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2021年10月29日18:18

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母介助日記10月29日(金)朝分


昨夜の寝付きは二時、八時半起床で六時間半睡眠。起き抜け、粘性、白色痰。 
昨日は一時間ほど、クルマ損保担当者と駅構内カフェの外テーブルでマスク歓談。少し喉がいがらっぽい。

九時から洗濯機をまわして羽鳥モ(東京一極集中)を聞きながら朝食の支度。
十時、母朝食開始。
その間に血圧測定、139/84。体温、35.9度。酸素飽和度、98。仏壇セット。
朝食後、降圧剤、整腸剤、洗濯物干し、ソファーメイク(簡略式でいいのにフル)。
母にベルト式マッサージ器をさせて十一時四十五分。
二階に上がり仕事部屋で記事の想練り。

夜階下におりて、母が浸けっぱなしで寝ている電熱器とテレビを消すのだが、テレビはなぜか眼をさましてつけてしまう。これを、テレビを消した時に先日買って来た枕元のラジオ(母は自分では使わない)をつけておくと、音がしているので眼をさまさず、テレビをつけないと分かった。


(記事の想練り)
日本でどのようにたたら製鉄が始まったのか?
を検討して、砂鉄、磁石について調べている。
九州南部で湖沼鉄製鉄をしていた「阿多隼人」と、
山陰の石見〜出雲で磁鉄鉱の探索や採掘をして磁石を使っていた「出雲族」とが、
ともに中国を離脱した遠隔地交易民として交流し、
後者が、湖沼鉄製鉄と同じ直接法による砂鉄製鉄を工夫して原初的なたたら製鉄に至ったのではないか、
というのが私の仮説。
まず、磁石について。
磁石の発見には諸説ある。
一説では、紀元前600年頃、ギリシャのマグネシア地方(マグネットの由来)の岩石の中から、鉄を引き寄せる石が発見された。それは、天然に磁化された磁鉄鉱と呼ばれる天然磁石で、人が最初に出会った磁性体といわれている。
一方、もう一説として、紀元前(240年〜20年)の中国で発見され、羅針盤も登場していたと言われている。漢字の「磁石」という名前は、昔の中国の慈州が磁鉄鉱の産地で、磁鉄鉱が「慈石」と呼ばれていて、それが日本に伝来して日本語の「磁石」に展開したという。
中国では、紀元220年〜400年には、方位を示す指南車や指南魚が登場していた。
日本の磁鉄鉱の発見は700年〜800年といわれるから、それ以前に日本で使われた磁石は、渡来人が持ち込んだものということになる。
鉄が磁石によって磁化されることが発見されるのは15世紀(ギルバート)だから、渡来人が鉄を磁化させて磁石を製造したとは考えられない。
砂鉄は磁鉄鉱を含むため磁石に吸いつく。弥生時代後期には、渡来人が製鉄をすべく砂鉄鉱床を探索し、その判定に磁石を使った可能性がある。
砂鉄は、岩石中に含まれる磁鉄鉱等が風化の過程で母岩から分離し、運搬過程で淘汰集積したものである。
風化、堆積の過程の違いにより、残留鉱床あるいは漂砂鉱床をなす。
漂砂鉱床は海岸あるいは川岸など平坦地に堆積したもので、中国地方に産するものは主に山砂鉄で残留鉱床であるという。一般的には、山陰側(山陰帯)の磁鉄鉱系列花崗岩に由来する砂鉄は純度が高く、「真砂(まさ)砂鉄」と呼ばれる。一方、山陽側(領家帯)では花崗岩はチタン鉄鉱系列であり、ほとんど砂鉄を含まないが、安山岩、玄武岩などの火山岩に由来する「赤目(あこめ)砂鉄」を産出する。これは純度は高くないかわりに加工のしやすさが特長であるという。
こうした事情は、たたら製鉄とかんな流しによる砂鉄採掘が流布した後であって、それ以前の弥生時代後期に砂鉄製鉄が行われ始めた際には、発見して利用しやすい、海岸あるいは川岸など平坦地に堆積した漂砂鉱床の砂鉄が利用されたと考えられる。
この漂砂鉱床が採取される川岸と、湖沼鉄の原料のパイプ状ベンガラが採取される湖沼葦原が近しいことは、留意すべきだろう。漂砂鉱床が採取される川岸の川の上流の山間地に山砂鉄の残留鉱床があるように、パイプ状ベンガラが採取される湖沼葦原の後背地に褐鉄鉱の鉱床がある。それは、鉱物資源を探索する遠隔地交易民が共有した知識であったろう。
「出雲族」と「阿多隼人」はどのような経過で交流をもったのだろうか。
そもそも「出雲族」の前身諸派が、南西諸島から九州にかけて展開した縄文人交易民の「隼人」と交易関係を持っていた。具体的には貝輪、貝釧である。
縄文時代、貝輪は縄文人交易民同士の交易連鎖で南西諸島から本州にかけて縄文人の装身具として展開していた。
弥生時代になると、高度な加工がなされた貝輪が威信財として九州北部や中国地方から盛行していく。その貝は、奄美群島以南に産するもので、沖縄諸島などでは大量に加工したと見られる遺跡が見つかっている。これは、縄文時代の縄文人の装身具交易を、弥生時代、渡来人が(縄文人族長との交易関係を締結維持するための)威信財交易に再編したと捉えることができる。
弥生時代終末期には、貝輪に似せた青銅製の銅釧や碧玉製の石釧が展開し、古墳時代には西日本一帯で展開した。これには、「出雲族」の青銅鋳造技術や鉄製小型工具の製造技術とそれを用いた碧玉加工技術が介在している。
一方、弥生時代後期後葉には、中国から離脱して南西諸島から九州にかけての遠隔地交易民となった「阿多隼人」が、同海域に展開していた縄文人交易民の「隼人」を率いるようになっていた。
結果、
縄文時代からの「出雲族」の前身諸派と「隼人」の交易関係は、弥生時代後期後葉には「出雲族」と「阿多隼人」との中国由来の遠隔地交易民同士の交易関係に転換していた。
それを象徴的に示すのが、弥生時代後期後葉(倭国王帥升が後漢に朝貢した107年から、卑弥呼が共立された188年の間の2世紀にあたる)、大陸からもたらされたとされるガラス釧である。
ガラス釧の出土は4例しかない。
筑前の二塚遺跡甕棺墓(鉛ガラス)、出雲の西谷2号墓(鉛ガラス)、丹後の比丘尼屋敷墳墓(組成分析されていない)、大風呂南1号墓(カリガラス)の4遺跡である。
朝鮮半島には原三国時代(紀元前108年〜4世紀中頃)以前の出土例はなく、中国ではガラス釧と報告されているのは、湖南省長沙市(前漢)と遼寧省旅順市(時期不明)の2か所のみである。
大風呂南1号墓タイプと似た組成かつ似た形態のガラス遺物が、中国南部とベトナム北部にかけての漢代併行期の遺跡から出土している。
一方、「出雲族」の西谷2号墓タイプと同様の形態を持つガラス釧は、同じく漢代併行期のベトナム南部から南アジアにかけて出土しているが、組成はアルカリ珪酸塩ガラスで、高鉛ガラスの腕輪の出土例は今のところないという。
ここで、
中国から離脱して南西諸島から九州にかけての遠隔地交易民となった「阿多隼人」が交易関係を持ったのは、漢の勢力圏から外れたベトナム南部、そしてそこを介した南アジアである。
よって、西谷2号墓出土のガラス釧は、「出雲族」が「阿多隼人」との交易関係によって入手した可能性が高い。
一方、
「安曇氏」は、北部九州を拠点に朝鮮半島西岸の楽浪郡や帯方郡との交易を主体としたが、同時に、故地である中国南部の呉との交易も展開した。
よって、大風呂南1号墓出土のガラス釧は、丹後地方を勢力圏の西端とした「テュルク族」が「安曇氏」との交易関係によって入手した可能性が高い。
以上を俯瞰すると、
弥生時代後期後葉、
「出雲族」と「阿多隼人」による山陰地方から南西諸島を経てベトナム南部にかけての交易活動
「安曇氏」と「テュルク族」による近畿北部から九州北部を経て朝鮮半島西岸にかけての交易活動
両者が対峙ないし競合していた可能性が見えてくる。
それを踏まえると、ガラス釧は単なる希少価値ある威信財ではない、と言える。
つまり、ガラス釧の威信性とは、遥か彼方の未知の地(ベトナム南部や南アジア、朝鮮半島西岸)から未知の産物やその製造技術(ないし製造工人)を伝来させることができる「交易ビッグマン」であることを示すものだった。
弥生時代においては珪酸と溶融剤という原材料からガラスそのものをつくるという一次製作は行われていない。日本列島で行われたのは、二次的な製作である改鋳のみである。溶融したガラスからの製品製作という技術は、原材料からガラスを製作するのと同程度の高温を必要とするため、 存在していないと考えられている。
当時可能であったガラス加工技術は、搬入品のガラスを鋳型などを使用して改鋳して製作する、いわゆる鋳造加工である(現在確認されている弥生時代の列島産鋳造ガラス製品は大半が片面鋳型により鋳造された勾玉であり、また同様に鋳造製作された管玉がごく少数存在する)。
一方、ガラス釧の巻き作り技法は、高温の炉と坩堝を使用し、溶融したガラスを引き伸ばして製作するより高度な技法である。 具体的には、坩堝からガラス種を引き伸ばして取り出し、円形の筒に巻き付け、端部を接合して巻き付ける。
接続痕の有無から、
出雲の西谷2号墓出土と、丹後の比丘尼屋敷墳墓のガラス釧が巻き作り技法による。
丹後の大風呂南1号墓のガラス釧は、両面鋳型で鋳造されたと考えられている。
(筑前の二塚遺跡甕棺墓のガラス釧は破片であるため技法が判定されていない。)
ここで気づくのは、
弥生時代後期後葉、
日本列島において、ガラスを原材料から製造する一次製作、溶融したガラスからの製品製作に必要とされる高温技術がなかったとされる事情
砂鉄や鉄鉱石から製鉄するのに必要とされる高温技術がなかったとされ、もっぱら鉄素材を鍛造するしかなかったとされる事情
が重なることである。
例外的に砂鉄や鉄鉱石から製鉄することができる高温技術の持ち主がいたならば
彼らは同時に、ガラスを原材料から製造する一次製作や溶融ガラスからの製品製作ができた筈である
ということである。
つまり、
ガラス釧が示した威信性は、製鉄可能性に通じる高温技術の持ち主であること、ないしは彼らと交易することができる「交易ビッグマン」であることを示した
という可能性がある。

弥生時代後期後葉(「安曇氏」が後漢帯方郡の外臣化しその出先機関として「伊都国」を展開から、「テュルク族」が卑弥呼を共立して魏朝貢交易を始めるまでの時期)、
「出雲族」と「阿多隼人」による山陰地方から南西諸島を経て南ベトナムにかけての交易活動
「安曇氏」と「テュルク族」による近畿北部から九州北部を経て朝鮮半島西岸にかけての交易活動
両者の対峙ないし競合とは、
製鉄可能性の有無と鉄器製造技術の優劣をめぐるものだった。
そういう背景において、希少なガラス釧の威信性が成立し発揮されたと言えよう。
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