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2026年08月29日07:01

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武神闘宴 第四章 白疾風 二 三

二

――佐伯修次郎。そもそも、佐伯はその実力を買われ、駿河藩城御前試合で、岩本流と対手となる剣士の選別に携わっていた。佐伯の『疾風剣』は、城内最強との呼び声も一際高かった。その異名には、かくの如き所以がある。

数年前、駿府の城下に、杖術を操る一人の旅の武芸者が現れた。名を神野馬允(かんのさまのじょう)という。その祖父は、織田信長による比叡山延暦寺焼き討ちの生き残りであり、打倒織田の執念を以て、その技を昇華させてきた。神野は、その継承者だという。その杖術は、伸縮自在、千変万化、如意。神野は次々に道場破りを敢行し、城下の師範代たちは煮え湯を飲まされていった。
木刀よりも間合いに勝る武器ならば、槍や薙刀がある。突きを主体とした槍の直線的な攻めや、遠心力を威力に変える薙刀。無論、どちらも剣に対して優位に働くが、その分、剣士たちはその間合いを熟知し、慣れてもいた。しかし、杖の持つ変則的な軌道には、槍や薙刀とは異なる強みがある。柄、刃という概念を持たぬ構造が、間合いの自由度を生み出し、支配領域を広げる。これが木刀に対して、破格の強みとなって発揮された。これこそ、達人と呼ばれる剣士たちが翻弄された仕掛けであった。
だが、神野に敗れた剣士たちも、そして神野自身も、気づいていた。
これは道場剣術であり、軍場では何の役にも立たぬ。
所詮は板場、規範に守られた一本に過ぎない。もしこれが木杖ではなく鉄杖であったとして、仮にその重さの鉄杖を木杖と同じ速度で操れたとしても――である。
だが、道場での一本が一本であることもまた事実。正式な道場破りで勝ち星を重ねてゆく神野を、駿府城代として捨て置くこともできず、ついに城内へ招いての立ち合いとなった。
神野の対手として名乗りを上げたのが、佐伯である。

駿府城に設けられた板場の道場。薙刀を振り回しても充分なほど、天井は高い。
神野は噂通り、杖の先端を少し下げた半身の構え。
家老の広瀬と三枝が、目を凝らしている。
小柄な佐伯は、通常よりも短く削られた木刀を手に取ると、地面に這うような下段に構えた。日頃の稽古では、決して見せぬ構えである。

「――始め」
広瀬が鋭く合図した。

佐伯は異様なまでに前傾すると、神野に向かって爆発的に駆け出した。
大腿で身体を押し出す走法に「縮地」の理(ことわり)を加えた、佐伯独自の脚捌き。それは摺り足の剣士にはあり得ぬ移動距離――「疾風剣」の名に恥じぬ速さであった。
周囲で見守る者たちは、一歩引いた岡目(おかめ)であるからこそ、ようやくその位置取りを眼で追えた。だが、正面で対峙する神野からすれば、たまったものではない。
そして――眼前に迫ってきたはずの佐伯の姿が、掻き消える。
神野が「はっ」と気づいたときには、すでに佐伯はその右側面へ滑り込んでいた。
佐伯が左手刀で、神野の右肩を、そっと叩く。神野は唸りを上げるように、「参りました」と宣言した。
この一件以来、城内の最強論争に佐伯の名が漏れることはなくなり、その評判は長く残った。

城内最強とも名高い、疾風剣の佐伯修次郎。なぜ死刑囚へと身を落とすことになったのか。皆が首を傾げたが、佐伯は黙して語らなかった。その理由とは――。
佐伯には、娶ったばかりの妻、千加(ちか)がいた。
ある夜、睦み合いを終えた閨の静寂。
深く眠りについたはずの千加の唇から、残酷な寝言が零れ落ちた。
「……清玄様……っ……」
虎眼流との御前試合、その段取りに携わっていた佐伯には、その名が誰を指すのか、すぐに理解できた。
――伊良子清玄。
『魔眼』と呼ばれる危険なまでの美貌を以て、城下の贔屓筋(ひいきすじ)の女たちを狂わせている――その悪評を、佐伯は知っていた。夫との閨の直後に、恍惚とともにその名が出た。それがただの「贔屓」などで済むはずがなかった。
その一言で、佐伯の新婚の幸福から、すべての音が消えた。
――翌朝、妻の千加が目覚めることはなかった。
夜明け前、佐伯の冷徹な決断により、その顔貌美しき首が斬り落とされたからである。
こうして妻を殺め、自首した佐伯。
駿府城代は、その卓越した腕を惜しみつつも、その眼に宿る伊良子への宿怨の炎を見抜き、この御前試合の舞台へと彼を立たせたのである。

三

――駿河城御前試合、第二戦。

佐伯修次郎は、袴も白い死に装束で立っていた。
その死合に勝利したとて、その場で切腹する覚悟の現れであった。
対手の伊良子清玄。死にゆく者への手向けか、同じく白い袴姿であった。
共に白装束の両名が白砂に立つ。
「――始めぃ!」
試合開始の合図。
怨敵・伊良子を前に、鞘から抜かれた佐伯の太刀は、一般的な二尺三寸(約七十センチメートル)を遥かに超え、三尺(約九十センチメートル)にも及ぼうかという長刀である。
長い白刃が、深く下段へと沈んでゆく――。
地を這う下段に構えたるや、疾風の如く爆発的に駆け出す。
その瞳には底無しの怨念が宿る。妻・千加の不義に対する逆恨み。その炎は、伊良子清玄の魔眼を射抜かんばかりに燃え盛る。
佐伯の『疾風剣』。それは、城内の誰も、未だ目にしたことのない領域に達していた。単なる脚力ではない。木刀とは異なる、三尺の刀身が持つ重量さえ推進力へと変換した、極限の「縮地」であった。
幕席の藤木源之助が、思わず目を見開いた。疾風剣の評判は聞き及んでいた。だが、これほどまでとは。
同時に、藤木の脳裏を懸念がよぎった。伊良子は岩本剣術道場でも群を抜いての最速であるがゆえ、伊良子以上の高速剣の使い手がいない。つまり伊良子には、受け手としての稽古経験が不足しているのだ。
佐伯は、青眼に構える伊良子の右外側へ滑り込む。
右利きの剣士を相手にする際、死角となりやすい右側へ回り込むは、剣術における常套手段。だが、その移動速度があまりにも異常であった。
対する伊良子は、柔軟に右足を引き、左回転による体の転換を以て、これに応じる。
佐伯はさらに伊良子の外周を疾走し、更なる右側へと回り込む。
それを迎え撃つ伊良子の流麗な体捌き。両者はまるで円舞曲(ワルツ)でも踊っているかの如くである。
武芸に通じぬ一般の陪観者たちの目には、伊良子の周囲をただ猛烈に駆け巡る佐伯と、それに合わせて くるり くるりくるり と軽妙に身を翻す伊良子――まるで他愛のない児戯のようにしか見えなかった。

フォト


しかし、岩本剣術道場の門下生たちをはじめ、武の心得のある者たちは、その場に立つ己を想像する。両者の繰り広げる絶技に、毛穴から冷や汗を流しながら、魅入った。
いったい、何周の旋回を繰り返したであろうか。
周回の動きに目が慣れた、そのとき――全員が佐伯の姿を見失った。
――否、この場に居て、ただ一人、藤木だけは佐伯を明確に捉えていた。
この超絶の技法を見るのは、藤木にとって人生で二度目であったからだ。
佐伯は、伊良子の周囲を駆け続けて得た遠心力をそのままに、突如、両の脚を交差させる。
――伊良子の左背後へ、瞬転。
それは奇しくも、かつて模擬戦にて牛股が『疾風』と名付けた、あの伊良子の脚捌きそのものであった。
左背後――それは剣士にとって、右側面を凌駕する必勝の位置取りである。
「殺った!!」――満願成就。
呪詛の如き呻吟と共に、佐伯は下段から三尺の刀身を斬り上げた。
佐伯には分かっていた。己の感情が、矮小な嫉妬であると。
周囲の切腹を止める声も聞かず、この試合を押し通したのは、佐伯が自分を恥じ、消えてしまいたからである。
しかし、手に伝わるはずの手応えがない。
陽光を受けて輝く白砂。衆目が見守る中、伊良子の姿は虚空へ消えた。
藤木ですら理解が追いつかなかった。だが、その目は伊良子を離さなかった。
佐伯が『疾風』を放ち、伊良子の右側面を取ろうとしたその位置取りから、左背後へと牙を剥いた刹那――。
伊良子もまた、右足を引いた左回転から、左足を出した左回転へと軸脚を切り替えた。
『旋回』を以て、更に佐伯の背後へ周りこんだ。
その反応速度と足捌きもさることながら、伊良子が悪魔的なのは、あろうことか凶刃の交差する真っ只中、ほんの一瞬とはいえ対手に背を向け、旋回してみせたところにある。
結果、伊良子の左背後に位置取ったはずの佐伯。そのさらに左背後へ、伊良子は周り込んでいた。
怨敵を見失った佐伯の脳に、致命的な空白が生じた。
伊良子は佐伯の背後で独楽の如く回り、更なる回転力を重ね――。
そして、回転の軸を「横」から「縦」へと傾けた。
――異形の一撃。
陽光を受けた清玄の剣が、白い火花の如く光り、弧を描いて垂直に跳ね上がる。
佐伯の背後から両脚の間を鋭く通り抜け、恥骨を裂いて骨盤を割り、腰椎に沿って下腹部から腹部を疾しると、左脇腹から鮮血の飛沫を纏って上空へと飛んだ。

「螺・螺・螺・螺旋」

――誰も見たことのない、剣の常識を嘲笑う剣技。
陽光を受けて煌めく白刃。

駿河大納言・徳川忠長は、伊良子の美技に魅入り、その白皙の肌を紅潮させた。
「疾風剣の名は、佐伯よりもこの者に相応しいな……」
小さく声を漏らした。

背後から。足元から。自身を引き裂いた斬撃。
埒外の事態に、佐伯は束の間の後には己が絶命していることにさえ、まだ気づいていない。
だが、伊良子の剣技はここで終わらない。
目釘(柄の鍔に近い部分)あたりを握っていた伊良子の右手が、柄頭(柄の後ろの方)へと滑り、空いた目釘の位置に左手が入り込む。
両の手の甲は、共に上空を向いている。
右肘を限界まで引き絞り、左腕を極限まで伸ばす――横一閃。
それは、岩本流奥義『流れ星』とは非なる技法によって放たれた、水平の一閃。
佐伯は下から左脚を斬り取られ、大地へ倒れ伏す間もなく、その頭部と胴は泣き別れとなった。
笑みを湛えた伊良子は、血飛沫を浴びながら、美しく佇む。
「優雅でなくては意味が無い」
純白の胴衣を真紅に染めながら紡がれる、勝利宣言。

こうして、佐伯と千加、そして伊良子の三角関係は、伊良子が何一つ知らぬままに、消滅した。
自らの手で撥ねた妻と同じく、首だけとなった佐伯。
この結末を、喜劇と語るも由。悲劇と語るも由。

西方・死刑囚、佐伯修次郎――絶命。
第二試合、東方・伊良子清玄、華麗なる勝利。
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