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2024年03月12日00:54

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早坂暁の脚本術と「ゴジラ−1.0」的な何か

少しずつ 「早坂暁 必殺シリーズ脚本集」を読んでいる。

肝心の収録されている脚のものを読むのは 一番最後。
先ずはインタビュー等から読むのが私の作法。

早坂暁さんは脚本を書く前に、必ず ぷいと居なくなって街を彷徨う癖があったらしい。
当時の朝日放送の向かいにあったホテルプラザに宿をとってあるのだが、近くの繁華街の いわゆる「キタ(梅田の新地界隈)」ではなく、西成の銭湯に出向いたりしていたらしい。
インタビューに依ると どうやらネタ探しらしく、何かしら引っ掛かる庶民の「生の言葉」を求めて彷徨っていたらしい。

と、そういう辺りのインタビューを読んでいた頃に「ゴジラ−1.0」の米国アカデミー賞のニュースがはいってきた。


私の「ゴジラ−1.0」の印象は、脚本から特殊映像まで「机の上で考えて作られた映画」である。

先述の 市井の人達の生の声=何の計算もない生の台詞を拾う為に街に出向く脚本家の苦悩を「ゴジラ−1.0」には感じなかったという事なのだ。

加えて 特殊映像の制作もPCの中で行われるので、映画が正にデスクワークの賜物となっている訳だ。
そう考えると、ミニチュアワークを利用した従来の特撮は、ある種の「箱庭」で撮影が行われていて、現在のVFXで作られた特殊映像は、PCの中のビル街にミニチュアの表面のディテールを貼り付けているので、人間までをもPCの中に取り込んで、PCの中の 正にバーチャルな箱庭を見せられているような感覚が私には一番近い。

映画に限らず、漫画もドラマも、ありとあらゆるフィクションが、今「机の上で作られ過ぎている」ような気がするのです。

1954年に作られた「ゴジラ」は、正にその時代を生きた人達が その時代そのものを描いた映画だったけれど、「ゴジラ−1.0」では、その時代に生まれてすらいない人達が多少の取材はあるにせよ、しかし作劇の拠り所になる「時代」は 借り物。
ドラマそのものも 「しくじった男の再生譚」で、セオリー通りの展開で、そこに「早坂暁的 生の声=取材してまで」を感じなかったのだ。


ふと、そんな事を思った週末でありました。

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