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2023年08月17日09:10

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あの世への旅立ちの【覚悟】が有るかと問われたら?。死後の世界へ旅立ちの霊道と霊界ゲート(門)の所在。霊界ゲートを突破するには覚悟が要る

 私は霊的世界に関わって、この世は魂の修業場なので宗教で語られる【人は死後はあの世と呼ばれる世界に旅立つ(帰還)】とする教えはよいとしても、その霊界への旅立ちに関して既存の宗教はあまりにも無知で来たと解って来ました。

 私が生まれた家は普通の仏教徒の家で、死者は三途の川の彼岸(向こうの岸)に渡る。そうした知識の元で来ました。そして稲荷神界と呼ばれる日本神道系の狐霊界を通して学び、死後に渡る川を三途の川と呼ぶ理由は死後の世界には天国界・中有界・地獄界と呼ばれる三途の方向への行き先がある。で、三途の川。そうしたことを知るとなりました。そうした知識は霊的世界に関わると、最初に知るところとは言えます。


 日本人のほとんどは仏教徒なのであの世(彼岸)に渡る川を【三途の川】と呼ぶ程度の知識は誰しもあるでしょう。しかしながら仏教の僧侶でそうしたことを説明する者に出会うか?。となると、南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏の御題目を唱えていれば良いとは言っても、ほとんどの僧侶は説明すらしないでしょう。死後に彼の岸に渡る川ならば、その川はどうやって渡るのか?。橋があるのか?。それとも舟で渡るのか?。世に神としてスピリチュアル標榜者の前に出て来る神や天使と称する連中も語らないなのです。

 何も知らないでいると三途の川とは三本の川が在るのかとも思ったりします。一本の川が三通りの川に変化する等は物質界たるこの世では在り得ないのですが、霊界は【識界】であり、識界は自在に変化して来ます。霊的に見聞して来ると、驚くことになります。為には霊界には【型】が必要とか、横のつながりを理解出来ていないとこの世の感覚では解らない世界と言えます。

 霊界は自在と言われていますが、霊界でも自分の意思で何もかも自由になるではないのです。その辺がスピリチュアルでは霊界では何でも好きに出来るのです。霊界では自由なのですよの間違った教えが蔓延ったと言えます。この三途の川は本人に霊的能力があれば、その存在は解ります。


三途の川の存在は、宗教ではなくて閻魔庁に関わる?


 私自身一部の霊界を見聞して、それまでの私の知識には霊道とか【霊界ゲート】の存在に関してよく知らなかったがありました。それは既存の宗教は霊界にも霊界の道たる霊道と呼ばれる道がある以上、霊界の道にも【関所】と呼ばれるゲート(門)が存在している。そのゲートを守護している役人は?。そうしたことがほとんどの宗教で語られていないがありました。そうした事柄は行者と呼ばれる実際に霊界と関わる人達を通して知るなのです。

 スピリチュアル標榜の人達は霊界は自由にどこにでも行けるのですと主張している以上、霊道とか霊界の関所(ゲート)を語らないがあります。もしも霊界にも霊道や関所(ゲート)があるならば、霊界はどこでも自由に行ける世界という主張は嘘だとなります。その霊界ゲートを自分の意思で通れるかどうかなのです。


宗教界は【霊道】や【霊界ゲート】の存在を語っていない


私が霊界から授けられた鑑札は霊界ゲートの通行手形

フォト


 私が霊界から頂いた鑑札には【○十】の紋が入っていましたが、これは大本教霊界物語に【○に十字は、みろくの神の御紋章の定め】とある様に、【みろく大神】と呼ばれている神の紋章なのです。別名【薩摩紋】とも言われています。私はそのみろく大神の従者なので、○に十字の紋の鑑札を持つなのです。また幕や旗に使用が許されているなのです。

 ただ巷には俺は凄いのだ!。そうした豪語をされる霊能者が後を絶ちません。ある方は自分は億単位の龍神を従えている。あんたは単に天帝の使いたる天使の一人に過ぎない。俺達に勝てるような霊力を持ってはおられない。自分の相手にはならない。そうしたことを言われましたが、果たしてそれで霊界の関所を通行出来るのか?。いくら億単位の龍神を従えていたとしても、そうした問題が横たわっているなのです。

 龍神の力とは【数】の多さではなく、その龍神の次元格の違いで話にならな桁違いの差が出るのです。


 人の死の原因としては病死等が多く、病死等はこの世を去る前に霊界から御迎役と呼ばれる霊が事前に迎えに来られるなどで、霊界への道案内する者が居ることで迷うことが説かれることはありません。ただ突然の事故死などはその御迎え霊が来るのが間に合わず、その場に本人が留まることから幽霊騒ぎが起こり得ます。本人が死ぬ間際の内容に恐怖心が伴うようなトラウマを発生させない限り、時間の経過と死後の供養でそうした幽霊は消えて行く(本来の治まる場所に行く)が見られます。

 ただそこにそうした迷い霊(不浄仏霊)が霊媒体質者に憑依すると、とんでもないことが起きるがあります。そうした霊の憑依には神仏と関わることが出来る力を持った霊能力者に頼らなければならないが生じるなのです。そこに御経とか祝詞とかを必要とするです。御経や祝詞を知らないと【悪霊】から逃げられないはあるのです。


この世を去る前、恐怖を味わうとトラウマが起きる


魂に恐怖が焼き付くと、死後の世界も恐怖に怯える


 私は霊的世界に関わっていて、人が死ぬ時の状況がいかに大切かを知りました。天国とか地獄とかは自分のこの世の生き方で決まることです。自分がこの世で悪業を続けて例え地獄界に墜ちたとしても、それは自分がした行いの【自業自得】の結果であり。他人がとやかく言うことではありません。輪廻転生の元では例え地獄に墜ちてもその刑期を勤めれば、また人としてこの世に出して貰えるチャンスもあるのです。ただそのメカニズム(輪廻で魂の修業場)は間も無く終了するなのです。

 しかし自分がこの世を去るにあたって起きたる事象からの恐怖心で死を迎えると、その時に体験した恐怖心が自分の魂に焼き付いて、千年でも二千年でも霊界で苦しむが生じているのです。この世で自分勝手な人からパワハラ的なことを味わされて、心に【心的外傷(トラウマ)】を発症させる方達は少なからずあります。そうした心の傷は薬で片付くではないのです。


他人をパワハラで自殺させた様な者は、死後は地獄界


 人を呪わば穴二つと言われていますが、人を自分のエゴで死に追いやった様な人は天国界には進めません。自分を呪っている人達が一人残らず浮かばれた時、やっと天国界に入れる道が開くです。自分がした行為で恨みから地獄界に墜ちている魂がある限り、神の愛で何をしても赦されるなど、例えイエスとて赦されないのです。


この世に降りるは諸刃の剣で、自分の魂を潰しかねない


 自分に対してパワハラ的な事を言って来る人間に対して、何をこの野郎!。やるならやってみろと啖呵(タンカ)を切れる様な人ならばいいのですが、心(魂)が弱い人はその恫喝に自分の魂に心的外傷を発症させてしまわれます。そのトラウマは死後の世界にも及びます。

 その人の魂を浄霊してあげるでは、本人が自分の魂に焼き付けた恐怖心は解決出来ないのです。またスピリチュアルで見られる【貴方に光を差し上げます】等も、そんな安易の言葉で魂に焼き付いた心的外傷は消せず、何の解決にもならないのです。

 魂の世界では自分が魂に外傷を起こすような悲惨な出来事を忘れてしまう。それより道は無いのです。


自分が他人から受けた仕打ちを忘れなさいは


愛で罪人を赦すでなく、トラウマを起こさない


 もしも自分が他人から受けた仕打ちを何時迄も覚えていると、自分が恨みの世界から脱却出来なくなるのです。死後の世界でその身を蛇霊に落としてでも、自分に対して醜い仕打ちをした子孫に祟っている事例があります。子孫からすれば自分がした行為では無い。御先祖様がした行為で自分とは何の関係も無いと反論されますが、その家系に流れる【先祖のカルマ】が理解されていないがあるのです。

 そこに自分に対して苛酷な仕打ちをした者のことも忘れてしまうがありますが、それは「愛」で罪人を赦すと言う論理では無いのです。死後の世界でその身を蛇霊に落としてでも自分に対して酷い仕打ちをしたその子孫に祟っていて、その怨みを果たしたとしてもその結果は虚しいだけなのです。


本人が納得するのは、目には目を歯には歯の同等の苦しみ


 そこに【目には目を、歯には歯を】があり、因果の法則【カルマ】が生じるとなります。 されど恨みを果たした時に何が残る!。一時は本懐を遂げたという満足感は起きるでしょう。しかし目的を果たしたならば、ムダな時間を経過した。そうした【虚しさ】も発生して来るでしょう。お釈迦様は【恨みとか未練】を捨てなさいと説かれましたが、人の魂の輪廻転生の過程(プロセス)では恨みとか未練とかは時間を無駄に浪費しているとなるのです。


 西洋では曲がりなりにも創造神と呼ばれる神の存在が説かれていますが、この日本は仏教を取り入れた関係で日本人には父なる神とか母なる神を仰ぐ感覚はありません。日本書紀では初発の神を【国常立尊】と記し、古事記では【天之御中主】と記している程度です。その国常立尊を【ウシトラ金神】として世に告げたのが大本教と言えます。当然にそれは伊勢神宮に鎮座する神霊ではありません。大本教が告げた神は西洋で言えば旧約聖書の神と呼ばれる神なのです。

 そこに大本教の出口王仁三郎聖師は自分と出口なお開祖は、旧約聖書に予言されているキリスト(ロゴス)登場前に二人の男女の大予言者が出ると予言された該当者であると言われたなのです。出口王仁三郎聖師は自分はナザレのイエスに何一つ劣っていないと言われていますが、霊界の次元格としてはナザレのイエスよりは上であったと考えられているなのです。出口王仁三郎聖師よりも霊的には下位で在るナザレのイエスは、そもそも本来の【キリストの立場】ではなかったなのです。


 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教では万物の創造神と呼ばれる神の存在を説いてはいますが、実際に人類はその神を見たのか!。となった時、モーゼ以外には見ていないとなります。もしその神が人類の上に臨んでいれば、既に人類はその神の元に集約を終えていたからです。

 未だその姿を人類の前に現しておられない万物の創造神と呼ばれる神が、世の立替えを起こされると言われている原因に、ノアの箱船で語られる人類が創造神と呼ばれる様な神に対する感謝心を欠如したから等が言われてますが、万物の創造神と呼ばれる神は人類が自分を拝まないからが主たる原因では無く。大本教の出口王仁三郎聖師に未だ起きてもいない未来に起きる出来事を告げさせて、それを的中させて自分が万物の創造神である事を証明させる。そこにあるのは、世に出ている神々には未来を知る神力が欠けているなのです。


未来を告げられない神は、さほどの神ではない


 私は、この地球上に起きるであろう大天変地異を事前に察知して、人類の魂にトラウマを起こさせない為に、その天変地異が起きる前に人類の魂をこの地球上から救助するが【主因】ではないかと、自分勝手な読みをしています。

 旧約聖書の神と称する声から、【みろくの世とは、この地球上ではなくて新地球上】と聞かされましたが、新地球を知る人達からは、その新地球はこの地球に【もしものことがあれば、そちらに人類を避難させる為のバックアップ(予備)地球】として、宇宙創世時に産み出された【双生児】星であるとも告げられました。単にこの地球が次元上昇してみろくの世に入るではないなのです。

 巷には自分は凄いのだと豪語する霊能者の方はそれなりに居られます。そうした方達は自分には何百万何千万の龍神が従っている。その龍神達を動員して、この地球のエネルギーを調べたがこの地球には何の異常も無いとの報告を受け取っている。そうしたことを言われます。そうした龍神達がその方に億単位で従っていても、そうした龍神達がこれまで予言をして予言を言い当てて来たかとなると、何の実積も無いとなります。


大本教は数々の予言を言い当てて来た実積を持つ


 私はある自称救世主の元に集っている信徒達の会合に出席して、その信徒達の霊的な服装を見ていると、全員が全員。白の死装束姿で額には三角頭巾をしているのが見えて来たがあります。現時点でこの世に生きている肉体を持ちながら、その霊体の額に白の三角頭巾が見えるということは、その人達の魂は死後は地獄界に墜ちる亡者道を歩いているなのです。

 大本教の出口王仁三郎聖師は霊界物語に【信徒を天国に案内すると言いながら、地獄に案内している取次ばかり。】と述べておられます。その信徒達はそうした地獄に案内する類いの自称救世主をイエスと同様に信仰しているでした。しかしどうしてその信徒達は死後は地獄に向かう道を歩いているのだろうか?。その時にはその意味が解りませんでした。


 その信徒達はその教祖が説く【愛の教え】に狂い。その教祖の背後に存在する六次元界黒龍神が見せる霊光で、その人物が救世主だと信じさせているなのです。その自称救世主は自分を信じる霊能者に「自分は自分の信徒達を死後は地獄に連れて行き、地獄に自分が王として君臨する地底王国を創る」と言いました。愛という言葉で、自分を神だと信じる者達を地獄界に連れて行くです。その信徒達が死後の世界で行く道の光景が私に見えていたなのです。

 私は霊的世界に関わり、地底王国と言う世界に自分を絶対だと信じる多くの霊を集めて、そこに自分が【王】として君臨する王国を創る。それらの背後には【龍神】とも呼ばれる勢力も深く関わっているを知ったなのです。この世は創造神と呼ばれる神が絶対支配しているでは無いなのです。その地底王国を知るには、やはり【霊道】の存在があったのです。地獄(地底王国)に入る道。


神を語るから天国に案内でなく、地界に案内もある


スピリチュアルと言っても、天国への切符ではない


 私は子供の頃に自分に旧約聖書の神と称する声が臨んでいましたが、その神が本当に旧約聖書の神と信じているではないのです。逆にその神は本当に旧約聖書の神なのか?。はたまた旧約聖書の神と称する贋神かで、如何なる神なのかを調べて来たなのです。で、自分が疑って進んでいる以上、自称救世主の背後に存在する霊光の正体も見えて来るなのです。もしその自称救世主が本物であれば、私は直ぐにその方の家来にして貰います。


 日本の神智学で愛だけを言っている霊能者は【蛇霊】の容器と化した者達とも言われていますが、その背後に【龍神】と呼ばれる存在が出す光に惑わされて導かれるもあるのです。


霊界の光は正神邪神関係無く、火を燃やしたエネルギー


神は光だ!は、その論理が解らずに間違えてしまう


 ほとんどの宗教宗派は我が宗派の教えを信じる者は天国界で、異教徒達は地獄界に落ちるです。そこには自派の教えと他派の教えの違いを説明して、どうして他派の教えでは天国界に行けないのか?。そうした理由が何一つ述べられていません。キリスト教の様にイエス一人を主の御子だと信じれば天国など、誰がそれを証明するのだとなります。牧師は先人達が言っているから自分も信じる?。そんな考えでは霊的世界で真実を知るのは不可能に近いと言えます。

 私はイエスと思われる霊に何度か出会いましたが、イエス一人だけが主の御子などの教えを信じてもおらず、それで地獄界に墜ちるのであれば地獄界でもいいですよと言います。キリスト教が語る煉獄の火よりも、日本神話で予言する霊界に存在する天の岩戸の光の方が遥かに恐ろしいなのです。天の岩戸の光とは【最後の審判の火】であり、スピリチュアルで【神は光】だと言う様な光の存在では無いのです。霊界の光を見て、その光を創造神と言う様な人達は一人残らず騙されるを起こしているなのです。

 スピリチュアル標榜で神は光と言う光は【霊界の太陽】よりも遥かに劣っているなのです。


霊界の太陽を視認せずに、神は光だの光とは何だ!?


 スピリチュアルでは何かと言えば天使長ミカエルとか大天使ガブリエルで、確かに霊界には自分が天使長ミカエルとか大天使ガブリエルと称して出て来る様な霊達はいますが、どこをどうやれば彼等が本当に天使長や大天使と言えるのか?。さっぱり解らないなのです。もしそのその宗教宗派の教えを信じれば天国で異教徒は地獄界に墜ちるのであれば、地獄界とはどのような世界なのか?。その具体的説明がされていてもいいはずなのです。

 キリスト教の教義では冥府の長官(閻魔大王)をサタン(悪魔)としています。だが魂から見て行くと悪魔とは魂の真ん中が無いドーナツ型の【空く真】の形状の存在で、改心すればその【空く真】の部分が塞がって行くがあります。その時、悪魔とは何を意味しているのかが解って来るなのです。

 大本教からみろく大神を【666】とするが出されましたが、それはキリスト教の新約聖書では【悪魔の印】とされています。悪魔と言うよりも666は【反イエス】です。冥府の長官(閻魔大王)は、イエスを主の一人御子とは認めておられないなのです。そこには日本語で無いと意味が解けないを起こさせるのです。


 霊界を見聞をしていると妖怪の類いも存在しますが、それをもって地獄と言うのでは無いなのです。そもそも宇宙初発の神とは【人間の様な姿をしていたのか?】。そうした事柄にぶつかるからです。西洋の神智学で語られる創造神とは、どうしてもキリスト教社会で育った人はイエスが頭から抜けきれずに東洋の叡知を知らないで語ったがあります。西洋で神智学を語る人達は創造神は初発から今の私達の様な人間の姿をした存在だと思っています。そして宇宙司令官などの戯言です。

 イエスと呼ばれる存在を一度捨てないと、真理に到達は出来ないのです。仏教では無から有を生じたと説きますが、西洋神智学を振り回す方達は【万物の想像の段階】が知恵から抜けているとなります。


西洋神智学を語る者は【玉思惟】の概念が希薄すぎる


 私は霊界見聞をしている中で、自分に不思議な権限があること知りました。それは地獄に墜ちている霊を救う権限です。通常そうした権限は地獄の閻魔大王と呼ばれる存在の権限であり。一介の私がどうしてそうした権限を有しているのか解らないがありましたが、二番目の師匠からおまえは閻魔庁に属する判官の資格を有しているとのことで、その権限において地獄に墜ちている霊を救えると聞かされました。

 それは自分は救世主ですと称する様な話ではありません。その師匠は私を【地獄界の天使】とも言いましたが、天国界の天使よりも遥かに権限が強いなのです。確かに私の背後には【閻魔大王】と呼ばれている様な存在の神を見るがあります。その権限は地獄に墜ちている霊でも天国界に救えるです。

 私は全ての人の前世が見えるではありませんが、人によって【閻魔庁】がその人の前世の行いを見せてくれます。その方が犯した過去世の罪の重さは現世で可哀相だとか思っても、貴方を神の愛で赦して上げます等の言葉は出せないなのです。何故ならば、その人の行いでその魂を恨んで地獄に墜ちている霊を救えずに、被害者を救うのではなくて加害者を救うという間違った行為に走るからです。今の世は被害者目線で無く、加害者を救うという誤った概念が支配しています。被害に遭った者達の魂の叫びを無視しているのです。


 自分が犯した罪は、何百年、何千年、何万年掛かろうと自分で罪の代償は払いなさいなのです。


過去の罪の償(人・賞)いを終えた人は賞される


贖罪は財で罪を売り買い、神の愛で赦されるは無い


 丹波の片田舎の綾部で発祥した大本と称した宗教がありました。その大本教神諭に【綾部に九つ花が咲いたならば、万古末代枯れぬ花であるぞよ。】とあります。その万古末代枯れぬ花は意味が解らないがありました。私が解き明かしたのは九つ花に咲く一輪の言霊です。それとは意味が違っていて、綾部には魂が天に帰還する【霊道】と【霊界ゲート】が存在しているなのです。

 霊道や霊界ゲートの存在も知らずに、我が宗派の教えを信じていれば天国等と言っている教えに引っ掛かっていると後で泣きを見るとなります。


仏教は【覚り、悟り】を説く。それは【覚悟】です


自分は創造神の元に帰る!。そこには【覚悟】がいる

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