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2024年05月06日14:58

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【再録】人は直接的には人を殺せないが、間接的には殺せる。

あなたが貯水池の前を通りかかったとする。
悲鳴が聞こえてきたので、視線を向けると、なんと近所の子供が溺れている。
その池はそんなに深くはなく、大人ならじゅうぶん足が届く深さです。助けるのは簡単です。
しかし問題がある。その池はどろどろのヘドロ池。そしてまずいことにあなたは5万円もする高価な服を着ている。
しかもその近所の子は、かつかつの生活をしている貧しい家の子。とても弁償して貰えそうにない。
子供は今にも沈みそう。服を脱いでる暇なんかない。
あなたはどうしますか?
そりゃ、助けますよね。
子供の命に比べりゃ、アルマーニだか何だかしらないけど、5万円なんてどってことはない。

ところが、です。
寄付金の定番に、「100円で子供一人を救えます」。
5万円あったら、一体何人の子供が救えるのか?
僕達は目の前で溺れてる子供のためなら5万円ぐらいどってことはないと思う。
しかし目の前に居ない子供たち500人のために5万円を寄付することを躊躇ってしまう。
なんでやねん?

これには哲学上の大問題が2つ含まれています。

1つは「幸福ポンプ問題」です。
子供たちを救うためなら、5万円ぐらいケチるべきではない。贅沢やお洒落や趣味に5万円使うのは、罪ではないのか?
ぶっちゃけ、平等を突き詰めるなら、「最大多数の最大幸福」を徹底するなら、僕達は貯金から住んでる家から全財産を売却して、趣味なんか論外で、最低限の衣食住に徹して、それらを寄付すべきだってことです。
日本で赤貧の生活を送っても、シリア難民やスーダン難民に比べれば、遥かに恵まれてるんですから。
つまり平等と「最大多数の最大幸福」を徹底するためには、僕らは自分の幸福を必要最小限にして、幸福を汲み上げては、世界に分配するマシーン、ポンプになるべきなのです。
筋は通っている。
でも、どこかおかしい。
多くの哲学者は、これは本末転倒でバカげていると考える。
個人の幸福追求権と大きく矛盾するし、人間性の否定につながるからです。
そもそも全ての人がそんなことを始めたら、人間の社会は崩壊してしまいます。
しかし全否定しまうのも、何かしっくり来ない。
これが「幸福ポンプ問題」です。

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もう1つは有名な「トロッコ問題」です。
サンデル教授の講義で有名になった認知心理学の実験ですね。
これは哲学の世界に大きな激震を引き起こした。その激しい議論を半分揶揄して、「トロリロジー(トロッコ学)」と言う哲学用語まで生まれた。
ここでちょっと「トロッコ問題」について、ちょっとおさらいしてみましょう。

あなたは、線路の分岐点に立っている。
Y字路の右側の先には5人の子供が線路の上で遊んでいる。一方の左の先では1人の子供が線路の上で遊んでいる。
反対側の見ると、物凄いスピードでトロッコが暴走して、こっちに突進してきている。
線路の転換器はまずいことに右側になっている。このままでは5人の子供が轢き殺されてしまう。
しかしあなたがレバーを引いて線路を左側に向ければ、先の一人の子供は轢かれるが、5人の子供を助けることが出来る。
さあ、あなたはどうする?

多くの人が「レバーを引く」と答えました。

ではこの設問はどうか?
一本道の線路がある。
やはり前方には5人の子供が遊んでいて、後方から暴走トロッコが走ってくる。
あなたは歩道橋の上にいる。
見ると大きなリュックを背負った子供がフェンスによじ登って、線路を見下ろしている。
その子を線路に突き落せば、あわれその子はトロッコにはね飛ばされ、バラバラになって死んでしまうが、トロッコは止まる。そして5人の子供を助けることができる。
さて、その子を突き落すべきか?
あなたならどうします?

これが「トロッコ問題」なんですね。
レバーを引くのも、子供を突き落すのも、1人を犠牲にして5人を助ける行為です。冷静に考えれば同じなはずです。
しかしレバーを引くことにOKを出した人達ですら、子供を突き落すなんて、そんなことは許されないと感じた。

これはもともと認知心理学者たちが、「殺人はいけないことだ」と言う考えが、遺伝子にプログラミングされた本能であることを証明するための実験の1つでした。
現在では、脳科学者たちもこの問題に興味を示し、脳の回路がどのように作用しているのかも分かってきています。
けど、今回はそれが問題ではない。

哲学者たちは様々な意見を出した。

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この議論は、実に中世のスコラ哲学にまで遡ります。
中世の大哲学者にして神学の中興の祖の聖トマス・アクィナスはこう考えた。
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レバーは「是」なり。なぜなら、子供が一人死ぬのは結果にすぎず、汝に殺意は無いからである。
しかし突き落とすのは「否」なり。なぜなら汝は、最初から手段として一人殺しており、殺意があるからである。

まあ、その後の哲学は、大きな進歩を遂げます。人権思想の登場、功利主義の提唱、それによって聖トマスの主張には異論が出て、過去のものになる。
ある哲学者は突き落すべきだと言い、別の哲学者は突き落すことに断固反対した。また別の哲学者は、突き落す人間の人格によって善か悪かが決まると言い、さらに別の哲学者はそんな設問自体が無意味だと答えた。

これについて脳科学のメカニズムや動物行動学的な意味は理解できるだろうけど、道徳的にどーよ? って問題は永遠に答えなんか出ないんじゃないでしょうか?
そんなことよりも、ぼくは「多数派の利益のためなら、少数派は不幸になっても我慢しろ」的な古典的な功利主義に対する大きな異論となったことが大きいと思う。

そしてもう一つ、大事なことは、「人命」と言うのは、認識次第によって、その価値観は大きく変わるんだってことだと思うのです。

また、こんな有名な実験もある。
「スークウィンダー・シェールギルの実験」です。
ベンチみたいな器具で、相手の指を挟む実験です。
まず被験者Aに、被験者Bの指を軽くベンチで挟ませます。
次に被験者Bに、「同じ強さ」で被験者Aの指をベンチで挟ませる。
続いて被験者Aに、やはり「同じ強さ」で被験者Bの指をベンチで挟ませる。
これを交互に繰り返すと、ほぼ確実に指を挟む強さが上がってゆくのです。

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この「指ベンチ実験」は、「くすぐり」と同じメカニズムではないかとも考えられている。
人は自分で自分をくすぐっても、そんなに笑えない。
しかし他人にくすぐられると息が出来ないくらい笑ってしまう。

これは、人間は自分が受ける刺激は敏感に感じるが、他人に加える刺激については鈍感であるということです
これは痛みについても同じことが言える。自分が被害者であった場合、それには敏感になる。しかしいざ自分が加害者になると、逆に鈍感になってしまう。
これは利己的遺伝子説で簡単に説明がつく、遺伝子プログラミングでしょうね。

これは紛争地帯などで、報復のテロや爆撃が、どんどんエスカレートして行くことの説明にもなる。
被験者Aと被験者Bの間には、何の恨みも無いし、ベンチの圧力も痛みを感じるほどではないし、「同じ力で」と条件付けをしているにも関わらず、ベンチを締める力は上がって行く。
ましてや、憎しみや激痛や「恨みは倍返し的価値観」がある紛争地帯は尚更です。

また、歴史認識問題も、これで説明がついてしまう。
でもこの例は地雷になりそうなんで、この辺でやめておくのです。

それはともかくも。
その反面、人間には「共感」の本能もまたある。
他人の痛みを見ると、多くの人間がそれを疑似的に自分の痛みとして感じる。
これは人間以外の動物にも観察されている、非常に基本的な本能でしょう。

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現在の動物行動学では、「同種で殺しあうのは人間だけ」と言うのは間違っていることが判明していると同時に、「共感」も人間の専売特許ではなく、ある種の類人猿に至っては、別の種の動物にも「共感」を寄せることがわかって来ています。

この「共感」が欠落すると、いわゆるサイコパスのような人格障がいとなる。
(強すぎてもウィリアム症候群の子供たちのように、社会支援が必要になったりする。)

「トロッコ問題」と「指ベンチ実験」。
ぼくはこの2つの宿業とも言える遺伝子プログラミングに、アイヒマンの「悪の陳腐」に見られる問題の1つがあると思う。

「1人殺されるのは殺人事件だが、1万人殺されるのは統計上の数字である」

アイヒマンにとって、ユダヤ人は血の通った人間じゃなかった。
ナチスの書類に書かれた数字にすぎなかったわけです。
彼にとって、ユダヤ人の「最終解決」は、事務所の収支決算報告とさして違いは無かった。
アウシュビッツの所長のヘスは、ユダヤ人の母親が必死になって「子供だけは助けてください」と直訴をしてくると、同情してそれを受けると言うことを、たびたびやった。その一方で、彼は残酷な書類にサインをしていた。
SS(ナチ親衛隊)は、任務においては冷酷にユダヤ人を扱ったが、個人対個人となると、ユダヤ人に同情したり、こっそり見逃したりした。

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『みんなが殺人者ではなかった―戦時下ベルリン・ユダヤ人母子を救った人々』
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これも「トロッコ問題」で説明がつく。
アイヒマンもヘスも、殺人の実感が無かったのでしょう。
ヘスは、子供を「突き落す」ことを躊躇するように、直にユダヤ人を殺すことに戸惑いを感じた。だからユダヤ人の母親の直訴は聞いた。

レイシストにとって、ユダヤ人も黒人もLGBTも在日コリアンも、血のかよった「人間」として実感していないんですね。リクツでは人間だと分かっては居るんだけど、肝心の認知では一種の「記号」と言うか、漠然とした抽象的な何かでしかないわけです。
歩道橋の上の「直接手に触れることの出来る」子供ではない。遠くの「話しかけることも触れることもできない」左側の線路の子供なわけです。

もう一つが「指ベンチ実験」。
レイシストは、自分らが受ける不利益には非常に敏感です。
しかし相手の痛みには恐ろしく鈍感です。これが被害妄想レベルまで高まると、妙な陰謀論やあの在日特権うんぬんが出てくるわけなんですね。

はすみ某が、こんな絵をUPしてる。
https://www.facebook.com/984279651598190/photos/a.984889011537254.1073741836.984279651598190/1242064949152991/?type=3&pnref=story
ここまで来ると正直、彼女が哀れに思えてくるんだけど、これは人として赦しちゃいけないことなんですよね。

日本人はもうちょっと、この手の鈍感さに危機感を持った方が良いと思う。
海外の事情に詳しい方々から話しを聞いているうちに、思っていた以上に事態は深刻でした。
あのイラストは、世界中で報道されてしまった。
ドイツでも、イギリスでも、アルジャジーラも、ニューヨークタイムスでも。
アラブ人もドイツ人もイギリス人もアメリカ人も欠片も同調していない。
聞くところによると、アメリカでは日本への制裁を求める署名が中西部だけで30万人以上集まったとか。
また世界ヘイトのワースト7の第2位にまで選ばれる始末。
https://stepfeed.com/more-categories/big-news/7-of-the-worst-reactions-to-the-syrian-refugee-crisis/#.ViPXO27W5kj
心底、恥ずかしいんですけど?
ネトウヨ諸君、愛国者を自認するなら、ここは怒らなきゃ嘘なんでないの?

レイシスト達は、どうしてこんな愚かなことをしてしまうのか?
シリア難民や在日コリアンやLGBTへの無知?
想像力の欠如?
閉塞した偏った価値観の中にとじこもった「スタンフォード実験刑務所」?
無論それもあると思う。
でも根本的な問題は、理性が正常に動いていないことにあると思う。
この問題を解決しないと、いくら知識を提供しても、彼らは耳を貸さないでしょう。
想像させても、ピントのずれた被害妄想しか出来ないでしょう。

レイシストにとって、シリア難民も在日コリアンもLGBTも、歩道橋の上の子供ではない。むしろアイヒマンやヘスにとっての書類上の数字と同じなんじゃないですか?
いや、彼らの場合、シリア難民も在日コリアンもLGBTもパソコンの液晶モニターに映し出された文字列にすぎない、と言ったほうがピッタリくるかもしれない。
彼らにとって、シリア難民も在日コリアンもLGBTも、血の通った人間ではない。
例えば、だから僕は一方で酷いヘイト漫画を描いてる人間が、ノーベルの伝記や感動的な人間ドラマを描けることに、さして驚きは感じない。

またレイシストは、自分らの不利益(と言っても、大部分は空想の産物)には過敏なのに、シリア難民や在日コリアンやLGBTの痛みには絶望的に鈍感です。
件のヘイト絵の作者も、無断配布は著作権違反だの、本名を報道するのは人権侵害だのと自分の痛みには敏感ですね。しかし……

もちろん僕は、たったこれだけでレイシズムのような、巨大な社会病理を分析できるなんて、これっぽっちも思っていません。
ただ人間のダークなシステムを説明するモデルとして、レイシズムは非常に理解しやすいわけで、取り上げた次第です。

そんなわけで、赤の他人を人間ではなく、統計上の数字や記号のように見てしまうことは、遺伝子にプログラミングされた本能でしょう。
自分の痛みには敏感だけど、他人の痛みに鈍感になることもまた本能です。
それによって人類は、抗争を生き延びて来たと言える。

しかし歩道橋の子供を突き落すことに躊躇いを感じることも、遺伝子にプログラミングされた本能なのです。
また他人の痛みに共感することも、同じく遺伝子にプログラミングされた本能なのです。
抗争を生き残るためのプログラムは、長期的視野に立てばかえって不利なわけです。
まあ、「戦略」と「戦術」の違いと言いますか


アイヒマンを取材して、「悪の陳腐」論争を引き起こしたハンナ・アーレントは、アイヒマンは血に飢えたサディストでも異常者でもないことを示した。

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『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622020092

しかし彼女は断固としてアイヒマンを弁護はしなかった。
正常な普通の人間であったからこそ、アイヒマンの罪は重いのだ。
最初から理性の無い異常者だったら、不可抗力なわけで、まだ情状酌量の余地はあっただろう。
しかし彼は、理性を持ちながら、それを働かせることをしない怠慢を犯した。出世のために正義をさぼり、無辜の人間を何百万と殺した。
だからこそ罪は重いのだ。
だいたいこんな感じのことを言っている。

理性の力で、この相反する2つの本能のバランスを取り、何が正しいかを判断する。
これが「人権」のための戦いなんじゃないでしょうか?




「トロッコ問題」で“全員が無事だった”のはなぜ? → 謎解き作家の問いに“斬新な解答”が続々集結し、もはや大喜利状態に
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=7850945
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