第1章 トルコ共和国の歩み建国から1960年代
本日取り上げるのは、トルコ共和国である。昨2023年10月29日に建国100年を迎えた。第一次世界大戦の敗戦から立ち直り、イスラムの国では、先進的な国を目指して、進んだ。今回は、初代大統領のケマル・パシャと共に、2代目のイスメト・イノニュ大統領の政策について検証する。
2023年10月29日 トルコ共和国建国100年の日の日記
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前回企画(9)第一次世界大戦で進化したドイツの化学兵器、
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第一次世界大戦に敗戦したオスマン帝国の後継となる国家として歩んだトルコ共和国は、初代大統領ケマルの下で、改革を推し進めた。本名はケマル・ムスタファ、陸軍として歩み、1915年に英国の上陸を阻止するガリポリの戦いにて、功績を挙げた。新たに軍功を上げたことにより、パシャの称号を得られた。後にトルコ共和国建国する際、そのカリスマ性から、議会によって、新たに名称を与えられた。建国の父と証する「アタチュルク」の呼び名が使われたのである。本文でもケマル・アタチュルクと表記する。
写真=ケマル・アタチュルク 1930年頃 ウィキペディアより
彼が属する共和人民党は、共和主義・民族主義・人民主義・国有国営主義(エタティズム)・世俗主義・改革主義の6原則を打ち出した。近代化に向けて、クルアーンに書かれた内容に基づいた風習の刷新を図った。一連のトルコ革命により、西欧化を目指した政策は、次のとおりである。
・カリフ制度廃止
・文字革命 ルコ語を国語として制定し、文字はアラビア語を廃止してローマ字をもとに新たに制定
・婦人解放 多妾制を禁止し一夫一婦制とする、女性のチャドル(顔を隠すヴェール)を廃止など。
・イスラーム暦を廃して太陽暦を採用する。
・その他、トルコ帽(フェズ)の廃止。
より自由な国を目指したケマル・アタチュルクの政策は、多くの国民から歓迎された。1921年に23か条から成る憲法を策定しながら、建国に合わせて、改正し、「国民主権」を明記していた。建国時の1923年、大統領に次ぐポジションに「首相」を置き、イスメト・イノニュを指名した。イスメト・イノニュが、首相の権限として組閣を行う。翌24年に一旦首相のポジションは交代したものの、25年に再びイノニュが復帰している。
脱イスラム化は、改革派と保守派との分断により、内戦に発展する恐れがあった。与党の共和人民党の世俗化に反論する野党進歩共和党が、クーデターの計画を練っているとの情報が入った。東アナトリアでは、イスラム教の指導者シェイフ・サイードの反乱が起きて、国内情勢は混乱した。強いリーダーとして振舞う大統領のケマルは、1926年に、自身の暗殺未遂事件により、防衛意識が俄然高まった。反対者をいっせいに逮捕・投獄し、一党独裁体制を敷いた。彼は国会にて、かつてのフランスのルイ14世が残した「朕は国家なり」の言葉に習い、「私がトルコだ」と宣した。
1930年に自由共和党の結党を認めたものの、党首の1924年時の第2代目の首相アリ・フェトヒ・オクヤルは、内部の過激派を排除するべく、解散した。
西欧化に反するイスラム過激派は、共和人民党による世俗化政策に意を唱える武装集団である。結成の発端は、イスラム教の国でいち早く西欧化を目指したトルコ共和国の建国まで遡る。政権も、大きく揺らいでいた。軍の第二中尉のムスタファ・フェフミクブラヒが保守派の蜂起で暗殺されている。
保守派に歩み寄る意思はなく、改革を断行していく。イスラム教を国教と定める条文を憲法から削除した。母国のトルコ語の表記を際立たせるため、アラビア文字を廃止した。トルコ語とアラビア語は全く性質の異なる言語だった。表記はアラビア語の変わりに、ラテン文字に改めた。もう一つ、トルコ語におけるアラビア語などに由来する単語の使用を見直した。古語から由来したものに置き換え、政治、社会、文化の改革を押し進めた。
1923年7月30日に、一次世界大戦で勝利した連合国との間で結んだローザンヌ条約締結後、ギリシャとトルコの住民交換を行なった。
写真 掲載元 トルコ革命 2021年3月20日付 慶喜 引用元{トルコ革命3(近代の中東・インド)「世界史の教科書より画像引用」
https://blog.goo.ne.jp/taitouku19/e/8e8850378df8beeb7b9e24004c211eaa
目的は、国内のトルコ人比率を高めることにある。他国由来の文字を排除する。アルメニア語、クルド語、ギリシャ語、ブルガリア語由来の文字を、新たにトルコ語に置き換えたのである。1936年に三日月型のトルコの国旗とトルコ国歌を制定した。同年には、モントルー(スイスの都市名)条約により、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡の主権を回復する。1938年に、ビサンツ帝国の聖堂から、帝政時代にイスラム教の信者が集うモスクに変わったアヤソフィアを博物館に制定したのである。
ヨーロッパとアジアの狭間に位置するトルコを、ヨーロッパの風習へ近づけ、イスラム教の国家では、より近代的な政策により、国民に自由を与えた。1926年に、スイスを模範にした民法を制定して、女性の参政権を、いち早く取り入れた。イスラム教では根付いている一夫多妻制を禁止する。1929年に女性の裁判官が始めて就任した。1930年代には、女性が立候補できる自治法を改正する。1934年には大国民議会への立候補も可能になった。
100年後の今も残るトルコ共和国内で少数派のクルド人については、厳しい態度で臨む。1920年にオスマン帝国と連合国が結んだセーブル条約では、クルド人の自治区制定が盛り込まれた。オスマン帝国が倒れ、後継のトルコ共和国の臨時政府との間で1923年7月30日に結んだローザンヌ条約では、クルド人自治区の制定を取り消した経緯がある。民族としての自立心に芽生えるクルド人は、大国民議会の政府に歯向かった。1925年のシェイフサイードの乱、1937年のデルジムの乱では、鎮圧に1年を要した。
もう一つ解決すべき問題は、ギリシャだった。一次大戦終了後に、ギリシャとは、領土を巡って、戦争が起きていた。ギリシャの首相を9期12年に渡って務めたエレフテリオス・ヴェニゼロス(1864年8月23日生まれ−1936年3月18日没)の穏健的な路線により、領土問題は解決した。1919年から22年の3年に渡った希土戦争により、トルコは一次大戦で失ったアナトリア地方の主権を回復した。ギリシャとの間では、1930年4月30日に国境策定に関する協定を締結した。10月に、ヴェニゼロスはトルコを訪問し、友好条約に署名し、1934年のノーベル平和賞にケマルを推薦したのである。
ケマル・アタチュルクは、独裁体制をとりながら、国民の声を広く聞き入れ、共和国として安定した。1938年11月10日に、57歳で死去した。死因は肝硬変と診断されている。改革路線を貫くべく激務に追われ、過激派への取り締まりによる神経的な疲労が重なり、飲酒で心配を紛らわせていたという。亡くなった後、世俗主義を貫いたケマル・パシャは、神格化され、英雄としても祀られている。実質一党独裁制だったものの、生前の彼は、多党制にする必要性を説いていたといわれている。カリスマ的指導者として、後世に名を残した。
第2章 第2代目イスメト・イノニュの政策
ケマルの後を継いだ2代目の大統領は、首相から昇格したイスメト・イノニュだった。1938年11月11日に就任し、1950年5月22日まで、実に11年半も勤めた。大統領退任後1961年11月20日から1965年2月20日まで、第27代から第29代首相として実務を担った。
写真=イノニュ大統領 ウィキペディアより
イノニュは、共和人民党から終身党首に指名され、先代のケマルの路線を引き継いだ。ケマル時代からの宿題は、トルコの都市ハタイによる分離運動だった。西部に地中海、東部にシリアと国境を接する町は、歴史的に複雑な経緯を辿った。
写真=ハタイ県の位置関係 井藤聖子のトルコ食文化を楽しむ〜オスマン宮廷料理から現代の家庭料理まで〜 2017年12月26日
元を辿れば、トルコ人が中心となるセルジューク朝の一つの都市だったのである。西暦1097年から98年にかけて、第一回十字軍に侵略された。アンティオキア攻囲戦により、セルジューク朝が負けて、十字軍が手に入れた。セルジューク朝の総督ヤギ・シヤーンとの戦いに勝利した南イタリアのノルマン人の封建君主ターランド公ボエモンが、支配権を手に入れた。1098年南イタリア出身のボエモンが君主を務めるアンティオキア公国が成立した。
1世紀余り独立を維持したものの、挽回を喫して立ち上がるセルジューク朝に再度脅かされる。新たにエルサレム王国の支配下に入った。その後正教国家東ローマ帝国、続いてイスラム教のエジプトで興ったマルムー朝が治めた。転機は1516年、オスマン帝国のセリム一世が、マルムーク朝からアレキサンドレッタ県として割譲される。アレキサンドレッタ県は、オスマン帝国と連合国の間で結んだセーヴル条約に基づくと、新たにフランス委任統治領として建国されたシリアに組み込まれた。アレキサンドレッタ県は、アラブ人とトルコ人が共存している状態だった。1921年10月20日のアンカラ条約によると、国境線を敷き直し、トルコが領有する都市が多くなる。アダナ、オスマニエ、マラシュ、アインタブ、キリス、ウルファ、マルディン、ヌーサイビン、ジャジラット・イブン・ウマルの各都市はトルコ側が主権を獲得した。アレキサンドレッタ県を含めたハタイは、自治区に制定されたのである。一見ハタイは、特別な地位を与えられた形にみえる。実際キリスト教マロン派やクルド人、ギリシャ人、アルメニア人は、自治として行政権の獲得に反対した。1923年ハタイは、アレッポ州として認められ、どの国にも属さず、浮いた状態になった。1925年に、フランス委任統治領シリアに入り、特別管理地域に認定された。
1936年のハタイ県の議員選挙で運命が決まる。シリア独立派の2人の選出に物議をかもした。トルコとシリアの新聞記事でまったく異なる見立てをしたことにより、民族間のあつれきが深まった。トルコ側は、ハタイ県で暴動が起こった際、自国民が虐殺の被害にあったと、国際連盟に提訴した。自国民の安全性の確保の観点から、アレキサンドレッタ県は、トルコに編入することを理解を求めた。連盟の和解仲介で1937年11月に自治権の獲得にいたった。
ハタイを巡って、第3国の介入により、複雑な事態に陥る。行政上フランス領シリアから自治を得ているものの、安全保障政策において、トルコとフランスが担う。1938年にフランスの監視下で下院議会選挙が行われた。夏場に投開票され、全40議席のうち、22議席がトルコ人、13議席がアラブ人(アラウィー派9議席、スンナ派2議席、キリスト教徒2議席)アルメニア人5議席得た。過半数をトルコ人が得ているとはいえ、決定的な勝利ではない以上、政情はより不安定化する。1938年7月にフランス-トルコ条約が4度目の調印をむかえた。選挙は疑惑が付きまとう。トルコ側は、自国民をハタイ県に送り込み、有利な状況に進めたのである。有権者を在住暦が長い住民に限定すると、結果は異なっていたとの見方がある。1398年9月2日に、下院議会により、ハタイ共和国が独立を宣言した。トルコとフランスが、引き続き防衛を担う。現地トルコ人と、アルメニア人とアラブ人の間に、仲裁国フランスが入ることにより、バランスを保つ。小さな国は、主権を認められても、属国のような生き方を迫られる。1939年、ハタイ共和国は、初代大統領ショクメン氏が、フランスの許可を受けて、トルコ共和国への編入を決めた。フランスは、当時ナチス・ドイツとの戦いに追われ、中東情勢に手が回らなくなっていたのである。
トルコの2代目大統領、イスメト・イノニュは、第2の勢力、アラブ人と争いを起こさず、フランス側との交渉の末に、ハタイを自国領に編入し、行政としては「県」の単位として統治する。先代のケマルに比べて、カリスマ性には劣るものの、冷静沈着に国際問題を解決した。第二次世界大戦が勃発すると、連合国、枢軸国、双方から参戦をうながされた。確かにオスマン時代の領土を取り戻せば、より交易路が広がり、国益にも適う。現実的には、防衛力の弱さから、難しいと判断した。1939年に大戦が勃発すると、中立を表明しながら、形成をうかがった。1940年にフランスが降伏すると、ドイツ寄りの姿勢を示し、義勇兵として渡航を許可した。ナチス・ドイツ側に立って参戦するトルコ人の義勇兵の姿から、交戦国のイギリスは態度を改めるようにトルコ政府に求めた。ギリシャに進駐していたイギリスのアンソニー・イーデン外務大臣は、隣接するトルコの首都アンカラを訪れ、イノニュ大統領と面会した。イノニュ大統領は、ドイツ側への義勇兵の渡航を認めたものの、国として関与する意思がないことを伝える。現に中東方面へ進駐を図るドイツに対して、補給の要請を拒否した。帝政時代の末期、相次ぐ戦争により、領土を削られ、弱体化した。失地回復にこだわらず、国力の維持に努める。1943年3月、イギリスのチャーチルが、アンカラを訪れ、連合国としての参戦を呼びかける。現にトルコの空軍の力を利用して、バルカン半島で跋扈する親独政権との戦いに有利に進める狙いがあった。一方でアメリカのルーズベルトは、過度にトルコを信頼すると、裏切られる危険性から、交流を控えたのである。
イノニュは気転を利かせ、終戦が見えてくると、国際連盟で一定の地位を得るべく、突如参戦を表明した。1945年2月23日に、日独に戦線布告したのである。米英は、大歓迎だった。2国は、戦後を見据え、同じ戦勝国の社会主義陣営ソ連を警戒し、トルコをギリシャと並び、資本主義陣営の最前線に立たせる見込みだったのである。実際防戦一方だった日独と交戦していない。同年8月15日に、日本がポツダム宣言を受け入れ、降伏すると、戦争は終結した。
トルコは、晴れて戦勝国の一員になったのである。もちろん、参戦については、連合国への支持の表明にとどまる。直接戦っていない以上、帝政時代の領土割譲を含め、め、領土拡張にはいたっていない。1947年6月5日、米ハーバード大学で当時のアメリカの国務長官を務めたジョージ・マーシャルが掲げた復興計画プランに、トルコも乗る形になった。
大統領のイノニュは、マーシャル・プランを受け入れ、資本主義陣営を選ぶことにより、一党独裁体制の見直しを迫られた。国民に広く情報公開し、選挙の透明性の確保、また人権尊重を謡った。共和人民党の一部が離反し、民主党を結党した。翌1950年に、議会選挙戦にて、民主党が勝利すると、イノニュは大統領の座から降りた。新たに1946年の民主党結党時のメンバー、ジェラル・バヤルが、3代目の大統領に選出される。同年に結成1年後のNATOのメンバーに名を連ねる。建国以来、政権の顔ぶれが変わり、経済の自有化に伴い、農業振興策や外資の導入を進めた。自国の産業育成にノウハウがなく、経済は低迷したままだった。1960年にクーデターが起こり、民主党は退陣する。
写真=1960年クーデター時の写真 掲載元 HISTORY MAPS
https://history-maps.com/ja/story/History-of-the-Republic-of-Turkiye/event/1960-Turkish-coup-d%27etat#main
新たに人望が厚かったジェマル・ギュルセル氏が、第4代大統領に選ばれ、前バヤル大統領時代投獄された知識人や当時の学生らを解放する。1961年の選挙戦にて、共和人民党が第一党に返り咲き、2代目大統領のイノニュは、1965年まで4年間、首相を務めた。トルコは、二次大戦後、EU加盟は遠く、西側の一員になりきれていない。建国時の一党独裁制の名残から、野党の声が弱く、選挙の透明性についても疑問符がつく。財政健全化も遠く、インフレを抑えきれていない。振り返ると、共和人民党による一党独裁制時代は、西欧化を進め、自由で開かれているとのイメージを国民に植え付けた。二次大戦後、多党制時代になると、国の行方が定まらなくなり、迷走が続いたのである。2014年8月28日に就任した第12代エルドアン大統領は、民主主義を維持しながらも、イスラム回帰を進める。強いリーダーとして、国民の声を抑制しながら、全方位外交を展開し、交戦国のウクライナとロシアの橋渡しになる存在となった。2023年の大統領選挙戦にて、エルドアンは、オール野党候補、共和人民党の党首クルチダルオール氏と争った末、5月28日の2度目の決選投票の末に勝利した。今新たに帝国時代の栄光を取り戻そうと、政権運営を続けている。
<準々決勝 第4試合 オランダ 対 トルコ戦レポート>
日本時間7月6日28時、準々決勝 第4試合 オランダ 対 トルコ戦が、ベルリンのオリンピアシュタディオンで行われる。過去両者の対戦は、引き分け4つを挟み、オランダの6勝に対して、トルコは4勝だった。
写真掲載元無記載 google.com EURO2024 オランダ対トルコ 試合経過より
右エンドにオランダ、左エンドにトルコが付き、オランダボールで開始された。オランダは、ポジショニングが良いトップのメンフィスにボールが収まり、左からガクポがゴールを狙う。トルコは、リスクマネージメントな戦いをし、セカンドボールを繋いでいく。34分、トルコは左サイドのコーナーキックをユルディズが蹴ると、ゴール前にボールが入る。オランダのファンダイクが前傾姿勢を保ったままヘッドでクリアする。外へ押し出されたボールを、エリアのライン上でアルダ・ギュレルが左足のアウトサイトで止めて、右足でゴール前にあげた。ゴールから反対にカーブするボールを、GKフェルフルッヘンはキャッチングを躊躇する。高い打点からセンターバックのサメット・アカイディンが、ヘディングシュートを打った。フェルフルッヘンは、両手をしっかり伸ばせず、ネットに突き刺さった。1対0.アシストしたギュレルは、左足でボールをとめて、右足に持ち替えて、ファーサイドにクロスを出した。
写真=ギュレルの先制のクロスシーン 掲載元 ABEMA TV 2024年7月8日12時37分付け
https://times.abema.tv/articles/photo/10133563
ゴールを上げたアカイディン以外にもバルタクジュ、エスシャシの2人がフリーになり、ヘディングに備えていた。オランダ側は、アシストしたギュレルが、一回切り返して、利き足である左足でのシュート、またクロスを送ると判断したことにより、マーキングにミスがあった。

前半は1対0でトルコリードで終えて、後半を迎える。トルコは、3バックと2人のアウトサイドを含め、時に最終ライン5枚でラインを作る。オランダは、後半からトップ下に変更されたメンフィスが、引き出し役を、代わりにトップを務める身長187cmのヴェホールストが前線でターゲットマンになる。
8分、左サイドからガクポが右足で、ヴェホールストを狙ってクロスを送った。バルタクジュがヴェルホールストのマークに付く。その前に立ちはだかったアカイディンの頭に当たって、ゴールラインを割り、コーナーキックになった。
トルコは9分、ゴールから約25mの距離からFKを得た。助走をつけてギュレルが、左足を振りぬいた。壁の外を巻いてくボールに、重心を右に移しながらGKフェルフルッヘンは右手を伸ばした。ボールはポストに当たって、ゴールラインを割った。ギュレルは、正確無比なキックで、チャンスメイクに徹する。初戦のジョージア戦では、先制ゴールを記録した。1点を追うオランダは16分に、相手の3バックの間にこぼれたボールを、メンフィスが拾い、ミドルレンジからそのまま右足でシュートする。球の勢いがなく、腰を落としたGKギュレクが両手の平で抑えた。
追加点を狙うトルコは18分、右サイドの遠距離からのFKをサメット・アカイディンが蹴ると、ゴール前にボールが入る。二アサイドでブロックを試みたアグの左踵にボールが当たって、エリア中央に弾かれる。こぼれ球が目の前にきたユルディズが、腰を捻りながら、右足でシュートを打った。ショートバウンドしたボールを、重心を右に倒したGKフェルフルッヘンがキャッチ態勢に入りながら、右手で弾いた。ルーズボールを真っ先に反応したのはトルコのカーン・アイハンだった。クリア時に態勢を崩していたアグが、体を捻りながら、左足でボールを蹴って、ゴールラインに出す。カーン・アイハンは、アグの足に引っかかったように倒れた。しっかりとプレーを見ていた主審は、コーナーキックを告げた。アグは、姿勢を崩したまま、回し蹴りをする形で、ボールをゴールラインへキックしたのである。一歩間違えば、ボールをしっかり蹴れず、相手の足を引っ掛け、PKをとられていた。いち早くルーズボールに反応し、冷静に蹴り出し、ピンチを切り抜けたのである。
オランダは19分、右サイドからのコーナーキックのキッカーをメンフィスが努め、近いサイドのボランチの1枚スパウランにパスをする。スパウランは、右足でメンフィスに戻す。メンフィスはいったんキープして、ゴール前のデ・フライを狙ってクロスを送った。ペナルティーキックポジションの若干前からデ・フライは、ヘディングでボールを叩きつけるようにシュートを打った。力強くバウンドしたボールに、左に重心を倒したGKギュレクは抑えられず、ネットを揺らした。1対1.ショートコーナーを使って、マークをずらした結果、デ・フライが完全にフリーになった。デ・フライのヘディングしたボールは、勢いを保ったまま、弾んだことにより、キーパーはキャッチングが難しくなる。体のどこかにボールを当てて、前にこぼせば、相手に蹴り込まれる危険性があった。GKギュレクは両手を伸ばしたまま抑え込もうとした結果、反応がやや遅れ、ゴールを許した。
掲載元 ゴール裏 NBC NEWSより
https://www.nbcnews.com/sports/soccer/euro-2024-netherlands-beats-turkey-advances-semifinal-england-rcna160573
勢いに乗るオランダは30分、シモンズが、エリアの外まで下がったワントップのヴェホールストにパスを出す。ヴェホールストは、右足で落とした。右サイドからド・フリーズが、ゴール前にグラウダーのクロスを入れた。反応したのはガクポだった。メルト・ミュルドゥルが後ろから足を伸ばしてカッティングを試みる。倒れたガクポの膝か、メルト・ミュルドゥルの足に当たって、ゴールネットに入った。2対1.最後にメルト・ミュルドゥルの足に当たったことで、オウンゴール判定である。
写真=一連のオランダのゴールシーン 掲載元 ABEMA TIMES 7月9日15時11分
https://times.abema.tv/articles/photo/10133459
後半頭から入ったヴェホールストがポストになることにより、ゴール前のマークがずれて、左から中へ入るガクポの前にスペースが生まれた。トルコのタイトなマークは、変化のある攻撃に対応難となり、2失点に繋がった。ゲームは2対1でオランダが、トルコを下して、2004年ポルトガル大会以来、20年ぶりのベスト4進出を果たした。トルコは、前半からラインを深く敷いて守った。攻めあぐねたオランダは前半コーナーキックの数が0本だったのである。
後半、突破力のあるユルディズ、正確無比なキックを持ち味とするギュレルを含め、それぞれの選手の個性あるプレーから、ゴールに迫った。オランダは、アグとファンダイクが、イエローカード覚悟のプレーで、ファウルで好機を阻止していた。両者球際の攻防で激しく争い、消耗戦と化した。結果的に個々の能力が上回るオランダが、トルコを逆転勝利したゲームだった。
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