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2022年05月28日22:53

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『鎌倉殿の13人』第20回「帰ってきた義経」

 冒頭、義経はもう平泉に帰っている。都落ちから平泉までの有名なエピソード、安宅関の勧進帳はばっさりカットされている。あれはフィクションだし、江戸期に義経の挿話が追加されていった結果、キャラとしてはブレブレになった部分でもあり、このドラマでの性格づけとも噛み合わないから、妥当な選別だと思う。
 京都の平氏と鎌倉の源氏を両天秤にかけて義経を遣わしたくせに、妙に親身に労っている藤原秀衡の食えなさもいい。

 自身が基盤を持たないゆえに謀反はあっけなく頓挫した義経だけれど、彼の戦術能力と奥州藤原氏の動員能力が結びつくことを危惧する鎌倉の雰囲気にはリアリティがあって、実際にそうだったとしても不思議ではない。
 ここで義経が藤原勢を率いて南下しないよう、義時は自ら願い出て奥州に向かう。義時と義経の対話の最中に回想シーンとして、静御前の顛末が語られる。どういうわけか、このドラマで三谷幸喜は回想による時間軸の入れ換えを多用している。他ではそんな印象はないので、ちょっと不思議な感じもする。

 頼朝が身籠った静御前を舞わせ、産んだ子が男だったので殺されたのまで史実だったと思う。大目に見られた自分が結局は平氏を滅ぼしただけあって、さすがに頼朝はやることに隙がない。
 シラを切り通せば、あるいはわざと下手に舞えば子どもを救えたのに、プライドゆえにそれができず破滅へと向かっていく静御前と、その様子を聞かされて「あいつらしいなあ」とつぶやく義経がいかにもな感じである。
 もっとも、正妻とは最期をともにしているのに、静御前は京に置いたまま平泉へ去っている。作中では理由らしきものを義経に言わせているけれど、やはり、静御前との関係はあくまでそこまでのものだったというのが筋道としても自然な気がする。瞬く間に絶頂と転落を演じた英雄と白拍子の交情ということになれば、ふくらませたくなるのが人情とはいえ。

 ラストはいよいよ最期を目前にしつつ、義経は嬉々として鎌倉攻めの作戦について義時に語ってきかせる。さりげなく今後の三浦の動向について暗示しているのも興味深い。弁慶の立ち往生のエピソードについては、義経が背後から隠れて盗み見しつつ、「お、やってるやってる」とうれしそうに声を上げるという描かれ方になっている。
 登場時、通りすがりの男を騙して射殺してからの終始一貫ぶりに感心する。

 子どものころに見た特撮ヒーローものについて、後に知恵がついてくると考証の甘さが目についてきてあげつらうようになるけれど、もっといろいろ知るようになると、かつて否定に用いたロジックをそのまま使ってヒーローたちの存在を成り立たせるようにもなる。伊集院光が『シン・ウルトラマン』についてそういうことを語っていて、近い世代としてそのサイクルとほぼ同じように体験できて自分も本当によかったと述懐していた。
 学術的な知見から従来の論調をいったんは否定し、その後でまた同じ手法を逆に使って再構成させる。そこにあっては、かつてのメインストーリーが背景に後退し、周縁にあったいくつかのディテールが組み合わされて、メインの座を占めるようになる。
 かつては副次的に語られるのみだった木曽義高や静御前のエピソードがむしろ印象深い本作は、あるいは『シン吾妻鏡』と呼べる作品なのかもしれない。
 三谷幸喜は庵野秀明の1つ年下である。ジャンルは大きく違えど、ほぼ同世代の二人が同じ時期に類似の手法で作品に取り組むというのは、それなりにありそうなことだと思う。

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