれません。
また、当時の新生児の死亡率の高さを考えても、「近江國輿地志略」に出てくる出産時の子供が生き延びた保証もありません。
しかしながら、「近江國輿地志略」の出産の記事の箇所は、地誌にありがちな逸話伝承の類いとちょっと違い、かつて日本を代表する学問所のうちの一つであった成菩提院の記録を元にしていると考えられるので、出産そのものはあった可能性は高い気がします。
そう考えると、結婚後20年近くたっても、夫婦仲が良好だったと考えられるので、それだけでも素敵だなと思えますね。
本当に素敵ですね!
秀吉の妻、ねねに送った手紙をみても
良妻には敬意を払っていましたし、奥さんを大切になさっていたのがうかがえます。
きっと、正妻は全ての女性の手本になるよう考えていたから
こそ、家康公の正妻の築山御前の行いは許せなっかたのか
とも思ってきました、、。
ナル様>kukacchonyan様>絢女様
ご無沙汰しておりました。
勝長が濃姫の子供とは、ちょっと突飛すぎる話とも思うのですが、勝長の織田家での厚遇ぶりや御台平産の時期など考えて、
可能性やこちらのコミュの方々のご意見を知りたかったので、
とても面白く読ませて頂きました。
 特に絢女さんの寺で生まれているから坊丸(勝長の幼名)と
いうのかもという発想は流石ですね!信長ならばそんな風に名づけそうですし。勝長が信房を名乗ることを見る人によっては、房というのは総てという意味があるそうですよ。なので、織田家の総領というのは信忠が嫡男としても、かなり重きを置いた名前のようですね。
>たっちん様

信房の通称が「源三郎」というのも大きいですね。
「三郎」は、織田家の嫡男の通称ですが、信長の実子で「三郎」が通称の人間はいません。
しかし、信房だけ「源」「三郎」なのですよね。
「源」は大元とか根本という意味もありますし。
濃姫の養子になって、正室腹格で嫡男として教育していた信忠がおり、幼少時に人質に取られて生きて戻るかどうかも分からなかった信房なので、嫡男教育などできなかったでしょうが、幸運にも戻ってきた事で、ストーレートに「三郎」はつける事ができなかったでしょうが、かわりに「源三郎」を付けたとも考えられますね。
別コミュで、「源三郎」は武田時代につけられたという説を見たのですが、元になる文献の信憑性の低さを考えると、ちょっとどうか?と思いました。
少なくとも、もし武田時代につけられたものでも、特別な意味である「三郎」を、他の子供達に一切付けていないのに、そのままにさせておくという事を考えれば、それでよいと信長が思ったという事でもありますね。
通称を変える事もできますから。

しかしながら、これは状況証拠でありまして、実際のところどうなのかは、成菩提院の記録などを詳しく調べなければ、男子か女子かも分からないのではないかと思います。

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