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2021年12月19日07:50

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ドラッカーと密教に学ぶ、経営者が「儲け」と「高い精神性」を両立させる方法

「お金の密教」

 昨年12月14日公開の「仮想現実に覆われたこの世界で認識を変えれば覇者になれるのか」7ページ目「認識を変えれば世界を支配できる?」で「リアル曼荼羅プロジェクト お金の密教――真言密教でお金儲け」講座について触れた。

 この講座の講師は、楽天、サイバーエージェントなど約70社の企業を上場させた凄腕IPOコンサルタントでありながら、真言宗(密教)の僧侶でもある沼田功氏だ。まさに「マネー(お金)の世界」と「密教(精神世界)」のどちらをも熟知する傑出した人物である。

 ちなみに、8月1日公開「成功する『ビジネスマン』が心がけている『縦人間と横人間」という観察術」の記事のインスピレーションも沼田氏からいただいた。

 しかしながら、「お金」と「宗教(精神)」というものは相反するようにも思える。ある行者は、「一切お金を使わない」ことで「精神の清らかさを維持」していたと主張する。もっとも、お金が必要な時には、弟子が代わりに支払いをしていただけなのだが。

 したがって、「真言密教でお金儲け」という言葉に違和感を持つ読者も多いかもしれない。事実私もその一人だ。しかし、沼田氏の講義を聞いて合点がいった部分がある。

 講義の中で「十住心論」に触れた部分があったのだが、この10段階のステップを上るための「最初の一歩」として「お金を稼ぐ」という段階が必要不可欠であるということなのである。

 沼田氏は、「仏教が生まれたころと違って、現代ではお金無しでは普通の人々は生きていけませんからね」と述べるが全くその通りである。貨幣経済が発達していなかった時代には、お金など持たなくても自給自足(物々交換)で暮らすことができた。むしろ一般庶民はお金や財産など持たないことが普通であったかもしれない。

 これは、あくまで私の解釈だが、十住心論においては、第1段階の「異生羝羊心」=「煩悩にまみれた心」から始まる中で「お金にまみれる」体験をまずすべきだということでは無いだろうか? 
 十住心論最高の10段階である「秘密荘厳心」が「真言密教の境地」であることについては、信徒ではない私からすると我田引水のような気がしないでもない。しかし、いきなり精神的な高みに到達することはできず、「まずは『煩悩』にまみれてから、段階を踏んで精神的高みを目指す」という教えは非常に説得力があると思う。

清貧は正しいか? 資本主義で貪欲は善か?
 「経済的に満ち足りれば心の余裕もできて、精神的にもステップアップできる」という考え方は間違いでないと思う。

 食うや食わずで、すきっ腹を抱えていれば、食べ物のことで頭がいっぱいで、「精神」のことなどどうでもよいと考えるのが普通の人々だ。私ももちろん、その普通の人々の一員である。

 しかし、それでは、古代、中世の人々と比べて食料にも物資にも恵まれ、快適な生活をしている現代人の精神性は、古代、中世の人々と比べてより高い位置にあるであろうか? 
 確かに、古代、中世に比べて「人口当たりの殺人による死亡者」が減少しているのは明らかであり、第1次・第2次世界大戦を経験したにも関わらず、現代は平和である。満ち足りた人々同士の争いは少なくなると言えるであろう。

 しかし「精神面でより高いステージ」にあるかどうかは議論の余地があるはずだ。

 また、徒手空拳でベンチャー企業を起こし億万長者になった経営者たちが「精神面でより高いステージ」に到達したであろうか? 大部分のケースで、「金持ちになった経営者はより強欲になった」だけに過ぎないように見える。

 例えばGAFAをはじめとするビッグテックの「独占に執着し、新たなチャレンジャーをひねりつぶす姿勢」は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い起こさせる。

 自分は蜘蛛の糸というチャンスを得て最大限に活用したが、後から登ってくる人間は自分に邪魔だから、自分の足元の糸を切ってしまうというわけだ。

 彼らに「精神面でより高いステージ」を感じるであろうか。

 だが、冒頭で述べたように、現代社会では「お金無しでは生きていけない」から「お金を稼ぐ」ことはとても大事だ。悩ましいことである。

 この悩ましい問題に対して、沼田氏のアプローチは、「まず稼いで、煩悩に煩わされる必要が無くなってから精神的高みを目指す」ものだと私は解釈している。

 確かに、このアプローチは「正論」のようにも思える。また、それだけの能力とチャンスを得た人々はこの道を進むべきだと思う。そのような人々を多数輩出することで、一国の経済が繁栄するというのも事実だ。

 しかし、それを実現できるのは世の中の限られた人々だけだと思う。沼田氏の私が執行パートナーを務める人間経済科学研究所への寄稿「IPOと『盛りのついた優秀な雄猿』」を参照いただきたいが、これだけの「爆発的エネルギー」を内に秘めた人々は多くないはずだ。

 結局、「爆発的エネルギー」を内に秘めない普通の人々に向いていないということだ。ベンチャーは千三つともいわれるが、チャレンジしても失敗する人々の方がはるかに多いのが現実である。

仕事そのものが報酬
 実は、一般の人々にも活用できる「煩悩(お金)と精神」の両立方法は、マネジメントの神様・ピーター・ドラッカーの教えの中に見つけることができると考えている。

 現在の先進国でも貧富の差の拡大が問題になっており、貧困が現実に存在する。しかし、それでも失業保険や生活保護などの社会保障が古代、中世に比べれば格段に進歩しており「セーフティーネット」はそれなりに存在する。

 少なくとも「(法に触れかねないような)心底嫌な仕事でも引き受けなければ餓死する」という状態ではないといえよう。

 私がいつも感じるのは「嫌な仕事をこなしてたくさん稼いだ金で、好きなことをするのであれば、最初から少ない報酬で好きな仕事を選ぶべきではないか」ということだ。

 その前提で考えると、ドラッカーの「知識社会では仕事そのものが報酬」だという言葉がよく理解できる。

 古代、中世では、「働く」ということは「寝床と3度の食事を確保する」ということとほぼ同義語であった。しかし、現代では十住心論における第1段階の「異生羝羊心」=「煩悩にまみれた心」だけではなく、第2段階以上を満たすことができるのが「仕事」だと言える。

 ドラッカーが「仕事そのものが報酬」と述べるのは、金銭による支払いだけではなく、「精神面の喜び」も報酬だということなのだ。

 2018年11月25日公開「反強欲・反グローバル資本主義という潮流で読み解くゴーン事件」3ページ目「経営者報酬は従業員の20倍まで」で述べたように、ドラッカーは「強欲経営者」の異常な高額報酬も否定している。

 自分の報酬を高くすることばかり考えている「強欲経営者」が「従業員の心をつかむ」必要がある「マネジメント」に秀でているはずがないとドラッカーは考えているのだと思う。

 まさに、金銭的な報酬では無く「経営するという仕事」に「精神面の喜び」を感じる人々が経家者であるべきであり、それは一般の従業員についても同じだ。「金で動く人間」が、長期的な企業の発展に役立つとは到底思えない。

 また、ドラッカーはこれからの社会での「非営利団体」の重要性を指摘しているが、ボランティアは、まさに仕事が報酬である。生活を支える仕事は別にあるが、その仕事だけで満足できない人々が増え、「精神面での報酬」を求める人々が主流になるということだ。そして、非営利団体が社会の大きな勢力になっていく。

満足は「比較」によって生まれる
 ドラッカーが役員などの高額報酬に否定的なのは、「人間の金銭による満足感は比較によって生まれ、同僚の給料が高くなれば、自分も昇給しないと満足できないという『無限の欲望のループ』に陥る」という点にもある。実際、「あのCEOがあれだけもらっているんだから、僕はそれ以上もらわなきゃ嫌だ」というのが、現在の一般的経営者の姿である。これは一社員についても同じだ。

 実のところ、行動経済学では、資産の絶対額と幸福度の相関関係は見いだせない。むしろ、いくら増えたか、あるいは周りの人間より多いか少ないかに左右されるのだ。だから、格差をつけても、人間はそれ以上の格差を求める。

 また、手足を失うような事故に遭遇した人、天候の悪い地域に住んでいる人々の幸福度は、普通の人とあまり変わらない。もちろん、事故、転居当時の幸福度は下がるのだが、人間は「環境」に適応する生物で、与えられた環境の中で「幸福」を見つけるのである。

 100億円の年収をもらっても、ライバル会社の社長が年棒200億円であれば、憤慨するのが人間である。また、自分の給与が500万円なのに、自分と大差ないと思っている同期が505万円であれば、少なからぬ嫉妬心を感じるはずだ。金銭を中心とした「比較による満足」は「無間地獄」といえる。

金に支配されるのは不幸だ
 「死ぬまで生きる」のが人生。あの世に財産は(たぶん)持っていけない。

 3度のごはんを食べることができて、雨に濡れない家があれば幸せだと言えなくもない。収入に関わりなく、「健康で文化的」な生活をしていれば十分だと思う。明石家さんま氏の「生きてるだけでめっけもの」ということばが非常に好きなのだが、「無間地獄」に陥る他人との比較をやめてしまえば、楽しい人生になると思う。「生きている」ことに感謝すれば、ほとんどすべてがプラスと受け止めることができるはずだ。

 結局、「煩悩」を捨てない限り永遠に幸せにはなれないが、「煩悩が凝縮した存在」であるのがお金だ。

 お金はあれば便利なものだが、「金に使われる奴隷」になるのは悲しい。主人はあくまで「自分」であるべきだ。バフェット流の基本もそこにある。ミスターマーケットに翻弄されるのは、金の奴隷やストーカーだからだ。つまり、投資は「金儲けをしたい」から始めるのだが、「金への執着(煩悩)を捨てないと成功できない」ということである。

 詳しくは、拙著「バフェットに学ぶ永久不滅投資法」を参照いただきたい。

 麻薬やスマホと同じように金にも中毒性がある。「金中毒」あるいは、金のストーカーである限り、いくらお金があっても幸せにはなれない。現代社会では、覚せい剤などの麻薬をはじめとする色々な中毒に規制を行っても「金中毒」への取り締まりは行わないから、自分で克服するしかない。

 むしろ現在の資本主義社会は「金中毒」を加速させているようにも思える。そのような「中毒」に打ち勝つことが、「色々な意味での」成功への第1歩だと思う。

大原 浩(国際投資アナリスト)
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