読売ジャイアンツ(巨人)は、日本のプロ野球界において最も歴史が古く、最多の優勝回数を誇る伝統球団である一方、その圧倒的な資金力やかつての球界における強大な影響力から、ファン以外の層やアンチからは「傲慢」「球界の独裁者」といった批判的なイメージを持たれることが歴史的に多くありました。
1. 「エリート集団」への反発と「裸一貫」のプライド
大鵬は16歳で北海道から裸一貫で上京し、猛稽古を重ねて横綱へと這い上がった自負を持つ「究極の努力家」でした。
一方の巨人は、全国からすでに完成されたスターや有望なエリート選手を資金力で集めて勝っているように見えました。大鵬は「いい選手を揃えた巨人と、血のにじむような稽古で横綱になった自分が、なぜ一緒なのか。あれじゃ勝って当たり前だ」と語っています。
2. 「天才・長嶋」より「努力の野村」への共感
巨人の象徴であった長嶋茂雄のような「華やかな天才・スーパースター」と同列に語られることも嫌いました。大鵬自身は、自分を天才ではなく泥臭い努力型だと信じていたため、同じようにテスト生から這い上がって苦労を重ねた南海ホークスの野村克也のような選手に強い親しみとリスペクトを抱いていました。
3. 個人競技と団体競技を同列にされる違和感
野球は9人で戦うチーム競技であり、誰かが不調でも周囲がカバーできます。しかし、大相撲はたった一人で土俵に上がり、負ければすべての責任を自分が負う個人競技です。その圧倒的な孤独と重圧の中で勝ち続けていた大鵬にとって、野球のチームと並べられること自体に違和感があったと言われています。
ただし、王貞治とは大の親友だった
球団としての巨人は嫌いだった大鵬ですが、巨人の世界のホームラン王・王貞治とは非常に深い絆で結ばれていました。
2人は同じ「1940年(昭和15年)5月生まれ」の同い年であり、王さんもまた人の見えないところで凄まじい素振りを繰り返す「努力の人」でした。お互いのストイックな姿勢を認め合い、若い頃はよく2人で朝まで飲み明かすなど、生涯にわたる親友でした。
なお、これほど巨人を嫌っていた大鵬ですが、後年に出版した自伝には『巨人 大鵬 卵焼き ― 私の履歴書』というタイトルを付けており、晩年は激動の昭和を象徴するこのフレーズをユーモアを持って受け入れていたようです。
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https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=8998402
私が個人的に最も許しがたいのは、1960年70年安保闘争していた連中が、当時は政府の御用新聞と罵っていた読売新聞がオーナーであるジャイアンツを応援していたことである。
社会主義・共産主義者なら、被爆地広島の市民球団でチームカラーが「赤」の赤ヘルカープを応援していりゃいいんだよ!
あいつらの残党の反日反政府の連中が、八月には広島に大挙して押し寄せて地元住民を無視して慰霊の場を政治闘争に利用しているのも気に入りません。
広島への愛着・愛情なんて、本当はあいつらには皆無なんだろうねえ。
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