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2024年07月07日14:44

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UEFA EURO2024企画(9)第一次世界大戦で進化したドイツの化学兵器、フリッツ・ハーバー博士 ベスト8 第1試合 スペイン 対 ドイツ戦レポート

UEFA EURO 2024企画(9)100年前の第一次世界大戦のドイツ帝国の戦線や科学技術開発について取り上げた。続いて準々決勝のドイツ対スペイン戦のレポートに入る。

 前回企画(8)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987935705&owner_id=32437106

2021年2月8日付 昭和の名作アニメ「ふしぎの海のナディア」から第1次世界大戦を考察するhttps://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978350512&owner_id=32437106


          第1章 第一次世界大戦、短期から長期へ

 1918年11月11日、当時帝政だったドイツは、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ブルガリア王国と同盟を組み、連合国(イギリス、フランス、ロシア帝国、アメリカ)と戦った。1914年7月28日に、オーストリア=ハンガリー帝国が、当時のセルビア王国に進軍すると、軍事同盟を結んでいたドイツが参戦に踏み切ったのである。8月2日、ドイツはフランスとの間に位置する中立国ベルギーへ、通航と共に基地提供を要求した。ベルギー側は、頑なに拒否し、軍事的加担はしないと、宣した。8月4日に、ドイツは、ベルギーの主権を侵害し、強行突破する。リエージュ、ナミュール、アントワープを含む各都市で激しいバトルを繰り広げた末に、占領し、フランス攻略への足がかりを掴んだ。ベルギーの中立的立場を尊重していたイギリスは、危機感を抱き、参戦に踏み切った。フランスとドーバー海峡を挟んで向かい合うイギリスは、北アフリカや中東の利権を巡り、ドイツと緊張状態に陥っていた。新たにイギリスとの間でも戦端を開いた。

 邁進するドイツに対して、フランスは国土防衛のため決死の覚悟で戦う。1914年9月6日から14日にかけて、フランス南部から南東部を流れるマヌル川の河畔にて相対した。イギリス艦隊の支援を受けて、ドイツから共同防衛を張った。ドイツ側は、9月11日に後退して、エーヌ川沿いで塹壕を掘り、少しずつ領土を侵食していく作戦に出たのである。当初の目論見は、マヌル川を突破して、パリを陥として、ロシアとの東部戦線に全力投入するはずだった。フランス側は、イギリスの援護を受けて、強固な守備隊を築いた。西部戦線に人員を裂く分、東部戦線では行き詰った。

 東部戦線では、1914年8月17日から9月2日にかけて、タンネンベルク(ポーランドの都市名)の戦いにて、ロシア帝国と衝突した。結果的にドイツ軍が勝利し、ロシア帝国の部隊を撤退させた。軍勢で上回るロシア領土への侵攻には、さらに多くの兵隊を送り込む必要性があった。西部戦線の序盤、マヌル川の戦いで躓いたドイツ軍は、長期戦を覚悟した。

西部では、塹壕戦を繰り広げていたものの、互いにほとんど動くことはなく、こう着状態だった。1916年2月21日に起こったヴェルダンの戦い以降、形成が変わることになる。

写真=ヴェルダンの地図 掲載元 なぜ戦争が始まるのか 2018年5月11日付
http://kamesennin2.info/?p=3129
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ドイツは、首都パリへの道を切り開くべく、賭けに出た。当時の陸軍大臣を務めたエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン(生誕:1861年11月11日―1922年4月8日:没)は、長い塹壕線により、兵士が消耗していく中、前線部隊へ進軍を命じた。パリへの道筋として、ベルダン(フランス東北部ロレーヌ地方ムーズ県)の都市に照準を定めた。破竹の勢いで邁進したドイツだったが、軍部と政府との間で、異なる動きをすることにより、やがて厳しい状況に追い込まれる。ドイツ帝国最後の皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセン(生誕:1882年5月6日―1951年7月20日:没)は、消耗戦に持ち込む軍部の意向に反して、さらに支援部隊を送り込んだのである。指揮をとるエーリッヒ・フォン・ファルケンハインは、ヴェルダンに固執していたわけではなかった。フランス軍をひきつけておくために投入した劣りとなる部隊だったのである。長く続いたこう着状態を打破できず、ヴェルダンの町が破壊されれば、フランスの政局に変化が起きる。確かに皇太子が援軍を出したことにより、ヴェルダンの地は、ドイツが優勢だった。兵の数が限りある以上、必ずほころびが見える。ドイツ軍は、東部戦線では、逆に厳しい状況に陥った。ロシア帝国との現ウクライナ・ガリツィア地方が主戦場となったブルーシーロフ攻勢(1916年6月4日から1916年9月20日)、イギリス軍との間のソンム(フランスの都市名)攻勢により、持ちこたえられなくなったのである。ドイツは、ヴェルダンに投入された部隊を、さらに2つの主戦場へ援軍として送った。パリへのルートとなるヴェルダンの攻略は諦める選択をした。ヴェルダンでは両軍合わせて70万人の死者を出した。

           第2章 アメリカの参戦へ

 1917年4月6日に、開戦当初中立を表明していたアメリカが、連合国側に立って参戦したことにより、ドイツの西部戦線は後退させられる。アメリカが加わるきっかけは、主に2つあった。一つは、連合国側に多額のお金を貸し付けたことにより、敗戦すると返済されなくなる可能性があるからである。もう一つは、ドイツが独自にイギリスとアイルランド沖合を戦闘海域内に設定したことにあった。民間の商船を無差別に狙ったことで、物資の輸送ルートが途絶えていた。ドイツ軍は、潜水艦を使ったいわゆるUボート作戦により、島国イギリスの補給路を絶ち、戦況を有利に進める狙いがあった。戦時国際法に基づけば、無差別に民間の建物や商戦を狙えば、違反になる。当時イギリスは、ドイツの目を掻い潜るべく、商船を武装化していたのである。結果的に、民間の船舶か、軍艦なのか、判別できず、無差別攻撃をする以外選択はなかった。

 一つの事件により、ドイツ側も作戦の見直しに踏み切った。1915年5月にイギリスの大型客船ルシタニア号を、戦艦と間違えて、撃墜したのである。アメリカ人128名を含め、1198名が命を落としたことにより、さらに大戦がヒートアップすることを危惧していた。

 写真=ルシタニア号沈没を知らせる1915年5月8日付ニューヨークヘラルド紙。
掲載元ガラパイヤ  https://karapaia.com/archives/52220372.html
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アメリカ側が、敵国側にたって参戦すると、ドイツは明らかに不利だった。1917年3月にアメリカの商船が無警告でドイツ軍によって沈没させられたことを受けて、世論も参戦へ後押ししていた。ひそかに明るみに出たのは、ドイツ軍によるアメリカの領土を侵害する計画である。ドイツの外相ツィンメルマンが、駐米大使宛に、メキシコへ参戦を働きかけるように命じたのである。メキシコには参戦の見返りに、1846年から48年までの3年に渡ったアメリカとの戦争において失ったテキサス州を返還するのである。アメリカ=メキシコ戦争の引き金は、アメリカのテキサスの入植政策にあった。1836年にアメリカ人によるテキサス共和国を建国して、独立宣言をした。1845年に、アメリカ合衆国が、テキサス共和国を併合すると、メキシコが領土の侵犯だと、激しく抗議した。アメリカ側は、西部のプランターや大地主階級の要請により、民主党のポーク大統領に参戦をうながした。当時メキシコは、民族間の争いにより、分裂状態だった。共和制、保守派と改革派の間で溝が深まっていた。フランスが干渉して、改革派を後押しすると、混乱をきたす。マヤ族やインディオなど先住民の蜂起が重なり、無秩序状態に陥っていたのである。スペインとの独立戦争を勝ち取ったサンタ・アナ大統領が、担ぎ出されて、国内の平定を図った。民族間の分断、政治路線の違いなど、国は方向性を見失っていた。アメリカとの戦争では、完全に防戦一方となる。1848年2月3日、グアダルーペ=イダルゴ条約に基づき、カリフォルニアとニュー=メキシコの領土約240万平方kmを、1500万ドルでアメリカに譲渡し、両国国境はリオ=グランデ川とする。キシコのサンタ=アナ大統領は、1853年にアメリカとガスデン協定を結び、国境地帯のラ=メシージャ地域を700万ペソで売却した。こうして一連の領土喪失により、メキシコの国土は建国時の約半分の約200万平方kmに減少したのである。

 写真=メキシコの領土変更を示した地図 世界史の窓 アメリカ=メキシコ戦争

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 メキシコ政府は、確かに大国化するアメリカとの領土問題を抱えていた。1917年1月16日に、ドイツ帝国の外務大臣アルトゥール・ツィンメルマンの電報を受け取り、協議に入った。当時のベヌスティアーノ・カランサ大統領は、ドイツの提案内容のテキサス、ニューメキシコ、アリゾナの3州の制圧について、実現性を検証した。一時的に占領したとはいえ、将来に禍根を残すのは明白だった。一枚岩の米国に対して、民族問題を抱えるメキシコは、他国の力なしには、戦争できる状態ではない。現に一次対戦前にも、アメリカとメキシコの間で、領土を巡り、一触即発の事態に陥っていたのである。1914年5月20日、アルゼンチン、ブラジル、チリの3カ国が、未然に戦争を阻止するべく、手を売った。カナダに協力を呼びかけ、同国のオンタリオ州ナイアガラフォールズに、アメリカとメキシコの代表団を呼び、平和会議を主催したのである。結果的に、領土の現状変更はなく、穏便に解決した。ベヌスティアーノ・カランサ大統領は、他の中南米諸国との関係性も重視し、参戦する意思はなかった。4月14日に、ツィンメルマンに断りの電報を入れていた。
  
         第3章 通信傍受について

 実のところツィンメルマンの電報は、敵国イギリスに傍受されていたのである。当時イギリス外務省は、ドイツのエージェントであるヴィルヘルム・ヴァースムスから鹵獲した資料から、暗号(0075)解読が容易だった。一次大戦は、潜水艦や戦車、装甲車、戦闘機を含め、科学技術開発を促進させた。ドイツの外交官ツィンメルマンの電報解読を含め、情報戦の意味合いを呈していた。現代のロシア軍とウクライナ軍の戦いも、開発された武器の性能を試す実践舞台となる。また暗号解読やスパイ作戦を含め、情報戦の意味合いも成す。科学技術を実践で試すべく、第一次世界大戦時のドイツは、もう一つ西部戦線において、国際法に抵触する行動を起こしていた。開戦当初ベルギーの西端にあたるイープルで、初めて毒ガスを使用したのである。ドイツ軍と連合軍の間で、1914年10月〜11月の第1次、1915年4月〜5月の第2次、1917年秋の第3次を含め、断続的に戦闘が行われていた。このイープルの戦いの第2次戦闘で、ドイツ軍は塩素ガスを使用したのである。1915年4月22日に、塹壕戦において、イギリスの陣地内に蔓延した。戦線からイギリス本国へ直ちに報告され、サンプルが持ち込まれた。正体は塩素ガスだと判明した。塩素を中和するハイポ(次亜塩素酸)をしみこませた綿で防毒マスクを作り、戦線に配布する。イギリス兵は、塩素ガスから身を守り、戦いに専念した。

写真=ベルギーの地図からイーペルの位置を示す 掲載元 旅行のとも Zen Tech
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 ドイツに対抗して、フランスも直ちに応戦する。フランス軍は1916年2月、ヴェルダン攻防戦で塩素よりも毒性の強いホスゲンを砲弾に詰めてドイツの塹壕へ放った。周囲が掘りに囲まれた塹壕は通気性が悪く、たちまち広がる。潜伏していたドイツの兵の中で、ガス中毒が発生した。呼吸困難による窒息死は後を絶たなかった。毒ガスに苦しむ兵士の様子は、レマルクの『西部戦線異常なし』で如実に描かれている。ドイツ軍、連合軍双方、互いに切磋琢磨試合ながら、最新兵器を投入するたびに、防御術を高めた。さらにドイツ軍は有効な毒ガスを開発して再びベルギーのイープルの舞台で使用して戦果を挙げた。糜爛びらん性の毒ガスの硫化ジクロロエチルを使った作戦を、舞台の名称からイペリットと名付けた。国連の報告書(1969年)によると、第一次世界大戦での最終的な化学兵器による死傷者は少なくとも130万人、このうち死者は10万人にのぼるとされている。

        第4章 最新化学兵器、毒ガス使用

 毒ガス開発に一役買ったのは、科学者フリッツ=ハーバー(1868〜1934)である。ドイツ国籍を取得したユダヤ人の彼は、水と空気から得られる窒素からアンモニアの合成に成功していた。

 写真=フリッツ・ハーパー 掲載元 ウィキペディア
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国外からの原料輸入に依存せず肥料の生産に成功したことにより、ドイツの強い経済を支えた。戦争の影の立役者はハーバー博士だった。軍部から、長期化を見据えた塹壕線で有効に活用する化学兵器はないか、と提案を受けた。大気中には、窒素原子が78%、次に20%の割合で酸素原子が含まれている。2つの成分より重ければ、より長く下層部に留まり、狭い空間に広がっていく。つまり、塹壕の中にこもりやすくなるのである。もう一つ大事なのは、敵に気付かれないように匂いがないこと、また運びやすいことも重要だった。ハーバーは助手たちと実験を進め、塩素ガスを兵器として投入する案にいきついた。塩素ガスは空気より2.5倍重く、密閉性の高いたこ壷の底にへばりつく。塹壕でも同じ状況である。輸送方法は、ボンベに詰めて閉じ込める。原料の食塩は、ドイツ国内で調達が容易だった。確かにドイツは、海に面する地域は北の一部地域に限られる。太古の昔海に沈んでいた時代があり、その名残からか岩塩が採掘される。コストがかからずに生産できる塩素ガスは、戦地では使いやすい。特性としては黄緑色で匂いも強く、比較的気付かれやすいのである。ハーバーははじめ砲弾に詰めて発射する方法を、軍部に出した。弾丸の火薬量を減らすことにより、破壊力が落ちる。そこで、風が連合軍側に吹いている時を狙ってガスをボンベから放出することにより、効率よく敵にダメージを与えると、考え付いた。実際その通り風を利用して、塩素ガスを放ち、敵を苦しめた。

 写真=ガスマスクをつけて戦うドイツ兵、敵の飛行機に向けて大砲を発射する。
掲載元 Buzz Feed News
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ハーバー博士は、殺傷能力のある化学兵器の開発に勤しんだ末に、身内に不幸が降りかかっていた。1915年5月1日から2日の間、同じ科学者だった妻のクララが自殺したのである。育児に追われていた彼女は、研究の第一線からたしかに退いていた。自ら命を絶った原因ははっきりしていない。夫への抗議の意味がこめられているとみられている。

 ドイツは、確かにアメリカが参戦するまで、短期決着に失敗したとはいえ、軒並み有利に進めていた。敗戦の原因は、軍部同士の対立、また1916年から1917年に「カブラの冬」と呼ばれる飢饉が起こったことにあった。英国が海上封鎖をすることにより、物資の輸送が滞っていたのである。戦争を継続しながら、国内だけで食料を賄うには、生産体制が追いつかなかった。好転できる材料といえば、1918年に革命後のレーニンが率いるソヴィエト政権が、離脱したことにより、東部戦線を決着したことにある。3月3日に、ブレスト=リトフスク条約により、ソヴィエトは戦線から離脱した。ドイツ軍は同盟を組むオーストリア軍と共に、ヨーロッパのパンかごと呼ばれる独立宣言したばかりのウクライナへ入り、食料を調達したのである。食糧援助と引き換えに、ウクライナにソヴィエトから防御の約束を取り付けた。1918年4月に、傀儡のウクライナ国を立てて、穀物を挑発し、西部戦線へ輸送する。軍部の間では反転攻勢へ士気が上がっていた。一方国内では厭戦ムードが広がり、戦闘現場でも、士気の低下は避けられなかった。1918年11月3日、ドイツのバルト海に面したキールの軍港にて、兵士がストライキを決行したことを機に、戦闘の継続は不可能になった。兵士たちはキールの町をのっとり、周辺地域へと、帝政に対する反対運動が広がった。11月10日に人民評議会により、皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンは司令官の座を解任され、父二世と共にオランダへ亡命した。ドイツの代表団は、11月11日に、連合国とパリ北東部コンピエーニュの森にて置かれた車内で、休戦協定に調印し、事実上終戦する。

写真=キールの位置関係 掲載元 iCruise https://www.icruises.jp/area/kielcanal.html
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 敗因はアメリカを敵に回して、イギリスから海上封鎖を受けたこと、また国内が飢饉に陥り、帝政への信頼が揺らいだことにあった。ドイツ革命により、皇帝は廃され、共和制へと移行する。戦地に投入された化学兵器開発の第一人者であるフリッツ・ハーバー博士は、「元素からのアンモニア合成法の開発」が評価され、1918年のノーベル化学賞を受賞した。現在でも使用される化学肥料に応用され、農作物の生育状況の改善に貢献した。一方で、殺傷能力のある兵器の研究により、多くの人命を奪った事実がある。受賞には物議をかもした。
ドイツは、連合国との間では、1919年6月28日に調印されたヴェルサイユ条約に基づき、1320億金マルクの賠償金の支払いが課せられ、旧ポーランド領のポズナニを含め、領土を削られた。国はたちまち混乱し、物不足からハイパーインフレに見舞われる。連合国からの厳しい制裁は、当時一人の若者の復讐心に火をつける。第一次世界大戦に従軍していたヒトラーは、パン・ゲルマン主義を唱え、強いドイツを取り戻すと誓い、政治の場で活動した。名演説により、聴衆をひきつけ、たちまち国のリーダーとなる。1939年にポーランド侵攻を皮切りに、第2次世界大戦に突入した。

 ドイツは過去の過ちを反省し、男女平等、選挙の透明性の確保を掲げ、近代を代表する民主的な国に生まれ変わった。日本を追い越し、ヨーロッパの科学技術立国として歩んでいる。

       <準々決勝 スペイン 対 ドイツ戦レポート>

 日本時間7月5日25時、シュツットゥガルトで準々決勝 第一試合 スペイン 対 ドイツ戦が行われる。前半は得点なく折り返し、後半右エンドにスペイン、左エンドにドイツが入り、スペインボールで始まった。

 リンク 無記載 掲載元 https://www.google.com/search?

 スペインは早速、エリア内の左からニコ・ウィリアムズが、反対サイドのヤマルにボールを送る。ヤマルは、トップのモラタを狙って折り返した。モラタに対して、センターバックのターが体をつける。モラタはバランスを崩すことなく、ターンして、右足を振りぬいた。GKノイアーは、ほとんど動かず、クロスバーの上をボールは越えていった。モラタに対応したターは、ファウルを警戒し、ぴたりと体をくっつけた。モラタは、持ちこたえたとはいえ、シュートの精度を欠いた。

 後半5分に、センターサークルの中まで下がったモラタに向って、ターは空中戦でも激しくせった。ターはファウルをとられたものの、カウンターを阻止した。前半の終盤から激しいプレスの掛け合いになった展開は、俄然ヒートアップする。スペインは7分、センターバックのラ・ポルテが出したボールを、ゴールから30m下がってモラタが受けた。モラタは、右サイドを走るヤマルにパスを送った。フリーでランニングしたヤマルは、中央からエリアに入るダニ・オルモに折り返した。ダニ・オルモは、キッカーから見て右に重心が寄っているGKノイアーを見て、右足で反対サイドにシュートした。ノイアーは、速やかに重心の位置を変えて、右手を伸ばした。コースが良かった分、そのまま左ネットに入った。1対0.ワンタッチで正確なパスを出すヤマル、スペースへの飛び出しを得意とするダニ・オルモの特徴が発揮されたゴールだった。
フォトフォト

 応戦するドイツは18分、代わって入った左サイドのビルツが、サイドバックの代わって入ったミッテルシュテットにバックパスする。ミッテルシュテットは、左足で直接ゴール前にクロスを送った。中央やや右でククレジャのマークを受けたハヴェルツがヘッドで落とした。トップのヒルクルクが拾って、後ろから上がるアンドレッヒにバックパスした。交代出場のアンドレッヒは、助走を付けながら右足でシュートを打った。右ネットs隅に飛び込んだボールを、体の重心を倒したシモンがサイドへはじき出した。シュートの狙いは正確だったものの、GKシモンにコースを完全に読まれていたのである。ボール保持率は、次第に一点ビハインドのドイツが、スペインを上回った。スペインは、左サイドバックのククレジャの競り合いを含め守備に不安を残しているものの、カルバハルは中に絞って果敢にシュートブロックした。ドイツのナーゲルスマン監督は、テクニカルエリアで声を出した。1987年7月23日生まれの彼は、大会最年少監督だった。一方、スペインのルイス・デ・ラ・フェンテ監督も、いつもと代わらず、熱く声を出して、指示を出した。
36分、スペインのGKシモンがゴールキックからリスタートした際、ボールをしっかり蹴れず、最前線のハヴェルツにカットされた。ハヴェルツは、膝でボールを跳ね返して、前へ飛び出て対応するシモンの意表を突くように、ゴール約30m付近から左足でループシュートを打った。シモンは、慌てて戻っていく。ボールはわずかにクロスバーの上だった。シモンはホット息を吐いた。38分に、ドイツは再度チャンスを掴む。ゴールから約25m、中央やや左からのFKポジションに、今大会限りで現役引退を表明している1990年1月4日生まれの34歳クロースがついた。クロースは、右足で柔らかいクロスを入れた。ターゲットのハヴェルツが、ククレジャと競った末にヘディングシュートを打った。右ネットに落ちていくボールを、再度シモンが防いだ。主審は笛を吹き、ハヴェルツのプッシングをとり、ファウルの判定を下した。

 一方的にペースを握るドイツのサイド攻撃は、ロスタイム前、ついに結実した。43分、エリアすぐ外からミッテルシュテットが上げたボールを、ファーポスト付近からキミッヒがヘッドで折り返した。ショートバウンドしたボールを、ビルツが右足で叩きつけるようにシュートを打った。GKシモンは全く動くことができず、ショートバウンドしたボールは左ネットの内側に当たって、ネットを揺らした。1対1.ナーゲルスマン監督は拳を強く握った。ビルツは両手を広げて、ガッツポーズした。ボールをそのまま蹴れば、クロスバーの上へ浮く危険があった。ボールを上から被せるように蹴ることにより、狙い通りシュートバウンドして、ゴールの端に向った。コースもきわどかった分、GKシモンは動けなかったのである。

 写真=ビルツのゴールシーン 掲載元 https://www.kemifilani.com
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 写真=ビルツのゴールシーン(別角度)AP通信 
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前後半90分で決着がつかず、延長戦に入った。両チーム交代カードを5枚使いきって、フレッシュな選手の投入で、リズムを代えようとしていた。ドイツの方がサイドを広く使う分、確実にペースを掴んでいた。

 延長戦は、互いに消耗戦の様相を呈していた。均衡が破れたのは延長後半28分だった。左から右に攻めるスペインは28分、左サイドバックのククレジャが中央から、左サイドに構えたダニ・オルモにパスする。ダニ・オルモは、左足でボールをとめて、右足でクロスを送った。リュティガーの裏をとったミケル・メリーノが、ヘディングシュートを打った。GKノイアーはボールにほとんど反応できず、糸を引くように左ネットに吸い込まれた。2対1.スペインが勝ち越した。アシストしたダニ・オルモは、ボールタッチが柔らかく、助走なしで、正確なクロスを送った。ミケル・メリーノは、マークから離れて、フリーでヘディングした。
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ゲームはスペインが、2対1でドイツを下し、2大会連続ベスト4進出を果たした。スペインは、本来のパスサッカーは鳴りを潜めたものの、個人個人の技術で相手を上回った。ドイツは、交代で入ったビルツにボールが収まり、サイド攻撃が機能した。勝敗の差は、わずかな運動量の違いともいえる。プレッシングをかけるドイツのスタイルの方が、ポジェッションを高めるスペインよりも、体力の消耗が激しかった。スペインは、3大会ぶりの優勝へ向けて弾みのつく勝利だった。



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