映画「コール　ジェーン」

なるほど。
中絶の器具は今とほぼ同じだな。
麻酔は傍子宮頸管の伝達麻酔だね。
止血の注射、ってのは子宮収縮剤だろう。

‥などと映画見ながら思っていたが、ふと気づいた。
そういうことを考えるのは、ワシが産婦人科医だからか！
妊娠中絶手術を行った経験のある産婦人科医で、
この映画を見る人間がどれくらいいるだろう？
その意味ではワシは比較的レアな存在ではないか？！

それにしても１万人以上シロウトが施術して、よく死人が出なかったもんだ。
麻酔のアレルギー、収縮剤で心臓止まる、子宮頸管が固くて破裂して大出血、
キュレットで子宮に穴、子宮内容が残ってそこに感染して敗血症。
その他いくらでも思いつく。
推定１万２千人の女性の非合法中絶を行った組織「ジェーン」は
実在の組織だそうだけれど、死人は出なくてもおそらく
「うまくいかなかった」事例は数例あったと考えるほうが自然だろう。

それでも「ジェーン」で手術受けられた女性は幸運なのだ。
主人公ジョイも、妊娠によって心筋症が悪化。
妊娠継続すれば本人の命が助かる確率は５０％。
しかし彼女がかかっている大きな病院の理事会は
「治療的な意味の中絶」を許可しなかった。
２人の精神科医が「神経衰弱で自殺の可能性あり」と診断すれば、も試したが
ダメだった。
別な医者が１０００ドルの非合法中絶を紹介する。
ジョイは一度はそこを訪れるが、処置室内で器具が落ちる金属音を聞いて
逃げ出してしまう。
逃げ出したあとのバス停で見た「妊娠で困ってたらジェーンに電話を！」の張り紙。

「ジェーン」も非合法の中絶を行う組織だが、主催者が女性で
腕のいい医者を雇い、手術後に食べるものや休む部屋が用意されている。
値段も６００ドルと格安（？）だし、三日目に「問題ない？」と電話してくれる。
（のちにこの「腕のいい医師」が医師でなかったことが判明する）

シカゴが舞台の物語だが、おそらく当時はアメリカのあちこちに
「ジェーン」のような組織があったと思われる。
１９７３年、女性が中絶する権利を合衆国憲法で定められた人権とする
有名な「ロー対ウエイド判決」が出て、物語の中での「ジェーン」も解散する。
（この判決の名前になってるジェイドは判事。
ローはジェーン・ロー、「中絶禁止は人権侵害」と
訴訟を起こした妊婦の仮名、と今回調べてはじめて知った）
解散の儀式で、これまで手術を受けた患者の記録を暖炉で焼く。
留守番電話に残された伝言をメモしたもの。
「１５歳、４回目の電話、とても困っています」
「１４歳、テキサスからひとりでバスで来たの」
「４人の母、お金がありません」
（「ジェーン」は最終的にはお金のない女性には無料で手術するようになった）

「ジェーン」にたどりつけなかった女性の運命が映画の中でも少し語られる。
「彼女はあそこに突っ込んだんだ、突っ込むべきじゃないものを」
家に来た刑事がこう言う。
パトカーを見ててっきりバレたと思ったジョイだが、
刑事は「自分の友人がそんなことにならないように」うわさをたどってやってきた。

ウーピー・ゴールドバーグ、「天使にラブソングを」などで有名な女優さんも、
若い頃望まぬ妊娠をして「ハンガー」で中絶を試みて死にかけたと言っている。
割ったガラス瓶の口、キリ、尖った枝、書いてるだけで気が遠くなる。
階段からわざと落ちるとか、お腹を何度も机の角にぶつけるとか、
冬の冷たい川に何時間もつかるとか、たくさんの資料がある。
妊娠した本人の命はかなり危ないが、中絶はできなさそうな方法ばかり。

なぜ、自分の体に起きたことを自分で判断して処理できないのか？
妊娠は男と女がいないとできないのだが、妊娠するのは女性だけ。
射精して子を作った男について、非合法だと判断されないのはなぜか？
子の父でない男がなぜ、自分が妊娠させたのでない女性の中絶を禁止するのか？
もっと言えば、子の父であっても意見は言えても実際に決めるのは妊婦本人、で当たり前。
がんになったら、どんな治療をどう受けるか、どうなったら治療を中断するか、
もし選べるなら安楽死を選ぶタイミングはいつか、決めるのはもちろん本人。
それと同じである。

この映画は、中絶合法化でジェーン解散のハッピーエンドだが、
ご存知のようにアメリカでは２０２２年６月に「ロー対ウエイド判決」は
最高裁で破棄され、人工妊娠中絶の可否は各州の州法によることになった。
今現在、妊娠中絶がほぼ不可能な州は１４ある。
「中絶ができる州もあるからそっちに行けばいいじゃないか」と言う人もいるが、
それこそ「子沢山でお金がない」とジェーンの留守電に伝言を残したような女性は
今もきっと存在している。