今回は、3月20日に、男子サッカーのWカップアジア最終予選で、日本代表と戦ったバーレーン王国の歴史と共に、試合の様子をレポートした。、王様の権限が強く、議会の力は弱い。民主化には遠いといえる。国の足跡を辿っていく。
関連日記
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<バーレーンの歴史>
今回取り上げるのは、中東のバーレーンである。ペルシャ湾に浮かぶ30の島々から成る。面積は786.5平方キロメートル(宮城県仙台市程度)、人口は157,7万。そのうちバーレーン人は72,6万(2023年6月時点)、人口比で46%、首都マナーマには、純粋なバーレーン人のおよそ4分の1が暮らす。宗教に関しては、全人口7割がイスラム教徒である。そのうち7割がシーア派、残り3割がスンニー派である。政治体制は、立憲君主制。憲法で一定程度力を抑えられているとはいえ、イスラム教スンニー派のハリファー家が、統治する。
写真=首都マナーマの夜景 Beautiful Photo.net
https://beautiful-photo.net/hotel-bahrain
経済の中心は工業、隣接する同じく立憲君主制国家のカタールと比べると、石油の埋蔵量は少なく、得られる富は限りがあった。工業化に着手し、石油精製、アルミ精錬を始めとした工業化推進による産業の多角化を推進している。
以下 JETRO ビジネス短信より 2024年4月17日付
https://www.jetro.go.jp/biznews/2024/04/fc9d2aab7a922fa9.html
経済的には良好である。2023年のGDPは、前年比2.4%増の136億6,122万バーレーン・ディナール(約5兆5,191億円、BHD、1BHD=約404円)だった。2023年第4四半期は前年同期比3.45%増である。非石油部門に限ると、プラス3.89%になる。2024年2月20日にバーレーン経済開発委員会は、2023年に過去最高となる17億ドル超の(前年比55%増)投資を誘致したと明らかにした。最も力を入れたのは、金融サービス部門になる。その次は、国の経済を支える製造業である。同委員会は、設備投資に伴い、新たな雇用を生み、力強い経済を支えていると、総括した。
第1章 バーレンの歴史の創世記
次にバーレーンの歴史を振り返ると、隣接するカタールと繋がりが深かった。小さな諸島から成る首長国として、領土の帰属権をめぐり、時に外交関係がこじれていた。ただし、宗派に関しては、国民の大半がスンニー派のカタールに対して、バーレーンはシーア派である。詳しく紹介する。
写真=バーレーン周辺の地図 世界史の窓バーレーンより
バーレーンは、最初の文明とされるメソポタミアとインダス文明の交易国の中心となるディムルンと呼ばれる地域に属していた。古文書によると、バーレーン、サウジアラビア王国東部、カタール、オマーン、ペルシャ湾岸沿いのイランの一部地域を含んでいた。紀元前4000年頃、シュメール文明の楔形文字にディムルンの名が刻まれていた。海の幸に恵まれたディムルンでは、定住生活において欠かせない、生活道路が張り巡らされ、市場が開かれた。住宅跡も残っていた。いかに安定した資源があったのか、発掘調査からでも明らかになった。実に推定15万基の古墳があたとされる。死者を丁寧に埋葬し、あの世へと送った。はるかに面積が広い日本列島の古墳が16万基と比べると、身分に関係なく、手厚く埋葬したといえる。恵まれた土地には、常に侵略者の目を引く。紀元前1800年から1600年にかけて、アーリア人の軍勢がディルムンを侵略し、インダス文明の諸都市と共に破壊され、海上貿易の要所としての地位を失った。当時のバーレーンには、新アッシリア帝国のセンナケリブ(在位:前705年 - 前681年)の支配下で、人々が定住生活を送っていたとされる。紀元前2000年頃から海面低下によってファイラカ島(現在のクウェート)にて、交易の拠点を設けた。
紀元前600年頃、アッシリアに取って代わり、新バビロニア帝国が力をつけると、代わりにバーレーンを支配した。地中海を跨ぎ、西でいち早く文明を築いていたギリシャ人達は、バビロニアが治める真珠や海産物の収穫が期待されるバーレーン島をティロスと呼び、入植を始めた。バビロニアは、ペルシャ帝国に敗北すると、地政学的に交易の要衝となる。インドから西アジアへ広大な領土を獲得したペルシャ帝国は、マケドニアのアレクサンドロス大王との最後の戦いに挑む。紀元前333年、イッソスにて、ペルシャ帝国のダレイオス3世は、アレクサンドロス大王を迎え撃つ。戦いはアレクサンドロス大王の勝利、壊走したダレイオス3世は、建て直しを図り、もう一度戦いに挑む準備を整えた。バクトリア(現在のトルコの一部地域)総督のベッソスに殺害され、命を落とした。支配者ペルシャ帝国の滅亡により、アレクサンドロス大王が一帯地域を獲得する。ペルシャ湾に突き出たバーレーンに立ち寄ったか、定かではない。西へと向いインドまで到達した。長引く遠征で、重い病に倒れたのか、紀元前323年6月10日32歳の若さで急死した。バーレーン一帯の地域は、アレクサンドロス大王が亡くなった紀元前323年に独立を果たしている。
第2章 独立後のバーレーン
<以下 バーレーンのイスラム教 ウィキペディアより引用>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99
初期イスラームの時代に、バーレーンは、ワエル族が信仰した多神教の偶像の名にちなみ、アワルという名で知られていた。当時北はイラクのバスラから南はオマーンまで広範囲に及ぶ。預言者であるムハンマド(存命期間570年頃 - 632年6月8日)は、使節であるアル=アラー・アル=ハドラミーを、バーレーン君主のアル=ムンジル・イブン・サーワーに遣わすこととなる。
かくして628年には、クウェートからアル・ハサーやカティーフ、バーレーン諸島を含むカタールの南岸部にまで勢力を伸長した。ムンジルはイスラム教への改宗を表明すると共に、カタールに居住する一部ペルシア人を含む、バーレーンやカタールの住民全員もムスリムとなった。バーレーンにおけるイスラム時代の幕開けである。
シーア派の一派イスマーイール派の流れを汲むカルマト派が899年バーレーンを掌握し、要塞や軍事作戦の基地とした。その後バグダードに侵攻し、930年にはメッカやマディーナを攻略。ザムザムの泉を巡礼者の死体で汚し、黒石をバーレーンに持ち帰った。カルマト派は976年、アッバース朝に敗北し、爾来勢力が衰微してゆく。
写真=マナーマのグダイビヤモスク
カルマト派国家の敗北に伴い、イスマーイール派も漸次衰退を余儀無くされるが、以後400年にわたるスンナ派君主の下で、同派の一派である十二イマーム派が台頭。歴史家のフアン・コールによると、スンナ派はカルマト派を抑える上で十二イマーム派を好み、バーレーンでの発展を奨励したという[3]。
13世紀には、正統十二イマーム派に哲学の諸主題や神秘主義を習合した「バーレーン学派」が勃興。シェイフ・カマル・アッディーン・サーダーやシェイフ・ジャマールッディーン・アリー・イブン・スレイマーン・アル=バフラーニー、マイサム・アル=バフラーニーらの神学者を輩出するに至る
<引用終わり>
1500年代初頭、大航海時代が幕を開けると、中東地域にポルトガルの手が及ぶようになった。ポルトガル人は、インド、アフリカ、ヨーロッパを中継する交易拠点として、ペルシャ湾に突き出たバーレーンとカタールに上陸した。ポルトガル人は要塞を建設し、同じく海洋進出するオランダをけん制した。当時イスラムの長大なオスマン帝国も無視できなかった。1559年7月から11月にかけて、オスマン帝国の君主スレイマン一世の時代、ムスタファ・パシャとポルトガル軍が4ヶ月にわたり戦った。一連のバーレーンの攻囲戦において、バーレーンの太守(アミール)は、手はずを整えていた。1534年に、スレイマン1世が、イラクのイラクへ進軍すると、バーレーンの太守は、使者を送った。スレイマン1世は、バーレーンを支配するポルトガルとの争いを回避するべく、干渉しないと返事していた。1538年に、オスマン帝国は、同じイラクの南部バスラを手に入れると、バーレーン島との距離が接近する。必然的に軍の指揮権を与えられているムスタファ・パシャは、真珠の産地をとりたくなる。4ヶ月の間、一進一退の攻防が続いた。バーレーンの当時の太守ムラド・シャーは、捕虜交換を仲介するなど、争いの早期決着を望んだ。両軍疫病によって消耗仕切っていた。ポルトガルは、バーレーン島を死守したとはいえ、大きく戦力を落としていた。オスマン帝国は、真珠の半島を奪えず、大国の威信が潰えた。
当時の激戦地は、ポルトガル要塞として今に残る。1603年のことである、この地は、ポルトガルとの戦争で買ったペルシャ人の手に落ちた。1623年にポルトガルの80年にわたるバーレンの支配権を失い、100年に渡ったホルムズ海峡の通航権を放棄した。功労者はサファヴィー朝の5代目のシャーであるアッバース一世だった。ペルシャ人が中心のサファヴィー朝はシーア派を信望する。バーレーンの人々もシーア派が根付いていた。
第3章 ハリファー家が統治する
1783年のことである。現在まで続くハリファー家統治の始まりだった。カタールの現在の王位サーニ家と血筋が近いハリファー家が、バーレーンへと移住した。第一代の首長シェイク・アフメド・ビン・ムハンマド・アール・ハリーファは、1786年にオマーンとの間で利権をめぐる争いにより、一端は追放される。1820年代には、英国と保護条約を結び、再びバーレーンの地にハリファー家が降り立った。隣接するカタールとの間では、領土をめぐる軋轢が耐えなかった。1863年、バーレーンの統治者であるモハメッドビンハリファは、従兄弟のモハメッドビンアハメドをカタールの副首長として派遣した。バーレーンとカタールの2国を一時ハリファー家が支配した。土着のナイーム族は主権を奪われ、反旗を翻した。1867年バーレーン・カタール戦争が勃発した。バーレーンは、現在UAEを構成するアブダビ首長国から支援を受けて戦った。現カタールのアル=ワクラにて、富を独占するバーレーンのハリファー家に対して、カタールのナイーム族は勝利し、追放した。1932年には、アラビア湾岸諸国で初めて石油の生産を開始した。イギリスの保護下で、外交権を獲得しているものの、制限がかかっていた。転機は1968年にある。すでに1956年にエジプトのスエズ闘争により、イギリスの中東地域での影響力は衰えていた。スエズ運河の通航権を失い、中東地域での部隊の駐留費に見合った経済効果が得られなかったのである。前年の1967年には、保護領だった南イエメンの反乱により、独立を許していた。7つの首長国から成るUAE、カタールと足並みを合わせて、独立の手続きを踏む。
1971年8月14日、バーレーンは首長国として独立を宣言し、1973年5月に新憲法を発布した。当時はハリファー家の王に絶対的な権限が与えられていた。1968年に産油国で結成されたOAPECには、独立前年の1970年に加盟している。原油先物価格は、1950年代後半は1バレル1ドル台、1973年10月6日に起こった第4次中東戦争を機会に、産油国は足並みを合わせて、引き上げる。1973年10月14日に、1バレル3ドルから5ドルへと設定した。10月29日の終戦後も、イスラエルへ圧力をかけるため、輸入国のイギリスや西ドイツ、アメリカへ圧力をかけるべく、同1973年12月には、12ドルへと増額したのである。時代と共に堅調に伸びる原油価格に後押しされ、経済も飛躍を遂げた。1981年5月25日にはUAEのアブダビで、湾岸協力会議(GCC)を結成した。その名のとおり、湾岸地域の首長国バーレーン、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビアの6カ国が参加している。加盟国の間では、経済・金融・貿易・通関・観光分野においての協力が盛り込まれた。なお安全保障については言及していない。緩やかな経済協定を結んだのである。
バーレーンは1999年、前首長の逝去に伴い即位したシェイク・ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファは、政治改革に着手した。2001年頃から、経済成長にブレーキがかかることにより、政治体制に不満を持った国民の間でデモが起こった。王政転覆のリスクを避けるべく、2002年2月には憲法を改正して王制へと移行した。二院制国民議会を設置して普通選挙による代議院選挙を実施する。絶対王政から立憲君主制へと代わり、「バーレーン王国」へと改称した。確かに民衆が選挙に参加できるとはいえ、ハリファー家の王(マリク)の権限はいまだに強い。隣の首長国カタールのサーニー家との間では、独立時の1971年からハワール諸島の帰属問題から、緊張状態にある。
写真=ハワール諸島の位置関係 掲載元 travel giographic 2022年6月16日付
https://travelgeographic.hatenablog.jp/entry/2022/06/16/031610
1991年にカタール側が国際司法裁判所(ICJ)に提訴したものの、バーレーンの領有権との裁定が下っていた。絶対君主制のサウジアラビアとは、軍事面でも頼りにしていた。UAEとも協力関係を築く。イスラム教の世界は、王制の支持派か不支持派か、国を二分ずる事態に陥る。ムハンマドの教えに立ち返れば、神の下は平等とされる。一族で巨万の富を築くことは許せなかった。国民の潜在的な不安は、2011年のアラブの春で現れた。エジプトのムバラク政権、チュニジアのベン・アリ政権、リビアのカタフィ政権がこぞって崩壊した。バーレーンにも、民主化運動が波及した。2011年2月14日から3月18日の間に、「バーレーン騒乱」と呼ばれる王制打破を掲げる市民による大規模デモが起きた。国内では、もう一つ宗派差別が顕在化していた。国民の7割はシーア派であるにもかかわらず、残り3割のスンニー派が、職業上でも好遇されていたのである。ハマド国王は、アラブ各国で連鎖反応する体制転換を求める市民活動の大きなうねりを感じていた。2月11日に、新憲法制定10周年を控え「国民行動憲章10周年記念」と題して、国民一人あたり1000ディナールの給付金を出して、感情を和らげる。1回限りの現金の還元策では、国民の目を欺けない。市民団体が要求した政治犯については、一定数釈放する。その場限りの政策で逃げ切りを図る国王に対して、市民の反感は強まっていく。警官のデモ隊への発砲による死傷事件が発生すると、さらにデモの数は膨れ上がった。連鎖反応的に続くデモにより、国は大きな混乱に陥る。周辺諸国も黙ってはいない。3月14日以降、サウジアラビア軍1000人、UAE軍500人が派遣され、デモの鎮圧に当たった。圧倒的多数の市民は、武力を持たず、戦いには限界だったのである。3月18日まで続いたとされるデモで、死亡者93人、負傷者2900人以上、逮捕者2929人にのぼった。
第4章 隣国のカタールとの関わり
アラブの春と呼ばれる民主化運動は、北アフリカや中東の一部地域では確かに高揚した。絶対王政のサウード家が支配するサウジアラビアは安泰だった。湾岸諸国では、バーレーン以外、起きていない。ハリファー家の王は、スンニー派とシーア派の宗派の歩みよりを示すことなく、市民を監視することにより、治安維持に努めている。隣のカタールとは、外交関係で大きくこじれた。カタールは同じスンニー派の立憲君主制国家である。産油国でありながら、埋蔵量が多いカタールに対して、バーレーン王国は、ハワール諸島を保持することで、影響力を誇示していた。2017年のことである。サウジアラビアが、カタールの外交関係を大きく批判した。王制打破を掲げる「ムスリム同胞団」に資金を供与し、ペルシャ湾を挟んで対岸のイランと貿易を強化している。サウジアラビアは、2016年から2023年3月に中国の仲介で和解するまで、イランとは断交状態だった。足並みを合わせて、UAEもイランとの関係を断ち切っている。カタールのサーニー家の政策では、過激派には資金を提供することにより、手名づけていた。イランと関係を強化することで、国としての発展に寄与する。アラブの春から続く過激派の台頭により、サウジアラビアもUAEも神経を尖らせていた。バーレーンのハリファー家も、国内の反体制派の市民感情をカタールが煽っていたと批判する。2017年6月5日に、サウジアラビア、UAE、エジプト、イエメン、コモロ、モーリタニアと共に、断交を発表した。
写真=カタール外交危機の解説図 掲載元 日経新聞 2017年6月14日午前2時30分付
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO17645580U7A610C1FF1000/
カタールからの資金を引き上げ、貿易も停止する。カタールは、危機に備えて、対応した。同2017年11月まで、同国の預金は、非居住者の25%が減少した。逃げていった資金の穴埋め策として、外貨を取り崩し、投資庁の資産を売却する。翌2018年には、外交危機以前の水準に回復した。貿易では、トルコとイランによって、支えられた。
詳細 カタールの政策 NEXI
https://www.nexi.go.jp/webmagazine/country/201912.html
カタールとの断交政策は、効果が乏しかったとみられている。2020年以降、順次和解を迫り、国交を再開した。カタールとバーレーンは、2023年4月12日に、サウジアラビアの首都リヤドで行われたGCC(湾岸協力機構)の会議の中で、国交再開で合意に達した。
イスラエルとの関係では、2017年に誕生したトランプ政権によって、急速に近づく。2020年8月13日に、UAE、モロッコ、スーダンと共に、イスラエルとの国交正常化に向けて署名した。ユダヤ民族とラブ民族の共通の父祖名をとり「アブラハム合意」という。アラブ諸国では、1978年のエジプト、1994年のヨルダンに次いで、イスラエルを国家承認した国は6つ目になる。ただし2023年11月2日に、バーレーンの政府は、ガザ紛争勃発を機に、イスラエルの大使を召還した。ガザの人々に連帯を示し、他のアラブ諸国と共に、停戦へ働きかける。
バーレーンは、王が存在する国家、宗派では少数のスンニー派が、シーア派より、有利な制度を持つ。2011年のバーレーン騒乱から14年、政情は落ち着いているとはいえ、市民の声を抑え付けているとの見方もされている。中東の一国として、豊かな天然資源に支えられ、21世紀を歩んでいる。
�◆.錙璽襯疋�ップ アジア最終予選レポート 日本 対 バーレーン戦
画像掲載元 リンク 無記載 スポーツナビ
https://soccer.yahoo.co.jp/japan/category/men/game/2025032009/text?gk=225
3月20日(木・祝)Wカップアジア最終予選 グループC 第7節 日本 対 バーレーン戦が、午後7時30分から埼玉スタジアムでキックオフする。
日本は1998年のフランス大会から8大会連続8度目の出場を狙う。本戦過去の最高成績は、4度のベスト16だった。対してバーレーンは、Wカップ出場未経験である。2
右エンドにバーレーン、左エンドに日本が入り、前半45分が始まった。ホームの大声援を受ける日本は、一人一人出足が早く、ボールをコントロールした。対してバーレーンは、引いて守りながら様子をうかがう。
前半8分、右サイドからのコーナーキックを久保が蹴ると、大きくカーブを描いたボールが、ゴール前に入った。ファーサイドの板倉がヘッドで折り返した。GKルトファラとアルフマイダンは、球の軌道を正確に追えず、ワントップの上田に当たった。こぼれ球にいち早く反応した遠藤が、右足でシュートすると、ネットを大きく揺らした。場内から日本の先制ゴールが告げられた。遠藤は体のバランスを保ち、無人のゴールネットに思い切りよく蹴り込んだ。VAR(ヴィデオ・アシスタント・レフェリー)が入った末、上田のハンドをとられ、結果的にノーゴールとなった。上田本人も肘にボールを当てたとの自覚があり、頷くような仕草をする。
写真=遠藤の幻のゴール
試合は日本ペースで進む。左サイドに三笘が張り、中盤の南野と久保が細かくボールをつないだ。
21分、センターサークル付近の板倉からのロングボールを、右サイドの堂安が反応する。堂安は、右足でトラップして、前にボールを持ち出した。左サイドバックのアルハラジが肩をぶつけて、左足でボールをけり、コーナーキックへ逃れた。バーレーンは、劣勢ながら、タイトな守備で危なげなくピンチを凌ぐ。攻撃面ではトップ下のマルフーンも下がってパスを受けて、引き出し役を担う。日本は、3バックの右の瀬古、左の伊藤洋輝が、代わる代わる相手のキーマンをチェックする。3バックの中央の板倉は正確なロングフィードでアクセントをつける。前半は0対0で終えた。
後半も両チーム枠内シュートがなく互いの出方をうかがっていた。深く守るバーレーンは、対人での競り合いに強さを発揮する。技術で勝る日本は21分、流れるような攻撃で、均衡を破った。3バックの右に入る瀬古が出したボールを、センターサークルの後ろ側で体を反転しながらワントップの上田が受け取る。上田は、ハーフウェー・ライン上から、久保へパスを送った。センターサークルを越えたところで久保は、左足でボールを受けると、アルハラジをひきつけ、右斜めに走る鎌田の足元にパスを送った。鎌田はランニングしながら、GKルトファラの動きを見て、右足でシュートした。体を投げ出したルトファラはまったくボールに届かず、左ネットに吸い込まれた。1対0.久保は、正確なキープ力と視野の広さを生かし、鎌田の足元にやさしいパスを送った。ゴールを挙げた鎌田は、キーパーと駆け引きし、逆を突いた。
写真=ゴールを挙げた鎌田
リードを許したバーレーンは、積極的に前へ出る。32分、右サイドの遠い位置からのFKをアルアスアドが左足で蹴ると、大きなカーブを描いたボールがゴール前に入る。アルハラジがヘッドでボールをたたきつけた。球の勢いはつかず、体を前に乗り出したGK鈴木が落ち着いてキャッチした。身長193cmの鈴木は、リーチが長く、キャッチングにも安定感がある。彼はハイボールの処理も得意だった。
写真=キャッチングする鈴木
一点リードの日本は追加点を狙う。39分、左サイドから久保が回り込み、交代で入った直後のエマニュエル・ヴィンセントを振り切って、右足を振りぬいた。カーブを描いたボールは、右ネットを正確にとらえた。横飛びしたGKルトファラの指先に阻まれ、ゴールラインを越えていった。左利きの久保は、右足でもゴールを狙える力を持つ。続いて41分、左サイドのコーナーキックポジションに付いた久保は、エリアのやや手前の交代で入った伊東純也にパスをした。伊東純也は右足でボールを受けて、エリアに入る久保にもう一度預けた。リターンパスを受けた久保は、クロスに備えるGKルトファラの位置を見て、角度のないところから左足でシュートした。そのまま右のサイドネットにボールは飛び込んだ。2対0.久保はキーパーの動きを見極め,二アサイドに打ち込んだ。Gルトファラは、クロスを意識して、まったく手が出なかったのである。
写真=後半41分 ゴールを上げた久保
試合は、日本が、持ち味のテクニックを発揮して、バーレーンを2対0で下し、8大会連続8度目のWカップ出場を決めた。前半バーレーンのタイトな守備に苦しみながら、後半にようやくゲームを動かした。バーレーンも次第に前がかりになることにより、中盤のスペースが出来始める。終始受身の姿勢が、失点につながった。サイドを幅広く使う日本は、躍動感溢れるサッカーを展開した。中でも1ゴール1アシストの久保は、小刻みなドリブルと、狭い隙間にボールを通すパッサーとして2つの能力を遺憾なく発揮した。まさに勝利にふさわしいゲームだった。
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