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2026年08月23日09:32

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武神闘宴 序章 絶対強者 二 三

二

岩本はこの関ヶ原の戦いにおいて十三の首級を挙げる。この功績は、猛将・藤堂高虎の目にも留まる。岩本はその「虎」の一字を拝領し、その魔眼から「虎眼」と名付けられた。「濃尾無双」と讃えられる怪物・岩本虎眼。その初陣は血煙に彩られていた。
その後、虎眼は、大坂の陣で冬と夏を合わせ、十七の首級を挙げる。この誉れ高き戦功は、徳川の覚えもめでたく、駿河大納言のお膝元たる駿府の地に、一宇の道場を構えるに至った。その名を――岩本剣術道場という。

更に十数年の歳月が流れた。
虎眼は、今は亡き正妻との間に一人の娘を授かった。だがついに男児、跡継ぎに恵まれることはなかった。一人娘の三重は、幼き頃より愛らしいと巷で評判が立つほどで、魔眼の父の血を継いだ大きく潤んだ瞳に、多くの男共が魅了された。咲き誇る前の蕾の如き、その可憐さ。三重が一言挨拶をするだけで、誰もが虜となる。岩本剣術道場の発展、その真の立役者は、三重であるのかもしれない。そして籍を置く門下生、その全員が三重に想いを寄せていたと言っても過言ではない。
しかし三重の婿、すなわち岩本剣術道場の継承者は二名に絞られている。

牛股権左衛門、伊良子清玄、藤木源之助。岩本剣術道場には「一虎双竜」と謳われる三名の師範代がいた。
牛股は巨躯を操り、虎眼流への忠義厚く、その剛腕から最強の呼び名が高かったが、妻帯者であり、また先の大坂の陣で負った傷により、容貌が崩れていたため、三重の相手には見做されなかった。
藤木は、その厳格な性格をそのまま形にしたような、容姿端麗な顔立ちである。その剣は、よく言えば真っ直ぐ、悪く言えば愚直。師である虎眼が「大樹が折れるまで、横凪ぎに竹刀で叩け」と命じれば、半年間、黙々と反復し、幾百本の竹刀を不具にして、成し遂げた。
無論、容易なことではない。半年間の早さも驚きには値しない。
藤木が成し遂げること自体は虎眼の目論み通りであったが、別に目を見張る点があった。軸がぶれないのである。大樹を叩くのは素振りとは違う。反動があり、跳ね返りがあり、重心が変わる。しかし藤木は、素振りをするかの如く正確な軌道を刻む。肉体の弾性が生み出す揺るがぬ体軸。藤木の強みはその性格ではない。心身共にある、芯の強さにこそある。この日、藤木は虎眼流の奥義『流れ星』を伝授された。
もう一方の伊良子は眉目秀麗。その美貌には人を誑し込む魔性があり、虎眼自身に劣らぬ「魔眼」の持ち主である。門下生としての伊良子の剣は、虎眼の教えに独自の改変を加える悪癖があったが、虎眼はそれを由と捉えていた。大坂の陣を経て徳川泰平の世になったとはいえ、軍場を潜り抜けてきた者たちならば知っていた。刻一刻と変化する死線において必要なのは、道場での剣術の腕ではなく、柔軟性。状況に対応できる力こそが、生死を分けると。

三名とも師範代とはいえ、牛股と藤木は虎眼流奥義『流れ星』を体得し、伊良子には未だ伝授していない。藤木と伊良子の腕は伯仲、道場なら六四で藤木が勝ち、されど軍場なら伊良子が生き残るだろう。
そして当の三重は、本人は秘めているつもりのようだが、伊良子にご執心。それが父である虎眼の目には見えている。また虎眼自身も、己に巣食う貪欲さと同じものを持つ「魔眼」の伊良子が、岩本剣術道場を継ぐに相応しいと考えていた。

虎眼の妾、その名を「いく」という。
花盛りとは言い難い妙齢ではあるが、落ち着いた声が心地よく、きめ細かく滑らかな雪肌と、柔らかな物腰から匂い立つ、艶。虎眼にとって歴代の妾のなかでも、いくは格別のお気に入りであった。
或る夜。蝋燭の橙火揺れる寝所で、改まった口調でいくが囁いた。
「道場を継ぐ三重の婿は、実直な藤木の方が良いのでは」と。
岩本剣術道場の看板であり、かつ当主を譲った後の御しやすさを考慮し、道場を継がせるには伊良子よりも藤木。理合いがある。
しかし――かつていくは、誰よりも熱心に「三重の婿には伊良子」と言い張っていた。
その心変わりの真意――虎眼がそれに気付いたとき――。
虎眼の白髪が ゆるり と持ち上がった。
怒髪天を衝く。それが比喩ではなく現実として、いくの眼前に起こる。

フォト


ごとん と虎眼の脳内で音がした。

刹那、虎眼はこれまでに味わったことのない衝撃に見舞われる。
鈍器で後頭部を打ち据えられたかのような激痛。突如として視界が暗転する。
だが暗闇のなか、濃尾無双の怪物はなお動く。
傍らの脇差を抜き放つや、虎眼は背後の敵へ向けて虎眼流奥義『流れ星』を放つ。

――閃光。

目を見開き、怯え、驚いた表情のいく。
その白く艶やかな首筋に、一文字の赤い線が浮かんだ。
数瞬の後、いくの頭部は首から滑り落ち転がった。
首の断面から二度三度と吹き上がる噴血が、倒れた虎眼の頬に降り注ぐ。
虎眼の黒く染まりきった意識のなか、伸ばした手が最後に触れたもの。それは己の所有物であったはずの、いくの生首であった。

濃尾無双と讃えられた怪物・岩本虎眼。
その死に場所は軍場ではなく、妾のいくの血が滲みこんだ畳の上であった。
死因は中風(くも膜下出血など脳血管障害)であるが、その身に宿る激情に、肉体が耐えられなかったと言えるだろう。

三

妾いくの生首を抱えた岩本虎眼の怪死。謎を残す事件から、三年が経過した。かつて門下生千人を数え、駿河の地にその名を轟かせた岩本剣術道場。当主を失った道場だったが、衰退どころか、従前を超える拡大を遂げていた。
それは道場を支える三名の師範代。「一虎双竜」による三頭政治――。
当主・伊良子、そして伊良子を支える両翼が牛股と藤木である。

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牛股権左衛門
その天賦の巨躯から繰り出される剛腕の剣術は、天下に比類なし。豪腕の持ち主は日ノ本中に数多く居れど、牛股の剣は恵まれた体躯を頼りにするのではなく、体躯を操る剣術。だからこそ力自慢の猛者たちが牛股の剣に惹かれ、こぞって岩本剣術道場の門を叩いた。

伊良子清玄
岩本剣術道場当主、亡き虎眼の「魔」を、最も色濃く受け継いだのが伊良子であることに異論を挟む者はいない。その魔眼は、虎眼の如く射殺す凶眼ではない。見る者を魅了し、惑わす美貌の魔眼。そして骨肉のしなやかさから繰り出される、変幻自在、予測不能の剣技。柔軟なひらめきによる技の組み立ては、凡人の慮外。若い剣士たちは、見取り稽古だけで、視野を拡張できた。

藤木源之助
寡黙なる努力の化身。牛股の巨躯も、伊良子の天稟も持ち合わせぬが故に、藤木は凡人が鍛錬で到達し得る域の、最高峰。日々の愚直な稽古が実力に繋がる。朴念仁で行儀がすぎるきらいはあるものの、努力と成果を背中で実感させてくれる。凡百を自覚する門下生たちにとって、藤木源之助は生ける指標となった。

ここに興味深いのは、三名が互いの実力を認め合い、絶妙な「三竦み」の均衡を保っている点にある。

虎眼の娘・三重を娶り、名実ともに岩本剣術道場の当主となった伊良子。その胸中に秘めた野心は、道場主という器で収まりきるものではない。そして伊良子は、場合によってはその当主の座すら奪いかねない牛股や藤木を、排除しようとはしなかった。己に無い「絶対の重厚」と「愚直な合理」、岩本剣術道場という組織を拡大させるための、頑強な歯車として利用価値を見出せた。いや――それ以上に、心底、二名を尊敬していたのである。
牛股は、伊良子が底知れぬ野心を持つことを見抜いてはいた。巨大化を続ける門下生の手綱を握り、同時に当主となった伊良子への無言の牽制とするべく、道場内に鉄の規律を敷いた。これが功を奏し、ならず者達の巣窟となりがちな他の剣術道場との差別化となった。この岩本剣術道場門下生たちの謙虚な佇まいは、やがて駿河の地で市井の者たちを中心に、評判を集めて行くこととなった。
そして藤木とて、この奇妙な均衡の中に居場所を得ている。伊良子の魔眼が放つ、人を狂わせる強烈な輝き。牛股という大黒柱が、組織の根底を支える、内助の功。
人の和から外れ、過剰となってしまう自身が排除されないのは、この二人の歪な噛み合いによるものと、自覚していたのである。

岩本虎眼の怪死という凶事を経てもなお、道場が分裂せず、むしろ進化を遂げた理由。
それは、奇妙なる運命の巡り合わせと――そして何より三者が、剣に対して確たる「真摯さ」を抱いていたがゆえであった。
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