今回紹介するのは、イラク情勢と共に同国のサッカーチームである。イラク代表は、AFCアジアカップにおいて、2007年の東南アジア大会にて、初優勝を飾った実績がある。
国の方は、2003年3月20日に米英軍が介入したイラク戦争で、バアス党サッダーム・フセイン体制の崩壊により、混迷を極めた。米英軍の治安維持部隊が駐留する中、新しい国づくりを進めた。自爆テロを含め、反政府勢力との武力攻撃により、毎日のように人命が失われた。今回イラク戦争後21年について考察する。
前回サッカー関連日記 ウクライナ
2023年12月21日付
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前回日本代表関連日記 アジア総合競技大会 男子サッカー決勝 日本 対 韓国戦
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第1章 イラク戦争発端
イラク戦争は、米英主導の下、有志連合軍によって行われた。当時のイラクは、バアス党サッダーム・フセインの独裁体制だった。国内で少数派のクルド人を弾圧し、多数派を形成するシーア派を冷遇し、自身が属するスンニ派中心の国家を築いた。強権的な手段で
、異なる宗派や人種が暮らす国家を安定させる。一方で、テロリストの支援を通して、反米感情を露にする。西暦2001年に米国の大統領の座に、ジョージ・W・ブッシュが就くと、テロリストとの本格的に衝突に発展する。イラクの運命も大きく変わった。2001年の9:11事件を背景に、アフガニスタンから、イスラム原理主義政党タリバーンが駆逐される。続くターゲットは、イラクだった。
2003年3月20日に軍事介入を初め、首都バクダードから空爆を行う。続いて地上部隊を展開し、4月9日にバクダードを制圧した。圧倒的な軍事力を誇る米英軍は、バクダードに駐留し、反対勢力を取り締まり、フセイン政権の幹部の身柄を確保するべく、捜索を続ける。
そもそも戦争の口実は、大量破壊兵器の所有にある。過去を遡ると、1980年から88年まで続いたイラン・イラク戦争により、アメリカはイラクに大量に武器を供与した。79年のイラン・イスラーム革命の波及を恐れ、米国に問わず、他の西欧諸国と関係を持つアラブ諸国も警戒していた。アメリカが武器を送り続けたことにより、イラン・イスラーム革命の影響は最小限にとどまった。シーア派を敵視するイラクは、隣国イランと歩みよれず、石油の利権を巡る争いの側面を持っていた。9年にわたる戦争により、国は人的資源を失い、経済も疲弊していた。戦争による傷から早く立ち直るべく、サッダーム・フセインは、1990年8月2日に兼ねてから自国領土とみなしていたクウェート侵攻へと踏み切った。イラクの国土でペルシャ湾に面している部分はごくわずかにとどまる。クウェートを抑えることにより、港への出口が広がり、交易により、富を得やすくなる。サッダーム・フセインのクウェート侵攻は、他国の反感をかった。1991年1月17日に、米国のジョージ・H・W・ブッシュ父大統領が主導する多国籍軍が、クウェートへ助け舟を出した。イラクは、軍事力の差を痛感し、100時間ほどで降参する。国連決議の内容に従い、クウェートから撤退し、多国籍軍に監視される立場に立った。アメリカ側からは、イランとの戦争の際に送られた武器を返却することを求められたのである。
2003年のイラク戦争において、アメリカ側は、サッダーム・フセインが、武器を隠し持っているとの言いがかりをつけて、国連の査察団を受け入れるように要請する。実際イラク側も監査を受け入れたとはいえ、大量破壊兵器を所持している証拠は見つからなかった。
結果的に米英は、国連の安保理決議を経ずに、その他の協力国に呼びかけ、武力行使に踏み切ったのである。NATO諸国の他にもオーストラリア、またロシアを中心とした軍事同盟CSTO(集団安全保障条約機構)からアルメニアが加わった。4月10日のバクダード制圧を経て、5月1日にアメリカのブッシュ大統領により、「戦闘終結宣言」が出された。従って、国連安保理決議1483に基づいてアメリカ国防総省人道復興支援室および連合国暫定当局(CPA)の統治下に入って復興業務が行われるようになった。
イラク戦争は、日本の安全保障政策を見直す景気になった。当時は時の小泉純一郎総理大臣時代である。2003年7月26日に、国会にて、数の力により、イラク人道支援特措法を成立させた。確かに、アメリカの口から戦争は終ったとされているが、散発的に争いは続いている。憲法9条に基づくと、戦闘地域に、武器を持った自衛隊を派遣することはできないはずである。当時、野党第一党だった「民主党」は、憲法9条との整合性から、反対意見を打ち出した。結果的に、議席数の多い自民・公明両党が賛成することにより、法案が通ったのである。2004年1月に、先遣隊が、イラク南部のサマーワに派遣され、オランダ軍と共に、傷ついたインフラ施設の修復を含め、人道支援に当たった。
詳細 写真掲載元 防衛省・自衛隊
https://www.mod.go.jp/j/approach/kokusai_heiwa/terotoku/iraq/gaiyou.html
米英は、治安維持には苦労した。バアス党政権が確保していた物資の輸送ルートが途絶えたことにより、現地治安維持部隊が回復に努めなければならなかった。バアス党の支持者を含む抵抗勢力によるテロも後をたたない。いわゆる無法地帯と化したのである。
第2章 戦後のイラクの政治の鍵を握るサドル師
日本が自衛隊を現地に派遣した頃、最大規模の武力闘争が起こった。中部のファルージャにて、抵抗勢力が、反旗を翻したのである。発起人は、ムクタダー・アッ=サドル(1973年8月12日生まれ)氏だった。
写真=サドル師 出展:ウィキペディア
イラク戦争後、影で国に影響を及ぼす人物となったのである。当時30歳の彼は、シーア派(十二イマーム派)のウラマー、イスラム主義政治運動を展開する。高位学者だった父が、シーア派を嫌うサッダーム・フセイン政権に暗殺された過去がある。反政府勢力の急先鋒に立ち、米英の軍事介入により、フセイン政権が崩壊すると、間隙を突く形で、勢力を伸ばす。民衆の支持を得るため、バクダードのシーア派居住域を中心に、事前事業活動を行う。民衆に寄り添い、シーア派中心のイスラム国家樹立を掲げ、外国の駐留部隊の抵抗勢力となるマフディー軍を創設する。CPAによって結成されたイラク統治評議会を公然と批判し、イスラーム国家を築くべきだと訴えた。イラク国内の宗派では、シーア派6割に対して、スンニ派4割である。国内で多数派のシーア派は、フセイン政権から取締りの対象になった。晴れて、シーア派は表舞台に出るきっかけになったとはいえ、必ずしも一枚岩ではなかったのである。高位法学者アリー・シスターニー(1930年8月4日生まれ)を指導者とする主流派や、ムハンマド・バーキル・ハキーム率いるイラク・イスラム革命最高評議会などの親米的な穏健派と衝突した。軍事権を米英に握られている以上、イスラーム国家の建国を主張するサドルは、出馬すら厳しかった。8月25日に、マフディー軍は、ナジャフにて、米英海兵隊と武力衝突をする。ロンドンで心臓病の治療を受けていたシスターニー師の仲介により、大きな戦闘にはならなかった。
シスターニー師は、バクダード南方のスンニハ地域のサラフィー主義者に対して、争いを起こさないように自制を呼びかけている。西欧諸国は、イラク戦争後、国内で最も影響力のある人物と評している。2021年3月6日には、イラク訪問2日目となるローマカトリックのフランシスコ教皇と、自宅のあるナジャフ市で対面していた。ナジャフは、シーア派の歴史を刻む町である。中でも、初代イマーム(宗教指導者)のアリの廟があるアリ・モスクは、聖域のような存在だった。ローマ教皇とシーア派の権威との会談について、詳しく明らかにされていない。
写真 左側シスタニー師 右側フランシスコ教皇 掲載元 AFP PHOTO / HO / Vatican News
シスタニー師は、事務所を通して、教皇に対して、キリスト教を保護する意向を語ったことを明らかにした。バチカン・ニュースによると、イラク戦争を挟んで、キリスト教徒の数が、150万から30万へと減少していた。フランシスコ教皇はイラク訪問3日目に、北部のアルビルでミサを行い、ISに占領されたモスルを訪れた。イラク国内で、キリスト教徒が数多いカラコシュでキリスト教徒と交流した。一時はISILに占領された町で、人々は信仰を守り通した。国内で多数派を形成するイスラム教シーア派の権威シスタニー師に、キリスト教の理解を求め、同意にいたった。減少の一途を辿ったキリスト教徒が、安心して暮らせることを、カトリックの教皇は願っていた。
平和路線を貫くシスタニー師と対照的に、サドル師は、時に力で押し通す強行派でもある。シーア派が中心のイスラム国家の建国を目指したサドル運動は、米英軍に阻害され、小康状態になった。2005年1月30日に米英軍の下で、イラク初となる選挙が行われていた。米英は、民族や宗派に配慮し、バランスのとれた政府の発足を目指していたのである。大統領の座には、クルド人のシャラル・タラバニ氏が選出された。
第3章 不安定な政局 ISILとの戦い
2004年4月28日に暫定政府から移行政府へと権限が委譲された。同年末までに新憲法制定に向けた国民投票を行った。暫定選挙を行い、2005年に新憲法が発足する。サドルは、治安維持部隊に見張られ、出馬すら厳しかった。同年12月に国民議会選挙が行われ、翌2006年5月20日に新政府を樹立する。移行政府時代から引き続きタラバニ氏が大統領職を努め、首相にシーア派のヌーリー・マーリキー氏(1950年6月20日生まれ)を指名した。
写真=マーリキー首相 出展:ウィキペディア
マーリキー氏は、フセイン政権時代の1980年に死刑判決を受けて、シリアへ亡命している。フセイン政権の崩壊に伴い、23年ぶりに帰還を果たし、移行政府時代には新憲法草案の策定に貢献した。同じシーア派大国のイランとは、かつての戦争の経緯から距離を置き、イスラーム主義のサドル師に警戒を強めた。フセイン元大統領は、2003年末に密告により、潜伏先を突き止め、逮捕・投獄している。2006年に裁判を開き、絞首刑の判決が下り、同年実行に移した。フセイン大統領の処刑には賛成し、政策においても、国内で6割を占めるシーア派に有利なように展開する。国内で4割のスンニ派の中には、少なからず、マーリキ首相を引きずり下ろすべく、計略を企てるグループも存在する。秘かにシーア派を嫌うサラフィー主義のISIL(イスラム国)と繋がり、2014年6月の武力衝突に繋がったとの見方もされている。2014年6月28日に、ISILは、イラク中部ディアラからシリア北部アレッポにかけての領域を、自国領土だと主張した。いわゆる国家宣言を意味する。ISILの拠点はシリアのラッカ、第二の都市モスルを掌握し、バクダードへ迫る。結果的に拠点のシリアにて、反政府勢力の攻勢が強まり、バクダード入りを諦めた。支配地域での抵抗勢力との戦いにより、徐々に勢いを失う。2017年に入ると,米英を中心とした有志連合による掃討作戦が進展する。7月10日には,イラク最大の拠点であった北部・モスルに、親イラン派のハイダル・アバディ首相が入り、勝利宣言をした。ISILとの戦いで政府側はモスルを奪還したとはいえ、犠牲は大きかった。国連の推計によると、旧市街だけでも5000棟以上の建物が損壊し、490棟が破壊された。
詳細 モスルの戦い 2017年7月11日付け BBC JAPAN
https://www.bbc.com/japanese/40565316
同年10月には,「カリフ国家」の「首都」たるシリア北部・ラッカも陥落した。ISILはその後も支配地を相次いで失い,12月までに全ての支配都市・町を喪失した。イラク国内では、KRGの治安部隊「ペシュメルガ」が反転攻勢において一役かった。ISILによって占拠された地域の一部を奪還した。ISILは、シーア派を敵視することにより、一部のアルカイダを除き、他の武装勢力を敵に回す。事実上国家を喪失する中、山岳地帯に潜伏しながら、プロパガンダを続け、奪還の機会をうかがう。政治体制が混迷を極めると、ISILへの防衛網が弱くなる。
写真 掲載元 CNN.co.jp 2015年5月21日付
https://www.cnn.co.jp/special/interactive/35065020.html
一方現地イラクの治安維持を担っていた有志連合軍は、新政府発足と共に、徐々に手を引いていた。米英の当初の目論見は、石油資源の分捕りだったとみられている。治安維持には、莫大な費用と共に、兵士を危険にさらす行為に繋がりかねない。結局戦争の根拠となった大量破壊兵器は、見つからず、軍事行動の意義が問われた。2009年にアメリカの大統領は、共和党のブッシュ子から民主党のバラック・オバマ氏へと変わった。オバマ大統領は、平和路線を辿り、イラクから徐々に米兵を引き上げた。2011年12月18日に最後まで残った米国の100車両が隣国クウェートへ移ったことにより、イラクから完全に撤収したことになる。オバマ大統領は、「任務完了」宣言を出した。8年9ヶ月の間、治安維持に当たった米兵の死者は推定500人、現地人は11万5000人が犠牲になった。2014年に、イスラム国対策として、イラク政府の要請を受けて、再び米軍が駐留し、治安維持に当たるようになっている。
一方アメリカに協力した日本は、日本は復興支援のため、04年から06年まで南部サマワに陸上自衛隊を派遣。航空自衛隊によるイラクでの輸送支援を04年から08年まで行っていた。
詳細 アメリカの撤退 日本経済新聞 2011年12月18日付け
https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1800S_Y1A211C1FF2000/
第4章 米英無きイラク人による政治へ
米英無きイラクの中で、鍵を握るのは、サドル師だった。2004年4月5日に親米穏健派のシーア派指導者の暗殺事件の容疑者として、警察権を持つ統治評議会から逮捕状が発布された。サドル氏は、自身が創設したマフディー軍を率いて、徹底抗戦をする構えをみせる。イラクは、サドル師を中心とした反政府勢力が活動を続けることにより、局所的に争いが起こっていた。彼の同士は、選挙の舞台に積極的に出る。2010年のイラク議会選挙で初めて議席を獲得する。2014年には34議席まで躍進し、さらに影響力を高める。2018年には、イラク共産党と結んで新たな政党連合改革への同盟を立ち上げる。共産党の党首ハミード・マジード・ムーサとともに共同代表となり、選挙で54議席を獲得してイラク議会第一党に躍進した。
一方、サドル本人は選挙に立候補はしていない。2021年前倒し議会選挙(定数321)では、サドル率いるサドル潮流は、73議席を獲得し議会第一党となった。サドルは、表舞台に出ないとはいえ、同士が議会で多数派を形成することにより、国を動かすことになる。シーア派のイスラム主義を貫き、マーリキ政権時代からの議員の汚職を追求する姿勢を鮮明にすることにより、国民から賛同を得たものの、議会では孤立する。議会で過半数を得るべく、他の政党と連立交渉に入ったものの、ことごとく拒否されたのである。サドル潮流以外のシーア派勢力は、互いに結束して、「調整枠組み」と呼ばれる会派を結成し、連立入りに反対の姿勢をとったのである。議会自身が機能不全に陥り、2022年6月にサドル潮流の全議員が辞職した。法案に則ると、任期中に議員が辞職すると、代わりに落選した議員から、得票数に応じて繰り上げ当選される。新たに任命された議員は、シーア派でも、親イラン組織が中心だった。サドル潮流派の議員は、対立する親イラン組織に議席数でも下回ったことから、公平性を欠いていると訴え、選挙のやり直しを求めた。
サッダーム・フセイン亡き後、クルド人、シーア派、スンニ派に数配分する「権力分有型」の政治システムにより、国内の宗教・民族間の均衡を図り、大規模紛争を回避するように努めた。2011年までは米英の治安部隊に守られたとはいえ、敵愾心を抱くテロリストによって、一般市民が犠牲になる爆破事件が後を絶たなかった。治安維持部隊撤退後は、一部の国内勢力が、シリア内戦で台頭したISILと結託し、イラク国内の領土を簒奪する。
詳細 国際情報ネットワーク分析IINA
https://www.spf.org/iina/articles/mizuguchi_17.html
確かにバアス党フセイン独裁政権は、シーア派やクルド人の自由を奪う一方、議会の安定には繋がっていた。現在、議会においてシーア派が優勢とはいえ、イランとの関係を巡って、歩み寄れず、政権運営は厳しさを増す。2022年7月30日のことだった。サドル潮流派を支持する国民が、政府機関や外国大使館などが集まる旧米軍管理区域(グリーンゾーン)に侵入した。国会議事堂を占拠し、8月2日の段階でもとどまり続けた。イラク政府の治安部隊や親イラン勢力の支持者らが、抗議の声をあげ続けることにより、銃の発砲が相次ぎ、100人が負傷したとみられている。サドル師の支持者らによる議事堂の占拠は7月27日に次いで2度目になった。8月29日午後1時付けで、事態の混乱を収めるべく、サドル師は、政治生活からの引退を表明した。支持者が再び、グリーンゾーンに繰り出し、治安維持部隊と武力衝突に発展する。同29日に、イラク議会は、首都から始まり、国内全域に、外出禁止令を出す。翌30日に事態の沈静化を受けて解除した。サドル潮流派の支持層の国民には余力が残っていなかった。
2022年10月27日に、イラク国民議会は、ムハンマド・シヤーウ・スーダーニー氏を首相とする内閣を承認した。首相就任に合わせて、経済改革や汚職撲滅、公共サービスの改善、貧困や失業対策を含め、抜本的改革に着手すると表明した。また2021年の国民議会選挙で第一党を勝ち取ったサドル潮流派に配慮し、3カ月以内に選挙法を改正し、1年以内に議会選挙を実施することを約束した。
詳細 写真掲載元 REUTERS 2023年4月5日付 写真:左 バルザニ議長、右: スーダーニー首相
スーダーニー首相は、冷遇されていたクルド人とも和解へ向けて、協調姿勢をとる。2023年4月4日、クルド人自治政府(KRG)との間で、トルコを経由する石油輸出再開に関する暫定的な合意に調印した。KRGのバルザニ議長は「最近クルド人自治区からの石油輸出が止まったことで国全体が打撃を受けている。今回の合意は切望されている収入をもたらす」との声明を発表した。石油の供給網を調えることにより、上昇の一途を辿る価格を抑制する狙いがある。
10月7日に、ガザ紛争が起こると、スーダーニー首相と、同国のアブドゥルラティーフ・ラシード大統領は、即日パレスチナの主権を支持すると表明した。同国では2022年5月に、イスラエルとの国交正常化は犯罪行為とする決議を可決している。11月5日に、スーダーニー首相は、隣国イランの首都テヘランへと飛び、ライシ大統領と会談した。イスラエルを支援する米英独を非難し、ユダヤ人によるアラブ人への、「ジェノサイド」と糾弾した。西欧諸国も一目置く存在のシーア派の権威シスタニー師も、イスラエルの軍事作戦を非難する声明を出した。「70年にわたって続いているこの名誉ある人々の正当な権利を実現し、占領を注視して悲劇を終わらせることでしか、この地域の平和と安全は達成されない。さもなければ侵略者への抵抗が続き、暴力のサイクルが持続して罪のない生命が奪われていく」
詳細 シスタニー師の声明 REUTERS 2023年10月12日付
https://jp.reuters.com/world/security/H3R7IVXEHNNDJDKOA65OY3PH5Y-2023-10-12/
米英有志連合軍の下で国作りが進められた中、イラク議会は一貫して、シーア派から首相を選任する。フセイン時代に政治の中心を担っていたスンニ派が、一転して冷遇される中、シーア派との溝も深まりつつある。クルド人を含め、互いに戦争を起こすことなく、民主的な政治体制を続けている。
第5章 第4章 AFC アジアカップ レポート 写真 掲載元 スポーツナビ テキスト速報
https://soccer.yahoo.co.jp/japan/category/men/game/2024011901/text?gk=15
AFCアジアカップ・カタール大会 1次リーグ D組 第2節、日本 対 イラク戦が、日本時間1月19日午後8時30分、アル・ラヤーン市にあるエデュケーションシティ スタジアムでキックオフする。初戦で勝ち点3を積み上げた両者は、この試合に勝利すると、グループ1位突破が現実のものとなる。右エンドに日本、左エンドにイラクが入り、試合が始まった。イラクが開始早々から畳み掛けるように攻勢をかける。開始3分に、ジャーシムが、ミドルレンジから左足でシュートを打った。微妙に回転がかかったボールを、重心を左に傾けたGK鈴木がパンチングではじき出した。球が微妙に揺れるように落ちた分、無難にパンチングでゴールを逃れた。フィジカルを全面に押しだすイラクは、前半4分に早くも先取点を奪った。エリア内の左からジャーシムがクロスをあげると、前目にポジションをとったGK鈴木が横飛びしながら、右手でボールを押し出した。トップのフセインが、セカンドボールを胸で受けて、シュートを打つと、ネットを大きく揺らした。イラクが先制した。狙い通り、前に人数をかけて、日本を圧倒することにより、ゴールに繋がった。イラクは球際に強く、パスを繋ぎながら、ボールポジェッションを高める。日本は受身になっていた。16分、トップ下の久保が、センターサークル付近をドリブルすると、トップのフセインとトップ下のバイシェッシュに挟まれ、ファウルでとめられた。技術で勝る日本は、右サイドに基点を作る。26分、トップ下の久保が、右サイドの伊東純也にパスを出す。伊東純也は敵陣の深くからクロスを送った。ターゲットになるトップの浅野にボールが入る前に、GKハッサンがパンチングで大きくクリアした。
イラクは、時間帯によって波があるとはいえ、守りに入らず、前からプレスをかける。45分、センターサークルの中でボールを受けた浅野に対して、センターバックのナティクが厳しくチェックをかけた。
48分にイラクは追加点を奪った。左サイドバックのアルハッジが、菅原を振り切って突破を図る。エリアに入ると、遠いサイドでフリーになったトップのフセインにクロスを送った。先制ゴールのフセインは、伊藤洋輝に競り勝って、ヘッドでボールをたたきつけた。体を瞬時に倒したGK鈴木の股を抜けて、ネットを揺らした。2対0.フセインは、スピードを殺さずに、ボールをたたきつけたことにより、今日2点目のゴールを決めた。
前半は、終始イラクペースで終えた。日本は、攻めあぐねる展開で、大きなチャンスがなく、劣勢にたたされていた。
後半は、一転して、ボールを回す日本に対して、イラクは守備に入る。日本は後半12分に、トップの浅野が、エリア内で、相手のアリハイダルと接触して倒れ、一時はPKの判定が下った。VTR映像を検証した主審が、新たにノーファウルとの判断を下し、PKは取り消された。37分、南野が右サイドを突破し、ゴール前にクロスを送った。トップの前田がヘディングで合わせた。しっかりと頭に合わず、ゴールポストの左にそれた。
47分、左サイドからのコーナーキックポジションに交代出場の旗手が付いた。旗手の蹴ったボールは、カーブを巻いていく。前に飛び出たGKは目測を誤り、キャッチングできずに、態勢を崩した。開いたゴールに、遠藤がヘディングシュートを打った。しっかりと頭にミートし、ネットに飛び込んだ。1対2.遠藤は体制を崩すことなく、頭でボールをたたきつけた。
日本は後半攻めに攻めたものの、同点ゴールを奪えず、試合終了のホイッスルを聞いた。前半から、力で勝る日本の勢いを削ぐように畳み掛けるようにプレスをかけたイラクの作戦勝ちだった。前半後手に回った日本は、タイトな守備陣を最後まで崩せず、課題を残したゲームである。大歓声に後押しされたイラクのハードワークの良さが発揮された試合だった。
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=266&from=diary&id=7718069
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