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2024年04月19日00:03

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04月19日の日記

今日の出来事:1174年−平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆に配流される、1578年−上杉謙信死去、御館の乱勃発、1579年−御館の乱:上杉景虎自刃、1623年−上杉景勝死去、1775年−レキシントン・コンコードの戦い(アメリカ独立戦争開戦)、1951年−ダグラス・マッカーサーが軍を退役、記念演説を行う

今日は、平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆に配流されるです。源頼朝の父・義朝は、「平治の乱」で平清盛に敗れて討たれました。長兄・義平は潜伏して平清盛を討とうとしましたが、捕らえられて斬られました。次兄・朝長は負傷し、死亡しました。三男の頼朝は捕らえられました。平清盛の継母・池禅尼は、早世した弟・家盛に似ていた事から源頼朝の助命を清盛に請いました。こうして、助命された源頼朝は伊豆に配流され、北条時政の監視を受けながら北条政子と出会う事になります。一方、源義朝の側室・常磐御前は今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、牛若(後の源義経)と共に出頭し、平清盛の妾となって三人は助命されました。牛若(義経)は鞍馬寺に預けられ、後に奥州平泉に下る事になります。この助命された二人によって、平家は滅亡させられる事になります。

次に、上杉謙信死去、御館の乱勃発です。1577年11月3日、加賀の「手取川の戦い」で上杉謙信が柴田勝家が率いる織田軍を撃破しました。1578年1月25日、上杉謙信は春日山城に帰還し、1月30日には次なる遠征の大動員令を発しました。4月21日に遠征を開始する予定でしたが、その6日前の4月15日に遠征の準備中に春日山城で倒れ、4月19日の未の刻(午後2時)に急死しました。享年49でした。死因は脳溢血と言われています。遺骸に鎧を着せ、太刀を帯びさせて甕の中へ納め、漆で密封されました。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸の一角に安置され、「明治維新」の後に歴代藩主が眠る御廟へと移されました。しかし、上杉謙信は後継者を定めずに死去してしまった事により、「御館の乱」と呼ばれる後継者争いが起こりました。上杉謙信は生涯独身だったため、二人の養子がいました。一人は、北条氏康の七男・三郎で、謙信の初名「景虎」を名乗りました。もう一人は、上田長尾家当主・長尾政景の次男で母は上杉謙信の姉・仙桃院の喜平次、「景勝」と名乗りました。景勝と景虎の後継争いは謙信の死の直後から勃発しました。翌20日には景虎派の柿崎晴家が景勝派に暗殺されました。子の千熊丸(後の憲家)を擁した上野九兵衛が率いる一派は、景勝方に味方しました。その後、景勝はいち早く春日山城の本丸に移り、金蔵と兵器蔵を接収して後継者となった事を宣言しました。一方、景虎は三の丸に立て籠もりました。
景勝方には謙信側近・旗本の過半数と、下越地方の豪族・揚北衆が加担しました。景勝に加担したのは以下の諸将です。上条政繁、山浦国清、山本寺孝長、甘粕景持、柿崎千熊丸、河田長親、斎藤朝信、吉江資堅、直江信綱、鯵坂長実、今井国広、上野家成、千坂景親、山吉景長、吉江宗信、吉江景資、大石綱元、北条高定、安田顕元、色部長実、新発田長敦、五十公野治長(後の新発田重家)、長沢道如斎(後の五十公野信宗)、竹俣慶綱、中条景泰、本庄繁長、安田長秀、須田満親、山崎秀仙、狩野秀治、樋口兼豊、樋口兼続(後の直江兼続)、樋口与七(後の大国実頼)、岩井信能
景虎方には前関東管領や上杉一門衆の多くと上杉家臣団や謙信の旗本・側近の一部、実家である北条氏や周辺の戦国大名が景虎方に加担しました。景虎に加担したのは以下の諸将です。上杉憲政、上杉憲重、上杉景信、山本寺定長、琵琶島善次郎、桃井義孝、神余親綱、河田重親、本庄秀綱、椎名景直、堀江宗親、北条高広、北条景広、鮎川盛長、黒川清実、加地秀綱、本庄顕長、下久長、岩井成能、蘆名盛氏、金上盛備、小田切盛昭、伊達輝宗、武田勝頼、北条氏政、北条氏照、北条氏邦、武藤義氏
こうして、2年以上にも及んだ越後を二分した大乱「御館の乱」がはじまりました。

その次に、御館の乱:上杉景虎自刃です。1578年6月18日、上杉景虎が三の丸から退去して御館に移って籠城しました。兄・北条氏政に救援を要請する一方で、配下に命じて春日山城下に放火を行うなどの撹乱戦術を展開しました。22日には堀江宗親、桃井義孝が約6000の兵で春日山城を攻めましたが、桃井義孝が討ち取られるなどして撃退されました。景虎方は体勢を立て直し、27日に再び春日山城を攻めましたが、結果は変わりませんでした。一方、他方面でも景勝方と景虎方の交戦が展開されていました。上野では北条高広・景広父子が中心となり、三国峠を守る宮野城を目指して進軍を開始しました。この方面では景勝方はよく持ちこたえましたが、景勝には援軍を送る余裕がありませんでした。景虎方は後詰めを得られなかった景勝方の宮野、小川等の城をことごとく奪って、小田原の北条勢を越後へ引き入れる態勢を作り上げました。ところが、北条氏政・氏照ら北条軍主力は、鬼怒川河畔で佐竹・宇都宮連合軍と交戦中で、遠方の越後に救援軍を派遣できる状況ではありませんでした。このため、同盟国の武田勝頼に景虎への助勢を要請しました。これを受けて武田勝頼は、7月上旬に武田信豊を先鋒とする2万の大軍を信濃経由で越後に送り込み、7月4日に信越国境付近に到着しました。景虎はさらに、奥羽の蘆名盛氏、伊達輝宗らに援軍を要請しました。これに応えて蘆名勢が蒲原安田城を攻略し、さらに兵を新発田へと進めましたが、景勝方の五十公野治長の頑強な抵抗に遭って食い止められました。この時点での戦局は景虎方が有利でした。しかし、景勝方から武田氏との和睦交渉が持ちかけられました。武田勝頼は、謝礼の金品を受け取り、妹・菊姫の輿入れと東上野の割譲を条件に誓詞を交わし、景勝側との同盟「甲越同盟」を結びました。武田勝頼を金で封じ込めた景勝方は、長尾景明を討ち取って直峰城を奪取しました。7月15日には「居多浜の戦い」で山浦国清が上杉景信を討ち取りました。9月23日に、徳川家康が武田領の駿河田中城へ侵攻したため、武田勝頼は和平仲介を断念して、9月29日に撤兵しました。10月に入ると北条氏照・氏邦が氏政の命を受けて越後に進軍を開始しました。北条勢は三国峠を越えて坂戸城を望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手しました。しかし、景勝方がよく守ったため落城せず、冬が近づいて来たため北条勢は撤退しました。11月になると、景虎方は兵糧が窮乏しました。1579年2月26日、上杉景勝は配下の諸将に、御館の景虎に対する総攻撃を命じました。この日、荻田長繁が府中八幡宮に参籠した北条景広を襲撃し、槍で刺殺しました。北条勢の樺沢城を景勝方が奪回すると、4月12日に前関東管領・上杉憲政が御館から脱出し、和議を求めて景虎の長子・道満丸を連れて景勝の陣に出頭する途中で景勝方に包囲され、子・憲重と道満丸もろとも殺害されました。御館は放火されて落城し、上杉景虎は御館を脱出して逃亡中、鮫ヶ尾城に寄ったところを景勝方に寝返った城主・堀江宗親に攻められ、4月19日に妻子と共に自害しました。享年26、上杉謙信の死からちょうど1年後でした。こうして、越後を二分した内乱は景勝が勝利し、上杉謙信の後継者として上杉家の当主となりました。最後まで抵抗した本庄秀綱や神余親綱らを攻めて最終的に乱が収束するのは、それから1年以上後となります。

その次の次に、上杉景勝死去です。1581年、「御館の乱」の恩賞問題で新発田重家が織田信長と通じて造反した上、柴田勝家が率いる織田軍に越中国にまで侵攻されました。翌年には武田氏が滅亡し、上杉家も滅亡の危機に立たされました。織田軍は「魚津城の戦い」で越中を完全に制圧しましたが、信長が「本能寺の変」で自害したため、上杉家は九死に一生を得ました。また、「新発田重家の乱」で、菅名但馬守・水原満家・上野九兵衛らが討死、安田能元が重傷、上杉景勝も今一歩というところまで追いつめられる大惨敗を喫しました(放生橋の戦い)。しかし、1587年に秀吉の後ろ盾と協力を得た上杉景勝は、新発田重家を討って再び越後を統一しました。1589年には、佐渡の本間氏を討伐して佐渡国を平定しました。「小田原征伐」、「朝鮮出兵」に出兵し、1595年に小早川隆景が家督を小早川秀秋に譲って隠居したため、「五大老」に任命されました。1598年、秀吉の命により会津120万石に加増移封され、以後は「会津中納言」と呼ばれました。上杉景勝は要となる米沢城に家老・直江兼続を配置しました。家康の「会津征伐」を煽った「直江状」により、家康は大軍を率いて上杉景勝討伐に出陣しました。しかし、家康の留守中に石田三成が挙兵し、家康が西上して「関ヶ原の戦い」となると、会津から出兵して伊達政宗や最上義光らと戦いました「長谷堂城の戦い」。しかし、「関ヶ原本戦」で石田三成ら西軍が敗れたため、徳川家康に降伏しました。上杉景勝は直江兼続と共に上洛し、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許されました。こうして、米沢30万石の藩主として減移封されました。「大坂の陣」では直江兼続とともに出陣しました。1623年4月19日、米沢城で死去しました。享年69でした。上杉謙信、上杉景虎、上杉景勝は奇しくも同じ日に死去しました。

そのまた次に、レキシントン・コンコードの戦い(アメリカ独立戦争開戦)です。イギリス軍が、ボストン北西に位置するコンコードにあったアメリカ植民地民兵部隊の武器庫の接収作戦を実施しました。それに反発するため動いた植民地民兵隊と武力衝突、レキシントンとコンコードにてイギリス軍と民兵隊の激しい戦闘が行われ、植民地軍はイギリス軍を撃破しました。これが、「アメリカ独立戦争」の緒戦を飾る戦いとなりました。4月18日、フランシス・スミス中佐の指揮で約700のイギリス軍正規兵に、マサチューセッツ民兵が武器を隠していると報告のあった「コンコードの倉庫を確保し破壊せよ」という命令が出ました。植民地の愛国者達はこの日の数週間前に、イギリス軍が捜索を行おうとしているという情報を掴み、軍需物資のほとんど全部を安全な場所に移していました。イギリス軍の遠征の前の夜にも、その作戦計画の詳細を掴んでおり、この知らせは直ぐに民兵達の間に流されました。最初の銃弾はレキシントンで日の出とともに放たれました。民兵は数的に劣勢だったため撤退しました。数時間後、コンコードのノースブリッジにいた別の愛国者兵がイギリス軍の3個中隊と交戦して損害を与えました。野戦での数回の戦闘後に、今度は数的に劣勢になったイギリス軍が撤退しました。民兵達はその後も集まり続け、ボストンへ向けて撤退するイギリス軍を追って、かなりの損害を与えました。スミス遠征隊はコンコードからレキシントンに向かう途中で、ヒュー・パーシー指揮の増援隊の援護を受けました。総勢約1700名となった遠征隊は撤退中も激しい銃火に曝されましたが、最終的にはなんとかチャールズタウンまで辿り着きました。イギリス軍は軍事機密を保つ事に失敗し、敵対的地域での作戦行動に必要な速度にも欠けていました。このため、武器弾薬の押収はほとんど失敗しました。イギリス軍の多くはボストンに撤退できましたが、その夜からマサチューセッツ民兵が周辺地域を抑え、「ボストン包囲戦」の始まりとなりました。「一発の銃声が世界を変えた」と言われる日となりました。

最後に、ダグラス・マッカーサーが軍を退役、記念演説を行うです。北朝鮮の金日成が韓国に侵攻した事で「朝鮮戦争」が始まりました。マッカーサー率いる米軍は、北朝鮮に占領されたソウルを奪還しました。米軍は北上し、北朝鮮に攻め込みました。しかし、中国が人民解放軍を送り込んで来ました。マッカーサーは中国を参戦させた責任とソ連の参戦を恐れたトルーマン大統領により、更迭されました。マッカーサーは記念演説をし、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という名言を残して去りました。

今日の誕生日:土井利勝、橋本左内、村野武範、和田慎二、松藤英男(甲斐バンド)、鮫島秀樹(元世良公則&ツイスト、元HOUND DOG)、石原伸晃、廣瀬洋一(元THE YELLOW MONKEY)、リバウド、ウェズレイ、小沢なつき、吉田豊、坂下千里子、小嶋陽菜(元AKB48、ノースリーブス)、尾島知佳(元アイドリング!!!26号)、柳ゆり菜、松田元太(Travis Japan)、テンポイント、ニシノフラワー

今日の記念日:穀雨、自転車の日、飼育の日、地図の日(最初の一歩の日)、良いクリニックの日、良いきゅうりの日、食育の日、みんなの保育の日、養育費を知る日、古川祭
今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の1つ「穀雨」です。「春雨降りて百穀を生化すればなり」(田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころ)という時期になりました。1943年にスイスの化学者アルバート・ホフマンが、LSDの幻覚作用を発見した事を記念して制定された「自転車の日」です。ホフマンは研究室でLSDを服用する実験をした後、幻覚状態のまま自転車で帰宅しましたが、その間も視野にある全ての像が揺れ動き、自転車が一向に進んでいるように感じられなかったと記した事からこの名が付きました。寛政12年閏4月19日、伊能忠敬が蝦夷地の測量を行うため江戸を出発した事で「地図の日(最初の一歩の日)」、「し(4)い(1)く(9)」の語呂合わせで「飼育の日」、「よい(41)クリニック(9)」の語呂合わせで「良いクリニックの日」、「よい(41)きゅう(9)り」の語呂合わせで「良いきゅうりの日」、「しょく(4)い(1)く(9)」の語呂合わせで「食育の日」、「保=フォー(4)育=いく(19)」の呂合わせで「みんなの保育の日」、「養(4)育(19)」の語呂合わせで「養育費を知る日」となりました。岐阜県飛騨市古川町の気多若宮神社の例祭で「日本三大裸祭り」の1つ、起し太鼓・屋台行事が国の「重要無形民俗文化財」に指定されている「古川祭」が行われます。
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