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2023年08月03日10:12

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この世の演劇は【寅虎】で艮金神の牛虎の牛は仏教の守護神祇園精舎の牛頭天王でも、寅虎(演劇)に何を秘めたのか?。虎の漢字に隠された【七から八】

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 私が子供の頃は旧約聖書の神と称する声が臨んでいて、この世は魂にとっては束の間の時間で終わる世界である。この世は魂にとっては【悪を知り。善とは何かを学ぶ勉学の為の場所】だとも言い聞かされて来ました。昔は世間一般論としてこの世は魂を磨く場所と一部では言われていましたが、それよりも南無妙法蓮華経と唱えていればとか、南無阿弥陀仏と唱えていれば【極楽往生】が出来るの教えが広がり、自分の魂を磨くと言う概念の教えはほとんどなかったと言えます。

 その悪を知り。善を学ぶ為には悪を演じる者も必要で有り。もしも悪を演じる者が世に居なければ【悪とは何ぞや!】が学べないとなります。それではこの世に降りた意味すら無いのです。そんな世は【天国天人界】と呼ばれる世界で、天国界は悪は存在して居ない為に悪から善を学ぶには適していないとなります。

 この世は悪を演じる者を必要とする世界です。悪人だからいけないという論理では無く、悪の行為を憎んでも悪を演じた者を憎んではならないなのです。それが人を憎まず。その罪を憎めなのです。そこにあるのは愛で貴方の罪を赦すではないのです。何故にこの者は悪を犯したのか?。その内面を知ることが悪を許さない為の学びであって、表面的な善悪で判断をしてはならないと告げられたのです。

 すなわち閻魔庁とは表面的な犯罪を取り締まるのでは無く、その罪の【因】を知るなのです。仏教においてはこの世の出来事はカルマ(因)から生じる【縁起】によって発すると説かれて来ましたが、そこにはこの世に現れる【演技】はカルマ(因縁)の【縁起】が関わっているとなります。


この世の特徴は、魂の成長の為に【悪】も赦される


 仏教ではこの世は【苦界】とされましたが、霊界は【九霊界】として成り立っています。だがその九霊界を認識している方はとなると、ほとんど無いのが実状なのです。九霊界と呼ばれる事柄が解って来たのは、大本教以後の宗教からとなります。九霊界とは何かは知らないが、この世は【苦界】であると認識される方はあるなのです。そこには【九】の数字が【苦】を意味するがありました。

 大本教からはこの世は【天人の苗床】と出されましたが、この世に生れ出たからと言って死後に誰もが天国天人に成れるではありません。そこにはこの世は【苦界】の認識が出来たかどうかがあります。


古来より、人はこの世の辛さに堪えてその魂は磨かれる


 私は魂が汚れるとその魂の表面に【毛】が生えて来て、その人の行動は人の姿をしていても【獣】の様に成ることから、獣と毛者は言葉の意味が繋がっていることを学びました。魂を磨くには、自分は人の姿をしていても【毛者(獣)】には成らないの意味合いが秘められていたなのです。狐霊は毛物(獣)ですが、蛇霊もまた魂が毛物の部類に入っていたなのです。自分の魂が磨かれていると蛇霊や狐霊ではなく【天人】の世界に入って行くからです。


 では人はこの世に降りて来ると、何故に魂の世界における自分の事を思い出さないのかとなりますと、その旧約聖書の神と名乗る声は【この世の学びにおいては、魂の世界の自分を思い出さない方が魂の為になる。この世に降りた魂が、自分が居た魂の世界のことを思い出さないのはこの神の「恩寵」である。】と告げられたなのです。

 スピリチュアルの世界では霊能者江原啓之さん以後【その人の前世を教える商売が盛ん】ですが、スピリチュアルで語るその人の前世は必ずしも正しいとは言えません。それは人は大本教から【人は霊(ひ)止(と)】だと出されたように、人には【霊の憑依】があり。その肉体を支配しているのはその人の魂なのか、別の霊の憑依による支配なのかが解らないがあるからです。今やそうした霊の憑依を受けた人が言う言葉がまるで正しい様な見方をする世の中に成ったなのです。それは万物の創造神からすると、この世は魂の修業場としての価値を失ったなのです。


 私が言霊の修業時代、言霊の師匠であった方から私は毎日毎日違う霊の憑依を受けているで、誰が私に憑依しているのかを毎日霊媒者を通して調査がなされていました。肉体の私は自分では何の変化もしていないと思っていましたが、数千体に及ぶ神霊達に日々憑依をされていたなのです。

 私が大量の霊に憑依されていたのは、並外れた浄霊能力を有する霊媒体質者であったがあります。多くの神霊が私の肉体を通して自分の魂の霊的浄化をしていたなのです。それはこの世が自己の魂を浄化する場所でもあり、肉体には霊を浄化する作用があるなのです。もし人の肉体に霊魂の浄化という働きがなければ、魂がこの世に降りて来るメリットがあるのかとなります。


 この世は天人の苗床とか魂の修学場と言われている理由として、この世では魂が善悪を学ぶ為に【理不尽や不合理】な事柄がまかり通ると言われています。この世は魂の勉学の為の場であり、【天国界】ではないからです。この世において一定の修学を終えた魂のみが天国界への切符を手にするです。

 その旧約聖書の神と称する声は、私にこの世に起きる出来事は【神の舞台の演劇(寅虎)であり。今の世に出ておられる神々とて、この神が主宰するこの世の舞台の観客の立場でしかない。】と告げられたなのです。すなわちこの世に関わっている神々とは、創造神と言われる神のことはよく解っておられないが本当のところなのです。

 それ自体は大本教霊界物語に【幽の幽界。幽の顕界。顕の幽界。顕の顕界】と出されました。この世に関わっている神々とは主に【顕の幽界】の神々で、霊界でも幽の幽界ともなりますと、まったくもって解らない神の世界となるなのです。


 お釈迦様が開かれた仏教の根本道場の祇園精舎の守護神は【牛頭天王】として知られます。その牛頭天王の姿は牛頭の人型であったです。私は霊的世界に関わっていて三つ目の青黒忿怒相の大黒天と思しき霊に出合い、その時には鬼よりも牛顔をイメージしました。おそらく牛頭天王も、そうした三つ目の姿でなかったのでないかと推測しました。

 今の人種でない超古代の人種には【三つ目】の時代があったという説があります。その真ん中の目は衰退して今の人種には存在しませんが、霊的には第三の目は今日も存在していて、その真ん中の目で霊的世界を見ることが【心眼】と呼ばれ、霊能者のみならずスピリチュアル標榜でもその霊的な第三の目の存在は語るなのです。


額の真ん中にある目でありながら、【心眼】とされる


 下記の絵はそうした三つ目の仏を描いた【内成就法王】の絵で、通常は【魔王】と呼ばれたりもする仏です。


超古代の神々とは、今の私達の様な人型ではなかった

フォト



 私は稲荷神界で四年間ばかりお世話になった後、言霊の世界に転じました。稲荷神界の白狐の世界とはある意味楽しい世界なのですが、真理とはほど遠い世界と言えます。御利益を貰っていればそれで良いで終わるのか?。御利益よりも真理を追い求めるかです。私自身は伏見稲荷山に修業に入って、蛇霊や狐霊は神霊として崇められている!。では人間は死後にどこに行った?。となったなのです。

 聖書では【初めに言葉は神と共に在った】としますが、言葉(ロゴス)と言う意味と日本で【言霊】と呼ばれる意味合いは別のことなのです。その言霊の世界とは【大本教から世に出された言霊(日本語)】に関わることで、そこには【艮】金神と呼ばれる神の存在を日本の言葉で知るがありました。


言霊の存在を知らずに神や霊を語ると間違える


真理より、奇蹟等で神の存在を説くと魂が説けない


 その言霊の修業時代。私に牛頭の侍姿の霊の出現があり、この【牛頭】の侍姿の存在は何を語るのかとなりました。その時に私に出て来た牛頭の侍姿の霊は仏教の祇園精舎の守護神とされる牛頭天王ではないことぐらいは解りましたが、私が子供の頃には旧約聖書の神と称する声が臨んでいて、今世における私の役目として【モーゼ】と同様の役割を告げられていました。

 モーゼは牛頭の主とも伝えられていますが、私が見た牛頭の若侍姿の主は私の魂であり、私の魂にもモーゼ同様の使命が与えられているなのです。ただ私の場合はこの地球から新天地(みろくの世)に脱出を告げられたなのです。為か、私を見て貴方の前世はモーゼかと聞く方もありましたが、私の前世にモーゼ(大本教霊界物語では日本神名・天道別命)の時代はありません。


モーゼは四十年間荒野を彷徨い、四十一年目にカナンに至る


私は大本教神諭予告九つ花に咲く一輪の言霊を四十一で説く


 私は旧約聖書の神と称する声から、【そなたの前世は人の魂胆が見抜けないお人好しで、そうした魂胆がある者達に良いように利用されて最後は悲劇の武将でこの世を終わった。そなたの今生は人の魂胆を見抜く力の養いぞ。】と告げられました。私の前世が見えたと言われる方からは、貴方の前世は【源義経】でなかったのではないかと告げられるがありました。そして牛頭の若侍を見て、源義経が【牛若丸】と呼ばれた若牛の言葉と関係しているのかも知れないと感じたなのです。言葉の意味を知る為の役割です。

 私を見て霊界に存在するその源義経らしき侍姿の霊を見られた方達からは、その着用されている緋色の鎧の兜の吹き返しと呼ばれる部分の一方には太陽が、その反対には月が刺繍されていると告げられました。その霊世界に現れるその武将の兜の吹き返しの部分を見ますと、確かに一方には太陽が一方には三日月が象取りされています。それは単にこの世で源義経であった霊ではなく、太陽と月を従える【兜率天】の言葉の意味を指しているなのです。

 私の神霊界修業の世話をしていただいた豊受姫は、その緋色の鎧を着用した武将霊に【貴方は神界を血の海にする気ですか?。貴方が立てば神界は血の海になります。それは絶対にしないでください。】と告げられて、その侍姿の霊は姿を消してしまいました。


弥勒菩薩の【兜率天】。その兜の日月は何の意味か?


 私の前にこの源義経らしき霊(幼名牛若丸)が出てから、私に大本教が世に出した【五十六億七千万のみろく大神】を日本語で解読する【言葉の発想飛び(八艘飛び)】が起き出して、大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経緯(火水)】が私に紐解け出したと言えます。


 大本教から人類の前からその姿を隠していた万物の創造神の説明として、ウシトラ(艮)金神国常立尊として【艮】の漢字が出されました。艮は今は退いていますの退を教えますが、その艮に点(天)を付けることで【良(ら)】の漢字の意味が解るような仕掛けもなされていました。


大本教神諭予告九つ花に咲く一輪の言霊は【良】の仕組み


 その大本教神諭には、その【艮】のみならず【牛虎】もあるぞよと出されました。その牛虎は【節分の煎豆にも花が咲く】で牛頭虎パンツで【鬼と云う】から【魂】を語らせる事柄でもあったなのです。そして極め付けは大本教神諭の【この世の閻魔大王として現れる。】です。この世の閻魔大王とは各自の魂に内在して来る【良心神】となります。

 スピリチュアル標榜だと【神は愛だから何をしても赦される。】で、自分の魂が汚れから魂の表面に毛が発生して毛物(獣)状態に入ってもお構いなしが見られます。


牛頭虎パンツで【鬼と云う魂】の存在を語らせる


 丹波の片田舎の綾部で大本教発祥より前に鳥羽の九鬼神道家の九鬼氏が綾部藩主として入り、その九鬼神道では宇宙創造神たる元津神は【宇志採羅根真】としていましたので、そこから牛は【宇志】の意味であるとは簡単に解ります。すると後の【虎】は【採羅】の意味であると推察出来ます。大本教から出された閻魔大王の別名は【羅王】であって、羅は【輪廻転生】を意味させるです。  しかしながら、この大本教から出された【ウシトラ(宇志採羅)】はもっと意味が深いと言えます。それは仏教においては【この世における出来事は全て縁起】から生じるとされた【演劇】です。演劇は【寅虎(トラトラ)】なのです


自分が演じることは【寅】で、劇もまた【虎】の成立ち


大本教の【牛虎の仕組み】が解った時、私は驚愕をした


 私は鍾馗神の案内で中国で盤古大神に拝謁した時も伊勢神宮の天照皇大御神や出雲の大国主命に拝謁しても別に驚きもしませんでしたが、この【牛虎(宇志採羅)】の仕組みには驚いたと言えます。大本教から【神三千年の仕組み】と出されましたが、日本の言葉で【綾(文)を織る】には三千年の月日は掛かるでしょう。仮にスーパーコンピューターを駆使したとしても、こんな仕掛けが出来るかです。


虎の漢字には【七】があり、下部の【八】は七から八に開く


それが創造神が人類にその存在を見せる【演劇】と成る


 【虎】の漢字の七の下に八が秘められていることは解っていますが、問題はその時期が解らなければあまり意味をなさないがあります。

 世紀の大予言者と言われた大本教の出口王仁三郎聖師は、天の岩戸開けとも言われる最終舞台の幕開け(最後の審判)を【宇宙開闢以来の宇宙ショー】と予言されましたが、空前絶後の宇宙ショーとは言えるなのです。

 その時に起きる出来事で各自の魂に【トラウマ】を発生させない為に事前に【霊子(たまのこ)線】の一斉切断が行われて、人の肉体に宿っていた魂は強制的に肉体から離脱します。その時には霊界は上の霊世界に行く魂や下の霊世界に行く魂でごった返すので、大本教神諭には神もその時には一人一人の面倒を見てやれないの記述がなされました。


宇宙開闢以来の魂の席替えで、霊界も混乱が生じる


その時が巳の終わり(美濃尾張)で、問題は尻の役


 無論、漢字の成立ちだけで論ずれば虎の下部は【八】とは言えぬとなるでしょう。それでは冥土の【冥】にどうして「六」の字が隠れているのか?。八を何故に【開く】の意味にさせるのか?。四の数字を【死】に繋げるのか?。九を【苦】と読むのか?。意味が解らないとなります。私も鍾馗神の案内で中国の盤古大神と呼ばれている神に拝謁するまでは、そこに中国の漢字を巻き込んだ言葉の仕組みがあるとは気付きませんでした。

 大本教から天の数歌の解説が出されて、日本語という言葉は世界に類が無い言葉であると解って来たなのです。


 私は大本教の出口なお開祖と思しき霊から【大本教はまな板の上の鯉。その鯉をどう料理するかは料理人の腕次第。】と告げられて、大本教が演じた【神芝居(寅虎)】を捌いて来ました。大本教の意義はそれで解りましたが、この地球から地球上の魂が一斉に新天地に向かうとなると、その【案内】役が重要視されるなのです。  

 当然にその役は大本教の出口なお開祖にも出口王仁三郎聖師にも出来ません。


 一部のスピリチュアル標榜の方は自分は宇宙のどこにでも行けると豪語されます。そうした力が有る方もあるでしょうが、多くの魂は自分の力で宇宙のどこにでも行けるではないのです。その証拠として仏教で説かれる【三途の川】の存在ですら、あまり理解されていないからです。その新天地とされる場所は、未だ誰も詳しくは知らないはずなのです。為に新天地に向かう船の到着を待たねばならないがあるのです。


 何故にそのような仕組みがなされているのか?。それは人類には新天地に進むより道は無く、その仕組みが出来るのは万物の創造神と呼ばれる存在で無いと無理だからと言えるでしょう。ただ、本当に万物の創造神。宇宙の創造神と呼ばれる様な神が存在するのかどうかなのです。私は大本教から出された数々の内容から、創造神と呼ばれる神の存在を確信しているなのです。 


 その【みのおわり】の日がやっと定まった模様ですが、その日が何時かをもう知る必要はありません。何故ならばその日が何日かを知ったところで、その時から逃れる術が無いからです。問題はその時は霊界は大混雑を起こすを理解しておくなのです。霊達の流れに自分が飲み込まれない様にするなのです。
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