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2024年07月22日23:23

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ZARDの坂井泉水とバブル後経済(2)7月23日で「What beautiful moment Tour」のファイナルから20年 メキシコ通貨危機とアジア通貨危機 1973年のパリ平和協定 住宅双六 

 <坂井泉水 7月23日で最初にして最後のツアーのファイナルから20年、幻のクルージングライブから8月31日で25年>
 
 前回坂井泉水と経済関連日記 2024年6月4日 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987731765&owner_id=32437106

関連日記 2023年12月3日(日)Don't you see!をテーマに秦野市の旅 2004年のツアーを振り返る
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986504073&owner_id=32437106

 7月23日に、平成の音楽史に名を残したZARD坂井泉水が参加した生前唯一のツアー「What beautiful moment」のファイナル武道館公演から丁度20年の節目を迎える。

 2004年3月2日に大阪フェスティバルホールで幕を開け、当初2会場3公演の予定だった。他の公演は、3月8日(月)と9日(火)の東京国際フォーラム・ホールAの2daysである。CDを発売すれば、大ヒットを飛ばしていた彼女が、表舞台に立つことにより、かつてのファンを掘り起し、nたちまち人気を集めた。新たに8公演追加され、9会場11公演に上る全国ツアーと化したのである。翌2005年6月8日に、2会場目の東京国際フォーラム2daysと、7月23日のFINAL日本武道館公演の模様を中心に収録したDVD「What beautiful moment Toure」をリリースした。2020年10月7日には、新たにツアー映像をハイヴィジョン化し、ブルーレイディスクにて世に送り出した。タイトル「ZARD LIVE 2004 "What a beautiful moment" [30th Anniversary Year Special Edition]である。

写真=ツアーを収録したDVDのパッケージ 掲載元 オリジナル音楽レーベル 2008年8月18日付 
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新型コロナ禍による規制が緩やかになった2022年以降、毎年命日の5月27日には、ブルーレイ版を、全国の所定の映画館で上映している。

 CDのジャケットの姿から想像する通り、スーツを着込み、清楚で気品に富んでいた。また控えめな性格からか、ファイナルの武道館公演において、アンコールの最終3曲目「Don’t you see!」を歌い終えると、バックのメンバーを残して、ステージから去ったのである。ライブのステージは、バックメンバーの演奏で、幕を下した。当時のメンバーが中心となり、坂井泉水が亡くなった後、フィルムコンサートの形で実現している。
 
彼女がブレイクしたのは1993年1月27日にリリースされた6thシングル「負けないで」だった。奇しくもその日、ベトナム戦争の解決を盛り込んだパリ平和協定から20年だった。当時アメリカのキッシンジャー国務長官とベトナムのレ=ドク=トによる秘密交渉が進められ、終戦へ向けて布石を打ったのである。ベトナム民主共和国(北ベトナム)、南ベトナム共和臨時革命政府(南べトナム解放民族戦線)、ベトナム共和国(南ベトナム)およびアメリカ合衆国の四者によって調印された。協定に従い、同年3月29日まで、ベトナム共和国を支援するアメリカ軍が引き上げたのである。アメリカの後ろ盾を失ったことにより、ベトナム民主共和国と南ベトナム共和臨時革命政府が戦況で圧倒的に有利に立つ。2年間に渡り継続した末に、1975年4月30日にサイゴン(現在ホーチミン市)の陥落に伴い、ベトナム民主共和国により、平定された。1976年に新たにベトナム社会主義共和国として歩む。
 ベトナム戦争の終結に向けて、道筋を作ったキッシンジャー国務長官は、1973年にノーベル平和賞を受賞した。もう一人のレ=ドク=トは、協定内容に反して、終戦へ向っていなかったことを理由に、賞を辞退している。

写真=レ・ドゥク・ト氏(左)とヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー国務長官=TTXVN 掲載元 VOV5 wordl 2023年1月26日付 
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 パリ平和協定の締結時、坂井泉水は小学校入学前だった。詳しい地名まで明らかになっていないものの、神奈川県平塚市で育ったという。日本では、都会へ働きに出るサラリーマン向けの大規模集合住宅の建設ラッシュに沸いていた。当時住み替えを前提に、マンションが建てられたという。1973年1月3日の朝日新聞の記事に書かれた「住宅双六」によると、田舎から都会へ働きに出た若者が、会社の寮や小さなアパートに住む。結婚して、家庭を持つと、給料の範囲内で購入できる、分譲住宅へと移っていく。産まれた子供が大きくなり、手狭に感じる頃には、勤続年数の経過に従い、家計を支える夫の給料も高くなる。従って、ローンを組んで広い一戸建てに移るようになる。開いた団地の手狭な住宅を、若いファミリーが購入することにより、入れ替えが進んでいく。
ところが、バブル崩壊に伴い、事態は異なっていた。不良債権を抱える銀行は、お金の貸し出しをためらうようになった。手狭な住宅を購入した世帯も、一戸建て購入計画を立てながら、自身の立場の危うさ、銀行の貸し出し審査の厳格化により、見直しをせざるを得なくなった。従って、1993年以降は、住民の入れ替えがなく、新陳代謝がとまっている団地が多くなる傾向にある。バブル崩壊当時、一戸建ての購入を考えながら、手狭な団地で暮らしていた一家の主が、45歳と仮定すると、既に75歳の後期高齢者の仲間入りをしていることになる。

写真=国土交通省による年数の経過に伴う高齢化率の推計 掲載元 SPA 2023年8月23日付 https://nikkan-spa.jp/1933736
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住民の高齢化により、管理費の工面さえままならず、修繕できない団地も多いという。坂井泉水の幼少期、建設ラッシュに沸いた日本の団地、今後負の遺産になるのではないか、と危機感が募っている。坂井泉水自身は、家庭を持つことはなかった。小学校4年の新学期に当たる1976年に、平塚市から秦野市へ移り、郊外の一戸建て住宅に両親と共に過ごしていた。バブルが崩壊し、金利が下がる1996年に、より都市部へのアクセスに恵まれた東京都町田市南部に位置する東急田園都市線内のつくし野駅のほど近くに、一戸建てを構えたのである。育ててくれた恩から両親を呼び寄せた。わずか40年3ヵ月半の生涯で、両親と離れることはなく、最期を看取ってくれたという。続く章では、バブル崩壊後に日本の通貨円のレートに影響を及ぼしたメキシコ通貨危機とアジア通貨危機を振り返り、坂井泉水のCD売上についても迫る。
 
 
 第2章 1995年のメキシコ通貨危機

 
振り返ると、日本は戦後の焼け野原から急激に立ち直った。起爆剤になったのは、1950年から52年まで3年にわたった朝鮮戦争である。特需効果により、鉄鋼業と繊維業が栄えた。特需の終了により、繊維業は衰退するものの、鉄鋼業はそのまま残り、伝統的な物作り技術を生かして、自動車産業を興した。1955年か ら60年 にかけて, 日 本の自動車生産は 7万台弱から48万台へ増大 し, 65年には188万台 を記録する。当時は1ドル360円の固定相場制に支えられ、円安を追い風に、輸出大きく伸びたのである。

 1971年8月15日の米ドル紙幣と金との兌換を停止したニクソンショックにより、固定相場制が終了する。金を保有することにより自国通貨の価値を保っていたドルは、切り下げられた。円高に触れたとはいえ、日本の輸出産業は好調を維持する。

 変動相場に移行することにより、各国の中央銀行は、通貨の量を調整しやすくなる。固定相場制を支えていたのは、アメリカが保有する金だった。従って、各国の中央銀行は、金の保有量を上回る通貨の発行も可能だ。ケインズ理論に習い、不景気になると、財政出動をして、公共事業をおこし、失業者を救出する。政府は税収で事業費を賄えなければ、国債を発行する。

国債の発行額を含め、経済の自由度が増した。為替のレートの変動幅が激しくなるにつれて、国を跨いでの資本を移動することにより、グローバス化が進む。

 過度な設備投資は、やがて重荷になる。1980年代後半から1990年代前半にかけて、メキシコ通貨危機、1997年からアジア通貨危機が起こった。

 メキシコ通貨危機は、1994年末から1995年初頭に発生した。背景は日本がバブル経済に沸いた1980年代後半の政策にある。88年から94年まで続いたサリナス政権下で、経済の安定化のために、市場を自有化した。従って新規参入がしやすくなり、外国からの資金が流入する。当時メキシコは、安定した経済のため、1989年1月まで固定相場制度を採用していた。91年11月以降は変動幅をドル買い レートを1ドル3.0512ペソで固定し、売りレートは毎日一定の割合で切り 下げるクローリング・バンド制が採られた。現実のレートは市場が決定し、変 動幅を逸脱するおそれがある場合中央銀行が市場介入する。アメリカドルとの連動性により、通貨の信用度が増して、インフレは収束に向かった。93年には、二桁から一桁台まで下がった。為替レートの変動幅 の切り下げ率が内外インフレ格差を下回る率に設定したことにより、混乱をきたす。ペソの実質増価が もたらされ、同時に貿易自由化が進められたことから、貿易収支と経常収支は悪 化の一途を辿った。

 写真=世界の為替制度 掲載元 ZAi FX 2015年4月6日付 https://zai.diamond.jp/articles/-/174447
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 1994年にはチアバス州にて、武装蜂起、95年の大統領選に出馬宣言した候補の暗殺未遂事件など、治安も悪くなる一方だった。国の信頼を失うと、海外からの投機マネーが逃げていく。1994年11月に米国の中央銀行に相当するFRB(米連邦準備局)が、0,75パーセントの利上げを認めて、海外からの投機マネーを呼ぶ。対照的にメキシコは、資本の流出を止められなくなり、外貨準備金が不足する事態に陥った。同1994年12月20日に、メキシコ中央銀行は15%の切り下げを発表し、2日後の22日には完全変動相場制に移行する。約1カ月後には、65%も急落した。

通貨の下落により、外貨準備金が減り続ける。1993年12月末の263億ドルから、1994年12月末には64億ドル、1995年1月末には35億ドルにまで急低下する。メキシコ国債(テソボノス等)の償還問題(債務不履行)が国際金融市場で危惧された。

写真=メキシコの相場 掲載元 みずほ銀行 https://www.mizuho-rt.co.jp/publication/report/research/express/2022/express-us220629.html
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最終的には、米国、国際機関、日米欧の民間銀行から総計で500億ドルを超える緊急支援がなされ、一連の危機は収束した。メキシコは、国際的な金融支援との引き換えに、極めて厳しい財政・金融政策を強いられることになった。

具体的には、1995年の実質経済成長率はマイナス6.2%、またペソ暴落によるインフレ率は、1994年の7.1%から1995年に52%にまで上昇した。さらにメキシコの危機を契機として、アルゼンチンなどの中南米諸国への資本流入も急減し、その影響は「テキーラ効果」と呼ばれた。

 参考メキシコ通貨危機 iFanance https://www.ifinance.ne.jp/glossary/world/wor020.html#mexican1

 参考 <研究ノート> 2つの通貨危機:メキシコ 94-95 vs.ブラジル 99 国際金融情報センター 桑原 小百合 下がりすぎるドル  http://www.js3la.jp/journal/pdf/ronshu33/33kuwahara.pdf

 なおインフレの収束に努めたカルロス・サリナス・デ・ゴルタリ(1948年4月3日生まれ)大統領は、1994年にい退任後、アメリカ、カナダ、キューバ、アイルランドへと亡命先を変えながら、候補者暗殺疑惑による調査を避け、海外送金による不正蓄財などの汚職問題からのがれる。2024年にはメキシコへ帰国して、政界とはかけ離れた暮らしを送っているという。


メキシコ通貨危機によって、連動していたドルも信用も無くした。日本の通貨「円」が安全資産とされ、買われる傾向になった。プラザ合意前までドル円相場は220円、1987年2月22日のルーブル合意は、機能せず、ブラックマンデーを発端に、ドル安が進んだ。同87年末のドル円相場は120円まで低下したのである。90年4月には、160円まで円安が進行したものの、翌91年には130円台で推移していた。

 バブル崩壊後、不良債権問題の発生による経済混乱期の日本は、自国通貨「円」が、安全資産とみなされ、投機対象になった。1995年4月には、ドル円相場は80円台を割り込み、79円をつけた。輸出企業には大きな打撃を蒙り、経済再生に水を差した。日銀は、1991年6月に、加熱する景気を抑え込むべく、公定歩合を2,5%から6%へと引き上げていた。バブル崩壊後、投機熱が冷めるにつれて、銀行は公定歩合を引き下げる。1995年9月には、金利が0,5%を記録した。

 戦後の復興期、低金利政策により、企業は銀行からお金を借りて、投資を行い、雇用を拡大した。国側も、民間企業の収益増により、税収があがると、国民に福祉を含め、手厚い公共サービスを提供する。日銀の利下げは、企業活動をうながすものの、余力が残っていなかった。日銀特融の対象になった金融機関は、再建の目処がたたず、1997年に北海道拓殖銀行、山一證券などが自主廃業した。同年、タイの通貨下落を機に、アジア各国が影響を受けた。金融機関が相次いで廃業する日本の円も売られる傾向になった。一転して円相場は、95年の79円から98年8月には、147円66銭まで下がったのである。

        第3章 ダイ・バーツの急落

 東南アジアのタイ王国から始まった「アジア通貨危機」、始まりは1997年7月2日である。タイ王国の政府が、ドルと自国通貨バーツとの連動する固定相場制を終了し、変動相場に移行すると宣言した。きっかけは、同年5月中旬から始まったヘッジ・ファンドの空売りにある。

 日本のバブル期となる1980年代のタイ王国の経済を振り返ると、積極的に国外の企業を誘致していた。日本もタイへ進出し、現地人を安い労働力として投入することにより、経費を削減したうえで、本国である日本へ商品を送っていた。

 以下 日本総研より RIM 環太平洋ビジネス情報 1997年10月No.39
https://www.jri.co.jp/page.jsp?id=15914


タイは、アジアNIEsと呼ばれる韓国、台湾、香港、シンガポールに続く新興工業経済群の一つとして、87年以来、平均9.5%もの経済成長を遂げた。日本からは、円のレートが高かった95年と96年には、5年ぶりの水準となる融資額12億米ドルを超えた。メキシコ通貨危機を発端にドルが弱くなると、連動してタイ・バーツの価値も下がる。自国に資源のある新興国は、投機マネーが入りやすく、経済の活性化に繋がる。

タイは、NIEs豊ばれる国々の中でも、最も早く輸出志向型の工業生産を打ち出していた。シンガポールやマレーシアより1年早い86年に、輸出の伸び率を2桁台に乗せた。87〜95年の9年間のアセアン4カ国の輸出額年平均増加率(通関ベース)は、タイはトップとなる23.1%に対している。マレーシアが20.7%、フィリピンが15.7%と続く。

ASEAN諸国でも先行して、輸出経済で力を伸ばしたタイ王国は、持続可能な成長へのプランを具体的に示めすべきとの声が内外から強かった。80年代後半以来の経済成長の果実を、企業体力の強化、技術開発力の向上による産業の高度化、そして裾野産業の整備や産業基盤の構築などに振り向けるべきだったのである。ドルとの固定相場により、通貨も安定性が高かった。長期的なビジョンの成功には政治の力にも左右される。実際は議会もまとまらず、経済政策への取り組みが弱い。施策が後追いで、低失業率を背景とする公務員給与、最低賃金の引き上げなどによりインフレ圧力をも強めた。増大する経常収支赤字と市場資金による赤字補填、そして金融・経済システムの整備の遅れが為替相場の水準訂正への動機となった。

 写真=アジア各国の経済成長率を示したグラフ 掲載元 経済学とブロックチェーン 2020年4月12日付 https://vicryptopix.com/asia-crysis/
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タイ・バーツの本格的売りのきっかけは5月14日の市場から始まった。その日、米欧機関投資家のバーツ売りにより1米ドル26.30バーツまで下げた。自国のタイと共に、シンガポールの政府が、タイ・バーツ安を是正するべく市場介入を行い、下落に歯止めをかけた。マレーシア、豪州、香港政府も協調してバーツ買いを行った。併せてタイ中銀による罰則的なバーツ金利適用指導により、1ドル25バーツ台に戻し、事態は沈静化した。

自国の通貨安により、各国の企業を誘致して、輸出することにより、産業を興した政策は、90年代半ば以降のドル高の影響を受けたのである。タイ・バーツも高くなり、輸出量が伸び悩んだのである。強いドル政策は、新興国の景気を底から冷やした。欧米の投資家の空売り対策として、先進国の政府が買戻し、相場を支える。そのサイクルは続けられるわけではなかった。投資家が空売りすることを見越して、タイ政府は決断を下した。

7月2日に、管理変動相場制への転換、公定歩合の引き上げを実施すると表明した。また投資家に安心感を与えるべく、積極的に為替市場への介入を行うとあきらかにする。日本をはじめとする近隣地域諸国の政府、金融機関に資金枠設定の支援を要請した。8月21日にはIMFの公的支援が決定した。

9月末のアセアン諸国通貨の為替相場は軒並み下落していた。6月末比でバーツは29.1%、ルピアは25.7%、ペソが23.1%、リンギットが22.1%の切り下げである。下落の波はシンガポールから豪州にまで及ぶ。併せて株価もフィリピンの26.8%を筆頭に、インドネシア、マレーシアで24%程度下落した。メキシコ通貨危機以来、投資家に視線を注がれた香港ドルは、不動のままだった。当時香港はイギリス領、中国経済とは切り離されていた。東南アジアから、ついには、香港にまで押し寄せた。通貨防衛を目的に、1997年10月23日に市中に流通する香港ドルの量を極端にしぼり、短期金利を高めに誘導したこともあり(翌日物インターバンク金利は、一時300%を超える水準に急上昇)、株価が急落した。

写真=1997年時 香港の為替ルート 掲載元 ドクターズゲート 2022年2月5日付
https://www.drsgate.com/company/c00071/61.php?
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香港ドルが売られるきっかけとなったのは、台湾の金融政策にある。10月17日に、台湾の金融当局は、自国の通貨「元」相場の決定を市場実勢に委ねる方針を発表した。政府の介入により、価格が安定するとみていた投資家は期待感が下がり、売り注文の方が優勢ににたった。台湾元相場は97年7月以来の1米ドル=28.6台湾元前後の水準から、1米ドル=31台湾元まで下落(7%余り)した。

マレーシア、インドネシア、フィリピンは事実上、変動相場制に移行し、タイ、フィリピンでは預金準備率の調整、タイ、マレーシアでは経常赤字削減策など、各国はIMFや支援国政府と緊密な連絡を保ちつつ、対応措置を打ち出す。

IMFは40億ドル、世界銀行は15億ドル、アジア開発銀行は12億ドルの緊急支援をタイに行った。二国間支援として日本は40億ドル表明しアジア諸国へも二国間支援への働きかけを行い、二国間支援総額として105億ドルが支援された。

 タイ政府には、緊縮財政に伴い、公務員の給料カット、インフラ整備にも費やせず、人々の不満は高まり、タイと共にインドネシアで政権交代が起こった。IMFによる改革案の妥当性は当初、周辺諸国から反対が根強かった。緊縮財政の強要は、いわゆる懲罰を意味するからである。政府と中央銀行は、建て直しを図り、公定歩合を引き上げて、インフレを抑制する。通貨安の恩恵で、純輸出の拡大等に伴い、1999年にプラス成長まで回復したのである。若くて資源のある国は、一端躓いても立ち直りが早い。若い働き手が多く、巨大な経済的潜在力を秘めていた。


第4章 日本経済 CDは売れていく

 1993年以降は、確かに日本の経済は落ち込んだままだった。不動産市場は、外国からの投機マネーで、大都市圏のタワマンを中心に、バブル期より高値で売り出されている。2017年7月6日に発表された路線価格において、再開発が進む銀座5丁目で特筆すべき結果が発表された。2016年開業した銀座プレイス前、三越銀座店前、和光本館前と文具店・鳩居堂銀座本店前の4地点で1�屬△燭蠅良床然曚�4,032万円に達したのである。前年比26%上昇、バブルの影響を受けて過去最高額だった1992年の3,650万円を大きく上回った。鳩居堂前は32年連続の日本一になる。

 2013年に第31代日本銀行総裁に就任した黒田東彦(はるひこ)氏による金融緩和政策により、円安へと誘導し、外国から投機マネーが入り、局所バブルが起こっているのである。円安はさらに加速し、外国人からは日本の物が買い叩かれる結果を招いている。

 一方、駅前のタワーマンションには買い手が集る一方、郊外の駅から離れた団地は、忘れられたような存在だった。格差の象徴を写しだす光景でもある。

 CDの売上といえば、世の中の景気動向には左右されない。現に新聞で「不況」や「バブル崩壊」の見出しが躍った1993年は、CD売上が大盛況の年だったのである。1998年を頂点に右肩上がりで伸びている。

 ZARDの坂井泉水は、CDの受容が延びているうちに、デビュー8年目となる1999年に2枚のベストアルバムリリースを決断した。1999年5月28日に、初のベスト版「ZARD BEST The Single Collection〜軌跡〜」は、売上枚数303万枚を記録している。同アルバムには付加価値をつけていた。次のベスト版の収録曲を決めるリクエスト投票用紙となる葉書が封入されていたのである。1つの購入につき、投票用紙は1枚きりだった。もう一つプレミアム特典がついていた。たった1度だけ開催する船上でのプレミアムライブの招待券の申し込み用紙だった。敢行されたのは1999年8月31日である。600名の招待券に、100万の応募があったという。会場は東京湾をクルーズする客船「パシフィック・ビーナス号」。全長180メートル、12階建になる。プール、ジャグジー、展望浴室、カラオケルームを併設した豪華客船である。東京湾を5時間近くクルージングした中、8階のメインホールでライブは開催された。公演の方は1時間40分に渡り、14曲を披露した。たった一度の船上ライブは、映像作品化されていない。間もなく、ファンの間で幻と呼ばれるクルージングライブから25年、豪華客船で東京湾を航行しながらのライブ鑑賞は、優雅なひと時だった。

 船上ライブについて exciteニュース 2016年3月30日付
https://www.excite.co.jp/news/article/E1458628796162/

 クルージングライブは、音源としてはリリースされた。西暦2000年1月26日に、タイトル名「ZARD Cruising & Live(限定盤ライヴCD)」と打ち出して、枚数限定アルバムとしてリリースする。売上枚数は30,1万枚だった。

 CD売上参考ページ http://www7a.biglobe.ne.jp/~yamag/album2512/al_zard.html

 写真=日刊スポーツ1999年9月1日付け新聞 クルージングライブの報道 掲載元 HiMi Web logバージョン 2014年8月28日付 https://himi.jugem.cc/?eid=141
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さて1999年にベスト版第一弾「ZARD BEST The Single Collection〜軌跡〜」の購入者のリクエストを下に、同年9月15日にベスト版第2弾「ZARD BEST
Request Memorial」を発売した。売上枚数146,5万枚を記録している。同年2月17日にリリースされた8thアルバム「永遠」の売上枚数112万枚、3つのアルバムのトータル売上は、560万枚になる。ベスト版2枚をリリースし、クルージングライブを開催した1999年、ミレミアムイヤーを前に、変化が起きていた。

通貨について、1971年までの固定相場制の時代において、各国共大きな混乱がなかった。変動相場に移行することにより、国を跨いでの資本の移動が起こる。各国の政策も、金利の調整のため、通貨をコントロールしやすい。新興国を中心に、投機マネーが逃げると、近隣諸国の政府が買い支えるようになる。日本でも円安が進む今、改めて通貨の防御術について問われている。

坂井泉水のCDが大ヒットを飛ばした時代、円相場は乱降下した。景気の波に左右されず、彼女自身はマイペースに音楽活動を続けた。透明感のある歌声と、清楚感のある姿から、不況時の救世主にも例えられた彼女は、今なお人々の心に深く刻まれている。

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