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2008年01月18日11:59

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ハチミツとクローバー 第二話鑑賞

HDDに録画しっぱなしでなかなか
見ようという気勢も上がらぬまま、放置して
いた物をようやく鑑賞。
一話があの体たらくだったからねぇ・・・

で、二話ですが。

このドラマの製作者って、取材ってしている?
あまりにも美大の描写がプアすぎるだろう。
ヌードデッサンなんて、覗きに行くようなもんではないし
ましてや竹本が他人の作品なぎ倒して逃げようとする
なんてのも論外。一話の陶器焼く窯でピザ作るなんて
のも阿呆の一言だし。下手したら死ぬぜ?釉薬なんて
かなりきつい毒性ある物があるんだから。知らないはずが
あるまい。素人の俺でも知っている。
最低限の美大生の活動や暮らしを取材していれば
間違いなく描かれないミスとしか思えない。
細部を蔑ろにして、面白い物が作れると思うのなら
大きな間違いだ。

で、その世界観に乗っかった登場人物。

これもまたプアだなぁ。
森田がどうにも箸にも棒にも引っかからない。

森田は大きく分けて『天才』『奇人・変わり者』と
『実は気配りの出来る優しい男』のブレンドで
出来上がっている人物だと思う。
この配合ぶりが絶妙であって、あの原作の人物像が
ある。様々な仕掛もしてあり(童話に詳しいとか)、
複合的な魅力を持つ人物になっている。

映画版はそれを『天才森田』にのみ光を当てる
事で一つの森田像を提示してみせた。
時間的、手腕的な制限をきちんと見据えた
英断であったと思う。あの森田は間違いなく
森田として認められる出来だった。
「今燃えているのは、作品じゃなくて札束だ」なんて
原作にはないシチュエーションとセリフも立派に
森田の物だった。

で、このドラマの森田は。

天才性の提示はしているが、その表出が
作品が高値で売れるという一事のみ。
単なる金にうるさいだけの俗物に見える。

奇人・変わり者の要素は沢山表現されているが、
それが竹本をいじめたり、商店街の福引券を
偽造したりといったせこい方向にしか発揮されていない。
森田なら、偽造なんぞせずに堂々と特賞当ててしまうだろう。

気配り、に至っては・・・。ここで森田ではないから、この作品の
森田を認める事が出来ないのだが。素直に真山に好意や
感謝を表せないあゆに真山を投げつけるという形できっかけを
与えたりするのが、森田の独自の優しさの表現だった訳であり、
「抱いてやれ」だの、「東京ではボーッとしているとキスされる」だのという
不躾な言葉を放つ人間は森田ではない。

ドラマ独自のアレンジ、のつもりなのだろうが
馬鹿としか云いようが無い。
原作理解も出来ないなら、素直に頭の悪いガキ向けの
オリジナルドラマを作っていればよろしい。
映画は立派に解釈しようと健闘していた。正直不出来な
映画だとは思うが、原作の根源的なテーマからは
ブレなかった。しかし、このドラマは違う。

正直、原作の漫画は読んでいないのではないか?
とすら思う。映画に原作の材を採っている気がする。
だとしたら、修ちゃんのキャラクタの無茶な変更も、映画版では
はぐと人生を共に歩む、という結論まで達しないために
はぐに無関心な修ちゃんというあり得ない人物にもなりえる。
また、理花も映画版では杖も持たない健康体な訳であり、
それを踏まえると、ドラマ版の必要以上に健康そうな
理花に行き着いた過程も見えそうな気がする。
森田も馨は出しようが無い映画版では、金に拘る人物では
無かった(父の会社を取り戻す、といった金儲けへのモチベーションが
無い)所を天才性をこれでもかと見せ付ける事で森田という人間を表現していた訳だが、
それにあえて逆らう形で真逆な人物像を敢えて造型したとしたら?
竹本達のアパートのデコレートも映画に近い(竹本の部屋の扉には
城の写真まで貼ってある!城好きは映画の独自設定な筈)。

・・・まぁ、考えすぎだろうが。

二話目にして、映画のクライマックスであった海へ行ってしまった
所も映画を強く意識している感がある。

事ほど左様に原作漫画は華麗に無視されている。
だとしたら、この作品に『ハチミツとクローバー』を
名乗る価値があるのだろうか?

海へ行き、森田ははぐの落とした指輪の替わりに
割れたビンのボトルネックに光を当てて代用としてみせた。
その間、竹本は指輪を必死で探し回るという対比を
行っている。これはまぁ、演出としてはいいとは思うが、
浜辺の割れたボトルなんて危なっかしい物を
手が何よりも大事な人間の指に嵌めたりはしないだろう。
これが、恋愛だけでなく、芸術に対してもそれと向き合う
人間の苦悩を描いた『ハチクロ』に見合う表現か
否かは窺えよう。

他にも個別キャラクターの表現一人一人に文句はあるのだが、
省略!限がない。

原作から遠ざかっても傑作は作りえる。
それは『必殺仕掛人』が証明している。だが、
犯すべからざる原作の理念は守らねば、
それはその作品のタイトルを名乗る存在理由を
失う。映画とドラマの原作との距離感が、それを
如実に表している。

まず、製作者は『キチンと』原作を読み込む事が必要だろう。
恐らく、テレビでも見ながら斜めにしか読んでいないのだろうから。

・・・しかし、偉そうな日記だなぁ、我ながら。



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