老害と言われる人たちの肩を持つつもりはない。
また、他人を老害だと非難するつもりもない。
でも、なんで老害の人たちは傲慢で、自己中心的で、怒っているんだろう?
僕も老害と言われるような年齢に入っている。
年齢で分類できるようなものではないけど、なんとなく老害的な気持ちになったので、いつか自分を顧みて、おなじような状態になるまえに戻れるように、書き記す。
アラフィフなんて言われる年齢にどっぷりはまっていても、まだ、子供のような悩みを持っているし、子供のような幼い感情を持つ。
羨みとか、不公平、寂しい、苦しい、悲しい、、、。
大人になったら、そんな気持ちはなくなるか、見えなくなるか、容易に抑え込むことができるようになると思っていたけど、そんなことははい。子供のころのように、感情は湧いて、淀んで、流れる。
しかし、ひとつ問題なのは、大人になると、それを話して慰めてくれる大人や、一緒に笑い飛ばしてくれる友達がいなくなる。
それよりも問題なのが、その気持ちを言語にするのが下手になる。
40歳くらいから、人の名前が覚えられなくなってきて、言葉がすっと出てこなくなることが増えた。
そんな状態なので、自分がどういう感情を持っているのか、それを言語化する力も下がっている。
それは他人に対して説明するためだけでなく、自分にも説明をしてあげることができない。
自分に説明できないから、人にも説明できなくて、、人に理解してもらえないから「寂しい」。
これは48歳の僕の、いまの悩みです。
さて、もっと先輩の老害と言われる皆さんをどう考えるかなんだけど、もっと寂しくなっていくんだと思う。
物理的にも、長らく付き合ってきた友人、知人、家族も命を全うして少なくなっていく。
自分の感情の分析をする言葉も、自分のために有効に働いてくれない。
もし、それを話しても、同じスピードで周囲の人たちも年齢を重ねているので、理解力が低下している。
それはとても寂しいことだと思う。
そのような日々をとぼとぼと歩んでいるなかで、だれがどう見ても分かりやすい「不備・不慮・不足」があったとき。
「道端でのたばこのポイ捨て」「行列の割り込み」「コンビニでおつりの不足」「子供のいたずら」
そういう、悲しいほどわかりやすい「悪」に対して、彼らはそれまでため込んだ鬱憤を全力でぶつけてしまう。
あるいは、自分が日々耐えている寂しさ、、、その対岸にある厚かましい表現に対して、不公平だという感情をぶつけてしまう。
いろいろな心理分析があるが、年をとるにつれて積み重なる寂しさというものが、元凶の一つなんだろうな。
しかし、僕はそれを社会のせいにするつもりはない。
寂しい老後になるような人生は、寂しい老後を送らざるを得ない生き方をしてきたその人の選択の先にあるものだ。
その人の周りにいる人たちが悪いわけじゃない。
そういう生き方の先にあるものが今であり、将来である。
僕の人生もそういう方向へ進んでいるとは思うけど、ひとに迷惑をかける前に、この日記を見て、己を顧みることができますように
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