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2024年05月26日23:48

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定子を追い詰めたのは詮子で伊周の情けなさで中関白家終焉に

『光る君へ』伊周・隆家兄弟の“本当の処遇”と定子・高畑充希が髪を落とした“本当の理由”
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=53&from=diary&id=7876423
こんな史実どうにでも、捻じ曲げるのが大石静。私は実行命令は道長が斉信に報告させ実資に大きくさせる様に命じたと思っているが大石静が一つ正解を描いたのは倫子が詮子に、お父様も仮病がと言ったことで流石に詮子がバックでとわかったのは感心した。

道長には伊周への憎悪はあっても中宮定子を野心的に除こうとは思った可能性はあるが感情的には詮子ではないかと思っている。当然、倫子も一枚かんでいる。源家の血を何がなんでも天皇家への思いは強かったろう。

それにしても枕の草子も紫式部のアイデアで清少納言がとか、藤原為時の越前行きの詩も清少納言とか道長が清少納言に謝罪とか淒い清少納言onlyに話しをには感心する( ̄▽ ̄)

紫式部と清少納言もあっていないし、私は源氏物語も源倫子への清少納言の胡麻すり小説で本当のスポンサーは道長でなく源倫子とさえ思っている。それに紫式部は後世能力は清少納言としても美的感覚と文章の美しさは天才でしかなしえないと思う

さて本題だが

長徳の変の際、二条邸に立て籠っていた兄弟のうち、先に隆家が出立した5月1日に、定子は自ら鋏を取って髪を切り、出家の意志を示しました。翌月の6月8日には二条邸が焼亡し、定子は身分の低い男に抱えられて、一旦、祖父の高階成忠宅に入り、そこから車で叔父明順宅に避難したとも記録にある。

定子がいなくなった宮中では、娘を后に据えようと、公卿たちが動き出す。7月に大納言公季娘の義子、11月に右大臣顕光の娘元子が入内、二条邸焼亡の後、定子の消息は記録上からしばらく消えるが、10月に母貴子が病死した時には傍にいる。

ドラマにはないが伊周は大宰府に行く途中で体調不良を訴え、播磨に留め置かれていた。伊周が、母危篤の報を聞いて密かに入京したが、密告によって再逮捕され、今度こそ大宰府に送還される。中関白家の終焉になるが、定子周辺は悲嘆に暮れる日々が続き、その年の終わりに定子は出産だが、先に置いておく。

二条邸を焼け出された定子が、記録類に再び居場所を記される長徳3年6月までの約1年間をどこでどのように過ごしていたのか、さまざまに推測されているが、実はわかっていない歴史の謎になっている。

ただ伊周はドラマ以上に見苦しい、大宰府への左遷を命じられたが理由をつけ逃れようとした往生際の悪さは歴史的にも情けない人間になる。病と言って出立を拒み、挙句、行方不明。理由を父の墓参りのためと弁明。更にドラマ通り出家したから(実は剃髪すらしていない)罪も許されると考えたり、周囲に促されてようやく出立したと思えば、今度は母・貴子が息子・伊周に取りすがって離れようとしない。ひとまず近場の播磨国へと配所を変え数ヶ月後には、伊周が病む母を慮って密かに配所を脱出。妹である中宮・定子の元に匿われ道長も呆れ、もう敵とも思わなくなったのか道長からも罪を許されて復位することができていく。道隆は何でこんな人間を関白とか内覧とか考えたのか考え込む。
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