10月26日(土)は、中東では歴史的な日だった。ユダヤ教国家イスラエルとアラブのヨルダン王国の和平から調度30年の節目を迎えたのである。アラブ諸国で、イスラエルを国家承認したのは、1979年のエジプトに続き、1994年のヨルダンで2例目だった。間を取り持ったのはアメリカだった。違いに安全保障分野で協力し、水資源管理することで合意に達した。また前年の1993年9月13日に米国のワシントンで調印されたアラブ人によるパレスチナの暫定自治を認めたオスロ合意を推進する。1994年7月25日に、ヨルダンのフセイン一世とイスラエルのラビン首相が、米クリントン大統領が提示した戦争終結を誓った文章「ワシントン宣言」に署名した。
写真=ワシントン宣言の調印の様子 左ヨルダンのフセイン一世国王、真ん中クリントン大統領 右イスラエルのラビン首相
3ヵ月後の10月26日に、両国の国境沿いアラバの谷にて、仲介役のクリントン大統領を挟み、ラビン首相とフセイン一世が手を握り合った。戦争終結を宣言し、安全保障分野で協力を盛り込んだ「イスラエル・ヨルダン平和条約」が正式に発行された。イスラエルを国家承認したヨルダンは、対米債務9億ドルが帳消しにされた。新たにヨルダン国内に米軍が駐留し、両国の防衛を担う。
今回は、ヨルダンと関わりの深い近隣のレバノンの歴史を紹介する。
関連日記 ヨルダン王国 世界遺産ぺトラ遺跡 ロイヤルファミリーの素顔 2024年2月13日付
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<レバノンの歴史>
前回中東関連日記 2024年10月12日付
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必 2024年7月30日付 第3章 キャンプ・デービッド合意 レバノン内戦(1975年ー1990年)へ
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レバノンの人口は530万、面積は日本の岐阜県程、隣国のシリア難民が人口の2割超を占める推定120万、18の宗派が混在するモザイク国家ともいわれている。1943年に、フランス領シリアから分離独立後、キリスト教東方正教会のマロン派が議会を動かす「宗派主義制度」が定着していた。キリスト教の中でもカトリックやプロテスタント各派、少数ながらアルメニア使途教会の信者も暮らす。1975年から1990年まで15年に渡る内戦を経て、各宗派の共存を図った。サウジアラビアが仲介に入ったターイフ(サウジアラビアの町)合意により、各宗派に配慮した議会運営する。大統領はマロン派が引き続き勤めるものの、首相はイスラム教スンニー派、議長はイスラム教シーア派から選出される。大統領の任期は6年、再選はない。選出には3分の2の議員の承諾が必要である。国軍は7万1000、陸・海・空の3つに分かれる。実質同国南部を支配する親イラン組織イスラム教シーア派のヒズボラに屈していた。2023年10月7日に勃発したガザ紛争以来、レバノン国軍は、イスラエルとヒズボラの戦いでも、中立を保つ。今回、実に複雑な第一次大戦後から100年の歴史を辿っていく。
写真=レバノンの簡易地図 掲載元 旅行ビバレッジ レバノン
http://sera9.com/ttv-me/ttv-lb/lb-country.html
第1章 英仏によって作られた国境
レバノンの建国まで遡ると、第一次世界大戦時まで遡る。当時は帝政オスマン帝国領だった。イスラム教スンニー派を中心とした長大な王国を築き上げたものの、既に瀕死の重病人と呼ばれる程、帝政崩壊寸前だった。オスマン帝国と西アジアの覇権を争っていたのは、英仏ロの3カ国協商国である。一次大戦中の1916年5月16日、協商国の間で、大戦で勝利することを前提に、オスマン帝国領の分割統治について線引きしていたのである。イギリスの中東専門家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ=ジョルジュ・ピコの間で、詰めの協議を行い、国境線を画定させた。名づけて両者の名前から「サイクス・ピコ協定」という。実のところ前年の1915年にロシア帝国の外相セルゲイ・サザーノフも加わって、当時ロシア帝国の首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)において、三者で勢力圏を分割することで合意に達していた。内容は以下の通り。
シャーム、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。
シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。
この協定は、イギリスが中東のアラブ国家独立を約束したフサイン・マクマホン協定やイギリスがパレスチナにおけるユダヤ人居住地を明記したバルフォア宣言 (1917年11月)とイギリスが相矛盾する三枚舌外交をしたとして批判された。
写真掲載元 xユーザー 敷島_金鵄@侏儒の艦提 2023年11月2日付
https://x.com/551_confucius/status/1719922833982464224
実のところ予想外のことが起こった。1917年にロシア帝国が、レーニンの社会主義革命によって、倒れたのである。後のレーニンが主導するボリシェヴィキが、サイクス・ピコ協定の内容を暴きたて、アラブ人の間で動揺が走った。
1922年10月11日に、建国1年前のトルコ政府とイギリス、フランス、イタリア王国政府との間でムダニヤ休戦協定が結ばれ、国境はひとまず確定した。連合国側の政府の意向に翻弄されたフセイン・イブ・アリーは、オスマン帝国時代、メッカの太守(アミール)に任命されていた。1908年に青年トルコ革命により、王権が弱くなると、イスタンブールから現サウジアラビアのメッカへと移ったのである。転機は1915年に起こった。イギリスのカイロ在住のマクマホン高等弁務官との間で、オスマン帝国への反乱を起こすことにより、建国を支援するとの約束を取り付けた。フセイン=マクマホン協定の締結である。フセイン・イブ・アリーは、4人の息子と共に、オスマン帝国に反旗を翻した。長男アブドゥッラーは後にイギリスの勢力圏トランス・ヨルダン王に、次男ファイサルは、1921年8月23日にイラクの国王として戴冠する。後に国王になる2人の父親であるフセイン・イアブ・アリーは、1916年にメッカを含むヒジャーズ地方の独立を宣言する。大戦後に、連合国が勝利することにより、ヒジャーズ地方を含め、大アラブ王国構想を掲げていた。ところが、秘密裏でイギリスが、フランスと結んでいた「サイクス・ピコ協定」により、大アラブ構想は頓挫したのである。次男のファイサルは、1919年にシリアの首都ダマスカスに入城したものの、翌1920年にフランス軍から激しい爆撃を受けて、追放され、イギリスに保護された身だった。
写真 掲載元 ぴーぶろぐ 2015年11月27日付
https://powchanel.blog.jp/archives/304595.html
イギリスからヒジャーズ地方を与えられたフセイン・イブ・アリーは、1924年3月5日に、カリフ国家を宣言する。2日前に建国されたばかりのトルコ共和国でカリフ制が廃止されたことを受けて、より危機感を持ち、統制が取れた社会を築く狙いを持った。預言者ムハンマド亡き後のイスラム国家の指導者を意味するカリフ制は時代遅れだった。住民たちから支持を得られず、イギリスからも独裁者と受け止められ、疎外された。新たに長年の宿敵だったサウード家のイブン・サウードが率いる隣接するナシュド・スルタン国(1921年―1926年)に領土侵害を受ける。イギリスをバックにナシュド・スルタン国は、ヒジャーズ王国を打ち破り、聖地メッカを征服したのである。フセイン・イブ・アリーは、統治権を放棄する代わりに、イギリスからキプロス島への亡命を受け入れられた。1930年に病気が発覚して、体調を著しく崩すと、長男アブドゥッラー一世が収めるトランス・ヨルダンの首都アンマンに移り、療養生活に入る。翌1931年に亡くなり、聖地エルサレムに埋葬された。
ヒジャーズ地方は、1926年にアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードがヒジャーズ王に即位した。1932年にサウード家によるアラビアの国家「サウジアラビア王国」と改称する。
第2章 レバノンの建国の歩み
レバノンは、シリアと共にフランス委任統治領として統一されていた。1923年10月29日に建国したオスマン帝国の後継となるトルコ共和国、またイギリスの支配下にあるイラク王国との間でも、国境の線引きが行われていた。実のところ現在のレバノンは、一次大戦時一つの国家構想があった。1922年、9月1日、フランス占領下の独立国家大レバノン国が正式に布告された。1922年までは知事を補佐する諮問委員会が設けられ、17名の委員はレバノンの各宗派から高等弁務官が任命した。
1923年9月29日に連合国の最高評議会は、シリアとレバノンの委任統治をフランスに要請することを決めた(フランス委任統治領大レバノン、フランス委任統治領シリア)。1925年7月に行われた選挙で代表評議会が構成され、代表評議会は第1期議会となった。1926年3月に大レバノン国家を共和国に変える憲法草案が提出され、同年レバノン共和国が誕生した。初代大統領としてレバノン民族主義者のシャルル・ダッバスが同年選ばれた。途中再選され、1932年まで務めた。
第二次世界大戦により、レバノンはフランスの勢力圏から離脱する。1941年に、ナチス・ドイツが、ソヴィエト領を侵攻したことにより、大戦は本格化した。ナチス・ドイツは、当時フランスにも攻め寄せ、パリを配下に収めたのである。
ドイツの襲撃に太刀打ちできず、英仏は国外でも建て直しを図る。その一つ亡命政府である自由フランスとイギリスを含む連合国はシリア・レバノン戦役で地中海東岸を制圧。1941年9月27日にシリアが、同年11月26日にレバノンが独立を宣言した。連合国として自由フランスを支援していたイギリスは宣言後すぐに独立を承認し、ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初頭に、軍人を両国駐在の公使として派遣して両国を支援した。レバノンはその後、1943年11月22日に正式に独立した。
大戦後のレバノンは、1945年に国連に加盟する。自由経済を採用し、金融や観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、首都ベイルートは中東経済の中心地となり、また地中海有数の国際的リゾート地として、数多くのホテルが立ち並ぶなど大いに賑わい、「中東のパリ」と呼ばれるようになった。南隣には、1948年に建国したユダヤ教国家イスラエルと接し、緊張状態になる。国内も宗派が混雑することにより、統一を欠いた。宗派が混雑するレバノンに本格介入したのは、アメリカのアイゼンハワー大統領だった。当時はソヴィエト連邦との対立が深刻化し、社会主義と資本守備に二分していた。より中東の国々を資本主義陣営へ組み入れるべく、1957年1月5日にアイゼンハワー・ドクトリンを発表した。前年の1956年にスエズ闘争により、エジプトが、イギリスを追放し、社会主義体制を築いていたのである。ナセルを警戒して、アラブの国々を保護する名目で、介入した。ただし、アイゼンハワーの目論見は失敗する。翌1958年2月22日、エジプトのナセルとシリアのバース党が結託し、アラブ連合共和国を結成した。同年7月14日にはイラク革命が発生し、ハーシム家の王族一家が殺害され、共和制へと移行する。レバノンにも波及した。アイゼンハワー=ドクトリンを出して以降、国内で最も勢力を誇るキリスト教東方正教会のマロン派と結託していたのである。イラク革命の翌日となる7月15日、アイゼンハワーは、海兵隊1万をレバノンに上陸させた。イスラム教徒やその他のキリスト教の宗派が、1952年から第9代の大統領職を務めるシャムーンのマロン派を優遇した政策に抗議したのである。
写真左=シャムーン大統領 写真右=後任のシハーブ大統領

内戦に発展する段階だったものの、一人の将軍の英断により、混乱を回避した。シャムーン政権の下で将軍だったシハーブが、大統領の暴動鎮圧の命令を拒否し、アイゼンハワーに接近する。国連からもアメリカの軍事介入に対して、批判が巻き起こっていた。シハーブは、アメリカを見方につけて、暴動の中心に立つムスリムらに、宗派差別をしないことを誓った。したがって、大統領任期満了を持ってシャムーンは退任し、代わりにシハーブが大統領職に就いた。1964年に退任するまで、情報統制を敷き、監視の目を光らせていた。確かにナセルに傾倒するイスラム主義者とマロン派の間に立ち、宗派差別をせず、アメリカとも程よい距離を保った。治安の安定化に努めたものの、荷が重過ぎて、1964年に退任した。レバノンは、宗派同士の溝は残りながらも、歩んでいることになる。
第3章 内戦への発展
1975年から1990年にかけて、外国勢力の介入に伴い、複雑な内戦に勃発する。シハーブ大統領退任から11年、中東情勢の不安定化に直結する。1967年に第3次中東戦争により、アラブ側が大敗し、ナセルは影響力を失った。新たにパレスチナ難民が発生し、近隣のヨルダンやレバノンに流れ着いた。ヨルダンとは、パレスチナ難民を受け入れず、国づくりに向って立ち上がったPLOのアラファト議長率いる部隊と衝突した。正式に1974年に両者は和解したものの、難民たちが安泰して暮らせるわけではなかった。レバノンでは、1975年4月13日、マロン派とPLOの支持者が衝突し、双方27人の死者を出すベイルート近郊アイン・ルンマーネ(町名)事件により、戦端が開いたのである。首都ベイルートでは、西側はパレスチナ難民、東側はマロン派と、完全に別れた。境界線のグリーン・ラインでは、双方激しく銃撃戦が行われたのである。事態を複雑化したのはシリアだった。1976年5月に、レバノン大統領の要請に基づき、名目上中立的立場として、進軍した。一端はシリア軍の治安維持効果により、内戦は収まった。マロン派もPLOもシリア軍に信頼を置けず、和平を結ぶ機運は高まらなかった。78年には、国連平和維持軍が派遣され、治安維持を担った。マロン派からより強行な反シリア、反PLOから成るレバノン軍団が結成されることにより、事態は複雑化したのである。
1982年には、エジプトとの国境問題を解決したイスラエル軍が、レバノン国内の正教マロン派と手を結び、潜伏しているとされるアラファト議長率いるPLOを対峙するべく、武力行使に出た。イスラエル軍への抵抗勢力として、イランでイスラム革命を成し遂げたホメイニーの薫陶を受けるシーア派のヒズボラが誕生したのである。
内戦終結後には、シリア軍が駐留を続け、ベッカー高原でにらみを利かした。レバノンを配下に置き、イラン・イスラム共和国の後援を受けて、イスラエルから防御策に出たのである。イスラエルも、レバノンを侵食するかのように南部地域に駐留を続け、常に緊張状態だった。もはや国境線が曖昧になっていたのである。1996年にはイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲した(怒りの葡萄作戦)。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国際連合レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃され、イスラエルは国際社会から爪弾きにされる寸前だった。アメリカをバックにイスラエルは、支えられ、西暦2000年に南部から無条件撤退した。
シリア軍は、イスラエルの脅威を取り除くことに成功したものの、引き続き防衛目的で駐留する。レバノン議会も、シリア軍の駐留について、賛否が巻き起こった。転機は2005年に訪れた。同年2月14日に、イスラム教シーア派の前首相ラフィーク・アリーリ氏が、爆発物に巻き込まれ、死亡した。わずか3ヵ月半前の2004年10月21日まで首相職を務めていたのである。親シリア派のエミール・ラフード大統領とは犬猿の仲だった。辞任の背景には、大統領の権限を強める任期3年延長を可能とする法案が通ったからである。市民達は、アリーリ前首相の死を巡って、真相解明を求めた。またシリア軍の撤退を強く要請し、国の機関を信頼できず、新たに国際機関へ調査を要求したのである。シリアは、頑なにも1万4000人規模で駐留していたものの、混乱を避けるべく、4月27日には完全に撤収した。レバノンの治安の悪化は、イスラエルへ付け入る隙を許すことになる。1975年の内戦開始から30年に渡って続いたシリア軍の支配から逃れたことにより、西欧諸国から市民革命と位置づけられている。2003年のジョージアのバラ革命、2004年のウクライナのオレンジ革命になぞらえ、「杉の革命」と名づけられた。市民が行動を起こした理由はもう一つあった。内戦末期の1989年に、フランスに亡命したキリスト教マロン派のミシェル・アウンに帰国の機会を与えたのである。反シリアの急先鋒に立ち、拠点を攻撃され、身の安全に不安を感じて、亡命申請をしていた。2005年5月7日、レバノンに戻ると、2006年には自由愛国運動代表としてヒズボラとの了解覚書に署名し、同盟関係を結んだ。2009年には、かつて戦火を交えたシリアを訪問し、和解に至った。
第4章 新しい国づくり
』
アウン氏は、帰国後は国会議員となり、自由愛国運動などから構成される会派「改革と変革ブロック」の代表を務めた。2016年10月31日、サミール・ジャアジャアやスレイマン・フランジェ、アンリ・エルーといった他の候補者をおさえて、国会で大統領に選出された。任期満了まで6年間勤め上げている。
写真=アウン大統領 2022年ローマにて
任期全うするまで、同じイスラム圏のスンニー派の盟主を名乗るサウジアラビアとシーア派大国のイランとの板ばさみにあっていた。両国は2015年から2023年3月に中国の仲介で和解するまで断交状態だった。政治家としての人生の岐路に立たされたのは、父親を暗殺されたサード・ハリーリ氏だった。2009年11月9日 - 2011年6月13日、(第64代)2016年12月18日 - 2020年1月21日(第67代)の首相を務めた。第67代時代、2017年11月4日、訪問先のサウジアラビアで突如辞任を表明したのである。なぜなら、彼自身父親の暗殺から、自身も同じ運命を辿る危険性を認識していたからである。スンニー派の彼は、シーア派の原理主義者イランやヒズボラと歩みよれない。同じスンニー派のサウジアラビアから、ベイルートでの暗殺計画を阻止したと、説明を受けたという。不当にも12日に渡り、サウジアラビアにとどまっていた。大統領のアウンは、要人を必要以上に拘束するのはウィーン条約に反すると抗議の声を出した。11月21日にレバノンへ帰国すると、翌22日にアウン大統領から引き続き任務に当たるように要請された。辞意を撤回し、首相職を続ける。
写真=サウジから帰国後父親の墓を訪れるサード・ハリーリ首相 掲載元 BBC NEWS JAPAN 2017年11月22日付
https://www.bbc.com/japanese/42076979
異なる民族が混ざるレバノンにおいて、統治には苦労した。経済危機による不満から、国民が暴動を起こすと、2019年10月29日に改めて辞任を表明した。次期首相が決まるまで留任した。
経済的には苦境に陥っている。2020年2月に新型コロナウィルスの感染者が発覚し、国内で急拡大する。サード・ハリーリ首相の辞任発表と時を同じくして、自国通貨レバノン・ポンドの下落により、対外債務が膨らむ一方だった。
詳細 日経新聞 2020年3月8日付
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56541300Y0A300C2000000/
詳細 画像掲載元 中東調査会 2020年8月13日付
https://www.meij.or.jp/kawara/2020_056.html
2020年3月7日付、後認のディアブ首相は、9日に償還期限を迎える12億ドルの外貨建て国債について、支払いを延期すると表明した。レバノンの債務は900億ドル、GDPの170パーセントに達する。2020年に46億ドルの債務と利息の返済期限を迎えていた。内戦終結後、宗派が混在する議会政治は、まとまりを欠き、各政党が私服を肥やし、汚職が蔓延する。2006年7月12日から9月8日にかけては、国の南部を実効支配するヒズボラとイスラエル軍との間で激しい戦闘にさらされ、首都ベイルートも被害を受けた。イスラエル軍は、2006年10月には南部の国境沿いを除き、撤退したものの、議会の力が弱く、復興は進まなかった。政情不安から、各国の投資家からも見放され、経済は停滞した。国力の停滞振りを示すのは、2020年8月4日18時ごろに起こったベイルート港での爆発事故だった。町の半分が被害を受けた。死亡者218人、負傷者7000人、避難民30万人に達した。アウン大統領は、事故原因について、6年間補完していた2750トンの硝酸アンモニウムの爆発によるものだと、明かした。専門家が、映像を検証したところ、爆発はトリニトロトルエン(TNT)火薬換算で約1,000〜1,500トンに相当するとみられている。広島に投下された原爆の10分の1の威力と推定された。
詳細 記事 画像掲載元 WIRED 2020年8月8日付
https://wired.jp/2020/08/08/beirut-port-explosion-physics/
事故処理についても難航した。対外債務が膨らみ、議会も機能不全に陥っている以上、被災者の救済も間々ならない。2022年1月24日、国の政治に影響力を持ったイスラム教スンニー派のサアド・ハリーリ元首相が、政治生活から身を引くと明らかにした。同年5月の選挙戦の出馬を見送った。経済停滞により、宗派対立が深まり、収拾がつかない状況に陥っている。仲裁役を引き受けるには荷が重すぎた。首相時代から、親サウジアラビア派として、イランを後ろ盾とする武装組織ヒズボラとは対立関係にあった。互いに和解へいたらず、政治の場を降りたことになる。2022年5月15日に行われた議会選挙(一院制 定数:128議席)では、自由愛国運動(キリスト教)やヒズボラ(シーア派)などが率いる親イラン・シリア勢力(3月8日連合)は過半数の64議席以上に達せず、58議席となった。対抗勢力の親欧米・サウジ勢力(3月14日連合)のレバノン軍団(キリスト教)が最大議席の19を獲得した。また、政府の腐敗を批判する市民社会勢力が13〜15議席を獲得した。投票率は、前回の2018年選挙からマイナス8ポイントの41%だった。なおハリーリ元首相が率いるムスタクバル潮流は政治参加を見送っていた。親イラン派が、議会で大きな力を持ったのである。2022年10月に、一期6年大統領職を務めたアウン氏が、任期満了を持って退任した。後任の大統領は、議会の3分の2となる86票を獲得した候補が選ばれる。2023年6月14日時点で12回目の投開票においても、選出されなかった。したがって、政治空白が長期化している。首相のイスラム教スンニー派のミカーティー氏が、大統領職を兼務する。
国民を苦しめるのは、インフレだった。2022年3月から6月、食料品のインフレ率は122%、2番目のジンバブエの23パーセントをはるかに越える数値である。ビジネス短信2022年10月3日付けの記事には、経済の苦境振りを示す数値が記載されている。世界銀行によると、実質GDP成長率は2020年のマイナス21.4%に続き、2021年はマイナス10.5%と推定、2022年はマイナス6.5%と予測されている。さらに、2022年8月のCPI(消費者物価指数)上昇率が前年同月比2.6倍となるなど、深刻なインフレにも陥っている。対外債務の負担を和らげるべく、レバノンの中央銀行は、ついにデノミを選択した。2023年2月1日、同国の通貨レバノン・ポンドを対米ドルでおよそ10分の1に切り下げた。1997年以来1ドル=1,507ポンドとしてきた公式レートを、1ドル=15,000ポンドに改定した。
写真=通貨レバノン・ポンドの写真 掲載元 『文殊菩薩』 2023年2月2日付
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-10803.html
2024年9月下旬以降、イスラエル軍とヒズボラの戦闘が激化し、国民は命の危険にさらされている。混迷を深めるレバノン、将来の見通しも立たず、21世紀を歩んでいる。
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