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2021年10月30日19:42

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母介助日記10月30日(土)朝分


昨夜の寝付きは一時、八時半起床で七時間半睡眠。途中、鼻づまりで起きてそれ用の薬をのんですぐ寝た。温度差注意。
九時、民放の便利グッズ紹介番組を見ながら朝食の支度。
十時、母朝食開始。
その間に血圧測定、137/80。体温、35.9度。酸素飽和度、97。
朝食後、降圧剤、整腸剤。仏壇セット、ソファーメイク。

少し記事の想練り。「阿多隼人」の自己流プロファイリングをその由来からする。
由来は、秦漢代、中国への上陸を許されなかった製鉄技術をもった水上生活者が南西諸島に展開したとされる。なぜ上陸が許されなかったのか、秦漢の鉄器生産独占政策、鉄管が彼らを拒んだのだろう。秦漢が前提したのは中国北部の間接法の鋳鉄で、彼らの製鉄技術は南ベトナム、南アジア由来の直接法の鍛鉄で、そもそもは湖沼鉄だった。これは中国南部では、朝廷管理を逃れた民間の自家製鉄や闇製鉄として展開したと考えられる。朝廷が支配管理できないこの製鉄の拡大を嫌って、彼らの上陸を拒んだのだろう。
調べてみなければ分からないが、彼ら産鉄民は、南アジアからベトナム南部にかけて土地土地の「国」の樹立勢力に加担してその地での地位身分を得て来たが、それに預かれなかった者が中国南部まで行き着いたのではないか。
つまりは正確には、中国由来と言っても水際で拒まれた点、「国」に加担して地位身分を得ようとする国家志向である点で、中国から離脱した脱国家志向の「出雲族」とは性格を異にする。
南九州の阿多地方に上陸した彼らが、神武東征する「濊人」に協力したのは、征服王朝樹立の暁にその「国」で地位身分を得るためだったと考えられ、実際に縄文人交易民の「隼人」が九州に留まり離反したのに対して、彼ら「阿多隼人」は天皇の近侍する。彼らに従った縄文人交易民を率いたのだろう、近畿地方ほか各地に入植している。

十一時半、母にベルト式マッサージ器と自動ペダル運動をさせる。
十二時、外仕事に着手。
雑草や枯れ草を電動草刈り器と電動ナイロンカッターで刈って、放置してある枝葉ゴミと何カ所にまとめる作業。
これで、赤提灯のご亭主に紹介してもらった植木屋さん(一本松の伐採と裏手の防草フェルト貼りの実績)を呼んで、6本の中高木の剪定とゴミ処理の見積もりをとれる。
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