『「待つ」ということ』
高校の国語の教科書に、
「待つ」いうこと、という題の評論が、
掲載されています。
現代人は、便利なものに囲まれた中で、
待つことができなくなった、という事を、
著者は憂いています。
待つことができなくなったとは、
長い目でものを見ることができなくなった、
という事です。
想像の及ばない未来に対して、
誰しもが、余計な不安を持ちたくないので、
世の中には、待たなくてよくする仕組みが、たくさん作られます。
そして、待たなくてよくなる、という事は、
未来へ向かう急いだ気持ちのようで、
実は未来のことは考えられていないと、
著者は鋭い論を展開します。
待たなくてよい、という状態は、
未知の未来を受け入れない、という事です。
未来のことは分からなくて当然ですし、
思いもよらない事に巻き込まれる可能性を、
生きている限り持つものです。
それは確かに不安要素となるものですが、
しかし、不安と対面しなければ得られない、
豊かさというものもあります。
未知の未来を待ち受けるという姿勢を、
失いたくないなと思います。
そして、未知の未来と向き合い、
想像の及ばない事に対面する構えとして、
神様を信じている、という事は、
とても意味のあることだと、私は思います。
見えないものを確信することが信仰だ、
という事が、聖書に書かれています。
どうにもできない苦しみと対面していて、
その解決の術が何も見えないとしても、
全く見えない未来の果ての果てに、
希望が見えるとしたら、
生きる力を、そこに見出すことができます。
その希望が、確かに存在します。
自分の人生に何もいい事がなくて、
いつまで待っても、
何も変わらないという事もあります。
かつての私も、そんな風に、
果てしなく暗いトンネルの中にいるような、
絶望感の中でもがいていました。
しかし、自分の人生の最後の最後に、
笑わせてくれる神様がいるという事を、
今は本気で信じています。
その神様とお会いできる時を、
待ち望み続けることができるので、
苦しみがあっても、喜べるのです。
いつも聞いてくださり、
ありがとうございます。
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