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2024年07月30日21:42

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パリ・オリンピック企画5 紀元前から続くイスラエルとパレスチナの戦い、アラファト議長、エジプト・イスラエル平和条約 バビロンの捕囚、1972年ミュンヘンオリンピックの黒い霧事件 1993年オスロ合意

今回の主題は、イスラエルとパレスチナ問題である。平和の祭典と呼ばれるオリンピックにおいて、ガザ侵攻を続けるイスラエルの排除を求める声も聞こえてきた。大会組織委員会は、ロシアとベラルーシは国単位としての出場を認めない一方、イスラエルの選手達の扱いについて沈黙を保っていた。紀元前まで遡り、イスラエルとパレスチナの争い、また中東の和平プロセスについても見ていく。

 前第4回 イスラエルのサッカーチームを紹介
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     第1章 オスロ合意により、和平プロセスが始まる

1993年年8月20日、この日歴史的な、ユダヤ人が中心のイスラエルと、アラブ人から成るパレスチナの政府が、重要な取り決めが交わされた。当時ノルウェーの外相を勤めたホルスト氏が仲介になり、パレスチナ解放戦線(PLO)のアラファト議長と、イスラエルのラビン首相が、それぞれノルウェーの首都オスロで交渉の席についた。互いの政府を承認することにより、和平プロセスを締結したのである。和平締結地にちなみ「オスロ合意」という。世界的に影響力を持つアメリカのビル・クリントン大統領も合意内容を理解し、双方の代表者を首都ワシントンDCにあるホワイトハウスに招待する。同年9月13日に、ビル・クリントン大統領の前で、アラファト議長とラビン首相は、「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」に調印した。双方の代表者は、争いに終止符を打つべく、互いに握手を交わした。PLOは組織が立ち上がって29年目にして、初めて正式に領土を得られたことになる。国際的には、イスラエルとアラブの国々との関係改善を図った1978年のエジプト・イスラエル平和条約に告ぐ、大きな成果と評価された。1994年に、アラファト議長とラビン首相、イスラエルのペレス外相は、ノーベル平和賞を受賞した。ガザ地区とヨルダン川西岸からイスラエル軍は撤退し、アラブ人のパレスチナに領土を与えることを約束したのである。合意書に基づくと、5年以内に正式に国境を画定するはずだった。1994年5月のカイロ協定(ガザ・ジェリコ先行自治協定)により、暫定自治区がガザ地区と西岸地区の街であるジェリコに設けられた。

 写真左 掲載元 地球は今 2014年9月1日付
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 写真右 1994年のノーベル賞受賞時の写真 左アラファト議長、真ん中当時のペレス外相、右 ラビン首相 
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 PLOの結成を遡ると、1964年になる。当時1952年にエジプト革命を成し遂げたナセル大統領の支援によって、結成された。エジプト革命の発端は、1948年5月15日から翌49年3月10日に及んだ第一次中東戦争にある。アメリカを後ろ盾にするイスラエルとの戦いで、アラブ連盟(エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラク、サウジアラビア、イエメン)は敗れ、領土を喪失した。イスラエルの建国に真っ向から反対したエジプトのムハンマド=アリー王朝第10代目のファールーク1世は、国民からも信頼を失っていたのである。ナセルは、ムハンマド・ナギーブと共に自由将校団を率いて、ファールク1世に退位を要求した。1952年1月6日生まれたばかりの当時0歳児のフアード2世が名目上王位を継いだものの、翌1953年6月18日には廃位された。共和制へと移行し、ナギーブが初代大統領に選任されたのである。当時から自由将校段を率いるナセルが、実質国を動かしていた。ナギーブは、国内でのイスラム色の強いムスリム同胞団と結託して、自由将校団の影響力を殺ごうとしているとの見方があった。1953年11月14日に、革命指導評議会から、ナセルの暗殺を謀ったとの罪により、大統領職を解任された。ナセルは、ムスリム同胞団を厳しく弾圧し、1956年6月25日に第2代大統領に就任する。

 彼が名声を上げたのは、スエズ闘争と呼ばれた第2次中東戦争だった。彼は、大統領就任演説において、スエズ運河の国有化を宣言したのである。革命が起こった当初から、共和制に移行したエジプトを、保護国としていたイギリスはもちろん、スエズ運河を建設したフランスも、警戒を強めていた。打倒ナセルを掲げて、イスラエルとセーブル協定を結ぶ。英仏の後ろ盾を得て、10月29日に、イスラエル軍は、シナイ半島へと進軍したのである。英仏軍は、スエズ運河周辺のエジプト軍基地に空爆した。自国の権益を守るための戦闘行為は、国際世論から大きな批判を浴びる。国連安保理の非難決議に伴い、英仏軍は12月には撤退、イスラエル軍も翌1957年3月までシナイ半島から引き上げた。軍事力では張り合えなくても、国連を見方につけて権益を守ったナセルは、たちまち英雄となった。

   第2章 PLOの結成へ、アラブ諸国の間での争い

PLOは、当初ユダヤ人国家殲滅し、アラブ人の権利を主張した。より過激な思想を持つPLOに、イスラエルとの間で緊迫した状況が続いていた。転機は1967年6月の第三次中東戦争だった。エジプトを主体とするアラブ軍がイスラエルに敗北し、ナセルの影響力は失墜した。パレスチナ人の居住地であるヨルダン川西岸とガザ地区、シナイ半島はイスラエル軍に占領され、多数のアラブ人が故郷を追われた。いわゆるパレスチナ難民である。アラブ諸国の間でも、パレスチナ難民に同調し、イスラエルに対する警戒網を一段と強くした。

 写真 掲載元 山武世界史 https://yamatake19.exblog.jp/19730498/
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 一方で、過激思想を持つパレスチナ難民に対して、アラブ諸国の支援は大きく広がらなかった。絶対王政の国々は、アラブの民主化を謡うPLOを敵対組織とみなしたからである。パレスチナ難民に対しても、同等な見方をしていた。

 1970年9月16日、ヨルダン王政が仕掛けたとされる「黒い霧事件」により、明るみに出た。事件の真相が闇に葬られたことから、被害を受けたと主張するパレスチナ側が命名した。パレスチナ側は、ひそかに続けてきたテロ活動の嫌疑をかけられ、フセイン国王によって弾圧されたのである。イスラエルに隣接したヨルダンは、パレスチナ難民のキャンプ地の一つだった。しばし過激化した難民達を匿っているとして、イスラエル政府からヨルダンは目を付けられ、国境を侵害されてきた。王政側は、難民排斥により、イスラエルとの争いに終止符を打つ狙いもあった。1970年9月、アラブの民主化の代表格となるエジプトのナセルが、早くから仲介役に名乗り上げ、収束を図った。彼自身、1967年の第3次中東戦争の大敗に伴う権威失墜後、体調不良に陥り、9月28日に急死した。

 調停役の不在のまま、事態は混迷を深めた。パレスチナ難民から、打倒王制を掲げた組織の存在が顕在化する。「黒い9月」と名乗り、暴力行為に打って出る。より世界へ存在感を示したのは71年、ヨルダン首相暗殺事件である。72年には、西ドイツのミュンヘンオリンピックの開催中、イスラエル人選手9人を人質に、立てこもった。オリンピック開催中のテロ事件は、世界の人々を震撼させた。9月5日から6日までの間、11人のイスラエル人アスリートが殺害された。

 ヨルダン内戦の方は、王政打破を掲げたPLOが、国を追われる結果になった。ヨルダン王国は、戦争には勝ったとはいえ、同士アラブ人を弾圧し、イスラエルと接点を持ったことにより、孤立を深めた。より経済的、軍事的な支援を頼り、アメリカとの関係を強めた。PLOとヨルダン王国との間では、最終的に1985年のアンマン合意により和解に至った。

 PLO自体の活動は、1973年10月に起こった第4次中東戦争を経て、翌74年10月のアラブ連盟加盟国の首脳会議(アラブ・サミット)で認められた。ヨルダン王国はヨルダン川西岸に対する統治権を放棄し、パレスチナ国家の樹立を承認する。自治政府のトップは議長を兼ね、国連からも正式に承認された。領土なき国家であるパレスチナは、不安定な地位に変わりなかった。1979年に、革命後のイランを訪れ、シーア派のホメイニーと会談を取り付けた。外国からの要人として、初めてホメイニーと関係を築き、パレスチナ国家樹立へ向けて、理解を求めた。イスラエルとの間では、緊張状態に陥っている。イスラエルが、1982年に、レバノン内戦(1975年から1990年)に介入すると、PLOは地上部隊に追撃された。指揮をとったのはイスラエルのペギン首相だった。彼には、レバノン制圧へ全力を傾ける大きな理由があった

  第3章 エジプト・イスラエル和平、レバノン内戦へ

イスラエルは、アラブ諸国から反感をかい、四面楚歌の状態だった。出口を求めて、アメリカを仲介に立てて、エジプトとは和解のプロセスを歩む。1978年に、当時の第39代アメリカのジミー・カーター大統領が、エジプトのサダド大統領とイスラエルのベギン首相の間を取り持った。アメリカ西部メリーランド州にあるキャンプ・デービッド荘に招待した。9月5日にイスラエルのベギン首相とエジプトのサダド大統領との間で、争いに終止符を打ち、国交を開くべく、協議を始めた。最終日の9月17日、イスラエルのベギン首相は、エジプトとの領土問題を解決するべく、1982年までシナイ半島を返還する意向を表明した。対してエジプトのサダド大統領は、アラブ諸国として初めてイスラエルを承認すると約束する。2国間の取り決めは、キャンプ・デービッド合意という。

 写真=キャンプ・デービッド荘にて ARAB NEWS 2020年9月6日付
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長年の争いに終止符を打ったイスラエルのベギン首相とエジプトのサダド大統領は、同1978年にノーベル平和賞を共同受賞した。翌1979年3月26日に2人の首脳が、米ワシントンのホワイトハウスを訪れた。カーター大統領を挟み、キャンプ・デービット合意の内容に従った文章に署名する。エジプト・イスラエル平和条約として結実した。エジプトは、経済の悪化により、アメリカから融資を受けるべく、アラブ諸国の反発を受けても、イスラエルと国交を結んだのである。協議の対象になるはずのパレスチナ問題は先送りされた。ノーベル平和賞の受賞には、少なからず、批判が巻き起こった。サダド大統領は、エジプト国内にて、対抗勢力のムスリム同胞団の活動を一定程度容認したものの、先代のナセル主義者を弾圧したのである。イスラエルとの和平に反対していた団体によって、1981年に暗殺されている。一方でベギン首相は、エジプトとの平和条約により、国境問題を解決すると、PLOとの戦いに専念した。1982年に、ガリラヤの平和作戦と題した軍事作戦を開始し、レバノン南部を侵攻すると、首都ベイルートには空爆をする。イスラエルの抵抗組織として当時誕生したのは、シーア派の主流十二イマーム派のヒズボラだった。内戦時には、レバノン内でユダヤ人と共に、キリスト教マロン派から成る「ファヘラン党」の排除を掲げた。イランのホメイニーの薫陶を受けて、イスラム共和制の樹立を理念に掲げ、武器支援を受けた。レバノン国内で、反対組織の施設に対して、テロ活動を繰り返していたのである。
 
イスラエルは軍事介入した1982年6月から8月の間徹底して破壊しつくした。ベイルートに身を寄せていたPLOは、民間人が巻き添えになる事態から退去を余儀なくされた。当時ユダヤ教のイスラエルに協力したのは、キリスト教の東方正教会のマロン派だった。マロン派は、かねてより、アラブ人と折り合いが悪かったのである。レバノン国内のパレスチナ難民キャンプを襲撃して、殺害疑惑が取りざたされた。マロン派と手を組み、レバノン侵攻するイスラエルの現政権を、当時国内からも撤退を求める声が相次いだ
。死者1万9085人、負傷者3万302人、孤児となった子供約6000人、家を失った人約60万に上る。<広河隆一『パレスチナ(新版)』2005 岩波新書 p.79>翌1983年にベギン首相とシャロン国防省が辞任した。レバノン内戦は、1975年から1990年まで15年にわたって続いた。1989年に停戦への仲裁役を担うサウジアラビアが和平案を各勢力に提示する。民族や宗教を超えて国家再建を目指す内容を盛り込んだターイフ合意は、サウジアラビアの説得により内戦に介入したシリアは同意した。民兵組織ヒズボラも、イスラエルの支援を受ける南レバノン軍、キリスト教マロン派の指導者ミシェル・アロン(1933年9月30日生まれ)率いる部隊も、戦争疲れから、次第に受け入れることにより、1990年の停戦に繋がった。南部地域はヒズボラが実行支配し、レバノン国民議会選挙に党員が立候補することにより、一定数議席を得ている。実際中央政府の力は、レバノン南部に及んでいない。実質国が統一できないまま、歩んでいる。

      第4章 PLOの苦難

レバノン内戦中PLOに救いの手を差し伸べたのは、同士チュニジア政府だった。拠点は、1982年にチュニジアの首都チュニスに移った。イスラエルは、敵対するPLO指導者アラファート殺害を目的に、計略を練る。1985年に10月1日、木の肢と題した作戦を行い、チュニス上空から、PLOの本拠地に爆撃を仕掛けたのである。チュニジア領空を侵しての奇襲攻撃に、国連から非難を浴びた。イスラエルの肩を持つアメリカは、非難決議において、棄権に回っている。報復のきっかけは、1週間前の9月25日、PLOのハイジャック事件にあった。キプロス島ラルカナ沖でイスラエルの小型船をハイジャックし、3名のユダヤ人を殺害したのである。ユダヤ殲滅を掲げるPLOとイスラエルの間では、争いに決着点が見えなくなり、ますます混迷を深めた。

1987年には、英雄であるはずのアラファート追放を掲げるイスラエルに対して、パレスチナ難民が、抗議を行う。アラファートは、パレスチナでは、反ユダヤ運動の一環として、投石を行い、タイヤを燃やすなど、過激化する。アラビア語で一斉蜂起を意味する「インティファーダ」を行った。最初の一年で2万人の逮捕者と、300人の死傷者を出した。世界では、イスラエル軍の武力に立ち向かうアラブ人に、賞賛の声が上がった。オスロ合意の発端は、第1次インティファーダにあるともいわれている。イスラエルも武力の鎮圧により、世界から非難の声が巻き上がり、アラブ人の自治を認めざるを得なかったのである。

積極的な外交は、少しずつ実を結ぶ。ヨルダンとは、領土問題を解決した。1988年7月にヨルダン国王フセイン1世が、先代のアブドゥッラー1世の時代から主張し続けたパレスチナの領有権を破棄した。同年11月にアラファートは、パレスチナの独立宣言を発表し、イスラム世界や非同盟諸国と共産圏を中心に国家承認を得る。翌1989年4月にパレスチナ中央評議会はアラファートを「大統領」に選出した。

 国家承認を得たことにより、土地が必要になる。アラブ諸国との一体感を図った。複雑な事態に陥ったのは、イラクのサッダーム・フセインのクウェート侵攻に端を発する1990年に起きた湾岸戦争である。クウェートを自国領土とみなすサッダーム・フセインの主張に、アラブの産油国は否定的な見方をしていた。サッダーム・フセインの暴走を止めるべく、米英を中心とした連合軍が軍隊を派遣して、クウェートの立場を尊重し、イラク軍を駆逐したのである。イラクのサッダーム・フセイン大統領の支持に回ったアラファート議長は、クウェートの味方をする産油国と同調できなかった。

詳細記事 http://0a2b3c.sakura.ne.jp/p-ls-10.pdf
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活路を見出すため、アメリカに近づき、イスラエルと対話を始める。1991年10月30日から11月1日かけて、3日間に渡りマドリード会議が開かれた。主催者は、二次大戦直後から続いた冷戦に終止符を打ったソヴィエトのゴルバチョフ書記局長とアメリカの父親ブッシュ大統領である。共に中東情勢の安定化に取り組むことを誓い、パレスチナの代表者とイスラエルの代表者を招いたのである。なおアメリカとイスラエルがテロリストに指定するPLOのトップであるアラファト議長は、参加を認められなかった。周辺のアラブ諸国を代表して、エジプト、ヨルダン、レバノン、シリアの代表団も招待され、パレスチナ自治区制定へ向けて働きかける。イスラエル側も、アメリカとの同盟関係維持やアラブ諸国との関係改善を図るうえで、一定程度要求を呑んだ。真の和平実現には遠く、パレスチナとイスラエルの国境問題は、不透明なままだった。改めてPLOのアラファト議長の出席を求める声が、アラブ側から強くなったのである。

 パレスチナ問題を取り組んだのは、より中立的な視点に立つノルウェーだった。当時のホルスト外相が、イスラエル労働党のラビン首相と、PLOのアラファト議長と秘密裏に個別交渉を続けた。和平案がまとまりつつあると、相互の代表者が顔を合わせる。1993年9月13日に、より世界に影響力のある当時の米クリントン大統領を挟み、ラビン首相とアラファト議長が、パレスチナの5年間の暫定自治を盛り込んだ協定分にサインし、握手を交わした。ノルウェーのホルスト外相が策定した功績から、同国の首都名をとり、「オスロ合意」という。

PLOのアラファト議長の穏健的な姿勢が、評価され、オスロ合意に伴い、パレスチナ自治区として領土を暫定的に獲得したのである。結果的にノーベル賞受賞後の1995年11月4日に、イスラエルのラビン首相の暗殺により、領土問題は暗礁に乗り上げた。1996年には、イスラエルに対する強硬路線を貫く過激派ハマスによるテロ活動が断続的に起こっていたのである。2007年以降、ハマスを初め、イスラム聖戦を含む過激派から自国民を保護するべく、イスラエル軍は、壁を建設した。パレスチナの領土であるガザ地区は東側に分離壁が立ちはだかり、西側は紅海に面している。つまり南部のエジプトとの国境沿いのラファ検問所を除き、出口がなく、包囲されたのである。

1996年に創設された大統領職に就いたアラファトは、西暦2000年に当時のイスラエルのバラク首相と、アメリカのキャンプ・デービット会議に臨んだ。オスロ合意に従うパレスチナ自治区の制定に向けた協議で、バラク首相から理解を得られなかった。同年9月28日に民族間の融和に程遠くなる事態が起こった。当時イスラエルのシャロン国防相が、護衛に守られながら、嘆きの壁を登り、イスラムのモスクへ近づいたのである。壁の周囲を一巡りし、「平和の使者」と宣したのである。

 写真=嘆きの壁の上に登った当時のシャロン国防相
https://www3.nhk.or.jp/news/special/news_seminar/jiji/jiji98/
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イスラム教徒の立場からすると、冒涜行為に他ならない。翌29日、嘆きの壁に祈祷していたユダヤ人に対して、イスラム教徒が投石を行う。ルアクサ・モスク放火事件や、爆破未遂事件を含め、アラブ人による報復行為により、ユダヤ人との間で再度争いが起こったのである。「第2次インディファーター」により、ユダヤ教徒もイスラム教徒に対して、一段と警戒を強めた。2001年から、ヨルダン川西岸地区とイスラエルの国境には、分離壁の建設が始まった。

 詳細 嘆きの壁の事件 NHK クローズアップ現代ニュース 2023年10月11日付け https://www.nhk.or.jp/minplus/0121/topic015.html

 

   第5章 古代ユダ王国とパレスチナの楚ペリシテ人との戦い

 嘆きの壁は、イスラム教徒とユダヤ教徒が、宗教的に特別な意味合いを持っていた。第3次中東戦争(1967年6月5日から6月10日)において、イスラエル軍の奇襲攻撃により、アラブ連合(エジプト、シリア、ヨルダン、イラク)は太刀打ちできず、後退した。わずか6日間で、イスラエル軍は、シナイ半島から始まり、ヨルダン川西岸、ガザ地区、さらに北部のシリア領ゴラン高原まで占領した。嘆きの壁は、アラブ連合から分捕り、ユダヤ人に解放されたのである。

紀元前20年ヘロデ大王が建てたエルサレム神殿の外壁といわれている。ユダヤ人は「西の壁」と呼ぶ。転機は西暦70年だった。時のローマ帝国2代目のティトゥス率いる軍隊が、西暦66年からエルサレムに立てこもるユダヤ教徒と戦ったのである。エルサレム神殿は破壊され、市街地は火の海と化した。西暦73年に、町に残ったユダヤ人は玉砕したといわれている。生き残ったユダヤ人は、各地へと離散したのである。民族が散らばっても、聖地奪還へ向けて邁進した。2世紀に古代ローマの属州に組み込まれたユダヤ州において、西暦115年から117年にかけて、蜂起したのである。西暦66年からの戦いを「第一次ユダヤ戦争」、2世紀に聖地奪還を掲げた戦いを「第2次ユダヤ戦争」とも呼ぶ。革命の指導者の名にちなみ、ユダヤ側は、「バル・コクバの乱」ともいう。

 圧倒的な軍事力を誇る五賢帝時代の4代目ハドリアヌスによって鎮圧された。ハドリアヌス帝は、ユダヤ人に対して厳しい制裁を下した。律法の書物は神殿の丘に埋葬される。町の名前もエルサレムから「アエリア・カピトリナ」に変え、ユダヤ人の立ち入りを禁じた。紀元4世紀になって初めてユダヤ人は、決められた日のみに神殿跡の礎石(いわゆる嘆きの壁)の前に立つことを許された。属州名は、ユダヤ人の敵対者ペリシテ人を意味する「シリア・パレスティナ」とする。現代の名称「パレスチナ」の語源は、3世紀にあった。

 ペリシテ人とは、紀元前1200年に青銅器時代の後期の海の民として知られる。詳しくは紀元前1175年頃にカナンに定住したエーゲ文明からの移民集団のことを差す。アシュドド(イスラエル南部)、アシュケロン(イスラエル南部)、エクロン、ガザ、ガトの5つの自治都市に定着して五市連合を形成していた。古代イスラエルの主要な敵として、ヘブライ語聖書の『士師記』や『サムエル記』で頻繁に登場する。特に、士師サムソンの物語や、巨人戦士ゴリアテと戦ったダビデの物語が今なお受け継がれている。

 以下ウィキペディア ペリシテ人より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%86%E4%BA%BA

イスラエルを建国したユダヤ人も、ぺリシテ人と同じく、ネブカドネザル2世によって苦難を味わった。紀元前586年、ユダ王国の首都エルサレムが新バビロニアのネブカドネザル王によって征服された。住民のヘブライ人は、囚われの身となってバビロンに強制連行されたのである。およそ50年の捕囚生活の後、新バビロニアがアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって滅ぼされると、紀元前538年にようやくユダヤ教を信じたヘブライ人は解放された。50年間にわたる強制移住先でのバビロンでもコミュニティーを維持し、聖地ヘルサレムを故郷との認識が強くなった。ユダヤ教の宗教体系が確立され、後のローマ帝国の進軍に伴う国家喪失、いわゆる「離散」(ディアスポラ)の始まりともいえる。この「捕囚」の記憶は旧約聖書を通じて後のキリスト教世界にも継承され、中世ヨーロッパで1309年に始まる教皇庁の分裂を「教皇のバビロン捕囚」(またはたんに「バビロン捕囚」)と呼ばれるように、ユダヤ教を信仰したヘブライ人が、古代バビロニアへ強制移住された出来事が、受け継がれていることを物語っている。

  写真=バビロンの捕囚人の地図 世界史の窓より
https://www.y-history.net/appendix/wh0101-099.html
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ユダヤ人は、ヨーロッパ各地に分散し、大きなコミュニティーを作れず、各国で少数派にとどまった。第二次世界大戦時に、ナチス・ドイツのヒトラーによるホロコーストにより、安心した暮らしを得るため、一つの民族による国民国家形成への意識が高まったのである。古代ユダ王国の首都だったエルサレムは、故郷である。鉄器を使って、ユダヤ人と戦ったペリシテ人の血を受け継ぐパレスチナの人々とは、犬猿の仲だった。

翌2001年にシャロン氏は首相に就任することにより、反パレスチナ路線を貫く。真の和平は実現しなかった。イスラエルとアラブ人の関係改善に向けて、大国アメリカが間に入ることにより、大きな争いは避けられた。2023年10月7日から始まったイスラエル軍とガザ地区を実効支配するハマスとの戦いは、50年ぶりの中東戦争といえる規模へと拡大している。今なお民族間の融和に程遠い状況だった。

詳細 パレスチナ子どものキャンペーンより https://ccp-ngo.jp/palestine/palestine-information/



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