mixiユーザー(id:14855706)

2024年05月12日23:38

44 view

実像の道長は権力主義者、長徳の変の経緯の実際

『今夜の光る君へ』大事件へと発展することに…
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=7858432
ドラマで書く程、道長は民の事など思っていないし、伊周を蹴落とす算段を現実はしていた

ドラマのキーを握る詮子も詮子も道隆父子を苦々しく思っていてプッシュしたが道長は2人の兄のように関白の座には就かず、右大臣、内覧として政権に当たる。ドラマの様に謙虚な人間でもなければ民のためにと言う人間でもない

道長は内覧という立場を好都合に感じ実を取る人物だった。内覧は文書を読んでは天皇にアドバイスをし関白になった場合は兼務でいない公卿の会議をリードする立場の、2つを兼ねれたというのが真相だ。

そして清少納言と紫式部は同時代に宮中にでもなく紫式部自体、科挙の制度など望んではいなかったのが凄い脚色ぶりと道長をとんでもなく美化し過ぎだなと思えた。一条天皇と紫式部の出会いはある。ただ、この時ではなく中宮彰子の家庭教師というか付き人になってからでもっと後だが

さて本題だが

道長にとって伊周と隆家は非常にやっかいだった。その模様は藤原実資の「小右記」が7月24日には、公卿の会議の場で伊周が道長に激しく楯突き、「闘乱」のようだったと記している。

伊周にとって、叔父の道長は威圧される存在で伊周は心を乱されていて双六は平安時代に人気があったゲームで、双六盤のほか、白コマと黒コマを15ずつ、そして振り筒、サイコロ2個を用い伊周に道長は、不意に双六盤を持ち出す。

「久々に双六でもやるか」と誘い、伊周がこれに応じると、競弓のときと同様に圧勝。伊周は、またも打ち負かされて、帰路についた。道長からのプレッシャーに晒されて、伊周は情緒が不安定になっていた。

伊周と道長の対立は、公事の席(宮中における公卿会議中)でもつかみ合いの大喧嘩をしたり、伊周の弟・隆家の従者が、道長の従者と争った末に殺人事件を起こしたり、単なる貴族の権力闘争というだけにはおさまらない武力抗争にさえ発展していたストレスの中に伊周は追い込まれていた。

当時、花山院と伊周が交際していた女性が姉妹だったことから生じた誤解が長徳の変のきっかけとなる。 平安時代の恋愛は、男性が親と同居する女性の許に通う形式で、姉妹に通うそれぞれの男性が同じ邸で行き合う事も多かった。

伊周は、もと太政大臣だった藤原為光の三女の元に通ってた。花山法皇もその同じ屋敷にいる四女(天皇時代に寵愛していた藤原忯子の妹)の元に通い出した。出家して僧籍となっても花山法皇の好色ぶりは止まらず、大勢の女性と関係を持ち、中には自分の乳母とその娘との両方と関係を持ち、それぞれに男の子を産ませるなど、おぞましい奇行の持ち主ではあった。法皇という立場は、天皇や皇太子よりも行動に制限が少なく、自由に振る舞えることもあって、花山法皇は貴族社会を困惑させるほどの奇行を繰り返していた

為光の三女のもとに密かに通っていた伊周が花山院は四女に言い寄っていたが、伊周は、花山院が三女に手を出したと勘違いし弟の藤原隆家に相談し結果、その男を襲撃することになり伊周・隆家らは、従者の武士を連れて襲撃。

法皇に矢を射かけるなど前代未聞の出来事で花山法皇も、出家した身の上でありながら女通いを止められなかったバツの悪い事実をできる限り隠蔽したい、と考えた様だが…
7 13

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2024年05月
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031