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2023年02月13日22:55

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ひばりちゃん

実は、美空ひばりの歌ってよく知らなくて、今更ながらダウンロードして聴いてみた。
ひばりさんが亡くなったのが1989年。まさに昭和〜平成に変わった年で、昭和の象徴が1つ消えたというイメージだった。それから35年くらい経っているんか。
ひばりさんが亡くなった当時は僕は高校生だった。その2年前に亡くなった石原裕次郎にしても、かつての大スターと呼ばれた人たちは早逝するんだなあ、と思ったものだ。その頃の自分の少年期には、美空ひばりは全盛期を超えていてテレビにも出ていなかったし、なにより80年代がもう美空ひばりの色ではなくなっていた。
そのためか、ほとんど聴いたことがなく、わずかに最晩年の「川の流れのように」が、当時若手の新鋭であった秋元康が作詞・プロディースしたとありそれなりに時代の要求に応じており良い歌だと思っていたのだが、それ以前の戦後〜経済成長時代に歌われたものはどうも暗くて受け入れられなかった記憶がある。
その後、それこそ様々な音楽に触れてきたが、つゆぞ美空ひばりに触れることがなく、気づいたらひばりさんが亡くなった年齢になってきていた・・おそらく世代的なもので、僕の世代は、美空ひばりをはじめとした昭和30年代くらいの音楽には若干の抵抗があるのではないかと思う。
そんな時に、以前にテレビ番組で、昭和歌謡博士と自称する女の子が、「美空ひばりがいかにすごいか」を語っており、美空ひばりを暗いし古臭いと蔑んでいた僕らの世代を飛び超えて、再び今の時代の子供が、美空ひばりを見直している、というのが、とても面白い。たしかに食わず嫌いだったかもしれない。
とりあえず人気があるものをダウンロードし、拝聴。
「愛燦燦」「みだれ髪」「真っ赤な太陽」「柔」「車屋さん」「お祭りマンボ」など、一度は聴いたことがあるようなものだが、なるほど、じっくり聴くと味わい深く癖になる。
いわずもがなだが、歌の巧さは現代にはちょいと見つからないほどすごいが、迫力の中に、とてもかわいげと色気がある。美空ひばりって、大物すぎてとっつきにくい感じがあったんだが、歌を聴くとかわいくて仕方ない。
晩年は顔が凄みがあるし、山口組三代目親分の田岡一雄のお気に入りというのもまた、怖さに拍車をかけるが、歌の奥底にあるかわいさが何より、畏れ入った。
いろいろ調べたり過去の映像をYoutubeなどで観ると、確かにかわいらしい人で、気さくでユーモアがあって、その中に何とも言えない寂しさや哀しさみたいなものが潜んでいて、今更ながらにその存在の凄さに驚かされた。
こう思えるのも、自分が歳を取ったからなのだろうか。
僕も昭和生まれの人間としては何かと昭和贔屓になってしまうのは否めないが、昭和の大スターの人間的な厚みというのは、すさまじいんだなあと思うのである。
戦争を経験し、戦後焼け野原を経験し、そこから復興を経験し、その時代の象徴的な存在であった美空ひばり。歌を歌うことで己の貧しさから抜け出すのもさることながら、国民の士気まで引き上げる力を持った存在。
確かに技巧的には今時のJ-POPのほうが凄いものはたくさんあるんだが、焼け野原からの復興エネルギーは、その時代を生きた人間にしか持てないパワーだし、いかに技巧を凝らしても超えられない壁なのかもしれない。

美空ひばり自身のエネルギーについて驚かされたのもそうだが、それとは別に、当時の歌詞を聴いていると、なんというのか、自分の歌をうたっていないのが面白い。
最晩年の「川の流れのように」くらいになると、ひばりさん本人を歌ったものという印象もあるが、初期・中期頃の歌。
例えば「柔」は柔道家・加納治五郎のことを歌っているし、「お祭りマンボ」「車屋さん」あたりあと江戸時代の戯曲みたいな雰囲気。「車屋さん」の途中で入る都都逸も聴かせどころで、その歌声がなんとも色っぽい。
「お祭りマンボ」なんかは、有名な歌だが、よく聴いてみると、祭りだ祭りだワッショイワッショイ!とただ空騒ぎする歌ではない。祭りに浮かれて自宅が火事に気付かない隣のおじさん、空き巣に入られヘソクリ盗まれた隣の隣のおばさんが、途方に暮れ、「いくら嘆いても後の祭り」とオチまでつけている。
なんとこんな哀しい歌だったのか、と、今になってはじめてわかった。
とにかく歌に物語があって、その物語の中の人物の気持ちを代弁して歌っている。ひばりさんに限らず昭和歌謡にはこういう類の歌が多かったんだと思うが、歌うたいの本質はそこにあるのではないか、と思うのだ。
もともと歌手とは、神楽をやる人々、巫女さんが担い手だったと思うのだが、神と人との媒介人がその職務である。
万葉集などの短歌の世界でも、宮廷歌人という職業歌人がおり、天皇や貴族に代って国の安泰を歌に託すプロがいた。
歌手とは、宗教的な存在でありシャーマニズムの担い手だったんだと思う。
歌舞などの芸能者は、当時はエッタと扱われており、被差別的存在なのだが、片面では神々との交信を行う宗教の担い手として、宮廷への参内を許されていたという話を聞いたことがある。
最も身分が頂点の天皇と、身分が最下位の芸能者が近いところにあったというのも面白いんだが、結局は自己を犠牲にして人々に幸運をもたらす宗教者としての側面が強いんだろう。
実際に、美空ひばりもわが身を犠牲にして国民の安寧のために歌い続けたという見方もできる。
そこに凄みがあって、歌うたい、かくあるべきと思った。

もちろん、歌うたいが自分の心情を吐露するような歌も、一面音楽の魅力だろう。
和歌にしたって、国家安寧の歌ばかりではなく、個人的な恋心を歌ったものもたくさんあって、小鳥のさえずりのごとく欲望を歌に託すというのも歌の役割だろう。
ただ、昨今のJ-POPなどを聴いていると、どうも私情に偏り過ぎてはしないか?と思う。昨今といわず、昭和の後期からその傾向だったが、自分の心情ばかり披露されても、しらね−よ!ってなってしまう。
最近は特に、そういった内面を歌って「私をわかって」的なのが僕の中では目立ってて鬱陶しい。いわゆる米津玄師みたいのね。
文学でいうと、明治の近代文学草創期に、自然主義文学というのが出てきて、とにかく自分の気持ちを正直にさらしまくるというスタイルが流行り、田山花袋みたいな変態作家までも出てきたが、今のJ-POPの私小説的な歌詞ばかりのものも、自然主義文学と言えなくもないか。
まあ、美空ひばりの頃と違うのが、作り手が専門作詞家などではなくそのバンド自身だったりもするから、特に学習もしていないような兄ちゃん姉ちゃんが作詞していたりするんだろうが。
確かに、若い頃のレベルとしてはわかりやすい若者の心情を吐露されたほうが共感は得やすいだろう。が、歳とともにそういう自分語りにある種の胡散臭さを感じてしまうのである。
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