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2022年04月30日16:56

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小説:幸福依存症の彼、幸福恐怖症の彼女

●幸福依存症の彼、幸福恐怖症の彼女
別れ話が始まってから間もなく、彼女は僕のことを幸福依存症だと言い出した。
そんなことは僕には身に覚えがないことであった。
幸福の追求に対しての欲はあっても人並みである。
そんな彼女に対し、僕はノーマルで、君の方が幸福恐怖症になっただけだと切り返した。
そう、彼女が変わったのはここ数日の急なことであった。
僕はその訳を問い正した。
すると彼女はこう答えたのだった。
「君には分からないだろうが、幸福は時として人生の重荷になる」
僕にはその言葉がまるで理解出来なかった。
幸福とは人間がより良く生きる原動力のようなものだ。
そう、特に彼女のような人間にはより良く生きる原動力が、尚のこと必要だと思うのだった。
だからこそ、僕たち二人は十年にも及ぶ交際期間を経て来たのだ。
そしてその十年とは闘病の期間でもあった。
それは彼女の病を治すための期間であった。
彼女の病名は鬱病であった。
「諦めちゃ駄目だ。きっと何か良い方法があるに違いない」
僕は説得を続けた。
だが彼女の意志は変わらなかった。
「そうやって逃げるのかよ」
有用な説得の言葉が尽きてきた僕は、大人げなく、挑発とも取れる言葉で、彼女の心を動かそうとした。
その時であった。
彼女は僕の目を真っ直ぐ見据え、堂々とした面持ちで宣言したのだった。
「いいえ、逃げではないわ。何とかして治す努力をするならば、私は積極的に人並みの幸福を諦める努力をするということよ」
「理解不能だ!まるで分からない!」
僕は声を荒げて反駁した。
すると、彼女は祈りを込めるように、ある言葉を口ずさんだのだった。
「神よ。変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」
眉間にしわを寄せながら首を傾げる僕に、彼女は微笑みながら答えた。
「これはね、ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉よ。私ねこの言葉と出会って気が付いた。10年にも及ぶ闘病生活で、この鬱病は治らない病気なんだなって。だって二人で一生懸命、色々な手段を試したものね。本当にありがとうね」
そして大きく溜息を吐いた後、彼女は急に悲しそうな表情となって呟いたのだった。
「でもね、やっぱり治らないの……私ね、治そうとする、あなたの期待に応えられないことが、辛くなっちゃったの。疲れたの」
その言葉に僕は身を乗り出して答えた。
「そんな、僕の期待に応えようなんて思わなくていいよ。そんなこと気にせずに治していこうよ」
彼女は笑顔で頭を振った。
「もう駄目だよ。治らない。もうそろそろ、祈りの言葉にあるように、変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを持たなくちゃ。そして変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気というのがね、私にとっては人並みの幸福との決別なの、いや、決別という言葉は相応しくないかな、断捨離というか……」
「君は不幸だ……まさに幸福恐怖症に陥っているだけだ」
僕は溜息を吐きながら返した。
「ある意味そうかもね。でも不幸だとは思わない。実際、私は諦めた分だけ、気持ちが楽になるの。それは凄く幸福なことなの」
彼女は再び笑みを作った。
そしてまるで自分に言い聞かせるかのようにこう言ったのだった。
「君もそのうち分かる時が来ると思う。何も鬱病に限ったことじゃない。誰もが年老いていく中で、必然的に病を患っていく。すると今までの幸福に耐えられなくなって、幸福の数を意識的に減らしていくと思うのよね。そう、まさに幸福の断捨離をしていくの。それでも残っていく幸福を大事に、大事にしていけば、きっと不足はないと思う。不幸だなんてとんでもない」
それでも納得しない僕を察した彼女は、駄々っ子を諫めるかのように、優しい口調で言ったのだった。
「君がそれを受け入られない、それを惨めと感じているのは、君が元気いっぱいの同年代の若い人たちに囲まれて生きていて、無意識のうちに彼らと比較しているからだよ。世の中には私のような人たちは、きっといっぱいいる。その人たちの集まりの中に入れば、今度は、それが自然なことのように思えてくるんだと思う。人の価値観なんて所詮そんなものだよ。だから何一つ心配することはないよ」
僕の目の前から彼女が遠くなっていく。
彼女が切り出した別れ話の理由が、人並の幸福が負担になってしまうからという理由だとは、まさに夢にも思わなかった。
青天の霹靂だけあって、どうしても受け入れることが出来なかった。
「人生とは幸福の断捨離。死の瞬間の苦悩の中では、幸福の思い出さえも消え失せてしまうかもしれない。そう、最後は物質的なものに限らず、精神的な思い出も、何もかも持っていけないのよ。そう言う意味では、幸福の溜め込みさえ無意味な世界かもしれない。きっと、何か一つでも幸福の思い出があれば、万々歳よ」
僕は彼女を失いたくない一心で、気が付くと彼女の腕に手を伸ばし、強く握っていた。
突然の出来事に、彼女は驚きの表情を浮かべている。
するとやがて、彼女の目から涙が、一粒、また一粒とこぼれ落ちていったのだった。
「私、やはり苦しいの。きっと治らない鬱病がそうしているだけ。自殺を選ばない選択をしただけ、私のことを祝福して。お願い」
長い沈黙が続いていった。
僕はどうしてもイエスと言えずにいたのだった。
彼女が涙を流しながら、精一杯の笑顔を作って言った。
「ここまで話して、まだ、この意味が分からなければ、やっぱり、きっと、あなたの方が幸福依存症よ」
彼女は僕の表情を目に焼き付けるかのように、見詰めながら、感謝の表情を浮かべて続けたのだった。
「君との思い出も私にとっては一生の幸福、きっと最後の最後、死ぬまで残る幸福だよ。本当に素敵な宝物をありがとう」
そう言って彼女は踵を返し、僕の元から去って行ったのだった。
僕は彼女の後を追おうとした。
だが、歯を食いしばって、その歩みを止めたのだった。
そうしたのは、僕はどんな形であれ、彼女には幸福になって欲しかったからだ。
これが二人で求め続けて止まなかった、僕と鬱病の彼女の幸福の結末であった。

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