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2022年10月17日00:53

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日本人の宗教観

僕は別に、何か特定の宗教の信仰者ではない。
実家の墓は臨済宗の寺にあるが、別に檀家というわけでもないし、キリスト教に帰依しているわけでもない。新興宗教の類は世の中一般の人と同じ意見で、憎悪している。
かといって、宗教=悪、というような、現代の日本人左翼にありがちな発想もなく、宗教は必要であると思っている。
日本人が昔から持っている宗教である神道の心は、とりわけ私たち日本人には必要だろう。
むしろ、生活の一部になりえているのではなかろうか。わかりやすい例だと、正月になれば初詣をするし、盆になればご先祖様を迎え入れる。家を建てる時は地鎮祭をやり、子供ができれば安産祈願に初宮参り、七五三。
こういったわかりやすいものでなくとも、例えば桜が咲けば花見をしたり、式典を大事にしたり、また、お辞儀をする文化も神道の流れであろう。
昨今は、特にテレワークなども進んだこともあり、コミュニケーションの脆弱化に伴って、こういった文化も消えつつあると思う。
だけど、日本人において、神道はなぜ大事なのか、というのは、今まで読み漁った本や、自分なりに考えてきたことから、思うところが多々あるのである。

神道の精神が希薄になり始めたのは、おそらく戦後からだろう。国家神道を推し進めて戦争へまい進していった反動と、GHQの占領政策から、日本的な宗教観を否定するものが増え始める。
そこに便乗したのが、共産主義者などの左翼勢力だろう。左翼勢力の根本となる考え方は、唯物論であり、歴史や文化から心の部分を削り取っていった。
その結果生じるのは、家族の解体や伝統の解体、また共同体の解体である。
社会で起こる問題は、制度化を推し進めることで全てを解決できるといった、無味乾燥な社会の創造であった。
ここら辺は詳しくは論じないが、何が言いたいのかというと、このことが圧倒的に人と人を切り離していったのではないかと思う。
個人は自由に振舞うべきであり、伝統や共同体に縛られるものではない、とした結果、個人は自分の欲望に対して好き勝手にできるようになった。その結果、良い思いをした人もいるのだろうが、人間には生まれ持った能力格差がある。
欲望に正直に振舞える人は、強者である。ほとんどがその強者に飲み込まれて、忍耐を強いられる弱者となる。
例えば、以前であれば、正月は実家に帰って、親戚一同が集まる。保守的な地域であるほど、めんどくさい挨拶やら、行事やらがあって、内心「めんどくさくて嫌だ」って思っている人が多いだろう。
でも、昨今は、家族制度の解体とともに、正月だからって無理して実家へ帰らなくても良い、個々人で自由に振舞えばよい。また、結婚もしてもしなくてもよい。結婚したくなくば、独身で自由に思い通りにやってもよい。という風潮になってきている。
それでは、全員が幸せになっているか?もちろんその全貌は、統計を取ったわけではないのでわからないが、たまに聞く話だと、大晦日は、一人寂しく過ごして悲しかったなんていう人もいる。
スナックなどで、大晦日営業して、みんなで集まって年越ししましょう、なんてのもみるけど、あれも結局家族のいない寂しい人々が寄り集まっているだけのようだ。
本人たちがそれで良いのであれば、特にいうことはないのだが、結局、そういった寂しい人たちを大量に生み出したのではないだろうか?
大晦日、正月は家族全員で集まって、一通りの行事をやる、という昔ながらの宗教観があれば、たとえそれがめんどくさくて嫌なことであろうが、個別に寂しい人を生み出したりはしないだろう。
つまり、伝統的な行事というものは、定型化し形骸化していても、皆がそれをやることで心の安定をもたらすものである。それ自体が不合理だからといって切り捨ててしまうと、そこに個人間の格差ができあがり、多くの人の心の不安定をもたらす。
昨今、精神的に不安定な人が増え続けているが、こういう季節ごとの伝統的な行事と切り離されてしまったことと無関係はなかろう。
何はなくとも、めんどくさくて煩わしかろうと、皆で一緒に定型的に同じことをやる、という行為が大切なのではないだろうか。

僕は、おそらく、そういう宗教観が根強い。母系の祖父が共産党員で、一切の宗教を否定する家系だったにもかかわらず、何故か思い入れが強いのである。
例えば、家族にしたって、自分1人では半人前だという思いがあるから、寄り集まって集団になることで、一人前になっていこうという努力である。
ひとりひとりの能力には限界があるが、それが集団となり、それぞれが補完しあえば相当のことができる。
先日書いた音楽についても、それがいえる。ひとりで音楽をやり他を一切批判し受け付けない奴。よほどの天才なら別だろうが、ひとりの才能には限界があるから、バンドなどを結成することで補完しあう、ということをわかっていない。
もちろん、他人と調整しあわせなければならないことは、めんどくさく厄介なことが多い。だが、他人と調整していくことで、相乗効果的に、自分自身も向上していくものだ。
仕事でもなんでもそう。
私はひとりで何でもやってきた、なんて思い上がりも甚だしく、周りの協力があってここにいられる、というのがわかっていない。
神道の解釈だと、我々人間は、神に生かされている、というのがある。人間自体が脆弱な自然の一部であり、大きな自然の驚異にはかなわない。ここに存在していること自体、大きな力によって生かされている、というのがある。
そのため、神道の心というのは、「感謝」が基本にある。
今日まで生かされてきたことに感謝。日々うまい酒が飲めることに感謝。仕事が与えられたことに感謝。などなど、自分を超える大きな力に感謝しつつ謙虚に生きていく。
神社へ行って、現世利益的な願掛けをするのではなく、ただただ御神殿に手を合わせ感謝することが、神道の本質だ。

自分1人で生きている、自分1人でなんでもできる、なんて思い上がりも甚だしい。
あんた一体何様なんだと思う。
その裏で犠牲になってきた人が必ずいるはずで、一度でも、その犠牲になった人のことを思い描くと良い。人生は押しなべて相互補完でなりたっているのである。だから、他人への思い、他人の立場にたって考えなければならないのだ。
歴史・伝統・文化を否定した、唯物論的な左翼の発想は、「自分1人であっても、政府などが高度に制度化してしまえば幸福な生活ができる」という他力本願にすぎない。その結果が、不遇な自分に対して、「社会が悪い、政治が悪い」という不満しか残らなくなるのである。

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