mixiユーザー(id:7710403)

2022年04月28日22:41

59 view

小説:鬱の化身

久し振りに書いてみました。
鬱の現実と投げ掛けられるべき課題です。

●鬱の化身
鬱病を患ってからというもの、僕は急転直下の転落人生を歩むこととなった。
それまで超一流の脳科学者として活躍していた僕は、研究所の職を失ったと同時に、最愛の妻もまた失ってしまったのだ。
僕は身を持って、金の切れ目が縁の切れ目という言葉を思い知った。
例え全てを失ったとしても、鬱病から回復すれば、元の人生を再建させる自信はあった。
だが、僕の鬱病は一向に治ることがなかった。
5年、10年、15年……悪戯に時だけが流れていく。
勿論、その間、僕はあらゆる手段を使った治療を試みた。
しかしながら、どの治療も僕の鬱病には回復の為の、効果を示さなかったのである。
絶え間なく続く体調不良、殆ど寝たきりの日々が続いていく。
症状だけでも十分過ぎる程に辛かったが、それ以上に辛かったことは、僕が人並みの幸せを手に入れることが出来なくなってしまったことであった。
就職、恋愛、結婚、子供の誕生、家の購入などなど、健康体ならば出来ていたはずの、人並の幸福がすっかり、雲の上のものと化してしまった。
かつての年の近い友人たちが、それを幸福の便りと共に、当たり前のようにやっているのを、指を咥えて見ていることしか出来なくなってしまったのである。
そのことが僕にとっては二重の苦しみを与えたのであった。
そんなある日、いよいよ自暴自棄となった僕は、ある発明品を作り上げたのだった。
それはまさに悪魔の眼鏡であった。
この眼鏡を掛けて人を見ると、その人の不幸がレンズに映し出されるのである。
元々、超一流の脳科学者であった僕にとって、人の不幸の波動を感知し、映像化する特殊な光学レンズを開発することは、さほど難しいことではなかった。
人の不幸を映し出す眼鏡を掛けた僕は、優れない体調を押して、早速、街へと繰り出したのであった。
街では大勢の老若男女が往来している。
その表情を見る限り、誰もが僕よりも遥かに幸福そうであった。
僕は眼鏡越しにターゲットを物色し始めたのだった。
眼鏡越しにある右のボタンを押すと、まず人の不幸の波動を眼鏡が感知し、不幸のレベルが表示される。
ターゲットを定めたら、今度は左のボタンを押すと、具体的な不幸の内容が映し出されるというものであった。
眼鏡に映る多くの人々の姿を通じ、大なり小なり不幸のレベルが表示されていく。
僕は手あたり次第、彼ら、彼女らの不幸を、眼鏡を通じて覗き見たのであった。
恋愛、仕事、人間関係を軸とした、様々な不幸が僕の目の前に繰り広げられていく。
だが、僕はその様子を、同情や憐みの目で決して見ることはなかった。
むしろ感動ものの名画を鑑賞するかのように、恍惚の表情さえ、浮かべていたのだった。
そう、僕がこの眼鏡を開発した目的は、僕がもはや実現不可能となった人並みの幸福の実現を前にして、ひたすらに感じてしまう不幸の感情から目をそらせる為に、一見、幸福そうに見える人の背後にある不幸を覗き見ることで、心の慰めを手に入れようせんがためであったのである。
まさに悪魔の発明であるが、特に人を不幸に陥れている訳でもなかった。
ただ、人の不幸、それもより幸せそうな人が陥っている不幸を密かに覗き見ることにより、自分の陥っている不幸を緩和させているだけなのである。
「人の不幸は蜜の味」という言葉がある。
それが人間の本性なのである。
僕はそれを覗き見る発明を通じて、僕自身の精神安定剤として用いたのである。
僕にとってこの発明は大成功であった。
誰しもが持ち合わせている不幸を覗き見ることにより、それまで著しく不安定であった僕の精神は、立ちどころに安定を取り戻したのだった。
この眼鏡を掛けている間は、鬱症状は影を潜めるぐらいであった。
時折、人の不幸を喜ぶ自分を、酷く醜い人間だと、良心の呵責に苛まれることもあったが、自暴自棄となってしまった僕には、もうそんなものはどうでも良かったのだった。
だが、そんなある日、僕は不思議な若い女性と出会うことになる。
眼鏡越しに不幸レベルが全く反応しない、つまり、ここ長い間、全く不幸を感じたことのない人間が存在したのである。
一体何故だろう?
僕は驚愕したと共に、脳科学者としての血が騒いだ。
僕は彼女を呼び止めると、自己紹介もそこそこに、本題に入ったのだった。
本来ならば、訳の分からない、しかも一方的に心を見透かしてくる男を前にして、一目散に逃げていくはずであったが、彼女は違っていた。
彼女は僕を見て冷笑すると、極めて落ち着いた口調でこう言ったのであった。
「あなた、鬱病を患っていますね」
心を見透かしたつもりが、心を見透かされてしまったのである。
驚愕している僕に彼女は続けた。
「鬱病患者は表情で分かりますから、とても良く分かるのです。何故ならば私も鬱病を患っているから」
その言葉を聞いた途端、僕は雷に打たれたような衝撃を受けたのだった。
(彼女は僕が探し求めて止まないものを持っている)
そう感じた僕は、彼女の腕を掴むと、人混みを駆け抜け、外れにある小さな公園まで、引き連れてきたのだった。
このような突発的な出来事にも関わらず、彼女は無表情のまま、僕を見詰めていた。
僕は息切れした呼吸もそのままに、彼女に対して問い掛けたのである。
「何故君は不幸でないのか?しかも鬱病でありながら、何故?」
鬱病という病を患っている者同士、深い共感を覚えたからであろうか、彼女は出会って間もない僕に、このプライベートな本題に対して、驚く程、一足飛びに答えてくれたのであった。
彼女は言った。
「一言で言うならば、私は一切の幸福を求めない人間だからです。だから不幸も感じない。何故かって?この病はね、決して幸福を願ってはいけない病だからです。幸福を願い、手を伸ばした瞬間、必ず病によって、それは断ち切られてしまう、それはそれは、とても残酷な病なのよ」
それは僕も痛い程分かることであった。
僕は何度も頷きながら同意したのだった。
だが、僕には彼女の言葉に腑に落ちない点があった。
僕は遠慮することなく、それを口にしたのだった。
「でも、何か虚しいな……そこまでして幸福を求めない、つまりは不幸を感じないことだけを目標に生きているなんて……」
彼女は再び冷笑を浮かべ答えたのだった。
「幸福を求め、その都度、必ず裏切られる苦しみの渦中で生きるより、例え虚しくても、幸福自体を求めない人生の方が遥かにいいわ。それに……」
彼女は僕の手にしている眼鏡を示しながら言った。
「あなたの手にした眼鏡自体が何よりの証拠よ。実は健康な人たちも、鬱病患者にとっても幸福の形なんてそう大差はないの。見たでしょう?人はね、幸福を手に入れようと必死でもがく。やっとの思いで幸福を手に入れると、その幸福を失わないように、やはりもがくのよね。それでも永遠に続く幸福なんてないわ。いつかはその幸福ともお別れしなければならない。でも、そうはさせまいとやっぱりもがくのよね。そして幸福を失って、激しく失望するの……結局、幸福を追い求めることは、それを失う不幸と表裏一体なのよ」
彼女は僕のことをじっと見詰めると、更なる冷笑を浮かべて言った。
「私ね。幸福とか不幸とかいう次元を超えたの。だから人の幸福などどうでもいい。更に言えば人の不幸もまたどうでもいい」
何故、彼女は自信満々にそこまで言えるのだろうか。
僕は思わず身を乗り出して反駁した。
「結局君は、病によって心を閉じているだけだ。何故なら、君の考えは、つまり心は、とても不健康に見えるからだ」
この言葉を聞いて初めて彼女は、冷笑に加えて失笑して答えたのだった。
「人の不幸を覗き見して、辛うじて精神的安定を図っている、変態に言われたくないわ」
図星の言葉に、思わず僕は、返す言葉を無くしてしまう。
すると彼女は僕の前に来ると、まるで母親が駄々っ子に言い聞かせるかのような口調で言ったのだった。
「いいこと?人並みの幸福を望んでは駄目。それは鬱病者にとって受け入れなければならないことよ。それでも受け入れられなければ、何度だって試してみればいい。あなたは何度となく鬱病に挫かれることでしょう。もう次こそはという、甘い考えはおよしなさい。次もまた、その次もまた、必ず挫かれるのですから。しかも周囲に多大な迷惑を掛けながらね」
僕は俯きながら反駁した。
「それでも……延々と挫けながらでも幸福を手に入れることにトライするのが、人間の成長であり、進歩ではないのか?」
彼女は頭を振って即答する。
「あなたは脳科学者でしょう?鬱病は脳の損傷なの。そしてその損傷を完全治療する技術は、未だ開発されていないの」
そう言った彼女は踵を返した。
そして
「さようなら」
と言うと、僕の元から去って行った。
僕は彼女の背中に向かって叫んだ。
「冷血女!君の心には血が通っていない!」
すると彼女は振り返って、相変わらずの冷笑を浮かべて言ったのだった。
「私は優しい。とても優しい。誰よりも優しい。こうして勝ち目もない、あなたにわざわざアドバイスしているのに」
「勝ち目?何のことだ?」
僕は呆気にとられながら答えた。
すると彼女は再び踵を返し、僕の方へと向かってきた。
そして僕の手から眼鏡を取ると、自らが掛けて僕のことをじっと見詰めたのだった。
「人の不幸を心の底から求め、彷徨い続けるあなた。そんな偽りの安堵で軽薄な幸福感に浸っている、あなたは誰よりも不幸よ。そんなあなたに幸福について説教する資格はないわ」
「うっ……」
再び放たれた図星の言葉に、僕は思わず呻き声を上げた。
「あなたが私のことを不幸だと思うのならば、それはそれで結構。でも、いいこと?もしあなたが私に幸福について説教するのならば、あなたは私を説得出来るだけの幸福を用意してこなければ駄目よ」
すると彼女は、今までで一番の冷笑を浮かべ、高笑いしたのだった。
それは耳をつんざく程の高笑いであった。
僕は思わず耳を塞ぎながら、思わずたじろいだのであった。
その途端であった。
目の前にいた彼女の姿が、いつしか靄に包まれ、一つの大きな塊になったかと思うと、宙に浮かび、僕の頭部に向けて猛スピードで突進してきたのだった。
そして頭部をもくもくと包み込み始めたのだった。
その時、僕の耳元で彼女の囁きが聞こえてきたのだった。
「それが鬱病の真実だもの。それが病を受け入れるということよ」
そしてその靄は、僕の脳内へと深く吸収されていったのである。
気が付くと、公園には僕一人しかいなかったのだった。



1 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する