mixiユーザー(id:25865376)

2024年01月19日17:00

9 view

辰年最初の投稿、良い按配の仲間たちの今月の投稿&コメントのうち、三つ紹介することにします。

◆ 初台 太郎
◇ 黒澤明監督『生きる』から学ぶ、社会、国家と個人の、基本的メンタリティーの回復
主人公はもはや(当時の医学では)助からない状況にあった。末期の胃ガン。男で一つで子供のためやもめで「がい骨」とあだ名されても、なんにも気づかず何んもせず無難に生きていた某市役所の課長。
当時の医師倫理から胃潰瘍と隠す。が、ひょんなことから彼は真実を知ってしまった。
あわせて、絶望のその日の夜手塩にかけた息子とその連れ合いも、ひょんなことから自分の相続財産のことしか考えていないことをも知る。男は、ただひたすら絶望のどん底に落ちた。
定年間近だった。が、役所生活初めて無断欠勤し歓楽街を彷徨う。
.
時代の背景は1952年の敗戦から、わずかの日本。
絶望と期待の混沌の活力の漂う、何とも妙で形容しがたき幕間の、フォース渦巻く再生へ向かう日本の姿を、カメラの先に見る。… 雑多な街中のフォード車や街頭に立つ娼婦、ダンスホールや、パチンコに、ストリップ劇場…。それは異常な緊迫の戦時と、我欲と格差の騙し合いに翻弄されている時代との、戦争と平和の(つかの間たる)はざまだ。
決して失墜一辺倒という気はしないのが不思議で、正直なその堕落と混沌は、再生に必要な熱気を含む、純粋さに見える。
.
…場末の飲み屋カウンターで、しがない文章を書いているという小説家と出会った。ある薬を譲った縁で、彼に興味をもち事情を多少知った彼は、お礼を兼ねて、歓楽街をあちこち案内してくれることとなった。
課長のことを彼は磔刑前のイエス・キリストだ!と言う…。絶望の淵から解放される門の入り口に立つ者と…。
黒澤監督は、そこに生と死とのはざま、渡邊の救いとなる機会(はざま)と位置づけていたか?
.
…そんな逃避のさなか、天真爛漫な部下で課員、小田切とよが突然目の前に現れた。職場がおもしろくないので、退職届に課長の印が欲しいという。
やむを得ずにとよの退職印を押すため渡邊の自宅にいったん戻る…書式が違うなどと言いつつ、とよの退職印を押してやる。そのときふと、とよのストッキングのかかとに穴が開いていることに気づいた。
そこで家を出る足で彼女のために、当時高価だったストッキングを買ってやる。…自宅にいた、お手伝いと息子の嫁は女ができたと勘違いをした。
プレゼントに感激したとよは、渡邊の逃避行へわけが分からずつき合うことに。
.
しかし、ここまでで絶望の渡邊は、先の自分の生と死の穴を埋めてくれるものが未だ見つかっていない。
一般論だが、「不安」や「恐怖」がある個人は、ストレスによって身体は締め付けられるようになって、自然な自己回復のメカニズムも崩れるという。だから、真実を知っても、無意識に闘ったり逃げ切ろうとする。
「社会」自体は貧しさと堕落と、未来への希望と生きる活力で、満ち溢れ、敗戦の絶望に対して、「国家」も直面し居直ることでしこたま強かに生き延びていこうとしているかの中…。
『生きる』ー むしろ、社会や国家の動きと相応した姿が自然なのではないか。逃避や闘争へ、不安や恐怖で走るのは、直面し流れに素直な自己回復の自然なメカニズムとは離反するのではないか。不安や恐怖自体が治癒の流れを創り出す…赦しと受容を経ていく心で…。
.
主人公を街の作家にキリストと、黒澤監督は喝破させた…、絶望の淵に落ちた人がいて、それがキリストのように魂の「生」を求めているのだ。
そうして、「怖れ」や「不安」「恐怖」が導く「絶望」は、シャワー(浄化)を浴びるよう迫らせる…。.
「がい骨」と課長ををあだ名した(歯牙にもかけなかった)部下のとよへ、絶望からの解放の知恵を求めていく。
真に『生と死』のハザマを埋める何か。それは混沌と堕落と廃頽漂よう活力で、そのフォースが意図せず何かを変えようとする。
社会及び国家と渡邊の幕間におけるフォースは、孤独の絶望を介して活力を与えている。向かうべき方向を。自由と平和、純粋な未来への希望や渇望の光を。
.
…そんなになぜ、生き生きとしているのかと、とよに尋ねる。問われたとよは、退職後小さなねじ撒きのウサギの玩具を作っているに過ぎない…そのおもちゃをポケットから出して、これが子供たちと繋がっていると思うと楽しくなる、課長さんも何か作ってみたらと言った。
…食い入るように聞く渡邊。
それが渡邊のバースデーとなる。
.
…おもむろに、元の役所へ戻った渡邊は、たらい廻し繰り返し横に寄せた書類の中から公園建設の陳情書をとり出す。
渡邊は残余の日々を、唯一埋める自分の光を見つけて、一途に子供たちのための公園建設に進んでいく。
.
助役室へも先例を排し何度も足を運ぶ。通路に待ちわびていたやくざの数人に絡まれ、首根っこを絞められた。が、一言も発することなく、死の覚悟の凄みで、親分の(宮口精二扮する)睨みにも渡邊の自然体は勝つ。
直面し受容して赦しすべてを押し流す。大奉仕が、生の確信的で普遍的な静かな愛の前に置かれた。
絶望は、今ここの「生」の浄化をエネルギーとして生み、死という孤独と絶望への、純粋な意識を希望と歓喜へと変えたかのようだ。
.
いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日(あす)の月日は ないものを
.
いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪(あ)せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを
(中山晋平、松井須磨子の大ヒット。劇中「大正のラブソング」)
.
完成した公園の雪降る中のブランコで、その「ゴンドラの唄」をうたい、その一生涯を閉じた。
… いと惜しみ楽しむような平静な歌声を、(最後の焼香の)帽子を届けに来た夜回り巡査が聞いていた。
..
..
◆ 山崎 順子
「社会、国家と個人の、基本的メンタリティー」を、今世界の人々は回復しなければならないのは事実です。
たとえば、統一教会がしたことは、形式的なイデオロギー対立が人間世界のすべてのことで、その対立に勝てば人間界のすべてが解決するかのように装って、この人間世界の本質に浅い層を作って蓋をしたことです。
そしてその「欺瞞的行為、ただの無智の闘争」は、現在の世界のいたるところで論点を変えながら、行われているのです。
日本の今でいえば、それは顕著な政治不信の主たる一因となっています。
.
この国のメディアと、政治世界、宗教世界などは、(意識ないし無意識に)「欺瞞的行為、または無智」を喧騒かまびすしく、浅い層の一定の(…芸能、スポーツ、金儲け、セックス等)枠を設けて、人間にとってもっとも切実で必要な本質的ことがらを遠のかせています。
当たり前のそれら核心から、目をそらそうとしているのです。
「一定の枠の制限を設けた」浅さで、国会やメディアは議論を一定の枠から先へ自由にあたかも何もないかのように進ませません。
そうした意図的な錯覚は、ノーム・チョムスキーがいうように、現在の誤ったシステムの前提から、私たち人類が出られない(先へ進めない)、最も重要な『生きる』尊厳をめざせないー理由なのだと思います。
.
「 人々を受動的で従順な状態に保つ賢い方法は、受け入れられる意見の範囲を厳しく制限しながらも、その範囲内で非常に活発な議論を認めることだ。
そうすることで、人々に自由な思考が行われているという感覚を与える一方で、
議論の範囲に制限が設けられることで、常にシステムの前提が強化されることになる。」( ノーム・チョムスキー )
.
.
◆ 木霊 禅
このように難病にかかったり、大切な何かを失い、目指したなにかがうまくいかなかったとき、「不幸」と感じる人は多いはずです。
しかしそれは魂的な「喜び」を失うこととは別です。
ここでいう「喜び」には「青春の幸福感や(保身欲の背後に身を隠す)利己的な孤立の中の自己中心的な満足」は含まれません。そうしたものには「喜び」が生まれてこないのです。
.
周知のように、この映画の主人公は、不知の病で「不幸」な状態に陥れられました。絶望感と死の恐怖がある状態です。
そのパーソナリティは目下「深い悲嘆と不幸のただなか」にあります。
しかし、ここでいう「喜び」とは、そうした状況だから生まれてくるものです。
パーソナリティとは別の新たな次元で、不幸及び絶望感が、『生きる』新たな意義を目覚めさせるわけです。それが無いとその価値は死んだままです。
.
主人公のように追い詰められなければ、別次元の、新たな価値が生まれてこないのです。
逆にいうなら、通常私たちは日々の生活のなかで、パーソナリティ段階での「幸福」か否かだけを問題として生きているだけです。
さらに上位の霊的レベルでの目覚めにあたる「至福」など、さらに遠い存在となります。
「形態の破壊があらゆる進化の秘訣」です。「魂の拡大」が限定され妨げられているとき、「絶望」が創られるのです… 幸福か否かの次元で。
.
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する