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2022年10月01日12:50

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自分らしさリターンズ

久々に日記。気づいたら前回6月の投稿を最後に10月になってしまった・・
その間、いろいろあってね、、やらかし事件などもありなかなか浮上しなくて。日記書けるメンタルじゃなかったってのはある。
どうも昨年の豊洲以来、浮上してこないねえ。。もっというと、コロナ発生時期以降が圧倒的にダメになっていっているなーという気がする。
まあ明るい未来を信じて、いろいろと試行錯誤していますが。
そうこうしているうちに、ヤクルトスワローズの2連覇。今年は球場へはいけていないものの、テレビ観戦はチョコチョコと。まー前半は強い強い。こりゃマジで強い球団になったぞ!と思っていたが、後半見事に失速だねえ。
今年のヤクルト票は後日まとめて書く。村上選手の最終結果もまだだし。いよいよあと2試合だねえ・・

枕はこの辺にしておいて、またか!と思われるテーマでちょっと思うことを書きたい。
昨今の行き過ぎた「個性を尊重する」による勘違いについて。
日常で仕事していたりする分には、変に個性を主張して、和を乱すような奴などそうそういないのだが、ネットでSNSなどをみると、「個性の尊重」主張派が相も変わらず猛威を奮っている。
良く見るのが、嫌いな奴にあわせて自分を殺してまで無理に付き合う必要がない、というもの。
そこまでの人って、日常ではなかなか見ないのだが、これだけネット投稿が多いってことは、そう思っているんだが我慢している、っていう人が結構いるのだろうか?
僕なんかは会社の会長から「人を好きになる努力をしろ」と教えられてきたし、そういう寛大な人間であるべきだと思うほうだから、10代のガキみたいに、嫌いな人は付き合いません、自分らしく生きます、みたいなことをいい歳して言っている人が信じられない。
そもそも、究極的に考えると自分以外はみんな嫌い、になってしまわないか?
たとえ一瞬よくても、何かをきっかけに嫌になったり、100個共感できることがあっても、1つ違う価値観があれば、それで嫌いになってしまったり、自分の気持ちに正直になるってのはそういうことだ。
そして、そうすることが「個性を尊重」ということになるのだろうか?そんなはずはない。たんに全体が見えておらず、共存共栄の原理さえもわかっていないおバカでしかない。

我々が生きていくうえで、ほんの一部の例外を除き、必ずどこかの共同体に所属せざるをえない。それは、家族であったり職場であったり学校であったり地域であったり国家であったり。共同体の中ではそれぞれの人がそれぞれの役割を担っているだろう。
まず、生きていくということが、その役割を担うに終始する。望む望まないに関わらず。その中で、役割に誠実であろうとするほど、自分の価値観と相容れないものと軋轢が生じるのではないか?
例えば僕の仕事では以下の例がある。
ひとつの仕事には、技術者、管理者、営業など様々な人が関与してきて、顧客にものを作り販売する。その際に、管理者は、開発の進捗を遅らせずに納期の通り顧客に納品をする責務がある。技術者は、管理者の指示に従い、スケジュールに沿ってものづくりをする。
何かトラブルがあってものづくりが停止した時に、管理者はトラブルを対処し、ものづくりを技術者に再開させる。その時に進捗に遅れが生じる。またその際に顧客と調整を行ったりするわけだ。ただ顧客が納期は遅れられないといってくれば管理者は技術者に、多少無理してでも遅れを取り戻してくれというだろう。
さて、ここに技術者と管理者の軋轢が生じる。技術者は自分の責任で遅れたわけじゃないのに、稼働時間をあげてまで対応しろとは理不尽じゃないか!と管理者を責め立てる。そういう状況はよくみる。
ただ管理者の役割は納期を遅らせられない。顧客と技術者との板ばさみである。
管理者が役割に忠実であるほど、技術者は管理者へ不満を持ち、非難することだろう。こういう軋轢である。
双方の言い分を俯瞰的に考えれば、そこで不満や悪口、いわんやその一件だけで相手の人格さえも否定し嫌いになる、なんてことをやってしまえば、何も動かなくなる。
こういう時に例えば、「自分は納得がいかない仕事はしません」と放棄し、それが自分の個性ですから、なんていわれれば、バカかお前はってなるだろう。
上の例に限らず、この人、嫌いだなーと思う人の背景をもっと考えてみれば良い。多分、その相手は自分なりに一生懸命やろうとしているはずだ。それが貴方の意にそぐわないだけの話で、それだけで嫌いになりお付き合いしないってそれはないだろう。
全員がそんなことをしてしまったら、世の中破綻する。
仮に自分に個性があると主張するんなら、まず相手にも個性があるって認めないと何も立ち行かなくなるよね。
だから、全体の中で、共有できる部分を9割作っておき、どうしても譲れない個性は1割もあればよいだろう。その1割の個性を生かせる人が「個性的な人」であって、9割の共有部分に対して、「私の個性に反しますから、嫌いですから」と拒絶したら、それはもはや個性ではなく、社会不適応者かつ人格破綻者でしかない。

最近、NHKの朝ドラで、やたら「自分らしさ」を連発しているのをみて、なんかゲンナリしてきてしまった。
また「自分らしさ」ブームなんだろうか。やりたいことを主張する。嫌いなものには嫌いとはっきりいう。
もちろん極端に「そんなことは絶対に言っちゃいけない」って言っているわけではない。こういうこというと、すぐ極端に0か100かに結びつける人がいるので困ったもんだが。
それをいついかなるときも主張するのがよくないと言うのだ。
「自分らしさ」実現のために、どれだけの人に迷惑かけるのか、どれだけの人を不幸にするのか。がまるっきり欠落した状態が問題だ。
職業の矜持というものがある。「警察官らしく」「医者らしく」「教師らしく」という言葉で表されるように、その職業に対するプライドだ。そこには、滅私奉公の精神というのか、自分勝手な感情を殺して、職業に準じる勇ましさが根底にある。
それと同じように、「父らしく」「母らしく」とか「男らしく」「女らしく」というのがあがってくるだろう。「男らしく」生きるためには、「男とはこうあるべきもの」という不文律というか、手本があって、それに向かおうとする努力だ。そこに至るまでに自分を克服する努力がある。
例えば、女子供が暴漢に教われているときに、助けに入る勇気を「男らしさ」とするならば、助けに入って暴漢に攻撃されて命を落とす恐怖を克服した結果の、ある種の美徳がある。
「自分らしく」を優先して「男らしく」を捨てたら、ただ単にエゴのカタマリの、唾棄すべき情けない人間像しか出てこないだろう。
このような、それぞれの役割に共通の価値観があってそれに向かっての努力があって、その上でのその人にしかない個性が生まれる。
つまりは、個性が生まれるためには、人間共通、役割共通の土台がなければ、単なるエゴのカタマリで、本能むき出しの下等動物に過ぎない。
他人に対する好き嫌いも結構。でもそれは、心の中にとどめておくべきであって、好き嫌いを主張するのが個性であるような価値観には、卑小な人間性しかないことを知るべきである。
まあ、SNSでそういうことを言って、ストレス解消しているだけならば、しょうがないかなーとも思うが、あまりにも多すぎる。

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