パリ・オリンピック企画第1回目は、スペインの自治州のひとつカタルーニャの歴史と共に、男子サッカーのスペイン対ウズベギスタン戦のレポートである。
以下 東京五輪企画 スペインの歴史
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スペインのカタルーニャ自治州は、人口は2019年時点で756万、州都はバルセロナ、カタルーニャに暮らす人々の民族としての自覚は、8世紀に遡る。時のフランク王国のカール大帝が、イスラム勢力を排除する目的で、イベリア半島へ遠征したことにあった。討伐するのはウマイヤ朝である。
以下 スペイン辺境伯領より ウィキペディア
721年におけるトゥールーズの戦い、732年におけるトゥール・ポワティエ間の戦いなどがその代表として挙げられる。778年、カール大帝は自らピレネー山脈の南へと進軍し、イスラーム勢力の討伐を図ったが撤退を余儀なくされた(ロンスヴォーの戦い)。撤退後、イスラーム勢力の再侵入に備え、795年に辺境領を設置した。徐々に辺境伯領は勢力範囲を広げ、801年にはバルセロナを加えた。バルセロナは、イスラーム教徒の将軍アルマンソールにより、西暦985年に支配され、カテドラル聖堂等が破壊された。イスラームの文化に、キリスト教が根付いていた当時の人々は、反感を抱く。西暦988年にバルセロナ公爵ラモン・ボレイを中心に抵抗を続け、追い払ったのである。
スペイン辺境領はパンプローナ、ハカ(アラゴン)、ソブラルベ、リバゴルサ、パリャース、ウルジェイ、サルダーニャ、アンプリアス、ルサリョー、ジローナ、ウゾーナ、バザルー、バルセロナなどの伯領から構成されていた。真っ先に頭角を現したのは、パンプローナだった。西暦824年に現スペイン北西部ナバーラ州パンプローナで後のナバラ王国が起こり、独立する。牛追い祭で知られるサン・フェルミン祭は、国内外から観光客をひきつけ、世界へ文化を発信してきた。リバゴルサ、パリャースも884年に伯ラモンのもと辺境領から離脱した。ハカ(アラゴン)、ソブラルベ(およびリバゴルサ)は10世紀初頭以降ナバラ王が領した後、11世紀にアラゴン王国として別の道を歩む。また、9世紀末にバルセロナ家の祖ギフレー1世多毛伯は、バルセロナ伯の他にウルジェイ、サルダーニャ、ジローナ、ウゾーナ、バザルーの伯も兼ねる。代々バルセロナ伯領としてとどまる。西暦987年にカタルーニャ君主国としてフランク王国より独立し、後にアラゴン王国とカタルーニャ君主国が連合してアラゴン連合王国が成立した。もう一つ、ウルジェイ伯領から今日のアンドラ公国が成立した。
第2章 民族としての自覚
後世の歴史家によると、西暦878年にバルセロナ伯領に任じられたギフレー1世(スペイン語版)(多毛伯)が、初代君主として振舞ったと考えている。したがって、カタルーニャ人の象徴的存在だった。ギフレー1世は、バルセロナ伯を継承する世襲制を確立させ、1412年まで続く。フランク王国から完全に独立をしていた。大きな国の後ろ盾を失うことにより、危機に対して脆さを露呈する。西暦985年から988年にはイスラーム勢力のアル=マンスール軍との戦いで、支援を拒否された。町はすっかり荒廃し、自力で建て直しを迫られた。フランク王国とは見切りをつけた。西フランク王(現在のフランスの原型)として戴冠するユグ・カペーの承認を拒否している。西暦986年に、独立した地域となり、伯王ボレールの下、カタルーニャ君主国として歩んだ。転機は12世紀に訪れる。西暦1137年に、アラゴン王国のラミロ2世王の一人娘ペトロニラ女王とカタルーニャの君主であるバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚によって、王朝連合が成立した。互いに、尊重し、アラゴンとカタルーニャは、それぞれ独自の制度を維持していた。ラモン・バランゲー4世は出身地のカタルーニャとともにアラゴンも統治する。ペトロニラ女王との間の息子アルフォンソ2世は、アラゴン王の称号を受け継ぎながら、バルセロナ伯を兼ねたのである。1258年にフランス王がコルベイユ条約においてバルセロナ伯領への封建的な宗主権を蜂起した(それまで、形式上はフランスがカタルーニャの宗主国のままであった)。はれて、同君連合を形成するアラゴン王国とも台頭に張り合える。共にカトリックとして、イスラム教徒との主導権争いで優位に立つ。アラゴンとバルセロナ伯は、レコンキスタを開始する。1229年にはハイメ1世は、イスラム教徒が占有するバレアレス諸島をのっとる。1238年にはバルセロナの南にあるイスラムのバレンシア王国を征服した。イベリア半島におけるレコンキスタは終結し、地中海へ同じカトリックの国々へと目を向ける。同じ宗教の国々との争いになれば、教皇に背かれる可能性がある。情勢の変化を見極めていた。1282年のことだった。現イタリアのシチリア島民がフランス・アンジュー家の圧政に反して蜂起した。シチリアの晩鐘事件を発端に、アラゴン王ペドロ3世が、島民に対して救世主のごとく現れ、アンジュー家を駆逐したのである。シチリア島民から解放者として迎えいれられ、教皇の反感をかうことなく、領土を手に入れた。交易の拠点となる地中海征服をもくろみ、サルデーニャ島を巡って、ジェノヴァ共和国とも交戦した。東ローマ帝国に傭兵として雇われたアラゴンとカタルーニャの騎士たち(アルモガバルス)も一役かう。1311年から1390年頃までアテネ公国へ進軍し、支配をした。
写真=ヨーロッパの勢力図 掲載元 この世は舞台、人生は登場 2008年9月2日付
さて、シチリア王国で、フランスのアンジュー家を追放したアラゴン王国は、イタリア半島内のナポリ王国の支配に向けて、策を練る。1282年にシチリアを追われたアンジュー家は、ナポリの地を100年近く守り通していた。辛うじて主権を保ったものの、後継者問題から内紛に発展する。女王ジョヴァンナ2世には有力な跡継ぎがなく、複数の候補者が争った。ジョヴァンナ2世はフランスのアンジュー公ルネと共に、アラゴン王国のアルフォンソ5世を、それぞれ個別に指名していたのである。王の椅子は一つである。話し合いでの円満な解決は難しく、征服欲からアラゴンのアルフォンソ5世は、武力行使に打って出る。本国の政治を妃マリアに任せてナポリへ兵を向けた。1443年には「両シチリア王」を称して地中海の領有権を拡大する。アルフォンソ5世没後はその弟フアン2世が本国とシチリアなど旧来の領土を受け継いだ。ナポリの王位はアルフォンソの庶子ドン・フェランテ(フェルディナンド1世)に与えた。中世ヨーロッパでは私生児が君主になる決まりはない。ローマ教皇はドン・フェランテのナポリ王位を認めなかった。教皇の決断により、ヴァロワ朝のフランス王シャルル8世が、イタリア半島の座を巡る軍事介入の口実が出来たのである。1494年ナポリに侵攻し、王の座を獲得する。
写真=1494年のイタリア 世界の歴史マップより
いち早くナポリへ進軍したシャルル8世もまた、ローマ教皇から王冠を拒否された。周辺の国々も、強権的なシャルルの即位を認めない。アラゴン王フェルナンド2世の軍勢によって追放され、ナポリはアラゴン王家の領土となる。イベリア半島本国では、イタリア半島を巡る争いの最中、情勢に変化があった。1469年、アラゴン王太子フェルナンド(後のフェルナンド2世)がカスティーリャ王女イサベル(後のイサベル1世)と結婚し、1479年にはアラゴン王国とカスティーリャ=レオン王国の同君連合が形成された。いわゆるスペイン王国(Monarquía Española)の成立である。ローマ教皇アレクサンデル6世はこの2人を「カトリック両王」と呼んだ。ただし各地方はそれぞれ独自のコルテス(身分制議会)や法制度を有し、自治制度が尊重された(この自治制度の温存がスペインを近代的国民国家に変質させる最大の足かせともなった)。1492年にはイベリア半島に最後まで残ったイスラム王朝のグラナダ王国も征服され、同年にはクリストファー・コロンブスが新大陸を発見した。
第3章 スペイン王国誕生、消えゆくカタルーニャの文化
バルセロナ伯領から始まったカタルーニャは、アラゴン王国と対等な君主国として歩みながら、カステーリャ王国と合併し、スペイン王国となる。他国と共に歩んでいくうちに、カタルーニャ独自の君主国としての制度や文化は無くなった。スペイン王国としては、カタルーニャは搾取の対象としてみられていた。1640年から52年、三十年戦争にカトリック側で参戦した王国は、戦費調達を目的に、カタルーニャの住民に重税を課したのである。暮らしが厳しくなることにより、農民たちは一致団結して蜂起した。黙って成り行きを見守っていては、財産を無くしてしまう。強力なバックアップを受けられず、スペイン王国の鎮圧舞台によって平定された。災いに乗じて領土拡張を狙ったフランス王国ルイ13世により、ピレネー以北を実行支配されたのである。ルイ13世の時代、宰相のリシュルーが、執政権を握っていた。表向きには、カタルーニャの農民を支援すると約束しながら、本格介入を避け、隣接する地域に兵を進めた。カタルーニャの農民が、スペイン王国に武力で押さえつけられると、事態は収まった。三十年戦争において、プロテスタント側に立、戦勝国となったフランスは、神聖ローマ帝国からアルザス・ロレーヌ地方と、スペイン王国の旧バルセロナ泊領からピレネー以北を獲得したのである。権謀算術に長けたリシュルーにより、スペイン王国もカタルーニャも陥れられた。リシュルーの亡き後、マゼランが宰相の座を継いだ。フランスとスペインは、領土を巡る緊張状態に陥っていた。1648年から53年に、現フランス体制に反発した農民達の見方となったコンデ公爵を、スペイン王国が支援した。王国側を指揮したティレンヌ子爵が、一連のフロンドの乱を鎮圧し、中央政府の力を強める。1658年6月14日、フランスはスペイン・イングランド連合軍の間ではダンケルク(現フランス北部の都市)の戦いで勝利する。1659年のピレネー条約により、フランスは北部ではフランドルの一部とアルトワを、南部ではピレネー山中のルーション伯領を獲得した。同時に、ルイ14世とスペインのフェリペ4世の娘マリア=テレサとの婚姻も約束された。カタルーニャからフランスへ割譲されたルシヨン、コンフラン、ヴァレスピール、カプシール、サルダーニャの半分は、フランス領カタルーニャとも呼ばれる。毎年11月7日にフランス南部ペルピニャンで、カタルーニャの民族意識を高めるイベントを開催している。
40年あまりすぎて、1700年から13年まで及んだスペイン継承戦争により、カタルーニャの運命は決まる。フランスルイ14世と、オーストリアのハプスブルク家のカール大公との戦いである。1705年に、イングランド・オーストリア・オランダ・ポルトガルの連合軍が、スペイン王国とフランスとスペイン両王国をバルセロナにて包囲し、打ち落とした。イギリスを支配したピーター・バラは、バルセロナの住民を見方につけて、フランスへと攻め立てたのである。翌1706年4月3日から27日にかけて、フランスとスペイン王国が、敵対する連合軍から奪還を目指して攻め立てる。オーストリアのカール大公指揮の下、城壁に囲まれたバルセロナで籠城戦に打って出る。長期戦が予想された中、イギリスのジェームズ・スタンホープとジョン・リークが、ジブラルタルから上陸して、救出に向う。4月27日に、攻略を試みたフランスとスペイン連合軍は撤退したのである。連合王国側も、一枚岩ではなく、それぞれの戦略が合わず、スペインのマドリードを陥とせなかった。1713年にユトレヒト条約により、スペイン・フランス両王国と、連合王国側は講和した。スペインは、フランス王ルイ14世が出自のブルボン家が継ぐ。一方連合王国側は、バルセロナ攻略の拠点となったジブラルタルを、イギリス王国が領有する。
カタルーニャと共に、バレンシアは、スペイン王国から離脱して、連合王国側に付いた。勝敗は、どちらの完全勝利ともいえなかった。カタルーニャとバレンシアは、スペイン側に領有権が残り、独自言語の禁止や、文化の抹消など制裁をくらった。1714年9月11日、スペイン王フェリペ5世により、自治権が剥奪された。カタルーニャは、文化の継続を認められず、厳しい監視下に置かれた。固有の法律や言語を尊重していたカタルーニャ人の魂は、細々と受け継がれ、時に独立運動として起こるのである。
第4章 現代のカタルーニャ 独立へ向けて
2017年に独立運動が弥が上にも盛り上がった。きっかけは中央政府が自治権を縮小する動きを見せたことにある。1978年に制定されたスペインの現行憲法には、カタルーニャ自治憲章を盛り込んでいた。2006年には、憲法改正により、カタルーニャの文化を尊重するべく、一つの民族であることを容認し、カタルーニャ語の使用範囲を拡大した。カタルーニャ議会で承認された自治憲章をスペイン国会にも提出された。中央政府と妥協した据えに、多少の修正を余儀なくされたものの、概ねカタルーニャ自治政府の要求が通った。2016年6月26日に投開票されたスペイン総選挙(上院:208議席 下院:350議席)にて、1975年に死去するまで続いたフランコ独裁政権を尊重する国民党が、議席を伸ばす結果になった。2011年から第一党の座に付く国民党は、ファシスト政権である。カタルーニャを含めた自治憲章を、現行のスペイン憲法にそぐわないと判断した。憲法裁判所に提訴する手続きに入った。カタルーニャ州の住民は、国民党の政策とは折り合えず、一つの民族としてアイデンティティを守るべく、独立へ向けて動き出したのである。
2017年10月2日には、独立の是非を問う住民投票において、賛成票90%を得たと、州政府が明かした。スペインの中央政府側は、自治政府に対して引止めるべく策を練る。警察を派遣して、独立派の団体などを抑え込んだという。州政府によると、有権者の4割強に当たる約226万票が警察に押収されず開票の対象となり、うち賛成票は約202万票だったと公表した。なお投票には有効となるための最低投票率は設けていない。
州政府側も主張を押し通すことにより、中央政府との関係悪化を懸念した。独立へ向けた手続きは慎重になる。新型コロナ禍で行われた2021年2月14日、州議会選挙(定数135)の投開票が行われた。投票率53,6%、独立賛成派の議員が74議席を獲得する。
詳細 朝日DEGITAL 2021年2月18日付
2017年時点の独立運動の首謀者は亡命、または中央政府から汚職疑惑を追及され、議員資格を剥奪されている場合がある。
2024年5月12日に、独立への民意を門うべく、解散総選挙が実施された。
以下 ビジネス短信より 2024年5月22日付
https://www.jetro.go.jp/biznews/2024/05/e2960b35569234ee.html
「投票率は2021年の前回選挙(2021年2月17日記事参照)から6.7ポイント増の57.9%だが、スペインからの州独立機運の高まりで過去最高となった2017年の79.1%からは投票率の低下傾向が続いている。
第1党は前回に引き続き、国政与党の社会労働党(PSOE)系列のカタルーニャ社会党(PSC)で42議席(前回から9議席増)を獲得した(添付資料表参照)。独立派主要2党のカタルーニャ連合(Junts)とカタルーニャ共和左派(ERC)が後に続いた。ただ、2017年に違法な州独立宣言をした後、国外逃亡中のカルラス・プチデモン元州首相が率いるJuntsが35議席(3議席増)と健闘したのに対し、現在、州与党で中央政権との対話路線に転じたERCは20議席(13議席減)と大敗。この結果、Junts、ERC、民衆団結代表の党(CUP)を含む独立派勢力(以前は民族主義)の議席数は前回74から59に減少し、1984年以来40年ぶりに過半数68を割り込んだ。
独立派の支持が低下した背景には「独立運動疲れ」がある。独立問題で過去10年間に4回も州選挙が繰り返された結果、州政府や議会が機能不全に陥り、公共サービスや競争力の低下、干ばつによる水不足への対応不備などが顕在化。独立派の棄権票が増加した。他方PSCは、独立運動関係者への刑の減免や恩赦法を推進し、新たな時代を主導する力をアピールして票を集めた。」
引用終わり
写真=カタルーニャ社会党のサルバドル・イジャ党首 掲載元 BBC NEWS JAPAN 2024年5月31日付
カタルーニャの独立運動により、中央政府との間で軋轢が生じ、自治権停止の制裁を食らった。旱魃など自然災害が襲ってきても、中央政府は、手を差し伸べてくれない。独立するということは、自治政府の責任感が増す。有権者に信頼されるため、税の使い道を公表し、福祉サービスを担い、交通インフラを整えるなど、計画性も求められる。カタルーニャの独立運動は沈静化した。今後はスペインの一員として、より高度な自治を要求しながら、独自の文化を継承し、中央政府と協力しながら歩んでいく。
<オリンピック 第1節 C組 第一節 スペイン 対 ウズベギスタン>
日本時間7月24日(水)午後10時、ウズベギスタン 対 スペイン戦が、首都パリにあるパルクデプランスで始まる。五輪初出場のウズベギスタンは、若手の台頭により、下部のカテゴリー内で着実に世界舞台を経験している。一方スペインは、先日EURO2024で優勝したA代表のメンバーから、トップのフェルミン・ロペスと中盤のバエナが、先発に名を連ねた。
右エンドにスペイン、左エンドにウズベギスタンが入り、ウズベギスタンボールでキックオフした。
試合が動いたのは28分だった。左サイドからのFKをセルヒオ・ゴメスが蹴ると、ゴールから反対方向にボールはカーブする。ニアでバリオスがボールを反らした。球の速度やコースに変化があり、山形に落ちていく。ファーサイドでユルドシェフのチャージを受けながら態勢を整えたプビルが、右足で合わせた。まっすぐ飛んだボールは、GKネマトフの両手を掠めて、右ネットを揺らした。1対0.ついに均衡を破った。
写真=先制ゴールシーン 掲載元 Daily mail
プビルは、ユルドシェフに競り勝ち、落ち着いてゴールを決めた。
一点ビハインドを負ったウズベギスタンは、一転して前がかりになる。37分、エリアすぐ外中央からFKを得た。キックポジションに1995年生まれのショムロドフ一人が付く。後から背番号10をつけたジャロリディノフも加わる。主審の笛がなると、ジャロリディノフが、助走をつけて、左足でシュートを打った。微妙にカーブを描いて落ちていくボールを、体を左に倒したGKアルナウ・テナスがキャッチした。両チーム弾際の攻防では、ウズベギスタンの右サイドのファイズラエフと、対面のスペインの右サイドバックのミランダの間で激しくなった。45分、ゴール前でスペインのクバルシが、ウズベギスタンのハムラリエフを空中戦の末に、服を引っ張って倒したと判断した。VTR映像を検証した末、PKの判定を下す。
47分、PKのキッカーを努めるのはショムロドフ、長めの助走から、キーパーの動きを見て、右足を振りぬいた。アルナウ・テナスもしっかりと反応し、右手を伸ばした。コースがきわどく、サイドネットを揺らした。1対1.ショムロドフはガッツポーズした。
写真=ショムロドフのPKシーン 掲載元Daily mail
50分にスペインは、ミドルレンジの右斜め45度からセルヒオ・ゴメスが、左足でシュートを打った。勢いのあるボールは、キャッチング姿勢に入ったGKネマトフ膝元で曲がっていく。ネマトフは、腰を落としながら重心を左に傾け、両手でボールをかぶせるように抑え込む。やや手元でハンブルしたものの、リバウンドをしっかりとコントロールし、ボールを抱え込んだ。シュートコースがやや甘く、キーパーの守備範囲に納まっていた。前半は1対1のスコアで終えた。スペインが57%のボール支配率に達する中、幸先よく先取点を挙げる。ウズベギスタンはリードを許しながら、ペースを崩さずに、1対1での攻防でも負けずに、チャンスを作っていた。
後半立ち上がりから動きが激しくなった。スペインは、右サイドバックのプビルが高い位置をとり、クロスの供給源になる。12分に、エリア内の左サイドでスペインのオロスに対して、ファイズライフが足を引っ掛けた。主審は笛を吹き、PKを告げる。キッカーは、セルヒオ・ゴメスである。助走をつけながら左足を振りぬいた。左方向に飛んだGKネマトフは、ボールの行方を確認して、足をあげて、セーブした。セルヒオ・ゴメスは、キーパーの動きを見て、冷静に蹴り込んだものの、コースが甘かった。
写真=PKを蹴るセルヒオ・ゴメス 掲載元 SPORTS MAX
同点のチャンスを逃したスペインは、ボールをコントロールする。15分、右サイドからフェルミン・ロペスが出したボールを、アベル・ルイスが反対サイドに折り返した。オーバーラップを仕掛けたサイドバックのミランダが受け取る。一端キープして、トップ下のバエナを狙ってクロスを送った。バエナはスルーした。ほぼペナルティーキックポジションから、PKを失敗したセルヒオ・ゴメスが、左足でシュートを打った。GKネマトフは動けず、左ネットに刺さった。2対1.サイドを使った華麗なパスワークから、勝ち越しゴールをあげた。
再度リードしたスペインは28分、タッチライン付近の左サイドからFKを得た。ゴールをあげたセルヒオ・ゴメスが、左足でゴール前にクロスを送った。微妙にゴールから反対に曲がっていくボールに、GKネマトフが即座に反応する。前に飛び出して、右手で逆サイドへ押し出した。ネマトフの出際がよく、スペインはターゲットのエリク・ガルシアが引いていた。
後半に動きが止まっていたウズベギスタンは35分にエリアすぐ外中央やや左からFKを獲得する。キッカーはアリクロフ、主審の笛が鳴ると、助走をつけて、右足を振りぬいた。カーブがかかったボールは、反対方向のゴールへ落ちていく。キーパーのアルナウ・テナスは、右手を上げながら重心を移動する。ボールは、落ちきらずに、クロスバーの上を越えていった。FKを蹴ったアリクロフは、直後にオーバーラップするミランダを、自陣のコーナーキックポジション付近でドリブルを抑えた。
写真=Yutubeにてファエズラエフの紹介動画
ウズベギスタンは左サイドのファイズラエフが、持ち前のドリブル力でチャンスメイクする。スペインは、ファイズラエフ対策として、右サイドバックのプビルが対応する。エリア内のセカンドボールを巡り、ファイズラエフとプビルが競った。プビルは、肘を曲げながらブロックし、ゴールラインをボールが超えるまで粘る。ファイズラエフは、小柄ながらプビルに体を預けて、振り向き様に辛うじてボールを蹴る。プビルの足にボールが当たって、コーナーキックをとった。前半から続けて、ウズベギスタンはセカンドボールを巡って、激しく競りあう。スペインも前半からラフプレーを中心にチームとしてイエローカードを5枚受けている。たいしてウズベギスタンは2枚だった。長い9分51秒の追加タイムが経過して、試合終了のホイッスルが鳴らされた。白星スタートを切ったスペインのメンバーは仲間と手を合わせ、相手のウズベギスタンの選手とも握手を交わした。
技術的にはスペインが一枚上手とはいえ、ウズベギスタンは出足が早く、セカンドボールを物にした。球際の攻防の激しさから、ファウルも多く、接触プレー時に両選手が倒れ込むシーンも続出した。結果的に主審は、ペナルティーエリアの攻防を巡って、2度のVARチェックを行い、前半ロスタイムにウズベギスタンにPKを与えた。逆にスペインに与えたPKは、自身を持って直接ファウルの判定を下した。90分を通してゲームは緊張感があった。勝者も敗者も次節以降に繋がる試合だった。
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