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2021年08月09日17:06

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8/9(月)サッカー情報!スペインの歴史3(19世紀初頭から21世紀)男子サッカー 決勝 ブラジル 対 スペイン戦レポート

8/9(月・祝)
サッカーのJリーグのヴィッセル神戸に、元バルセロナのボージャンの加入が決定した。先日には、2018年ロシアWカップ代表の武藤の獲得も発表されている。


 今回第1章は、スペインの歴史最終3回目、19世紀初頭から21世紀の現代までの出来事を書き上げた。続く第2章は、オリンピック 男子サッカー 決勝戦 スペイン対ブラジル戦のレポートである。   

 過去関連日記
第1回 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979988620&owner_id=32437106
第2回 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980009928&owner_id=32437106 

        第1章スペインの歴史3(19世紀前半から現代まで)
 
 アラゴンとカスティーリヤ王国の合併により、スペイン王国は誕生した。1492年にイベリア半島で唯一のイスラム勢力ナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、レコキスタ(国土回帰運動)を完了させた。16世紀には、対外戦争による多額の財政赤字を抱えながら、アメリカ大陸での金や銀の採掘権を手に入れる。広大な領土から「太陽が沈まない国」と称されながら、やがて後継者を巡る戦争を通して、混乱期を迎えた。

              �� 動乱期

写真 掲載元 パシフィック洋行 What's Next http://pyfood.jugem.jp/?eid=136
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 1808年5月2日と3日、スペインブルボン朝を退けて、自身の兄ジョセフを国家元首に据えたナポレオンに対する抵抗運動が起こり始めた。同年7月19日のバイレーンの戦いでフランスは大敗を喫する。ホセ1世として即位した皇帝の兄ジョゼフは、反乱軍を鎮圧できず、マドリードから脱出した。抵抗運動はスペイン独立戦争の様相を成す。兄ジョゼフの代わりに、ナポレオン自身が、同年11月に自ら大軍を率いてスペインに侵攻した。12月にマドリードに入城し、異端審問制や封建的諸権利を廃止し、解放者として国民の前に現れ、暴動の沈静化に成功する。 ナポレオンは1812年にロシア遠征の際、スペインに駐留した兵を導入する。翌13年には、プロイセン、スウェーデン、ロシア、イギリスから成る対仏同盟軍と、ザクセンの戦いで破れ、ナポレオンはエルバ島の領主として追放処分を受ける。1814年にナポレオン廃位後のヨーロッパの体制を決めるウィーン会議にて、スペインは7年ぶりにブルボン朝フェルディナンド7世が復位する。
 
 一方でラテンアメリカでは、独立運動が活発化する。フランス革命期に、ナポレオンのスペイン征服に伴い、ハイチが独立宣言を行った。

 スペイン本国においては、ウィーン体制によるブルボン朝復位に異を唱えるべく、1820年1月1日に反乱が起こった。発端はカディス港で、ラテンアメリカ独立運動鎮圧のために派遣される予定だった兵士による蜂起である。国王フェルディナンド7世は、市民に歩み寄り、カディス憲法の復活を承認した。民衆の蜂起に王が屈した「スペイン立憲革命」の成功により、自由主義と民主主義が、ヨーロッパ各地に根付く。

写真 掲載元 世界の歴史まっぷ ウィーン体制下のヨーロッパより
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1861年のイタリア統一に繋がるカルボナリの蜂起、ドイツのブルシェンシャフト、ロシアのデカプリストの乱など、民族主義運動が活性化した。スペイン立憲革命は、1820年から23年にかけて起こったものの、フランス軍によって鎮圧された。その背景には、ウィーン体制を主導していたオーストリアの外相メッテルニヒによる、ロシアのアレクサンドル1世とフランスのブルボン復古王政(ルイ18世)との神聖同盟の結成にある。絶対王政を掲げるルイ18世は、神聖同盟の支援により、スペインの民主化運動を抑え込んだ。ラテンアメリカに対しても武力行使に踏み切り、独立運動を阻止した。

 ヨーロッパの動きをけん制するかのように、一足早く独立を勝ち取ったアメリカ合衆国が動いた。1823年にモンロー大統領は、自身の名前をとり、モンロー教書を出し、ヨーロッパ諸国に相互不干渉を提言した。翌1824年に、シモン=ボリバル率いるペルー軍が、混乱期のスペイン軍を破り、ラテンアメリカの独立運動を活性化させた。スペインの植民地は、キューバ、プエルトリコ、フィリピンにとどまった。衰退期にブルボン王朝フェルディナンド7世は、1833年に死去した。王妃マリア=クリスティーナが摂政を務め、3歳の娘イサベル2世を即位させる。フェルディナントの弟カルロスが、王位継承を主張し、軍を率いて立ち向かう。フランク王国のサリカ法典によると、女性の王位継承は認められていない。カルロスが支持者を従えて、武力行使に踏み切った。一連の王位継承を巡る内戦を、カルリスタ戦争という。摂政マリア=クリスティーナは、国内の自由主義者を味方につけた。支持者達は、クリスティーノスという。カルロスの支持者カルリスタとの間で3回に渡る内戦が起こったのである。カルリスタ=保守、聖職者や農民、バスク地方とカタルーニャ反中央政府が中心である。対してクリスティーノス=革新は、軍隊、宮廷貴族、ブルジョワで構成された。戦闘の行方は、当初から優勢に進めていたクリスティーノス側の勝利になった。クリスティーノスの勝利により、王権が強化されたものの、支持者穏健派と、批判的な進歩派との溝は埋まらなかった。双方遺恨を残した状態で、19世紀を歩むことになる。

 写真 掲載元 世界の歴史まっぷ ラテンアメリカの独立
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           �� 民主化社会へ

1843年に成人したイサベラ2世が、親政を行うことになった。気分の赴くままに穏健派、進歩派の大臣の首をすげ替え、私生活も大きく荒れていた。役人や軍人からの信頼を失い、自らの立場が危うくなる。1868年に軍人のセラーノとプリムが、進歩派と共にクーデターを決行した。女王イサベラ2世は、身の危険を感じて、フランスのパリに亡命する。女王の廃位に成功した自由主義政権は、世界に先駆けて、基本的人権の保障や男子普通選挙を導入するなどの改革を行った。翌69年6月には新憲法で国民主権に基づく立憲王政、二院制からなる議会制を定めた。

 普仏戦争の勃発でスペイン新国王の選任は難航し、イサベラ2世の逃亡から2年後の1871年1月、イタリア王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の息子アマディオを迎えることになった。カルリスタの反乱により、2年後の1973年2月に統治の難しさを感じたアマディオは、退位の決断を下す。議会は、6月に選挙で大統領を選ぶ共和制への移行を宣言した。議員も全て選挙で選ばれる。地方分権型を主張する勢力が台頭する中、反対勢力はパリ=コミューンと手を結び、内乱を画策する。共和制は、1年半もたたずに終わりを告げた。国内の治安の安定には、絶対的な権力者が必要だった。1874年12月、亡命先のパリからイサベル2世の息子アルフォンソ12世を迎え、スペイン=ブルボン王朝の王政が復活した。スペインが再び共和政になるのは46年後の1930年である。

 ブルボン朝立憲王政下のスペインは、1898年のキューバ独立運動に介入したアメリカとの戦いで敗北した。その代償としてフィリピンを含め植民地をほとんど失った。世界が帝国主義にむかう中で、19世紀初めに北部カタルーニャ地方を中心に工業が発達していた。一方で中央部から南部は、封建領主が農民を土地に縛り付けて、税を取り立てていた。地域による経済的な格差が拡大する状況だったのである。植民地キューバにおいても税の取立てを厳しくしたことにより、土着民から抵抗にあい、鎮圧に失敗したのである。もはやラテンアメリカでスペインの影響はほとんどなくなった。

 時は20世紀、1914年から1918年に渡った第1次世界大戦では、中立の立場をとり、モロッコでの鉱山開発を行った。武器輸出により、好景気に沸き、物の値段が高騰するインフレーションが起こる。物価上昇に賃金が追いつかず、労働者は不満を募らせる。社会労働党系のUGT、アナキスト系のCNTに労働者の指示が集った。1917年のロシア革命を発端に、スペインでは同年8月、ゼネストに打って出て共和政実現を訴える。政府は戒厳令を布いて、反対者を弾圧した。ロシアで成功した世界初の社会主義革命は、スペイン農村地帯に顕著な影響をを及ぼした。1918年から1920年まで「ボリシェヴィキの3年間」と題した運動が起こった。国民が政治不信に陥ると、鎮圧に向う軍隊が力を付けた。スペイン立憲王政の立場が揺らいだ結果、軍事独裁政権へと移行する。

 地中海を挟んで対岸のモロッコでも活発な運動が起こっていた。1580年以来、ポルトガルの併合により、ジブラルタルの対岸アフリカ側のセウタを、スペイン領としていた。

 写真 掲載元 旅行のとも、ZenTech セウタの地図 
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1859年から1860年にかけて、モロッコとの間でセウタを巡り、戦争が起こった。フランスも同じく、モロッコと戦っていた。61年には通商条約を締結した。同じ勝利国のフランスとの間で、北部のセウタとメリリャを含むリーフ地方、および西サハラをスペイン保護領とすることで合意した。セウタは21世の現在までアフリカ側の飛び地としてスペインに残り続ける。1920年にリーフ地方の首長、アブデル=カリムがスペインに対する反乱を開始した。このリーフ戦争により、1921年のアヌアルの戦いで1万2千のスペイン軍が敗れ、シルベストレ将軍が殺害された。アブデル=カリムは1923年にリーフ共和国の独立を宣言した。

 1923年9月13日の夜、プリモ=デ=リベラが、リーフ共和国を倒すべく、カタールニャに厳戒令を敷き、軍事独裁政権を樹立する。国王アルフォンソ13世の承認を取り付け、軍事国家へと変貌し、フランスと共同で、リーフ共和国に宣戦布告し、1926年には打ち倒した。国内では、共和主義者、社会主義者、労働組合が結集して、軍事独裁政権に立ち向かった。1929年にアメリカを発端に世界大恐慌が始まると、31年にスペインに及んだ。世界的な不況に陥るタイミングで、プリモ=デ=リベラは辞任した。

           �� 独裁政権から民主化を求めて

 軍事独裁政権が退陣する1931年のスペイン革命により、6月の憲法制定議会選挙では共和派が多数を占めヴァイマル憲法 に範をとった共和国憲法が制定され、主権在民、戦争の放棄、国家と教会の分離、貴族の廃止、23歳以 上の男女普通選挙制度、一院制国会(コルテス)、カタルーニャの自治などを規定した。

 世界恐慌の影響が長引き、生活苦に陥った労働者や農民により、アナーキストやソヴィエト連邦に倣う共産党が支持を固めていく。一方で既得権を脅かされる地主や資本家は、左派に対抗する組織の出現を待ち望む。富裕層を味方につけ、共産党を徹底排除する、革新的な政党が勢力を伸ばす。「ファランヘ・イスパニョーラ」(後のファランヘ党)など、ナチスを手本とした反共産主義、反議会主義、ユダヤ人排斥、軍国主義などのかかげたファシズム政党が台頭した.

 
 1933年11月に、国の行方を左右する23歳以上の国民による選挙が行われ、右派政党が議席数を伸ばす一方、左派政党は大きく後退した。右派政党が、アナーキストや共和主義者を徹底的に弾圧する。左派政党を支持する国民は、ゼネストに入り、武力蜂起を起こす。初めに起こった場所から「アストゥリアス(現スペインの州名)の蜂起」という。モロッコからも派遣された軍隊により、抑え込まれたものの、スペイン人民開放戦線の結成に繋がる。1935年にはコミンテルン第7回大会が開かれ、過去の大会で示された方針を転換した。共産党と共にブルジョワ政党や社会主義者とも共闘して、反ファシズム人民戦線を構築することを指示した。国を分断する大きな戦争が勃発する。

 1936年1月、アナーキストの一部、社会党、共和党によるスペイン人民解放戦線が正式に発足する。同年2月の普通選挙で、国民の支持を受けて、勝利した。7月、人民解放戦線に武力で対抗するべく、軍部とファシストが反乱軍を結成した。モロッコを拠点にフランコ将軍が反人民戦線政府の挙兵を宣言、本土に侵攻しスペイン内戦(戦争)が開始された。

 写真 掲載元 山武の世界史 第47 回世界史講座のまとめ�ぁ淵好撻ぅ麁眄錙�
 
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フランコ率いる反乱軍は、ナチス・ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニから支援された。戦時中の37年に、ファヘラン党(1933年に誕生)といくつかの右派政党と合体させ、「新ファヘラン党」を結成する。イギリスやフランスは、スペイン戦争に不干渉する。独自にイギリスやフランス、大西洋を挟んでアメリカから、義勇兵が結成され、フランコ率いる反乱軍に立ち向かった。戦況は長引き、1939年春にまで及んだ。ナチス・ドイツのヒトラーは、世界征服をにらみ、大規模戦争の予行演習として、1937年4月26日、ゲルニカ(バスク州ビスカヤ県)で空爆を行った。市街地の25%の面積が焦土と化し、75%の割合で火事が起こった。あの巨匠ピカソが、ゲルニカの空爆の模様を後世に伝えるため1枚の絵に残している。

 スペイン内戦は、フランコ反乱軍が勝利した。1939年3月27日に日独伊防共協定に加盟し、同年5月には国際連盟を脱退した。彼は、1936年10月には、自ら国家主席として就任し、独裁体制を築いている。戦争中、政府軍が構えるカタルーニャ地方を含む東部を制圧したことにより、国を再び統一した。ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニに恩を打って置きながら、内戦により消耗した国力を回復させるべく、第2次世界大戦(1939年から1945年)は中立の立場をとった。1940年6月10日イタリアの参戦により、非交戦を宣言し、独伊艦船の補給任務を引き受ける。開戦当初は日独伊の枢軸側が有利な状況で進んでいた。フランコは情勢をしっかり見極め、参戦のタイミングを画策していた。一方で地中海戦線やギリシャ海戦線で、同盟国側のイギリスが枢軸側を押し込んでいる状況を見て、参戦の決意が揺らぐ。枢軸側のヒトラーやムッソリーニから、将来的に莫大な軍事・経済的物資の供給、日伊独三ヶ国同盟の加盟を約束させられながら、決断を先延ばしにした。1941年6月22日にナチス・ヒトラーが、対ソ戦に向けたバルバロッサ作戦を発動した際、ファシスト1万人近くを集めて青師団を創設し、ドイツ国防軍の義勇部隊として東部戦線に送り込んだ。1941年12月10日の大日本帝国軍の真珠湾攻撃の成功に際して、祝電を送っている。日伊独同盟加盟を念頭に置き、日本と関係を良くする一方、旧植民地フィリピンを巡り、軋轢が産まれた。日本軍は、破竹の勢いでフィリピンを含む東南アジアの国々を征服した。1943年に、形成が一気に逆転し、連合国軍が優勢になると、フランコは再び中立を宣言する。1945年2月3日から3月3日まで行われたマニラの戦いで、連合国側が勝つと見越し、大日本帝国と断行した。第2次世界大戦後、中立を決め込んだスペインは、制裁を食らっていない。開戦当初敗戦した枢軸側に加担した姿勢から、連合国側から受け入れられず、孤立する。1959年12月に、アメリカ大統領アイゼンハワーと共同記者会見に臨み、和解に至った。

 写真 右側フランコ、左側アイゼンハワー、掲載元 フランシスコ・フランコ ウィキペディアより
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西側寄りの姿勢に転じながら、東側諸国のように独裁体制を強化し、バスク語やカタルーニャ語の使用を禁止し、言論統制に打って出る。しばし反フランコを掲げる2つの地方出身者によるテロが起こっていた。終身大統領の座を手に入れたフランコは、後継者にブルボン王朝のファンカルロス2世を指名し、上手く国民と対話を続けた。NATO(北大西洋条約機構)の加盟国としても認められず、西側諸国から阻害される。転機は1968年に西隣のポルトガルで独裁者サラザールが引退したことに始まる。1974年にポルトガルで革命が起こり、民主化運動が展開される。スペインでは1975年にフランコの死去により、ブルボン王家が再び国を統治する。同年11月、1931年の革命で失脚したアルフォンソ13世の孫であるファンカルロス2世が即位した。立憲君主制の下で民主化を認め、首相スアレスによって実行される。1977年に44年ぶりに普通選挙が開かれ、翌78年に新憲法が成立し、共産党も合法化された。1982年の普通選挙で、社会労働党政権が誕生し、首相に指名されたゴンザレスは、西側諸国との関係を強化する。1985年にNATOの加盟が認められた。

 民主化後に、バスク地方とカタルーニャ地方で一時的に独立運動が活発化した。1952年にアイルランド共和軍を模範にバスク祖国と自由軍(通称ETA)を創設している。フランコ政権下で弾圧された経緯から独立志向が根強く残る。1978年の新憲法でスペイン人とバスク人が同等の扱いを受けたことによる抗議運動も起こった。1983年にスペイン政府は、反テロリスト解放グループを創設し、取締りを強化した。ETAはフランスに活動拠点を移すものの、現地警察にアジトを捕まれ、逮捕される。2011年10月には活動休止に追い込まれた。カタルーニャ地方では、2017年10月1日に、独立を問う住民投票が行われた。投票率は全住民の4割ながら、賛成票9割に対し、反対票1割の大差がついた。歴史を振り返ると、1137年にアラゴン=カタルーニャ連合国が、レコンキスタ(国土回復運動)を牽引し、イスラム勢力を排除した歴史がある。1479年にアラゴンとカスティーリャ王国が合併し、スペイン王国が誕生すると、カタルーニャの文化は消されてきた。1920年に誕生したプリモ・デ・リベラ軍事政権、続くフランコ独裁政権の下で、弾圧を受けた経緯がある。1975年にフランコ死去に伴い、民主化が始まると、独立を願う声が強くなった。

中央政府は、それぞれの地方の主と対話を重ねながら、国に残るように説得に当たっている

 西側諸国の一員となったスペインは民主化から46年、国民は仕事も程ほどに、プライベートを充実させながら、21世紀の自由化された時代を歩んでいる。

 第2章 オリンピック 男子サッカー 決勝 ブラジル 対 スペイン戦レポート

  写真掲載元 日刊スポーツ 東京2020より https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/soccer/news/202108070000039.html
 撮影者:前田充

7日(土)午後8時30分、横浜総合競技場で、決勝戦 ブラジル 対 スペイン戦がキックオフする。ブラジルが勝利すれば、2004年、2008年大会を制したアルゼンチン以来、5チーム目の連覇である。対してスペインは、地元バルセロナ五輪以来29年ぶりの金メダルを狙う。右エンドにブラジル、左エンドにスペインが入り、前半45分が始まった。高い技術力を持つ両チームの戦いは、開始当初から一進一退の攻防が続く。

 15分、スペインは右サイドからアセンシオが、ゴール前にクロスを送った。大きくカーブを描いたボールに、オヤルサバルが反応する。オヤルサバルは、カバーに入った1983年産まれの38歳ダニエウ・アウベスをブロックするかのように、ゴールを背にしながらヘッドで落とす。味方のダニオルモがシュート態勢に入ると、一歩早くブラジルのジエゴ・カルロスが足にボールを当てる。前に飛び出たGKサントスの頭上を越えていったボールを、ジエロ・カルロスは、ゴールラインの手前で辛うじてクリアした。

 36分、試合の行方を左右するプレーが起こる。ブラジルは左サイドからのフリーキックポジションについたアラナが、左足で直接ゴール前にボールを送る。パンチングでクリアを試みたGKシモンとブラジルのアントニーが接触した末、主審の笛が鳴った。ビデオ映像を検証した主審は、シモンのファウルをとり、PKの判定を下す。

 写真=一連のプレー
フォト

キッカーは、大会得点ランクトップとなる5得点をあげているリシャルリソン、小刻みにステップを踏み、一端足をとめると、右足でシュートを打った。キッカーからみて左に飛んだGKシモンの読みはぴたりと当る。ボールはクロスバーの上を越えていった。

 写真=PK失敗
フォト

 PKで先取点を逃したブラジルだが、ペースを落とすことなく、攻撃を続ける。45分、左サイドからクラウジオが右足でクロスボールを送る。エリア内の逆サイドに上がったダニエウ・アウベスが、ククレジャにカバーされながらゴールライン際から右足で折り返した。高く上がったボールが落ちてくると、ヘディングでクリアを試みたエリック・ガルシアは失敗した。クーニャが胸でトラップし、足元にボールを落とす。体勢を崩さずに、右足でシュートした。GKシモンは全く動けず、右サイドネットを大きく揺らした。1対0.ブラジルが先制した。

 写真=先制ゴールシーン
フォト

競り合いに強い38歳のダニエウ・アウベスが、ゴールラインに切れていくボールを残したことにより、クーニャのゴールが産まれた。

 エンドが代わり、後半4分、ブラジルは、クーニャが蹴り出したボールを、右サイドからアントニーが反応する。ククレジャが後を追い、斜め左からオスカル・ヒメネスが全速力で戻る。アントニーは、エリアに入ると、後ろのククレジャとややぶつかって、左足でシュートを打った。重心を低く保ったシモンが、左方向に飛んでセーブした。主審は笛を吹いた。すでに旗があがり、アントニーの位置はオフサイドだった。続く6分、ハーフウェー・ラインより後ろの右サイドでダニエウ・アウベスがロングボールをける。センターサークルの右横でクラウジーニョが頭にボールを当てて、前線に出す。ミドルレンジの右側でクーニャが、スライディング気味のクロスを送った。ターゲットのリシャルリソンが、右足でボールを受けると、トップスピードのまま、エリック・ガルシアを切り返す。前に出ていたGKシモンと向き合いながら、左足でシュートする。シモンの足先に触れて、コースが変わると、クロスバーの下に当たり、大きくバウンドする。エリック・ガルシアが、左足でゴールラインにクリアした。シモンは、リシャルリソンとの間合いを詰めたことにより、シュートコースを狭めていた。

 写真=一連のシーン
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前半にPKを失敗しているリシャルリソンは、ユニフォームで滴る汗をぬぐった。反撃に出るスペインは15分、右サイドからソレーユがクロスを送った。エリア内でオヤルサバルが、左足で飛び込んだ。ボールがしっかり足に当ると、直接左ネットに飛び込んだ。1対1.オヤルサバルは、ボールをふかさず、きっちりゴールネットに入れた。

 写真=ボレー気味のシュートで同点ゴールを決めるオヤルサバル
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 カウンターが得意なブラジルに対し、スペインは守りに重点を置く分、準決勝まで展開していたパスサッカーは鳴りを潜めた。43分に、スペインはブライアンヒルがミドルレンジから左足で強烈なシュートを放った。横飛びしたGKサントスの指先を越えていくボールは、クロスバーに当って跳ね返された。サントスは、球の軌道を正確に見極めていた分、例えぎりぎり枠に収まっても、セーブした可能性が高かった。

 前後半90分で決着がつかず、延長戦に入った。延長後半にゲームが動いた。右から左に攻めるブラジルは、延長後半2分、ハーフウェー・ラインより若干後ろの右サイドでアントニーが、ブライアンヒルを切り返し、逆サイドを走るマウコンを狙ってボールを送る。スピードのあるマウコンは、バジェホの前に入り、膝にボールを当てて、ペナルティーエリアまで駆け上り、GKシモンと1対1になる。マウコンは、シモンの位置を見ながら、左足で逆サイドに流し込んだ。体を右に倒しながら飛び込むシモンの足先にボールが当って、ゴールネットを揺らした。2対1.ブラジルが勝ち越した。

 写真=ゴールを決めたマウコン
フォト

交代で入ったマウコンは、勢いそのまま、トラップからシュートまで持っていった。試合は、2対1でブラジルが、スペインを下し、連覇を達成した。個人技で勝負をするブラジルは、少ない人数ながらフィニッシュに持っていく。対してスペインは、サイドから随所にチャンスを掴んでいた。スピードとパワーのあるブラジルが、組織力のあるスペインに戦術面でも上回ったゲームだった。 
 


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