総評事務局長(国鉄労働組合書記長)、社会党衆院議員・富塚三夫の実態(左翼運動の歴史、14)。
民同とは民主化同盟の略で、彼等は社会党員であり、アメリカ占領軍の手先となって、共産党の支配から、労働組合を「民主化」するという意味で「民主化同盟」と名乗った。革同とは、旧革新同志会で、労働者農民党という小さな左翼政党を支持していたが、革同に日共が加入戦術を行い、革同の主導権を掌握した。
元革同メンバーの民同・富塚が革同の細井(共産党員)を通じて,田中角栄首相と条件つきスト権回復のための裏取引を進めていたことは先に記した。
そして,民同,革同の中では,自民党政治家との「裏取引」の「コネ」「能力」を持つ者が「有能な指導者」だと高く評価されていた。裏取引では,組合側の事情を政府に伝え「交換」に政府サイドの情報を引出す,したがって,労働側の状況は政府に「つつぬけ」(1)になる。政府に相手にされず,勇ましいことを言っているだけの組合幹部は,労働者に信頼されない。他方,政府の「言うなり」になる幹部も組合員に支持されない。民同,革同が組合員に「耳ざわりのいい」ことを言い,勇ましく「ラッパ」を吹きつつも,政府との「裏取引」の中で妥協し「中途半端」な形で闘争を収拾するのは,こうした状況があるからである。
「妥協の天才」「無原則すぎる」との批判を生み,「柔軟さ」と「現実性」を「看板」にした富塚三夫国労書記長兼公労協代表幹事(スト権スト当時),76年総評事務局長,83年総評副議長,同年衆議院議員に当選と「出世コース」を歩んだ富塚こそ,こうした民同の典型である。「かつて大木正吾前総評事務局長が公労協代表幹事だった富塚」の「行動パターン」を「相手のふところに飛び込み過ぎる。階級的警戒心が足りない」を批判したことがあるが,それに対して富塚は「原則だけにこだわっていて何ができるか。飛びこめる(だけのパイプがある)なら,飛び込んでみろ」と反論したという。「同じ国労」の「先輩」である岩井章元総評事務局長も「原則は大切に。背骨を持て」と言うのだが,「太田=岩井」ラインの時とは「時代が違う」と「いい切ってはばからない」。こうした「変幻自在」の「柔軟さ」によって,春日一幸民社党委員長と槙枝元文総評議長との「会談」を実現させた(2)。
また,1980年,富塚は「社会党二分割論」を唱え,「政治好きのムシがむくむく」「オレの出番」と「売り込む」(3)と報道された。
1950年代の総評事務局長高野実の実子,高野孟(雑誌『インサイダー』主幹)は,78年1月31日,東京の中野サンプラザで『高野実著作集』全五刊の刊行祝賀パーティーが開かれた時,富塚が「誰彼」となく「おい,一杯飲みに行こうか」と声をかけ,銀座の高級クラブに向かったが,その道すがら「フト」「財布の中身」が気になった富塚が,国労に電話を一本入れて「おい,ちょっと小づかい持ってきてくれや」と声をかけ,「たちまち届けられた封筒」には「百万円」入っていたことを記述している。
「公労協御三家」の国労,全逓,全電通の年間一般会計予算は百億円から百五十億円,国労は1980年度で百四十億円であった。それが非課税,外部監査無し,しかも企業のように利益や配当を計上する必要もない。
銀座や赤坂で夜ごと接待したりされたり,それが無い夜は配下の者や新聞記者を7,8人引連れて,渋谷の戸川昌子の『青い部屋』でカラオケ大会,あげくの果ては銀座のホステスと“懇意”になって,彼女が店を替わる時には,その保証人にまでなった。富塚にとっては赤坂の料亭の座敷やゴルフ場のグリーンが「闘争のメイン・ステージ」=自民党の「ボス」との裏取引の場であり,笹川良一ともつきあいが有り「飲み屋」の支払いを“笹川ファミリー”の者に立て替えてもらったことも,高野孟は暴露している。
高野実,太田薫,岩井章の頃とは「時代が違うんだ」が富塚の「口ぐせ」で,「遊び」に関しては隠そうともしなかった。「女優のH」と仙台に行った時,ホテルが火事になって弱った話,81年総評30周年パーティーにゲストに招かれた演歌歌手のMと「その晩しけこんだが,朝まで放してくれなかった」と歌手が参っていた話を「人前で平気でする」,こうした「陽性」な所が「救い」であり,「シャアシャアと胸を張っている」から,「総評幹部のみんな」に「安心感」を与えているという所が総評各単産の幹部による富塚への“信頼”の根拠(4)になっていた。国労書記長時代に「ゴルフだ,銀座だという類の話」を週刊誌に「さんざん」書かれた時,富塚は『朝日ジャーナル』(76年5月28日号)で,「労組幹部も人間」だ,極度に多忙な自分が,「早死に」しないように遊んで“ウップン”をはらすのが「何が悪いのか」と反論した。
革同(非共産党員75年度当時,国労中央本部特別執行委員)子上正幸は,筆者に対して,富塚派の派閥は,思想,労働運動の路線ではなく,「ゴルフ」を紐帯として成立していたと語った(5)。日本共産党員の学者の中で,最も深く国労にコミットしたのは,平井都士夫大阪市立大学教授と高木督夫法政大学教授の二人である。その高木督夫によれば,派閥の絆は「銀座の高級クラブ通い」(6)であった。
以上のごとき,文書および証言から考えて,富塚派は,イデオロギーや労働運動論,路線の極めて希薄な集団であり,派閥の存立基盤は,《出世,金,女,酒》にあったと考えられる。まさに富塚三夫は「労働界」の田中角栄であった。富塚も角栄も(生家の貧困ゆえに)小学校高等科(高等小学校)卒であり,成績抜群であったにもかかわらず旧制中学への進学を断念しなければならなかった。富塚の「軍師」細井宗一(共産党)を介して「懇意」となった角栄と富塚との間には,70年代の両者の社会的立場を超えた,相互間のシンパシーが成立したとしても不思議ではない。「立身出世」のためには,「時代が違う」という「口ぐせ」の下に“流行”,“状況”に追随し,「変幻自在」いかなる立場をもとるというのが富塚三夫の一貫したスタンスである。
こうした富塚と一体化し,政府との裏取引,組合員大衆の心理操作,動労,国労内の革マル派に対する対処の方法を教えたのが「軍師」細井であった。1964年,「4・8声明」問題の時,共産党員である細井中央執行委員の不信任案が提出された時,不信任案取下の説得に当たったのが元革同である民同・富塚東京地本書記長(64年当時)であった(7)。その動機は何だったのか。富塚が細井の能力を見抜き,自己の出世のために役立つと考えたのではなかろうか。軍師,参謀として利用価値があると考えたという可能性は非常に高いと思われる。
70年代公労協幹部である富塚三夫国労書記長,目黒今朝次郎動労中央執行委員長,山岸章全電通書記長には,その生い立ちに規定された共通性がある。富塚は1929年,福島県の「貧農」の家に8人兄弟の4番目の子供(三男)に生まれ小学校の成績は抜群であるにもかかわらず,旧制中学進学を断念せざるをえなかった(8)。富塚少年は,旧制中学に行きたいと両親に「泣くように」嘆願し,担任の教師も,父母の「説得」に当たったが,「そんな金は無い」と進学を許さなかった。動労の目黒は1922年,宮城県,仙台より南の大河原町の「貧農の次男」(5人兄弟)として生まれ厳しい農作業,小学校3年生の時母と死別したがゆえに炊事,洗たく,新聞配達など「食わんがため,生きるためになんでもした苦しい少年時代」であった。主席で小学校高等科を卒業し宮城県知事賞を受けながらも貧困ゆえにそれ以上の進学をあきらめることを余儀無くされた(9)。
初代連合会長として800万人の組織の頂点に君臨した山岸章全電通(全国電気通信労働組合)書記長は,1929年大阪市東淀川区生まれ(4人兄弟,次男),父親は10年間失業して収入はゼロ,母親はリューマチで倒れ「生活扶助」を受けた(小学校3年生まで)。しかし,父親がどうにか働けるようになって「生活扶助」は打切られたが,米も満足に買えず,弁当を学校に持って行くことさえ不可能であった。旧制中学へは進学できたが,「ボロボロ」の服を着て通学し,電車の中で「ボロ着てるなあ」と言われて強烈な「屈辱」感を味わった(10)。結局山岸の学歴は旧制中学中退となった。
こうした彼らに,アメリカ占領軍による戦後改革は,労働組合幹部から国会議員へと出世するコースを与えることになった。そして,1947年社会党が第1党になり社会党と民主党,国民協同党の連立,片山内閣(片山首相は社会党員)が成立したことは,極貧家庭の子弟でも内閣総理大臣になることができるという認識を多くの労働者に抱かせた。
金の無い人間は金,地位や名誉の無い者は地位・名誉,女にもてない男は女というごとく,自分に無いものを求め,それに強く執着する傾向が有る。貧農,都市のルンペン・プロレタリアートの家に生まれた山岸,富塚,目黒が「出世」を最大の人生の目標としたことに不思議は無い。
富塚の“女と酒とゴルフの《遊蕩三昧》は,貧乏人の金持ちに対する少年時代から抱き続けた劣等感,ジェラシーを慰撫し,自分が獲得した社会的ステイタスを誇示する意味をも含有していた。
大阪の無職無収入の家に生まれた山岸章は,ジャーナリストの野田峯雄によれば「山岸の生き方は田中角栄と似ている」,「角栄は権力欲を満たすために政治を利用したが,山岸にとっては,その場が労働運動」であった。「組合一筋のきまじめな活動家なら,決して譲らない理念や理想があるが,山岸にはそれがない」「自分にメリットがあれば,どうにでも動いてきた」,その結果,「ライバルを蹴落として連合800万組合員のトップに立った」(11)。
動労の目黒今朝次郎の場合,機関士,運転士の特権回復という熟練労働者の職能別組合の《結成理念》を持ち,機関士としての「筋金入り」のプライドに生きた人間であり,目黒を「ボス」とする主流派は「結成理念派」と名のり,労農党支持の反主流派と対立した。1961年目黒達は「同志会」(その後,労運研――労働運動研究会と改称),反主流派は政研(政策研究会)を結成した。革マル派は政研に加入し,まず青年部を掌握し,次に「東京地本を制する者は動労を制す」と呼ばれた,動労東京地方本部のヘゲモニ−を獲得し,やがて,動労全体におけるリ−ダ−シップを確立した(12)。75年スト権スト当時,初代青年部長松崎明が東京地本委員長であり,動労本部の方針は,革マル派によって強く左右されるようになっていた。彼ら“動労のっとり”工作の最大の障害は,目黒が率いる労運研の存在であった。革マル派は目黒を動労中央執行委員会から“追い出す”ために,参院議員選挙への立候補を勧めた。そして,目黒当選後,労運研=「結成理念」派の力は急速に弱体化していった。
目黒は当時,こうなることを見すえて,すなわち,目黒の“子分”達の力が急落することを予測しながらも,また,そうなれば,組合の「結成理念」が消滅することを百も承知で,立候補に同意した。国会議員の地位を得るために,自分の“子分達”を見捨て,組合運動における自らの「理念」を放棄した。そして,1992年「勲二等瑞宝章」に“輝やき”,大きな名誉を得ることになった。目黒は地位と名誉獲得のために“子分”“仲間”を「裏切り」,「理念」を捨てて,革マル派の「軍門」にくだったのである。この目黒の行動も彼の極貧の少年時代に規定されていた。多数の民同のメンタリティと行動様式は大阪大学卒の太田薫等の例外を除いて以上3人の事例とほぼ同じだと考えられる。ストレ−トに言えば,貧困の“どん底”からはい上った民同の多くは,《地位,名誉,金,酒,女》によって,たやすく《買収》されうる存在なのである。学歴コンプレックス,地位,金に対する執着ゆえの結果である。
こうした民同と対照的なのは,左翼党派の幹部の生い立ち,それに規定された学歴である。日本共産党の不破哲三委員長,上田耕一郎副委員長,松本善明衆院議員団長,志位和夫書記局長(96年9月現在の役職)は,すべて東京大学出身である。革マル派議長黒田寛一は旧制高校(現在の東大教養学部,駒場キャンパス)を,腎臓病と皮膚結核によって中退,父親は府中市の「黒田外科」という大病院院長,医師会長や市の助役を務めたこともある「名士」である。革マル派の前衛党組織は,共産党や中核派とは対照的に《産業別》になっているが,最有力の産別党組織,国鉄委員会のキャップ,政治組織局員,藤原隆義は,早稲田大学(哲学科)出身であった。中核派最高幹部の本多延嘉書記長は早稲田大学,本多よりも「左派」だと言われていた清水丈夫は東京大学,北公路敏は京都大学である(13)。
また,戦後激動期(1945〜50年)読売新聞,東芝等,共産党員の指導下の組合幹部にも一流大学出身者が多かった(14)。
それゆえに,共産党系ナショナルセンターであった産別会議(全日本産業別労働組合会議)の多くのリーダーおよび左翼党派の幹部と,総評(日本労働組合総評議会)のリーダーの多数を占める民同とでは,幼少期からの生い立ち,価値観,行動様式が全く違うことを銘記すべきである。
なお,前述のごとき,富塚の「遊蕩三昧」は,民間労働者のみならず,他の官公労組合員の,国鉄労働者に対する敵意をも呼び起こした。次の葉書の文章もその1例である。この葉書は,「大阪府枚方市岡本町枚方市職員労働組合内,平林善信」から東京の国労本部「富塚助平」に送られたものである。(消印は1977年12月18日)。
「此頃変な広告をしやがる,国鉄の職員を見ると一度ブンなぐらないと気が治まらない。富塚はたとえ芸能関係とは言え亭主のある女優をホテルへ連れ込む,大金を出してゴルフ会員になる,彼等が言うように給料が安いならそんなことをしていられるか,ハイヒールをはいて八の字眉に助平たらしく人前へ平気で出る,国労,動労の奴等,いつかは天罰が来るものと知れ,文句があるなら反論をよこせ,いつでも相手になってやる」
ログインしてコメントを確認・投稿する