第四章 白疾風
一
第一試合――頭蓋を叩き割られた児島宗蔵の無残な死体が運び出され、血に染まった白砂が整えられるまでには、およそ一刻(約二時間)を要した。
陣幕の外では、怒涛の連撃を見せた児島の正体や、その異能について、観客たちが騒然と噂を交わしていた。
とりわけ熱を帯びていたのは、総出で詰めかけた岩本剣術道場の門下生たちであった。話題の焦点は、藤木師範が試合の刹那に見せた「仕込み鉈」の是非であった。
――否、それを非とする者など、誰一人としていない。
ただ、このような変則的かつ実戦的な奇策を、天才肌の伊良子師範ではなく、誰よりも愚直な藤木師範が披露したことへの驚きと戸惑い。これを飲み込むには、未だ時間が足りなかった。しかし自称一番弟子の近藤涼之介は、一際目を輝かせ、己が深く敬愛する師の鮮烈な活躍を熱弁していた。
「見たか、あの極限の引き込みと、土壇場での仕込み刃。振りかぶることなく、割ってのけるなんて。あれこそが藤木先生の真骨頂だ」
熱弁を振るう近藤の周囲で、門下生たちの表情が、突如として硬直した。
不審に思った近藤がおそるおそる振り返ると――そこには、微かに湯気を立ち昇らせ、穏やかな微笑を湛えた藤木源之助が立っていた。
肌が赤く火照っているのは、死闘の熱のせいばかりではなかった。会場設営を任された家老・三枝高昌(さえぐさたかまさ)の粋な計らいにより、命を懸けて戦い終えた剣士のために、簡易の風呂が用意されていたのだ。この破格の厚遇には、さしもの藤木も驚かされた。
藤木は、普段の厳格な面持ちからは想像もつかぬ、いつになくはにかんだ笑みを浮かべると、門下生たちに静かに言った。
「――皆の声援、確かに届いていた。ありがとう」
あの大歓声のなか、自分たちの声援が届いていた――その一言に、門下生たちは胸を熱くした。かつて陰で「面白みのない朴念仁」と囁かれていた師範への軽口は、この日を境に、岩本剣術道場から姿を消すこととなった。
整地の間、一万を超える市井の観覧者たちには、駿府城代より惜しげもなく「握り飯」と「お茶」が振る舞われた。これもまた、三枝の発案であった。
勿論、これは単なる慈善ではない。観覧席には他藩からの隠密や密偵が多数紛れ込んでいることを百も承知の上で、駿河藩の財力と余裕を知らしめる政治的な示威でもあった。
思わぬ馳走にどっと歓声を上げる幕外の民衆を見下ろし、櫓の奥で徳川忠長の唇の端が、微かに上がった。一見すれば、それは「民衆などというものは、この程度の施しで容易く喜ぶものか」と、冷笑しているかのようにも映る。――だが、真相は違った。
忠長は、戦国一の美女と謳われた織田信長の妹・お市の方の血を引き、その顔立ちはあまりにも端麗にして高貴であった。しかし、生まれ持った身分ゆえに、幼少より一挙手一投足に厳格なまでの威厳と姿勢を求められ続けた結果、感情を表に出す術を失ってしまっていたのだ。切れ長で涼やかな瞳を持つ美形。その不器用な貌は冷淡と受け取られ、これまで周囲に多大なる誤解を与え、ついには大奥の権力者・春日局との致命的な確執にまで発展してしまっていた。
忠長の微笑は、ただの不器用な歓喜の表れに過ぎなかったのに。
さて、仕掛け人である三枝には、一つ、小さな誤算があった。かつて剥き出しの戦国を生き抜いた三枝にとって、飢餓の記憶は重く残っていた。今なお、握り飯は至極の馳走であった。
しかし、農民をはじめとする市井の者たちは、白米の握り飯を「美味い、美味い、美味い」と笑顔で食う。そこにあったのは、驚きではなく笑顔であった。そして皆が驚いていたのは、同時に配られた「駿府のお茶」であった。
かつて東照大権現・徳川家康公が駿河の地に広めた茶の栽培は、今や確固たる名物となっている。この日振る舞われたお茶は、鼻腔を抜ける豊かな香りと、舌の奥に残る甘みを湛えていた。栽培に携わり、日頃から茶に親しむ者ほど、その質の高さに驚き、声に出して褒め称えていた。
「――ほう。民衆が当たり前に米を食い、茶を語るのか」
三枝は、自慢の八の字の髭を静かに撫でた。
血に染まる真剣勝負の舞台裏。己に根付く「戦国の価値観」と「徳川の泰平の世」。この差異をまざまざと実感したことこそが、老兵が一線を退く静かな引き金になったという――。
些か余談が過ぎた。惨劇の舞台たる白砂の試合場も、どうやら綺麗に整ったようである。
噺を次なる死闘――伊良子清玄と、佐伯修次郎(さえきしゅうじろう)へと戻そう。
――第二試合。
「東方剣士――岩本剣術道場師範代、伊良子清玄」
「西方剣士――死刑囚、佐伯修次郎」
駿河の陽光の下、あまりにも異様な呼び出しが響き渡る。
これは、死罪を待つ身であった佐伯の、最期の願いによって成り立った試合であった。
伊良子清玄が勝てば――由。
佐伯修次郎が勝てば――その場で切腹。
窮鼠猫を噛むというが、佐伯が死に物狂いなのは必定である。
己の生還を一切許さぬ申し入れに、
「何だか知らんがとにかくよし!」
伊良子清玄は、快諾した。
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